第61話 黒い箱の母性
浴室では、裕の泣き叫ぶ声が聞こえる。
浴室の中は狭くて暗い。裕がハイハイするにはそれ相応の広い場所が必要なのだ。彼は必死にもがいて体は擦り傷だらけだった。
茜音が浴室のドアを開ける。裕は嬉しそうに「だぁ」と笑った。
しかし茜音は怒りの感情だけだ。
取り返しのつかないことを裕はした。DVDやレア本に汚物をかけるなど、茜音にとっては死に勝る苦しみ。それを裕にあじあわせようとした。
「うるせぇなぁ! そしてくっせぇ! ケツにクソがこびりついてるじゃねーか!」
茜音は怒りのままにシャワーを手に取って噴射口を裕に向け、わざと温度設定を水にして裕にかけた。
裕はあまりの冷たさに叫ぶことしかできない。
「だからうるせぇんだよ! クソ男! ご近所に聞こえるだろう!」
「あ! あ! あ!」
「だから黙れってんだよ!」
「…………アカネ──」
茜音の手が止まった。裕が口にしたのは茜音の名前だったのだ。
「なんなんだ? コイツ……。マジで気味がわりぃ……」
茜音は浴室を出た。裕をその場所に置いたまま。
狭い浴室だ。裕は濡れた身を震わせて、体を折り曲げているしかできない。
茜音は腹が立つ思いのまま、ベッドに入り込んで眠った。
朝。茜音は気だる気に起きた。
浴室のドアを開けると、むさくるしいものがそこにいる。
「だぁ……」
裸の裕が疲れた表情だが嬉しそうに笑う。しかし茜音はまた腹が立って来た。
こいつのせいで内臓が抜かれ、DVDやレア本はダメになった。その思いで怒り心頭だ。
何も言わず浴室のドアを閉め、キッチンに向かう。
いつも朝食はとらない。だが、あの男はどうしよう?
産まれてからまだなにも食べていない。なにか食べ物をあげた方がいいのか?
しかし、たくさん食べさせるとまた排泄するかもしれない。叫ぶ元気がでるかもしれない。
茜音は仕方なしに食パンを一枚だけ浴室のドアを少しだけ開けて放り込んだ。
厄介者だ。これをどうすればいいのか分からない。だが、黒い箱が勝手に作り出した邑川裕のコピーだ。戸籍なんかもないだろう。
考えるのが面倒だ。アイドルの邑川裕のことだけを考えてハッピーな気持ちになりたい。
茜音は浴室の裕を忘れて、いつものようにスマホを操りながらスクランブルの情報を集め出した。
そして、少しずついつもの自分を取り戻して行き、裕を浴室に放置したまま会社に出勤していった。
◇
浴室の床に転がったまま、裕は茜音が出て行く音を聞いていた。
「だぁ……」
壁をすがってゆっくりと立ち上がろうとする。つかまり立ちをしようとしているのだ。だが床がすべる。大きい音を立てて、裕はすっころんだ。
お腹の音がグゥと鳴る。産まれてから何も口に入れていない。何が食べ物なのかも分からない。裕はパンなど知らない。
すでにすっころんだ拍子に茜音が投げ入れた食パンを体で押しつぶしてしまっている。
何度も何度も体を打ち付けながら、つかまり立ちが出来るようになった。劣悪な状況がそうさせたのかもしれない。
ゆっくりとドアに向かって手を伸ばす。茜音はドアを引いていた。アレを引けばドアが開く。そう思ったのだ。裕が浴室のドアに手を伸ばした時、自動でドアが開いた。
そこには、黒い箱がいた。
「マァマ」
裕は床にポツンとある黒い箱を見ながらニッコリと笑った。
裕には、スクランブルの邑川裕の記憶とともに、茜音を愛する気持ちと黒い箱を母と思う気持ちが組み込んである。そもそもこの黒い箱を母と思う気持ちは“きゃん”には組み込んではいなかった。だが、彼女は黒い箱を母と言う。
それがとても好きなのだ。だから裕にはあらかじめその気持ちを入れ込んでいた。
『全くとんでもない恋人だ。変な客を掴んじまったよ。あたしもヤキが回ったね』
黒い箱は光り文字を表示したが、裕は文字を読むことが出来ない。
裕は黒い箱を手に取ろうとしてまた素っ転んだ。そしてまたしこたま体を打ち付けた。
身体中に赤黒いアザがたくさん出来ている。
そして、髪は潤いを無くしぐちゃぐちゃだ。青いあご髭が生えている。
あの美しい邑川裕の顔に少し陰りが出始めている。
裕は転がりながら黒い箱を掴んだ。
「マァマ」
黒い箱に母性が生まれ始めてから久しい。裕も例外ではない。自分が作り上げたこの子がとても愛おしいのだ。
しかし、黒い箱は言葉をかけてやることができない。もどかしい思いだ。なんとか食事をとらせなくては……。そう思い、黒い箱は球体になって転がり出した。
コロリコロリとゆっくり転がる。裕は楽しそうにハイハイをしながらそれを追いかけた。
キッチンにたどり着いた黒い箱はテーブルの上に乗っている食パンの袋を床に落とした。裕の真ん前だ。裕は落ちた音に驚いていた。箱はパンの袋をこじあけた。
裕が楽しそうに拍手する。箱は『食べなさい』と表示するものの裕には読めない。
だが、匂いなのか……。赤ん坊が口に入れる性質なのか……。
裕は袋に手を入れてパンを掴んで口に入れた。途端に、ガツガツと口の中に入れ始める。よほど空腹だったのであろう。
知性は乳児でも、体格は大人だ。維持するには多量の食物が必要だ。次から次へと口の中に入れ、しまいにはノドにつまらせてしまった。