第45話 誘導
きゃんは、この別荘に連れてこられてからとんでもないストレスだ。そしてどうにもならない現状に潰される思いだった。
『──そんな大げさな』
黒い箱はそう文字を表示するものの、きゃんは泣き止まない。黒い箱はチカチカと点滅した。きゃんがそれに気付いて箱の方を見ると新たな光る文字が流れ出した。
『ま、しょうがない。母さんが何とかしてあげる。だから普通にしてなさい』
「な、何とかって? 願わないと叶わないんでしょ?」
『まぁね? だけど母は強しだ。母さんに考えがある』
どんな心境の変化なのだろう? いや、箱は生物ではない。しかし、きゃんをこの世に産み落とし、夫を安楽死させして欲しいという老女に会い──。箱の中に感情と言うものが現れたのかもしれない。
老女の不可解な愛情。きゃんが自分を「お母さん」と呼ぶその言葉。それぞれが箱に“母性”を目覚めさせたのかもしれない。
きゃんは母が言うのだからそれに従うことにした。しかし、人の心を弄ぶ母でもある。信用はできないと思った。
きゃんは幾朗のために夕食を作った。一人で暮らしている男だ。和食に弱いだろう。
冷蔵庫の中には食材が豊富にあった。アイスクリームやカニまであった。きゃんは幾朗はやはり金持ちなんだと思った。これならばどんな料理も作れるなぁと腕をまくった。
親子丼と思い、鶏肉を出したが肉を小さく切ろうとすると、この家で無念にも殺された女性たちを思い出し辛くなり無理だった。すでに切られている豚バラ肉を出して肉じゃがを作った。
わざわざ魚を焼くグリルを出していぶす臭いを出しながら魚を焼いた。少しでも臭気を和らげるためだ。そして味噌汁、サラダを作り幾朗が帰るのを待った。
静寂な別荘地だ。遠くからの車の排気音が聞こえてくる。幾朗が帰って来たのだ。幾朗は嬉しそうに玄関のドアを開けた。
「うわー! 美味しそうな匂い!」
オイオイ。料理の匂いはわかるのかよ。ときゃんは思ったが演技でうれしそうに台所からぴょいと笑顔で首を出した。
「あ! おかえり!」
幾朗もうれしそうに台所に入って来た。そしてきゃんの料理に思わず涙した。
「──すごい。すごいよ! きゃんちゃん! アイドルなのに料理も上手だなんて!」
きゃんは鈴村きゃんではない。主婦として生活した過去がある。隆一を喜ばせようと料理のレパートリーはかなりあった。
「ふふ。ちょっとだけ頑張った!」
二人で食卓を囲む。楽しい団らんだ。幾朗は鈴村きゃん愛をずっと話していた。きゃんも自分の話しのように楽しそうな振りをしてそれを聞いていた。
しかし、幾朗は残念な気持ちでいっぱいだった。こんなに手を伸ばせば届くところに愛する人がいるのに、それで愛する人を傷つけてしまう。まるで昔見た映画のハサミの手を持つ男だ。やるせない気持ちでいっぱいだった。
夜。きゃんが風呂に入浴し、自分の部屋に戻る。幾朗はそれを寂しそうに見送った。
きゃんが寝静まったころ、幾朗は祭壇の部屋に向かった。幾朗は黒い箱を手に取った。
『願い事をどうぞ』
「彼女を抱きたい! 一つになりたいんだ。どうにか左手の能力を切り替えることはできないか? 彼女を抱くときだけ普通の左手に戻る──と言う風に」
『代償を言って下さい』
「だ、代償!?」
幾朗は驚きの声を上げた。それもそのはずだった。
「この左手してもらうまでどれほどの内臓を失ったと思ってるんだ! もう失えるものなんてないくらい分かってるだろ?」
『肺はいかがでしょう?』
「バカ! 彼女の前に行くまでに死ぬ!」
『では男性器と精巣では?』
「うぉい!」
『wwwwwwwwww』
箱は大きくふっかけた。幾朗を誘導しているのだ。他にも、『脳』『心臓』といった無理難題を持ちかけた。
「クソッ! じゃ、どうすればいいんだ!」
『左手の力を失ってもよいならキャンセルなされれば?』
「は?」
『能力だけのキャンセルはできますよ。もはや、目的は達成された。ならば左手の能力は必要ないはず』
幾朗はたじろいだ。自分の内臓を失って得た能力だ。これはこれで惜しい。かといってこのままではきゃんと一つになれない。
「内臓は──戻ってくるのか?」
『戻せません』
即答だった。
「だったら俺だけ損じゃないか!」
『そうかもしれません。しかし充分に力は堪能したはずです。騒がれず人を攫い、女性を陵辱するのに使いました』
「むぅ……」
たしかにそうだ。最初の目的である、きゃんの治癒の為に生け贄をさらう目的は達成された。女を襲えなくなるのはもったいないが、きゃんと生活を共にすれば心配はなさそうだ。
幾朗は考えに考えたが、黒い箱のその意見以外にはないように思えた。
「ああ! クソッ! もったいねぇ!」
『どちらにせよ、我が子も抱けませんよ?』
幾朗はドキリとした。たしかにそうだ。きゃんとの自分の子供。考えるとうれしくなり顔がほころんだ。
「わかった。やってくれ」
幾朗のその言葉を聞き入れ一拍おく。そして新たな文字が表示される。
『キャンセルされました』
途端に幾朗の体から黒い箱へと赤い光が伸びて箱の中に光が入っていった。それは一瞬のことだった。
幾朗は自分の左手で自分を触ってみた。しかし、元から自分には能力は効かない。誰かでためさなくてはいけない。
幾朗は深夜にも関わらず、車を運転して近くのコンビニに入った。そして、ジャンクフードとビールを買ってレジで精算。バイトの店員の男が釣りを渡した時に左手でその手を触れてみた。
「? 48円のお返しです」
店員の男はしびれて気絶しなかった。幾朗はうれしくなって店を飛び出した。
「やった! 能力は消えたんだ! これできゃんちゃんと……。むっふっふっふっ!」
幾朗は両腕を高く上げてガッツポーズ。そして愛車へと乗り込みドアを閉めた。