第59話 彼をつくる
旅行から帰ってきた茜音はマンションの自室で、ハンドバッグより黒い箱を取り出し手のひらの上に乗せた。
「願い事はこれよ」
そう言って、スクランブルのポスターを指さすとそこには一人の男。もちろん邑川裕だった。
「彼の恋人になりたい。一緒に暮らしたい」
『代償を言ってください』
「代償……どんなものがいいの?」
箱はそれに答えた。
『今までのお客様はご自分の不要な内臓などを提供してくださいました。虫垂、尾てい骨、腎臓の半分……』
「へぇ……内臓か……」
茜音は考え込んでしまった。臓器売買みたいなものだ。少し抵抗がある。
しかし、今までだってスクランブルのライブチケットを買うために転売サイトを利用するなど法に触れることを平気でしていた。
ましてやアイドルの邑川裕と恋人になれるのだ。そりゃぁ、そのくらいしないとダメだろう。
「い、痛いの?」
『まさか。今までのお客様にも痛くもかゆくも無いと好評でございました』
痛くない。だったら怖いものなどない。目に見えない内臓をこっそりと無くしたって誰かが困るわけでもない。茜音は決意した。
「じゃ、虫垂で」
そう言ったとたん、トゥンと警告音が鳴った。
『18%しか出来ません。代償を追加しますか?』
「え? なにそれ」
ただのそれだけだった。茜音はさまざまな臓器を提示した。
尾てい骨、脂肪、親知らず、腎臓の片方、胆嚢。そこまでで90%だった。
「あん! もう、なんなの? これ以上どうすればいいの?」
すると、箱から提案があった。
『卵巣の一つを追加いただければ叶えられます』
「卵巣……」
茜音は少し戸惑う。卵巣は女にしかない内臓。ホルモンもここから分泌される。それを出すには抵抗があった。しかし、邑川裕がもうすぐ恋人になるのだ。
背に腹は代えられない。
「それでユタカの恋人になれるのね!」
『はい。あなただけの』
「じゃ、それで叶えて!」
『叶えられました』
箱から、真っ直ぐに茜音の前に光が伸びて行き、それは等身大の光の筒になった。グルグルと回転し“シルシル”と音を立てながらその光の中はやがて人の形になって、じょじょにその姿を現した。
邑川裕だった!
彼は裸で目を閉じている。女はそれを真っ赤な顔をしていて見ていた。
やがて完全に形成されると、邑川裕は茜音の胸にドサっと倒れ込んだ。茜音はその重みにたえきれず、互いにフローリングの床の上に倒れた格好になった。裸の男が女の上になっている。はたから見れば睦み合いの風景だが違う。
男の方は目を閉じてぐったりしたままだ。
「ウソ……ユタカ? 私の……恋人」
すると、箱から赤い光が茜音の体に伸びて、全身を照射した。
茜音は驚いて目をつぶる。違和感がある。おそらく内臓が取られてしまったのだろう。
しかし、嬉しさが先だった。
裕は目をつぶったまま──。
茜音はその筋肉質の肉体をしばらく抱きしめていたが、肉厚のその背中をパンパンと叩いた。
「ねぇ! ねぇ! ユタカ!」
すると裕は目を覚ます。その顔はあどけなさがあったが、徐々に目じりと唇の両端が下がってゆく。
「おんぎゃぁ! おんぎゃぁ! おんぎゃぁ!」
「え? え? え?」
茜音は驚いて彼からすり抜けて距離を取った。裕は裸のまま冷たい床に転がった形だった。
今度は手や足を曲げて天井を向いて尚も泣き続ける。
「なに? どういうこと? ユタカ?」
しかし、放り投げられた床の上で泣いたままだ。茜音はどうしていいか分からなかった。
その時、タイマーで自動的にテレビがついた。それは生放送の音楽番組。
「今日は、スクランブルスペシャルということで、スクランブルのメンバー全員に来てもらっていまーす」
司会の女性がそういうと、スクランブルのメンバーにカメラが振られる。
「うぇーい!」
「スクランブルの皆さんは今、ツアーの真っ最中ですが、この番組のために特別に出演してくださいました!」
わぁ! わぁ! という歓声がテレビから聞こえる。
だが、茜音の目はテレビに釘付けだ。
そこには邑川裕がいたのだ。
「なな、なに? これはどういうこと?」
というと、黒い箱に文字が現れた。
『あなただけの邑川裕です。サービスで結婚までさせられます』
「はぁ?」
茜音の形相が怒りに変わっている。それもそのはず。茜音は本物の邑川裕が欲しかったのだ。
この床に転がっているものは、つまりコピーではないか。偽物ではないか。
「あんた、人の内臓をさんざん奪い取っといてそれはないでしょう! なんなのこれ!」
『中身は邑川裕に変わりませんよ。赤ん坊は一時的なものです。育てればすぐにでも歌って踊れるアイドルの邑川裕になります』
その文字を見ても茜音は腑に落ちなかった。今、テレビに出ている彼が欲しいのだ。こんな床に転がっている裸の男じゃない。
ということは、この裕はこの箱が作り上げた偽物だ。人間ですらない。内臓をとって作った精巧な玩具。だが茜音が欲しいのはこれではない。
こんなものではなかったのだ──。