第54話 使者来たる
それからしばらくたち、客将の孫策が目通りをしたいと言って来た。孫策は、孫堅の子だ。字を伯符という。
孫堅は劉表と争って亡くなり、袁術はその子供や一族たちを保護していた。孫堅のように良い戦働きをするであろうという考えがあってのことだった。
孫策は袁術の前に跪いて臣下の礼をとった。
「孫伯符、罷り越しました」
「ふむ。何用だ」
「実は、我ら一族。亡父の仇である劉表が家臣、黄祖を討ち果たしたく思います。どうかお慈悲を持ちまして、亡父が兵をお返し願いたく思います」
これを袁術は一笑した。なにを馬鹿げたことを──。まずは戦功を上げてから願うべきだと思った。この若造にはそれがない。
「さがれ。今度からは直接の目通りは許さん」
袁術はそう言って、孫策を下がらせようとするも、孫策は食い下がった。
「お待ちください! 殿! お返しくださいとは言葉の誤りでした。お願い致します。お貸しください。ちゃんとお礼は致します。それに私には質草があります」
質草──。
袁術は少しばかり面白くなった。この若造はどんな質草をだすのか?
「儂は天下の宝を持っておる。ちょっとやそっとのものでは兵は貸せんぞ」
「心得てございます」
そう言って、彼がうやうやしく差し出して来たものは玉で作られた印章だった。
「ま、まさかそれは……」
「伝国璽にございます」
「み、見せよ!」
袁術はそれを強引に奪って、伝国璽をなめるように見た。
伝国璽とは、秦帝国から伝わる皇帝の印章だ。秦の丞相(宰相)である李斯が銘に「受命于天既壽永昌」と刻んだ。
『于に天命を受け既に壽永くして昌んならん』という祝の言葉だ。
たしかに、董卓を攻めた後、焼け野原の洛陽にて孫策の父、孫堅が洛陽から何かを手に入れたという噂は聞いたが、ひょっとしたらそれが伝国璽だったのか?
もし、そうならその時の上官である自分に差し出すべきだと思ったが、思い直した。今のタイミングだからこそ価値がある。
袁術は、とうとう使者が来たとそれを胸に抱いて喜んだ。そして嬉しそうな目で孫策を見つめる。
「よくやった。ではそなたの兵を千名返そう。それで亡父の仇を討つがいい」
そう言って孫策を返した。孫策は礼を言って千名を引き連れて黄祖のいる荊州に向かって行った。
だが、袁術にすればそんなことはどうでもよかった。嬉しくて踊らんばかりだった。
黒い箱は願いを叶えた。これで自分は皇帝になれる!
そう思い、重臣たちを集めてその旨を伝えると、みんな反対した。
漢帝国がいくら衰えたと雖も臣下の立場で皇帝を名乗れば逆賊とそしられる。
そして、許昌から大軍勢がこの国を囲むだろう。このままでは国が滅んでしまう。
ということで、家臣団は諫めに諫めた。
だが、袁術は逆にコイツらはなにも分かっておらんと思った。黒い箱の力は確かだ。
空間から大牢が出てくるのを間近で見た。先の皇帝が戻ってくるのをみた。趙忠が出世した願いが叶ったのも知っていた。
だから、もう皇帝になれる願いは叶っている。この家臣どもは何を言っているのかと思った。
そこに、張炯という方士(呪い士)がやって来てこう言った。
「この度はおめでとうございます」
袁術は何事かと思ったが、おめでとうと言われて悪い気はしない。何を言うのか話を聞いた。
「瑞兆がありました。ここより十余里離れた場所に滝がございまして、こちらが黄色く輝いたのでございます。これは何事かと思い卦をたてますと、滝は竜に通じます。それが黄色く輝いた。すなわち“黄龍”のことでございます。黄龍は皇帝の守護神獣。その皇帝とは誰か? とさらに占いましたところ袁術さまと出ました」
「誠か!」
「はい。さらに古代からの予言書に“春秋讖”というものがございまして、それにこういう一文がございます」
張炯は胸元より取り出した、竹にて編まれた書簡を開いて読み上げた。
「漢に代わるものは“当途高”なり。袁術さまの名に“術”の字があり、字に“路”の字がございます。そして、予言書にも“途”の字がある……。これは袁術さまに皇帝の御位につけとの予言に他なりません」
張炯の言葉巧みなお追従とパフォーマンス。袁術はニヤリと微笑み、並みいる重臣たちに問いかけた。
「汝らは儂が皇帝にはなってはいかんというが、どうだ? このように伝国璽は儂の手元に治まり、黄龍の瑞祥は現れ、予言書にも儂のことが書かれている」
重臣たちはそう言われて尚も反対した。
だが、人々の目には見えなかったが黒い箱から白い光が伸びる。それは皆が集まる、行政府の門の屋根の上に達した。
「コウ。コウ」
聞いたことがない鳴き声に驚いて、議論を一時中断し袁術を筆頭に行政府を出てみれば門の屋根の上に二羽の鴻がいて、羽を休めていた。
「鳳凰だ!」
「鸞だ!」
鳳凰は瑞祥の鳥だ。古代の書物には聖天子の出現とともに現れると書いてある。それが宮城の門にいる。みな、この天からの使いに恐れ戦いてひれ伏してしまった。
しかも、鳳凰は声を合わせて人語にてこう言った。
「袁氏よ。天帝はそなたを天子と認め、我々を使わした。民を愛し善政をしきなさい」
そう言って天を指して飛び立って行った。
黒い箱の演出。鬼神が畏れられた時代だ。効果抜群である。これには重臣たちも袁術の言い分に頭を下げるしかなかった。