第63話 きみの恋人
裕はヨタヨタと立ち上がり、ヨチヨチと茜音のほうに向かって歩き出した。
茜音の目を見、唇を震わせて無理に笑いながら。
「ゆーたん、歩けるようになったよ」
「今日はお水をたくさんのんだんだよ」
「アカネのおかえり待ってたんだ」
たどたどしく言葉をわけて裕は茜音に話かけた。まるで幼稚園から帰って来て母親に報告するように。
茜音は思った。たしかに成長している。だが、この偽物をどうすればいいんだろう?
とりあえず、ご飯を食べてネットオークションをしてから考えようと思った。
裕を狭くて暗い浴室まで連れて行き床を指差す。
「ここがアンタの部屋。しばらく大人しくしてな。寝ててもいい。あたしはまだ仕事が残ってるから」
「うん」
そういって裕はニコリと笑った。その笑顔に茜音は少し戸惑ったがドアを閉め、電気もつけずに放置した。
そして、自分だけゆっくりと食事を味わいながらスマホを眺め、過去の限定グッズを狙っていた。
初期のシリアル付きのグッズがあった。ファンに0円で配られたものだが、5000円からの値がついて、今は8100円でストップしている。
おそらく終了間際に多量の入札が見込まれる。自分では3万円までは出せる……。
そう思いながら8110円入札した。
入札終了間際になり、たくさんの同じようなファンが動き出す。
一万円、一万千円、一万二千五百円……。
勢いがすごい。だが自分も参加しなくてはいけない。一万四千円を入札した時、浴室のドアがガラリと開いた。
「……アカネ……。ゆーたん、うんちしたい……」
もじもじとお尻を抑えて切な気に小さい声を出してきた。
「はぁ!?」
変なところでするとまた怒られる。しばらく我慢していたのだが生理現象には勝てなかった。どこでしていいのか分からない。トイレの使い方がわからない。
茜音はスマホの更新ボタンを押すと、すでに自分の入札金額より上回る金額が入れられていた。
「おしり押さえてガマンしてろよ!」
と大声をだしてハッとした。また隣人がくるかもしれない。
入札締め切りが迫っている。腹を立てながら、裕をトイレに座らせた。
「そうそう。そこですればいいから。出終わったらお尻をこの紙で拭く。その紙は下の水に捨てて、流すのボタンを押す。わかった?」
と言って、トイレのドアをしめスマホを覗いた。裕はここは水を飲む場所だと思ってしばらく躊躇していたが、ガマンの限界だった。
ポタポタポタポタ
水に便が落ちる音が聞こえた。茜音はそれにもムカついた。自分の邑川裕像が壊れてゆく。
イライラしながらスマホを覗くと、24960円で入札終了。落札されていた。
自分は三万円まで準備していたのに、この男のせいで!
今までの時間はなんだったんだ! と頭に血が上った。
裕は茜音に言われたとおりに紙で拭き、水を流した。ここはこういうところなんだと学習でき、立ち上がる。
トイレのドアを開けると、茜音が腕組みをして待っていた。
裕はニッコリ笑った。
「ゆーたん、うんちでた」
そう言って、幼児が母親にするように茜音に抱きついた。茜音は少し驚いた。叱りつけてやろうと思ったのに……。この感触はなんだろうと。
そして、裕は茜音の顔を覗き込む。
「ゆーたん、アカネの恋人……」
ドキリ……。
よく見ると、やはり邑川裕だ。
しかし、今は髪の毛もボサボサ。プツプツとヒゲが伸びて毛穴に黒ずみもある。
体中に傷だらけだ。
「ゆーたん、おなかすいた……」
「はぁ? ……ちょっと待ってろ。部屋のもの勝手にいじるんじゃないよ!」
そう言って、茜音は出て行った。
しばらくすると、茜音は戻って来た。手には買い物袋。近くのスーパーから買ってきたのだ。
見ると、裕は浴室で小さくなって座っていた。
「アカネ、お帰り~」
「わぁ! びっくりした。脅かすんじゃねーよ。それに、まだそこにいたのか。こっちに来いよ」
「うん」
裕はスッと立ち上がった。
成長している。先ほどまではヨチヨチ歩きだったが、ある程度スムーズに歩けるようになっている。
茜音は買い物袋から食パンを取り出した。
「あ! たべものだ!」
裕はそれにかぶりつこうとしたが、茜音はそれを止めた。
「まだだよ。それだけじゃ美味しくないでしょ」
そう言って、ピーナッツバタークリームを塗って渡した。
「いいよ食べて」
裕はそれにかぶりつくと身を震わせ、泣きながら無我夢中でむさぼった。
「そんなに泣くほどおいしい?」
裕は無言でうなずいた。茜音は野菜ジュースにストローを挿して渡してやった。裕はそれも美味しそうに飲んだ。
買ってきたものには服もあり、パンツ、Tシャツ、短パン。それらをはかせてやった。背中のキズには軟膏を塗ってやった。
裕は泣いた。茜音に優しくされることが嬉しかった。手当が終わると、また茜音に抱きついた。茜音は裕の頭を撫でた。
「ヒゲも……そってあげなくちゃね……。やったことないけど……」
茜音は裕の鼻とアゴにシェイビングクリームを塗り自分の足用のカミソリで髭をあたった。裕はくすぐったそうに身をよじった。そんな姿を可愛らしく思えて来た。
続いて、キッチンに連れて行く。
「これね。ここを押すとお水がでるから」
そういって、水道のレバーを押す。途端に水がジャーと音を立てて流し台に当たった。
「わ! お水!」
「ふふ。そう。トイレで飲んじゃダメだよ」
「うん」
そして、冷蔵庫の開け方を教えてやった。
そこに食パンと菓子パンを入れる。
食べていいのはこれだけで、他のは調理しなくてはいけないから食べてはダメだと言った。裕はそれにうなずいた。