第50話 野望高き男
黒い箱……。それは願いを叶える箱。だが、願いを叶える代償に、肉体の一部を差し出さなくてはならない──。
それは歴史上に於いても例外ではなかった。
中国の歴史は長いが、王朝ごとに分けるとそうでもない。初めての統一王朝の秦を始め、国を奪っては興し、奪っては興しの連続だ。その度に激しい戦争が起きて同族を殺し合う。民衆にとっては迷惑な話だ。
秦王朝を討ち倒して漢王朝が興る。しかしその漢王朝も途中、王莽という外戚が皇帝の御位を簒奪し“新”という王朝を打ち立てた。
それは一代限りであったが一度漢王朝は滅び、王莽より再度王朝を奪取したために、現在では前漢と後漢に別れて区別する、その後漢の時代。
皇帝の力は薄れ実権は側近の宦官という、本来であれば皇帝と奥方たちのお世話をする召使いであろうものたちがその奥方たちにすりよって大臣の位を授かり握っているという荒れ果てた状態。
この宦官というものは、皇帝の奥方たちが住まう男子禁制の場所、後宮で仕事をするわけだが当然奥方たちに手を出してはいけない。ということで男性器を切り取られてしまうのだ。とんでもない人権無視な制度だが当時はこれが当たり前のことだった。
出世したいがために自ら切り落とし、後宮に入るものまであった。
男子でも女子でもなくなったこれらが、なんの欲で生きるのであろう?
それは出世欲であり、金欲である──。
こんなものに権力の座を握られたらたまらない。正しいものでも邪魔者は逮捕されて牢屋に入れられてしまう。間違っているものでも金さえ払えば大臣になれる。
簡単だ。暇を持て余す奥方たち。世間知らずの皇帝に追従して願い事を言うだけ。それだけでほとんど願いは叶ってしまう。
痛みを知らせぬ内臓の病だ。口に蜜あり、腹に剣あり。この王朝の真の支配者は誰なのか?
余りにもひんまがった政治だ。
泣くのは常に民衆。それを知っていても力及ばず手の打ちようのない官僚たち。
王朝末期の悲鳴がこの大陸に鳴り響いたとしても無理からぬことだった。
◇
そんな王朝の大大臣である名家に袁家があった。
四世三公の家柄である。四世とは四世代。三公とは行政の司徒、軍事の太尉、治水や土木工事の司空の三つの官職のことで、臣下の最高位。
昔の日本の三公と言えば、太政大臣、右大臣、左大臣。こう言えば分かりやすいかもしれない。
すなわち、四世代も三公という臣下の最高位の官職を代々勤める一族で、この国の中では袁氏を知らぬものはいなかった。
一人の男。裕福そうな錦の官服に身を包み、整えられた見事な口髭。顔立ちもよく、汚れ一つない白面。体中から高貴な雰囲気が醸し出されている。
姓は袁、名は術、字な公路。
この時代、名前の「術」を呼べるのは両親や親族の年長者、もしくは自分より官位が上のもののみで、同輩は字の「公路」と呼び、後輩や身分卑しいものは官位名を呼んだ。
袁術はこの名門袁家の御曹司。
袁一族の宗家、袁逢の嫡男で未来が約束された男であった。
官位も、三百石の郎中から、二千石の虎賁中郎将にまで一気に上り詰めた。
皇帝警護の親衛隊を率いる役職だ。兵権も任命権もある。地方ではない。中央政府の出世頭。さしずめ花形スターだった。
「当り前だ。儂は袁氏の後継者だぞ? 儂が漢帝国の大臣になってこの帝国を牛耳るのだ。ふふふふ」
元々野望の主だったこの袁術は権力の最頂点に立つことが夢だった。
そしてそれは彼に用意された人生のレールだと思い込んでいたのだ。