第49話 ソロライブ
幾朗は玄関先で足に靴を入れ、つま先を床で叩いて履きながら黒い箱に向かってつぶやく。
「まぁ、片目くらい失っても仕方ないか。人相を変えるか……、それとも別人となって生きれるのか──? 相談したい」
そう箱に持ちかけたときだった。
ニセモノのきゃんを押し込めた遺体がある部屋から歌声が聞こえてきた。
「それでは、新曲歌います!『おいで! ブラウン団長』! 聞いて下さい!」
ハッキリと家全体に響き渡る声──。幾朗は驚いた。
「う、ウソだろ? これは、きゃんちゃんの──。きゃんちゃんの声だ!」
自分のことをそっくりさんと言った女。無価値な大衆と思ったが違う。あの顔、そしてこの声。細部にわたる言葉のイントネーション。
間違いない。これは鈴村きゃんだ。本人は病院なのかも知れない。しかしこれは悪魔が自分にくれたもう一人のきゃん。贈り物なのだ。
幾朗は二階の奥の部屋に駆け出して行った。幾朗が奥の部屋にたどり着く頃には、ワンマンライブが始まっていた。
「♪おいで ブラウン団長
抱きしめて 私だけ愛して
ずっと一緒だよ! wow wow!」
幾朗は伴奏なしでもここまで歌い上げている、本物の鈴村きゃんを見たくてたまらなかった。
しかし邪魔な障害物。遺体部屋のドアの前に置かれた家具をどかしながら、きゃんを盛り上げるために歓声を送った。
「きゃんちゃーーん!」
悪魔からの贈り物。今まで何度も聞いた歌声だ。これがニセモノのわけがない。
本物だ。本物の鈴村きゃんの肉声だ。
「♪すぐに目移りしちゃう
いけない人ね
あなただけに
大事なもの 捧げたいの♪」
部屋の中でステップする音が聞こえる。振り付きだ。振り付きで歌っている。自分の家で自分のために。
幾朗は高揚感が抑えきれない。
早く、早く見たい──!
そしてやはり連れて行かなくてはいけない。
幾朗は全ての家具を取り除き、ドアのカギを開けた。
「きゃんちゃん! ゴメンね!」
しかしきゃんは身構えていた。最後の家具を取り外したとき、間違いなく幾朗がこの部屋に入ってくると思ったのだ。ドアの前にしゃがみ込み、右腕を折って脇に締める。そして右の手のひらを上に向けていたのだ。
部屋に突入した幾朗の前にはきゃんの姿はない。それは足元にいた。
きゃんは全身のバネを使って立ち上がると同時に、的確に幾朗のアゴ先を狙って手のひらを繰り出した。
衝撃──!
それは幾朗のアゴを捕え、カクンと首が後ろに折れた。
アゴは急所だ。いくら大男とはいえ、これをくらったらたまらない。幾朗は後ろに倒れかけた。
「やったっ!」
きゃんが一声上げたが、幾朗は倒れるに至らなかった。踏ん張ってこらえたのだ。
「……うそ」
「──ダメだよ。きゃんちゃん、抵抗しちゃあ」
幾朗はゆっくりと体を起き上げ体勢を整える。なにしろドアのところだ。隙間がない。きゃんは逃げることが出来ない。完全に立ち塞がったまま、幾朗はきゃんに掴み掛かかろうと一歩踏み出した。
ステーーン!!
大きな音を立てて幾朗は後ろにすっ転がった。
そして、ドアの前に置かれた家具にしこたま頭を打ち付けたのだ。
大きな体を床に倒して目を白黒させている。
どうして倒れたのかときゃんが思っていると、幾朗の体の下から黒い箱が球体になって転がり出した。
「お母さんが転ばせてくれたのね!」
『バカな娘! しゃべってるヒマがあったらとっととお逃げな!』
「お母さんも一緒に!」
きゃんが黒い箱に手を伸ばすと幾朗が唸って目を開けた。
「きゃ!」
きゃんが叫ぶ。それと同時に黒い箱は飛び上がって幾朗の額の上に落下。その衝撃の大きさに幾朗はまたガクンと力を失って目を閉じた。
『早く! 母さんに任せな!』
「う、うん!」
きゃんは幾朗の体を乗り越え、玄関まで逃げドアを開けるとそこには──。
「──う、うそだろ? きゃんちゃん? 鈴村きゃんちゃんだ!」
パトカーが3台、回転ランプを点けたまま停まっており、警官が数人立っていた。そのうちの一人がきゃんの名前を呼んだのだ。
「はい──。きゃんです。でも、鈴村きゃんじゃありません」
「どうしてここに?」
「この家の中の男に数日監禁されていたんです。ようやくスキを見て逃げられた。お願いです。お巡りさん。この家の男は殺人犯なんです。中にご遺体もあります」
警官たちは顔を見合わせた。暴行魔と思って聴取に来たら殺人犯? 警官たちは中に入っていくと、幾朗がドアの前で気絶していた。
そしてその先の部屋の中には6体のご遺体。警官は迷わず気絶している男に時間を読み上げながら手錠をかけた。
まさかの凶悪犯電撃逮捕だった。
その間、きゃんは聴取を受けた。自分の本名は成田きゃん。配偶者は成田隆一。現在は成田家に住んでいるというと、たしかに義母が失踪届けを出していた。
きゃんは警官に家まで送られた。
義母や義父が迎えてくれた。きゃんは義母に抱きついて声を上げた。
「おかぁさ~ん。よかった。赤ちゃん守れたよぉ~」
ボロボロになって泣いた。緊張が一気にほぐれたのだ。そんなきゃんを義母は同じく泣きながら暖かく抱きしめた。
◇
成田家にきゃんが戻った頃。湖の別荘地は騒然となっていた。
パトカーが十数台止まり、各新聞社の記者たちが押し寄せていた。
幾朗の別荘からは、ブルーシートに覆われたタンカがいくつも出て来てその度にカメラのフラッシュが激しくたかれていた。
そんな、喧噪をよそに木の陰から野良猫のように黒い箱が現れた。球体になって、コロコロと草深い林の中に消えて行く。
箱には絶えず文字が現れていた。
『全く、私としたことが。情に絆されるなんてねぇ。ま、きゃんも孫も無事のようだし良かった。良かった』
その文字は誰も見ることが出来ない。黒い箱の独り言だ。温かなる独り言。転がる黒い箱はまたどこかに消えて行った。
次の客を求めて──。
時間がさかのぼる。黒い箱はそこにもあった。
箱を手にしたものは皇帝の道を望む。
次回「袁公路と仲王朝篇」
ご期待ください。