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ク ロ い ハ コ  作者: 家紋 武範
女と愛篇
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第38話 安楽死

 栄子は黒い箱の持ち掛けなど気にせずに、夫を介護する日々を続けた。

 それを見て栄子の子供たちは最初は呆れていたが母らしさに次第に父親のことをもう一度父と認めるようになりお見舞いに家に来るようになっていた。

 自分たちの生活は安泰となったので心情は雪解けしたのであろう。


 子供たちにとっては動けない相手だし父親にはすでに会社における権限はない。

 役員会でそう決定し、名誉会長に据えたことだけは伝えた。

 栄子の夫もそれを叱りつけるほどの元気もなくなってしまったのか、納得したのか。


「好きなようにやれ」


 ただそのように子供たちに伝えた。

 彼は完全引退し、体の動けない余生を送ることとなった。

 かいがいしい妻に支えられ、ただ死ぬのを待つばかりの生活だ。

 もう、どうでもよくなってしまったのかもしれない。





 栄子の夫は動けないままで、栄子に世話にならねば生きてはいけない状態だった。

 二人はいつも一緒にいた。だから世間話やなんでもない雑談をしながらの時間を過ごす。その時、栄子は夫の体を拭いていた。


「なぁ、栄子……」

「なんです?」


「なんか、固形の食い物はないか? 流動食ばかりで味気がない」


 夫のリクエストに栄子は少し考えた。


「そうですね。お医者様には内緒で、なにか作ってきます」

「うん。頼む……」


 栄子は台所に行って調理したものを夫に運んだ。


「さぁ、口を開けてください」

「おお! これは!」


「こんなものしか出来ませんけどね」

「いや、最高のご馳走だ」


 それは、蒸しパンだった。夫はゆっくりと噛んで喉に流してゆく──。


「思い出すなぁ、栄子」

「何をです?」


「昔、貧しい頃、晩飯に蒸しパン一つ買う金しかなくて二人で分けて食べたろう?」


 二人は顔を見合わせてわずかに微笑みあった。


「ふふ。そんなこと忘れてしまいましたよ」

「──そうか? まぁ思い出したくもない貧乏暮らしだったもんなぁ」


 夫のつぶやきに、栄子は微笑みながら食器をかたずけた。

 夫の部屋を出て台所で食器を洗いながら目には涙を湛えていた。


「覚えていてくれたのねぇ──」


 栄子はつぶやいて涙を流した。





 黒い箱はドイリーの下でやさしく光を讃えていた。


 そんなとき、夫の容態が悪くなった。苦しみ出して意識不明に陥り、また目を覚まして苦しがる。というのを何度か繰り返した。


 栄子は黒い箱からドイリーを外し、手に取った。黒い箱は待ってましたとばかりに文字を流した。


『願い事をどうぞ』


「…………」


 栄子は箱の文字をまばたきもせずにジッと眺めていた。


『wwwwww 旦那さまの病気を治しますか?』


「…………」


 それでも栄子は無反応でそれを眺めていた。


『それならば、子宮と二つの卵巣で叶えられますwww』


 その文字に今まで黙っていた栄子の体がわずかにピクリと動いた。


「冗談はやめてちょうだい。あなたから見れば止まってしまった器官で不要かと思うけれどそれだけはイヤよ。私はいつまでもあの人の女なの。それをなくしてあの人の病気が治っても意味がないわよ」


 声を荒げる栄子に、今度は箱のほうが黙った。


「──19の時に買ったばかりのバイクで迎えに来てくれたの。私達駆け落ちしたのよ。馬鹿でしょう? 私は良いとこの家柄でね、私には婚約者がいたのにお金もない彼はそのバイクで燃料がある限りどこまでも走ったわ。東京に向かってね。燃料がなくなったら二人でかわりばんこにバイクを押して走ったの。戦争で復興したばかりの東京で日雇いの仕事をしたり、焼き芋のリアカーを引いたりしてねぇ。お金を貯めて──。ふふ。懐かしいわねぇ」


 栄子は戦後に駆け落ちし、自分たちの若い頃、青春時代を話し始めた。


「苦労もたくさんしたわ。働いて貯めたお金を盗まれちゃったり。浮浪者にまぎれて野宿してたのが悪かったのね。でも仲間たちみんなで犯人を見つけて捕まえたの。傷病兵だったわ。そしたらね。あの人「これはこの人に上げたものです」って言ってさぁ。私泣いたわよ。悔しくて。ほほほほ」


 箱は栄子が何を言いたいのか分からなかった。


 箱には人の心を読む能力が備わっている。


 栄子に不思議な感情が交錯している。

 楽しいのか、苦しいのか、怒り? 悲しみ? 箱が今までで味わったことの無い感情だった。

 心が読み切れない。


「馬鹿でしょ? そんな人にため息をつきつき、一緒に頑張って来たの。そして小さい会社を作って。だんだん大きくなって。子供も大きくなった頃に、あの人突然呼びつけたと思ったら結婚式場よ? 二人の結婚式をやるって。私もいい歳よ。この人はやっぱりバカなんだと思って」


 栄子は天井を見上げた。わずかに目に輝きがある。泣いているのかもしれない。

 箱はそう思った。


「嬉しかったわ。あの人と一緒になってよかった」


『願い事をどうぞ』


 箱は栄子が夫のことを思っていると思い持ちかけた。


「そうね。願い事──」


 栄子は拝むように手を合わせた。


「どうかあの人を……楽に死なせて下さい」


『??????』


「どうしたの? 何が必要?」


『あの男は放っておいてもすぐに死にます。あと1日の命です』


「そう。じゃぁ、1日苦しまなくちゃいけないのね。すぐにでも死なせて」


『??????』


 箱は何を言っているのか分からなかった。

 放っておいても死ぬものを1日早めに死なす?


 恨みという感情か?


 いやそうではない。哀れみ?



 いや──。




 これが『愛』というものなのか?



 箱は不思議な気持ちだった。


 しかも、死に際している人間を殺す?

 何を代償にするか計算できなかった。


 大きく吹っ掛けるか?


 いや、そうじゃない。


 客を間違えた。箱はそう思った。



『では尾てい骨を』


「……分かったわ」


 白い光が一瞬だけ病院へ伸びた。

 しかし、それはすぐに消えた。


 続いて栄子に赤い光が照射される。


 栄子はふぅっとため息をついた。


「さて。病院へ行かなくちゃね。あの人寂しがってるだろうから」


『…………』


 箱にはこの栄子の気持ちが分からなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 『大きく吹っ掛けるか?』 なんと! この箱、感情があったんですかい! 完全にオートだと思ってましたよ! [一言] それにしても、このお婆様の愛の深さときたら。 真似できません。
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