第35話 エロイカ
月日は流れた。
中年となったルーイはウィーンの街並を背中を丸めながら一人寂しく歩いていた。
「号外! 号外!」
そんな声の元、一枚の新聞が手渡された。
「ん……!!?」
ルーイは小さく驚き声を上げ目を見開いて新聞に食い入った。
フランスで革命がおこり王制が倒れた。そう書いてあった。
ルーイの胸は激しく高鳴った!
「英雄の出現か? これが!? もしかしてこれはヨーロッパ全土を揺るがすかもしれないッ!!」
そんな希望の光が灯ったのだった。
しかし、フランスは混乱していた。
何百年も続いた王室がなくなった。指導者がいなくなったのだ。
新たに指導者が立ってもそれはエセ独裁をもくろむものたちだ。
粛正の嵐が吹き荒れた。
残った貴族側も自分が主君に取って代わろうとしている。
ルーイは動きに注視していたが、そんな情勢にやきもきし、回りに当たり散らしたり絶望したりした。
………!
しかし……!
ついにその時が来た!
ルーイが待ちに待った英雄の登場だ!
ナポレオン・ボナパルトの出現であった。
ボナパルト執政官はエジプト遠征をきっかけに軍隊をフランスに戻ったところでクーデータを起こしこの混乱を鎮め、政権をとったのだ。
そして、領土拡大の為に軍隊を他の国に向けようとした。
ヨーロッパはこの征服者に恐れた。戦々恐々だ。
ここウィーンにも戦火の危機が迫り街には軍隊があふれ、主だった貴族たちは疎開してしまった。
そんな中ルーイは没落してしまった貴族のパトロンにここぞとばかり「約束期日です。援助金を払って下さい」と手紙を出したりした。
ルーイただ一人ナポレオンの台頭に小躍りして喜んだ。そのまま、ヨーロッパ全土の王制をぶっつぶしちまえ! という思いだ。
弟子のフェルディナント・リースに叫ぶ。
「素晴らしい! ボナパルト執政官! 彼は英雄だ! “自由”だ! フェルディナント。人はみな自由だ! 我々市民は自由なんだぞ? 知ってたか? “平等”だ! そうだ! 平等なんだ! 人は産まれたらみんながみんな平等なんだ! “友愛”だぞ!? そうすれば階級なんてない! 全ての人を愛することが許されるんだ!! なーーんでこんな簡単なことですら誰も為し得なかったんだろう!?」
ルーイは興奮して大声でしゃべり続けた。
声が大きすぎる。また階下のお婆さんが怒鳴り込んでくるぞ。とフェルディナントは気が気でなかった。そんなことルーイはお構いなしだ。
「そうだ! そうだ! そうだ!」
気難しがりの彼は見せたこともない笑顔をフェルディナントに向かって見せた。
「フェルディナント! ボクは彼のために曲を作るぞ! 英雄だァッ!」
ルーイは直ぐさま着手した。疲れを忘れ、ナポレオンのために昼夜を問わず曲を書き続けたのだ。
「ボナパルト執政官と自分は気持ちは同じ! 彼はボクの聴力によって作られたものだ! ボクの思いをただただ曲にすればいい! 旋律はこう並べる。美しい! ああ、美しい! 芸術の極みだ! 自由、平等、友愛! これなら……。これなら執政官も気に入ってくれるはず! そして、彼はヨーロッパを導いてくれる! 自由で身分などない世の中にッ!!」
そして、ひょっとしたらジュリエッタも侯爵の妾から解放されて自分たちは結婚できるかもしれない。
ルーイの心は逸った。
もはや一刻の猶予もない。
大急ぎで「交響曲 英雄」を作り上げた。
ルーイは出来上がった交響曲を丁寧に荷造りし、『英雄 ナポレオンに捧ぐ』と送り状に併記した。
もうそのころ、ルーイの耳は徹底的に聞こえなくなっていた。しかし、ルーイにとってはそれで良かった。
「契約通りだ。箱は契約を守った。ボクの願い事は叶えられたんだ。ああ。だがなんてすがすがしいんだ。モーツァルト先生。約束を守れませんでした。しかし後悔はありません。ボクの音楽家の生命はこの第三交響曲で終了でしょう。英雄に捧げた人生。ボクはそれでいいのです」
荷造りが終わり、ふと気付くとフェルディナントが横に立っていた。
「ふふ。なんだフェルディナント。そこにいたのか? 口をパクパクさせおって。バカみたいだぞ?」
フェルディナントは一生懸命、彼を呼んでいたのだが彼にはそれをすでに聞き取ることが出来なかったのだ。
しかし、ルーイはフェルディナントの口元を見ながら小さい音を拾ってようやく彼の言っていることが分かってきた。
「なんだって……?」
「ですからボナパルト執政官は、フランスで終身統領の座に就いたのです。おそらくは後に皇帝を僭称するともっぱらの噂ですよ」
「……なんだって?」
「あいつはやはり征服者なのですよ。今までとなにも変わりない──」
「…………なんだって?」
「先生。これが事実なのです」
「………………なんだって?」
ルーイはそこに立ち尽くしてしまった。言葉を完全に失って放心状態に陥った。
しかし、次の瞬間!
机の上に腕を滑らせてボナパルト執政官に贈るはずだった荷造りを筆記用具とともに叩き落とし、机を思い切り蹴り上げて床に伏して髪の毛を掻きむしり、長い長い間、グゥッ! グゥッ! と泣いて呻いていた。