第52話 箱の力
ややもすると、外から声が聞こえた。
「元凶の長、張譲が帝を連れて逃げた!」
帝が宦官の首領に押さえられた。一大事ではないか。今は黒い箱どころではなかった。袁術は驚いて部屋から飛び出す。
帝があちらにおわす以上、自分たちは賊だ。
張譲が追っ手から逃げ、帝の詔を捏造して諸侯に「速やかに逆賊、袁一族とその他のものを討て!」などと命令されてはたまらない。
主たるものは集合し、部下に躍起になって張譲と帝の行方を探らせた。
袁紹はこの一件の計画立案者。聞こえはいいが張譲が帝を誑かして、あれは賊だと言いくるめたら反乱の首謀者となり下がる。
袁紹は頭を抱えて黙り込んでしまった。
「やい! 紹! 貴様の責任だぞ!」
袁術は甲高い声で詰問したが、袁紹は真っ青になって返答はしなかった。
ここで腕をこまねいてじっとしていても仕方がない。逃げるなら逃げるで考えなくてはならない。袁術は屋敷に帰って暫しの休憩をとることにした。
鎧を着たまま寝台にゴロリと転がって天井を見据えた。そして寝台を強く叩いてうめく。
「くそ……ッ! 紹め! 作戦は完璧ではなかったのか!? これでは儂まで誅滅させられてしまうではないか……。一族の恥めッ!」
どうしても袁紹のことが憎くて仕方がない。そう言いながら、やおら起き上がると、胸の中から光が漏れる。
「そう言えば、ここに不思議な箱を入れたのだ」
さっそく胸に手を突っ込んでそれを取り出すと、そこには光る文字だった。
『願い事をどうぞ』
袁術は不思議だったが、趙忠はこいつに話かけていた。話が通じるのかもしれない。袁術は多少自暴自棄になっており、この見たこともない箱に話かけてみることにした。
「ハン。一体、どうやって願い事を叶えられるのやら。帝を我が陣幕へ返し、大牢でも出してみろ」
袁術は、自慢の口ひげをつまみながら半笑いでそう言った。
『代償は?』
「代償? 体の一部とか言っておったな。では、この口ひげでどうじゃ?」
『叶えられました』
ピッ! と白い光が壁を突き抜けて外に伸びて行く──。
それはほんの一瞬。そして、今度は白い光が部屋の中央に伸び、そこから大皿にのった牛やら羊やらの料理が音を立てて積まれて行く……。
袁術は目の前におきる出来事が信じられなかった。
「お! おい! なんとしたこと……。なんとしたことじゃ……。」
そして、箱から赤い光が袁術の口ひげに当たったと思ったらすぐに消えた。
そこに手を当ててみると……。──ない。
ものの見事にツルツルだった。
自慢の口ひげが無くなったことはショックだったが、本当に願いが叶うらしいことが分かり、ニヤリと笑った。
誰にも見つからないように箱を部屋の壷の中に隠し、使用人を呼んだ。
「へい。お呼びでございますか? うわ!」
目の前の山と連なるご馳走の数々に驚いた使用人は、尻餅をついてしまった。
「うむ。人を呼んで、これを大広間に運べ。本日は大宴会となるであろうから酒を多量に用意せよ」
「へ、へい……」
袁術はいやらしく笑って、帝が戻って来ているかもしれないと急いで袁紹の元に戻ると、そこはわぁわぁと歓声が起こっていた。
これは皇帝が帰ってきたに違いない。袁術は皇帝を箱の力で呼び寄せた。これは儂の功績だと威張って見せようと思った。
「紹。帝が戻って来たろう?」
そう言うと、袁紹は一瞥してうなずいたものの、複雑な表情を浮かべていた。
「うむ。公路……。しかし、厄介なことになった──」
なにが厄介なのかと歓声の中心を背伸びをして見てみると、そこにおわすのは皇帝。そして、皇帝の横には弟君の陳留王。二人は手を上げて群集に応えていた。
しかしその二人の肩に手を乗せているのは、野心家である并州刺史の董卓であった。
「董将軍──」
袁術の背中に嫌な汗が流れだす。
「うむ。これは困った……。厄介な──」
誘拐した宦官を討ち果たし帝を保護して、宮廷に戻したのは董卓。つまり、功一等だ。
宦官を誅滅し、内乱を防いだ……。その程度の袁紹、袁術のことなど薄らいでしまった。
予想通り、董卓の専横が始まった。
帝を廃し王へと下げ、代わりに弟の陳留王を帝に据えた。
臣下が勝手に行っていい行為ではない。心あるものはみな憤怒した。
──しかし、それを止める手だてがない。勝手気ままに粛正を行い、身内や腹心を高位に付けた。
そして、自ら相国の位についた。
相国──。
人臣の最高位であり、400年に及ぶ漢帝国始まって以来、未だに二人しか就いたことがない。
漢帝国の創始者、高祖皇帝を補佐した蕭何。そして、その後継の曹参のみだ。
この二人の他は、相国に就くことは何百年も許されなかった。二人以上の功績を上げれるものなどいないと言う意味で、永久欠番的なものだったのだ。
それに就任……。
いったいどれほどの功績を上げたと言うのか?
もはや、どんな卑しき身分のものにも董卓の次の狙いは分かった。
簒奪だ。
前漢を滅ぼした新の王莽のように、今上皇帝にその御位を譲れと禅譲をせまるつもりなのだ。
しかも、董卓の脇に侍るのは武勇の呂布。頭脳の李儒があり、容易に止められるものではなかった。