第56話 絶望の末
寿春の宮殿に戻った皇帝袁術は、土埃に顔を汚しながら無言で後宮に入ると数百人の妻たちが皇帝の帰りを喜んで迎えた。
「ああん。陛下。もう、旅からお帰りでしたの?」
「お待ちしておりましたわ。さぁ、私の寝所へ」
「いえいえ、私の寝所へ」
ここだけは──。自分の天下だ。何も変わらず平和。しかし袁術はそれどころではなかった。まとわりつく女、女、女の壁を振りほどいて一室に入った。
大きな木箱を開けると、中には布に包まれた黒い箱があった。
『願い事をどうぞ』
「そんなことはどうでもいい! 朕は皇帝になったのだよな! そなたの力で!」
『仰せの通り、御意にございます。臣は噓を申しませぬ』
「ならばなぜ、曹操は降らぬのだ! 朕は皇帝だぞ!」
『まさに。陛下は皇帝にございます』
「ウソを申せ! そなたは朕を謀ったな! 誰も心服しておらん。これでは僭称ではないか!」
『哈哈哈』
箱から笑いの文字が流れる。袁術は驚いた。
『皇帝になれればよろしいのでしょう。後は陛下のご威光で天下は立ちどころに降りましょう。 咯咯咯 哈哈哈』
袁術は激怒して黒い箱を掴み壁に向かって投げつけた。だが黒い箱はゴム鞠のようにポーンと跳ね返っただけでまったくダメージがないようだった。
「おのれ!」
袁術は部屋を飛び出した。思えば箱の力を信じし過ぎた。気付けば周りはどうにもならないくらい敵だらけだ。
先ほどの陳留の戦いで大将たちはこぞって戦死してしまった。
頼みの将はほとんど残っていない。
客将の孫策からも絶縁され、武の頼みが全くない。このままでは皇帝どころではない。国どころではない。
すでに袁術を見限って灊山に潜んでいる雷薄・陳蘭を呼び寄せ、守備警護をさせようとしたが、二人は袁術の使者を追い返した。袁術は憤慨したが、今二人とぶつかってさらに兵士が損傷してももったいない。
どうすれば……。どうすれば……。
しかし、そこは狡知に優れた袁術だ。生きるためには藁にもすがる。
遠く、河北の4州の大領土を治める従兄の袁紹に頼るしかあるまい。
袁術は袁紹に対して急いで手紙を書いた。
「朕は徳もなく、帝位に着きましたが己の未熟さに気付きました。賢兄の紹に帝位を禅譲し、愚弟の術は河北にて隠居し、余生を送りたく思います」
と、袁紹を持ち上げて帝位を譲る旨を記した。
だが、当然ウソだった。袁紹に一時的に位を譲ってタイミングを見て、河北を奪い帝位に返り咲こうという寸法だ。袁紹のことは小さい頃から知っているので分かっている。
こんな感傷的な文章を見れば、決して無碍な扱いはすまい。
自分を三公(大大臣)の一役に据えるかもしれない。そうなればしめたものだ。権限を少しずつ奪って行ってやる。
河北の袁紹は袁術の使者から訝し気に手紙を受け取り、使者を見据えながらつぶやく。
「余は漢の大将軍だぞ? いくら術が従弟と雖も逆賊の使者が来るのはまずいのだ」
そう言いながら、手紙を読んだ。
そこに書いてあるのは袁紹の想像したものとは別のことだったのだ。
袁術のことだから、兵糧や金の無心だと思ったのだ。
しかし、あの自分を嫌っていた袁宗家の当主が自分を頼って来ている。
しかも、伝国璽を持参して、皇帝の御位を譲るというのだ。
袁紹は情の厚い男。この袁術のしおらしい手紙に思わず目頭が熱くなる。
「そうか……。術がのう……。徳無しなど、そんなことはない。本当は義に熱い男なのだが時世が悪かったのかも知れぬ……。あいわかった! 青州にいる息子の譚を迎えに出そう! 早々に寿春を引き上げて河北に来るがよい。」
使者は良い返事をもらって仲の都、寿春に戻った。
そして、袁紹からの返答を袁術に伝えると、我がことなれりとほほ笑んだ。
すぐに荷車に金銀財宝を詰め込み、後宮の妻たちを馬車に乗せた。河北でも同じような生活をしようと思っている。自分は青蓋車に乗り込んで兵に守らせて道を進んだ。
劉備の領地である徐州まで進むと、青州から袁紹の息子の袁譚が迎えに来ていた。
「叔父上、ご苦労をなされたようで」
「おお。譚。この程度なんでもない。すまんのう。道案内を頼む」
「それはもう」
袁譚にそう言われ、さらなる軍勢に守られながら徐州を進んだ。
だが、徐州の劉備は曹操から命令を受けていた。偽皇帝逆賊袁術を討て! だった。
袁術は劉備をずっと馬鹿にしていた。
卑賎の身が漢の皇室の血筋だと偽って、漢の皇帝に皇叔などと言われている。
だが戦下手の政治下手。国は小さく、一所に定住できない。
ようやく徐州に入れたと思ったら、呂布に国を奪われ、曹操にすり寄って豫州の牧となった鼠のようなやつだ。コソコソと小利をむさぼって、猫に怯えている。
そいつに今、自分が追われている。
大将には青龍刀を構える髯の長い男と、蛇矛を振り回す雷のような男だ。
死ぬ気で馬を走らせた。味方はたった二人の将と僅かな兵に押され敗走に続く敗走だった。