第37話 不実な夫
黒い箱……。それは願いを叶える箱。だが、願いを叶える代償に、肉体の一部を差し出さなくてはならない──。
バスタードマンこと長井英太がこの世界から姿を消し、数日が経っていた。
男の部屋にあった黒い箱はどうなっただろう?
そう。黒い箱は自力で移動できる。人目を忍んで球体になって転がったり、壁をすり抜けて飛ぶことだってできる。
ただ、黒い箱にはルールがある。
それは箱自身が決めたことなのか、そう設定されて作られたのか分からない。
とにかく、人に拾ってもらって、持ち主を得てから願い事を開始する。
勝手気ままに人を攻撃したり、内臓を奪ってしまったりはしない。
そんな箱は今、ある女の部屋にあった。テレビ台の横にちょこんと置かれていた。
女は老婆だった。齢80近いと思われる。
これが新しい黒い箱の持ち主。名を村田栄子といった。
その彼女は今、自分の子供たちなのか? 三人の壮年の人間に囲まれている。50代後半の男、50代中半の女、50代前半の男と話していた。
「母さん、父さんなんてほっといてウチに来なよ」
「どうして? お父さんがいるのに……」
「父さんは自業自得だよ。愛人の家で倒れるなんて」
「そーよ。そして愛人には逃げられ、母さんがあんなのの世話見なきゃ行けないなんておかしいわよ」
「母さん。父さんを施設に入れる算段は整ったんだ」
「会社だって愛人にやるところだったんだから。オレたちだっていい迷惑だよ。いいね。母さん。父さんは施設に入れる」
だが子どもたちの言葉に栄子はまっすぐに言葉を返した。
「いいえ。ここは父さんと母さんの家よ。ここから母さんは離れませんからね。父さんだって」
子供たちは言葉につまった。
いつもながら頑固な母だ。困ったものだ。
「とにかく、父さんの会長職は辞してもらう。会社に来てもなんの権限もない。……まぁ歩けるわけないけど」
そう言って、栄子の子供たちは出て行った。
この栄子の夫である男は自分で会社を立ち上げそれなりに大きくした。
そして子供たちや妻を役員としていたが、若い事務員に入れ込んでマンションを与えそれも役員としていた。子供たちは苦々しく思っていた。だが注意すると大轟音で怒り出し役員から抜くなどとのたまうので子供たちは次第にこの父が嫌いになっていたのだ。
そして愛人宅で倒れた。愛人は逃げて預けられていた株券を売ったようだった。それによって会社は一時危機に瀕しそうになった。
なにしろ全体の30パーセントの株である。子供たちは慌てて大枚叩いてこれを買い戻した。出さなくていい金をである。
子供たちの憤慨も無理からぬことであった。
栄子は子供たちに出したお茶やお菓子を片付け洗い物をし、部屋の掃除をした。
その後でベッドのある一室に入って行った。
そのベッドの上には栄子の夫が寝ていた。
栄子と同じくらいの老年。
手足が動かず、かろうじて目や口が動くぐらいだった。
「マコトたちが来ていたのか……?」
夫は栄子に尋ねる。栄子はそれににこやかに答えた。
「ええ。孫やひ孫たちの近況を言って行きましたよ。みんな元気ですって」
栄子は夫の服を脱がせて体を拭く。栄子の夫は声を震わせてさらに続ける。
「それだけじゃないだろう……ッ!」
栄子は無言で体を拭く。無言だが、顔は微笑のままだ。そして手足の動かない夫に代わって真新しい下着をつけパジャマを着替えさせた。
「まぁ、それだけじゃないですけどね。呆れてましたよ。私に」
それを聞くと夫は少し声を荒げた。
「ウソをつけ! 本当はもう親とは認めない! お前にももう別れろとかいったはずだ!」
「何言ってるんですか。体に響きますよ」
「出て行け、栄子! 惨めなオレを笑いに来たんだろ!」
「ハイハイ。もう出て行きますよ。そんなに興奮しないで。もう──」
栄子は部屋を出ての扉を閉じた。そして自室に帰りテレビの脇を見ると黒い箱が小さく光っていた。
『願い事をどうぞ』
「ふふ。ホントに不思議な箱だねぇ……」
栄子は道の傍らでそれを拾った。ゴミだと思ってコンビニのゴミ箱に入れようとしたら激しく点滅した。そして流れてくる文字。
栄子は出て行ってしまった「夫」が帰ってくるように願った。
その代償に箱が提案した虫垂を捧げたのだった。
帰って来たはよいが無事ではなかった。首から下は不随である。会社も危機に瀕した。
黒い箱はいつものように名目上願いを叶えたのだ。誰も前の夫を家に帰せとは言われてない。死体になってようが会社が倒産しようが箱には関係ない。
願いによって戻った夫は、内臓は動いているようだが体は動かない。
しかしそれでも栄子は嬉しかった。
寝たきりとなってしまった夫だろうが関係ない。栄子はかいがいしく夫を自宅で看護するのであった。
『旦那さまの病状を治したらいかがでしょう?』
「……うーん。でもいいわ? またどこかに行っちゃうかもしれないし」
栄子は黒い箱を手に取って、布で軽く磨いた。
そしてその上に、自らがレース編みをした丸いドイリーをかけた。
夫は帰って来た。栄子はこれ以上黒い箱を使うことはないと思ったのだ。