第57話 最後の願い
頼みの綱である大将の紀霊は、三尖刀と言う槍を持って、殿を努めると言い、一隊を率いて後方に馬を走らせる。
敵の大将に一騎打ちを申し込み敵の侵攻を少しでも遅らせようという考えだった。
紀霊将軍は巻き起こる砂埃と怒声の喧騒の中に入り、敵の大将に大喝一声。
「陛下に向かって無礼であろう! たかだか楼桑里の筵織のそのまた口取如きが大将とは面白い! この三尖刀の錆としてくれる!」
それを聞いて袁術の兵士を追い回していた雷のような男はハタと立ち止まり、紀霊将軍の方へと振り返る。馬上の金の鎧である紀霊将軍を一瞥して呵呵大笑した。
「ぐわははははは! ではその都の高貴な槍の腕前を拝見しよう。燕人張益徳ここにありだい!」
「言ったな! 田舎へたち帰れ! 下郎め!」
二人は馬を蹴って互いに近づいた途端、紀霊の必殺の槍が一閃! シュッとうなりを上げて真っ直ぐに雷男に伸びる!
コーン!
高い音をたててそれが弾かれる一合。紀霊は馬の上でふらりと揺れる。体勢を立て直せない。
雷男は余裕に笑い蛇矛で自分の肩を二度ほど叩いてマッサージした。
「お見それしやした。そんな槍で都では食って行けるとは楽なご商売。豫州様(劉備のこと)の元では兵士も勤まりやせん」
そう言って蛇矛の向きをクルリと紀霊に向ける。
「槍とはこうして使うのだ!」
繰り出される槍撃はまるで何本も槍があるようだった。紀霊の小手を叩いて三尖刀を落とし、クルッと回して柄で腹を突き、そのついでに顎を打つ。紀霊がよろめいたところで蛇矛を返して首を突いた。
わああ!
わああ!
袁術の後方で砂煙舞う中、歓声が上がった。紀霊が大将を討ち取ったのだと袁術はホッとした。
「紀霊によくやったと伝えよ」
青蓋車の御簾を上げて守備している兵士に笑顔で伝えると、兵士は顔色を変えた。
「いえ、討ち取られたのは紀将軍でございます。さぁ逃げます。急ぎます」
そう言われて驚いた。もう為す術なしだ。紀霊は蛇矛の雷男に突かれて討ち死にしたのだ。
袁術の目の前が真っ暗になる。この悪夢は覚めない。現実だ。田舎の匹夫である劉備ごときに敗北する。あり得ないこと。あってはいけないこと。しかし認めなくてはならない。向き合わなければならない。
袁術は覚悟を決めて、袁譚を呼んだ。
「譚よ。そなたはまだ若い。朕はもう駄目であろう。君の命を盾にしてまで生き残ろうとは思わない。さぁ、青州に引き上げたまえ」
そう言って、袁譚の馬の尻を叩いた。袁譚は驚いたが馬にしがみついて青州に逃げ帰って行った。
それから、袁術は青蓋車も金銀財宝も捨て後宮の女や親族に守られながら深い野に隠れ、山を隠れながら進んだ。
もはや自軍の兵士の姿はなかった。
「嗚呼。なんということだ。この袁術としたことが……。訳の分からぬものに頼ったばかりに……」
そういうと、クズ麦が入った袋から、ゴロリと黒い箱が球形になって現れ、コロコロと袁術の前に転がって来た。
『願い事をどうぞ』
袁術は苦笑した。
「この上、なにも望むことはない。少しばかり暑くて喉が渇いた。蜜漿(はちみつ)が舐めたいところではあるがな」
そう言った袁術の体に異変が起きた。
三年間放蕩に放蕩を尽くし、劉備に追われて逃げ惑った体はもうすでに限界が来ていたのだ。
ましてや、黒い箱に内臓のほとんどを取られつくしている。体の悲鳴は聞こえない。それが今、形となって現れる。
「キャァ!」
妾の一人が声をあげた。袁術の口からどす黒い血がゴボリゴボリとこぼれだした。
お付きの者は驚いて後ずさりしたが、すぐに介抱に向かったが手遅れだった。
袁術は一斗(当時は1.8リットルほど)あまり吐き出すと首を投げ出してこと切れてしまった。
袁術を支えていた者たちは、彼の死と共に声を上げて散り散りに逃げ出してしまった。
その袁術の目の前に黒い箱はコロコロと転がっていった。
『哈哈哈 もう叶えられません』
袁術の吐き出した血だまりの中で光文字はぼんやりと灯り、やがて薄らいで消えて行った。
【予告】
時は現代に戻る。女は、アイドルグループの一人の熱烈なファンだった。
女は彼を恋人にするために黒い箱を使う。
次回「女とアイドル篇」
ご期待ください。