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ク ロ い ハ コ  作者: 家紋 武範
ルーイと英雄篇
34/202

第34話 月の光に手を伸ばす

 回りは暗くなり、玄関のドアが開いた。

 兄が帰って来たのだ。ジュリエッタは杖をついてそこまで歩み寄った。


「お兄様! 今日はとっても嬉しいことがあったのよ?」

「そうか? 一体どんなことだい?」


 そう言われてジュリエッタは黙った。先生が自ら挨拶に来ると言うのに自分が言ってしまったらダメだろうと思ったのだ。


「ううん。なんでもない。秘密。秘密」

「そうか。それよりも聞いてくれ」


「なぁに?」


 兄はにこやかに笑った。


「──キミの結婚が決まったぞ?」

「え?」




 ザワリ──。




 ジュリエッタの胸が急に冷たく押されたように感じた。


「キミの美貌を侯爵様が見初めたんだ。結婚と言っても妾だが良田美宅(りょうでんびたく)が与えられる。とうとうボクたちにも運が回って来たんだ!」



 ザワ


 ザワ ザワ


 ザワ ザワ ザワ ザワ──



 ジュリエッタの心の中が激しくざわついた。

 まるで湖から白鳥が飛び立つように動いた。


 彼女の心の中から白鳥が一羽、また一羽と──。

 そして全て飛び立って行ってしまうように感じた。

 心の中が空っぽになってしまう。

 ルーイとの幸せな結婚の夢が。その一つ一つが冷たい大空の彼方へと消えていってしまう。


 幼い頃に父母をなくし、目の見えない自分を育ててくれた兄に逆らえようもなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 



 数日がたって、ジュリエッタは家の前に止められた豪華な馬車にドレスを着て乗っていた。

 近所のおばさんたちが口々にその美しさを褒め、婚礼を祝った。


 その喧噪の中、ジュリエッタは一人の声だけを探していた。


 ルーイの「ジュリエッタ!」と叫ぶ声を待ったのだ。


 その声があれば自分は翼を広げてその胸に駆け寄ることが出来る──!

 兄を裏切ることになるだろう。兄は処刑されてしまうかもしれない。


 だから、これは賭けだ。先生からの声が聞こえればそちらに行く。

 兄を取るか、先生を取るか。

 どちらにせよ後悔してしまうのだ。

 人生に一度きりのわずかなチャンスを……自分に与えてもいいと思ったのだ。


 目が見えないので小さい音でいい。

 靴音だけでも……。あの足音を覚えている。髪を搔き上げる音だって──!


 しかし、その音は聞こえなかった。

 悲しそうな顔をしたジュリエッタが馬車に乗り込むと、その扉は閉められる。


 悲しい音とともに──。




 ジュリエッタの家から馬車が出て行った。

 石畳を馬車の車輪が回る音が町を支配する。

 その姿をルーイは少し離れた場所から、ただただ見つめるしか無かった。


 それを見送ったルーイがジュリエッタの兄に近づくと、彼はピアノのレッスンのことに対しお礼を言った。そして妹からお礼の手紙があると手渡された封書を部屋に帰ってから開けて読んだ。


「先生、裏切ってごめんなさい。

 こんなバカな娘を愛して下さってありがとうございます。

 どうか、見限って下さいまし。

 そして別な方を愛して下さいまし。


 ああ! 先生! でも私の本心ではないのです。

 先生! 愛しております。

 ずっと、ずっと……」


 ルーイはフッと一つだけ笑って手紙を戸棚の奥にしまい込んだ。


 そして酒瓶を持ってフラフラと街に出て行った。


 そこにはブロイニング家があった。

 ルーイは門をくぐって長い長い庭の道を歩いて、玄関のドアを叩いた。


 ドアが開いて、メイドがベートーヴェンだと分かるとすぐに一室に通した。

 ルーイは部屋のソファにどっかりと腰を下ろして下を向いていた。


 そこにステファンが入って来た。


「ルーイ……。どうした??」


 その声をルーイは聞き取ることが出来なかった。ステファンは彼に近づいて耳元で声を張り上げた。


「ルーイ!」


 ステファンの声。ルーイはゆっくりと酔っぱらった顔を上げた。


「ステファン。ボクの生涯愛する人はいなくなってしまったよ」


 その言葉でステファンは全てを察し、寂しそうに笑いながらいつものように答える。


「そうかね」


 ステファンはルーイの横にそっと座り込んだ。


「だが心配するな。ルーイ。キミが最後を迎えるその時までボクが側にいるよ」


「……そうか。骨を拾ってくれるか?」

「もちろんだとも」


 二人はがっちりと抱き合った。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 



 ルーイは部屋へ帰った。そして力無く笑っていた。


「貴族──。また貴族だ。あいつらはボクから全てを奪って行く……」


 そう言って黒い箱を取り出した。久しぶりに表にでた黒い箱はいつもの光文字をあらわした。


『願い事をどうぞ』


 ルーイは箱のその文字を眺め続け


「……ジュリエッタを」


 箱は絶えず『願い事をどうぞ』と点滅させていた。


「ジュリエッタ……ジュリエッタを──」


 そう次の言葉が出てこないルーイを箱は笑っているように見えた。それに気付いてルーイは言葉を止め、フッと笑った。


「大した願いじゃない。ボクの愛した人の肖像画が欲しい」


『代償は?』


「体毛を好きなだけ進呈しよう」


『では体毛15本ほど頂きましょう』


「そうか、ではそれで」


『叶えられました』


 黒い箱から白い光が照射され、ルーイの手元にジュリエッタの肖像画が現れた。

 そして、一瞬だけ赤い光がルーイの体に注ぎ込まれた。


 ルーイは箱に奪われたものを大して気にもしない顔をしてその肖像画をジッと見つめていた。

 そしてこればかりは弟の手に取られてはならないと、特別な場所に隠したのだった。



 それからルーイはピアノソナタ「月光」を完成させジュリエッタに送っている。







 ──この曲をご存知だろうか?



 曲の序盤は月の光がうねるように降り注ぐようだ。


 中盤では暖かくなにやら恋人たちが楽しげに遊ぶような雰囲気になる。だがそれは僅かな時間だ。


 そして終盤。これがこの曲の大部分を占める。

 突如、走り出したようになる。

 まるで手が届かない月の光に必死に手を伸ばすようだ。



 道を走り!


 橋を越え!


 階段を上り!


 屋根に登って!


 それでも光には手が届かず!


 山を登って!


 高く高く手を伸ばし!


 手が届かない!


 手が届かない!


 手の届かない!


 その無念さで胸を掻きむしる!



 そんな、そんな──。

 ジュリエッタへの思いを書き綴ったように思えるのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本文を読んでから第三楽章を流しながら読んだ第三楽章の超絶意訳が心に響きました。  この楽章に心を打たれっぱなしの数十年でしたが、『こういうことだったのか』という…  なろうに籍を置い…
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