第62話 無知なる大人
産まれたばかりの裕は水の出し方が分からない。コップを使う飲み方がわからない。黒い箱は思い立って転がりながらトイレに誘導した。裕は目を白黒させながらそれについてゆく。
黒い箱が『流す』のボタンに身を当てると勢いよく水が出て来る。裕は便器に顔を突っ込んで水をすすった。
喉の奥に詰まっていたパンが水によって流されていき、裕はようやく一息ついた。
「だぁ~」
『よかったね。裕』
仕方が無い。二人には方法が無いのだ。汚いなどと言ってられなかった。それに黒い箱は細菌のレベルなども計測していた。それは人間に影響を及ぼさない水準。それでなくては裕に勧めたりしなかっただろう。
そして裕はそれを覚えた。何度も『流す』のボタンを押して手ですくって水を飲んだ。
『エライね~。さすがあたしの子!』
そして、もよおすと浴室に行って用を足した。茜音に排泄をしたらここで水をかけられた。ここならいいと思ったのだ。
裕は下着すらつけていない。そこらじゅうビシャビシャだ。そのビシャビシャが床にも落ちる。
結果、部屋中が濡れた。
そのうち、裕は成長し立って歩けるようになった。ヨチヨチだが移動が高度になった。
黒い箱はテレビをつけると教育番組がやっていた。裕はそれに釘付けになった。
それが良かった。
今の時代、テロップがでる。それで演者が話す言葉が画面に表示されるのだ。裕は真綿が水を吸うように言葉を覚えて行った。
だが、やはりまだまだ幼児程度だ。善悪の区別もつかず、遊びたい盛りなのだ。
ゴミ袋から空き缶を取り出し、一つ一つ重ねて行く。
「ママぁ。見てぇ」
『じょうず。じょうず』
裕は黒い箱の光文字が読めるようになった。黒い箱も気を付けてひらがな、カタカナだけだ。
空き缶を高く積み上げて、パチパチと手叩きした。
「がちゃーーん!」
そしてそれを崩し、キャッキャと笑う。
『あーらら。じぶんでかたづけるんだよ』
「うん」
そう言って、また高く重ねる。
お腹が空いてもパンを食べ尽くしてしまったのでトイレに行って水を飲んだ。
そのうちに夜になった。裕は疲れて眠ってしまっていた。床はビショビショ。トイレと浴室のドアは開けたまま。
空き缶は部屋中に転がしっぱなし。
カチャ
と音がしてカギがあいた。ドアノブが回転する。茜音が帰って来たのだ。
茜音はいつものように雑に会社の時間をすごし、勤務時間にスクランブルの情報を集めて楽しい気分だった。コンビニでいつものように弁当を一人分だけ買って帰宅したのだ。
今日はオークションサイトで邑川裕のグッズを購入予定だった。
しかし、ドアを開けて思い出した。アイツがいる。偽物の裕……。目の前には開きっぱなしのトイレのドア。床がビショビショ。廊下まで転がっている空き缶。
キッチンにはボロボロになった食パンの袋。浴室から臭気がただよっていた。しかもそこに裕がいない。
リビングに駆けこんで電気をつけると裸の裕がテレビを付けたまま、その前で眠っていた。明るくなって裕は目を覚まし、茜音を見てニコリと笑った。
「アカネ、おかえり~」
憶えたばかりの言葉だ。だが、余りの部屋の乱雑さに茜音の顔は怒りそのものだった。裕の顔が一気に青ざめる。
「この! クソ野郎! なんで浴室からでてここにいるんだよ!」
そういって、バッグの紐で裸の裕を叩きつけた。裕はあまりの激痛に苦悶の表情を浮かべて叫んだ。
「バカヤロウ! クソ野郎! 部屋中ちらかしやがって!」
「ゴメンなたい! ゴメンなたい!」
「うるせぇ! 食パンも全部食べやがって!」
「ぎゃ! ぎゃぁ! ぎゃあ!」
何度も何度も同じ場所を叩き続けた。裕の背中は真っ赤に腫れ上がってしまった。
茜音はバッグの紐では叩きにくいので、細い皮のベルトを手に取って浴室を指さした。
「ここでションベンしたな!」
「う、うん」
その返答にベルトの鞭が裕を襲う。
裕はどうしていいのか分からなくなって床に転がって泣き叫んだ。
「泣くな! 泣いたら叩く」
「うぇーん。うぇーん。うぇーん」
「泣いたな! このクソ野郎!」
ピシャリ!
ピシャリ!
ピシャリ!
茜音は容赦しなかった。裕が声を上げるたびに叩いた。その恐怖によって泣かないようにするという考えだったのだ。
そのうちに背中の皮が破れてじんわりと血がにじんできた。
「クソ! ちっとは可哀そうか……。あんたが言うこと聞かないからだからね!」
「ゴメンなたい! ゴメンなたい! 痛いよう! アカネぇ! ママぁ!」
「気安く呼び捨てで呼ぶな!」
黒い箱はあまりにも哀れで物陰から急いで転がりだした。裕を守ろうという考えだった。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に迷惑だと思いながら玄関の様子を見れるモニタを覗くと隣人の男だった。
マイクに向かって聞いてみた。
「はい。なんでしょう」
「夜分遅くすいません。さっきから泣き声とか叫び声とか聞こえるんですけど……大丈夫ですか?」
チラリと裕の方を見る。
ベルトで叩いたのはすこしやり過ぎたかもしれない。たとえ自分の持ち物であったとしても。これを長く続けると通報されるかもしれない。そしたら厄介だ。裸の男を飼っているところ見られるなんて。
「はい。大丈夫です。すいませんでした。ご心配かけました。ちょっと恋人とはしゃいで冗談をしてただけです。通報とかしないでくださいね」
「あ……。はい……」
隣人はカメラから離れた。
茜音は思った。少し考えなくてはいけないと。