第33話 縁切り
話しを聞いてステファンは足を揃えて立ち上がった。
「ルーイくん。そのもじゃもじゃ頭をどうにかしたまえ」
そう言い放って、口をふさいで笑う。いつもの軽口に、ルーイの方でも眉を下げて苦笑した。
「おーい。茶化すなよ」
「スマンスマン。彼女が目が見えなくて良かったな。でなけりゃキミになんて惚れんだろう」
「む。失礼な。これでもウィーンではもてる男なんだぜぃ」
ルーイは襟を弾いて胸を張ってカッコ付ける。しかしステファンは意に介さずと、茶化すジェスチャーをした。
「そりゃー、キミじゃなくてキミの音楽に惚れてるんだ。あと、大金持ってるだろうってことで」
「……言いにくいことを平気で言うなぁ」
そう言って頭を掻く。ステファンはそんなルーイの肩に手を乗せ引き寄せた。
「でもよかったな。キミにも春が訪れそうだ」
「ん? うん」
ルーイは嬉しそうに微笑む。そして二人は極上のコーヒーを味わいながら飲み干した。
ステファンはルーイの耳に近づいて声を上げる。大きな声。だがルーイにとってその声は普通の声量にしか聞こえなかったのだが。
「なぁ! キミは天才だ!」
「ん? おいおい。どうした?」
「ただ、恵まれないだけだ! 父君は歌手でありながらノドを壊し、母君は苦労して亡くなられた。音楽の教師のモーツァルトにはわずか一ヶ月しか師事できなかった。その後ハイドンに師事したが、彼は忙しくて教えなど乞えなかった!」
その言葉を聞いて、ルーイは思わず涙を流しそうになったがこらえて唇をぎっちりと横に結んだ。
「だが、キミは今やこの世界でナンバーワンの音楽家だ! いやボクはそう思うね! そして、もうじき結婚できようとしている。ようやくだ! ようやく、この天才が幸せになれる!」
ルーイは肩に置かれたステファンの手を握り帰して思わず一粒涙をこぼしてしまった。
「おめでとう。おめでとう! ルーイ! キミの友人でいられることがボクの誇りだ!」
「なにを──。なにを言うんだよ……」
二人は互いに抱き合った。
そして、お互いに顔を合わせたが、ステファンの顔が少し険しいものに変わった。
「……だがなルーイ。キミの幸せを壊そうとするものがいる。それは妖精だ!」
「……え?」
「人がいいキミは本当に妖精がいると思っている。弟にそう言われたんだろ? 妖精が隠しものをするんだと──」
「え? うんまぁ……」
「その机の上にまとまっているものを見たまえ」
ルーイが机を見るとひとところに時計と銀のスプーン、お札に小銭が置いてあった。
「あれ? なんでこんなところに。不自然な──」
「さっき、家に入ったらこれをヨハンがポケットにしまい込んでいた」
弟の名前。弟の──。
ルーイはステファンの方に顔を向けた。
「弟が?」
「そうだ。もういい加減に気付け。あの弟たちを厳しく突き放して自立させろ。でないとキミだけじゃない! ジュリエッタにだって無心するぞ!」
ルーイの顔が驚きの表情に変わる。そしてステファンより目をそらしてうつむいてしまった。
「……やめろ」
「いい加減に目を覚ませ! 縁を切るんだ! この家の家政婦だって金がかかるとかっていって追い出したんだろう?」
「やめてくれ!!」
ルーイはツカツカと歩いて玄関のドアを開けた。
「いくら何でも弟を中傷するなんて酷すぎる! 絶交だ! 出て行きたまえ! ブロイニングくん!」
ステファンは大きくため息をついた。そして、玄関に向かっていき、彼の胸に封筒を押し付けた。
「ベートーヴェンくん。これすら弟君は盗んで売ろうとしていたんだよ……」
そう言ってステファンはドアを閉めて出て行ってしまった。
ルーイは封筒の中身を見て愕然として膝をついて泣き出した。肉親を悪くいられれば誰だって腹が立つ。どんなに悪い弟でも。ルーイは気付かないふりをしていた。そうやって自分をごまかしていたのだ。もう肉親を失いたくないと言う思い。そして弟たちもいつかきっと分かってくれるという思い。
だがステファンは知っていたのだ。ドアを閉じてしまっていたごまかしの正体を引きずり出されてしまった。
だから。だから──。ルーイはただステファンに当たり散らしただけだったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大事な親友ステファンと仲違いしてしまったが、ジュリエッタとのレッスンはその後も続いていた。
二人ともお互いの気持ちが分かっていた。
レッスンの途中で何度も何度も唇を合わせた。
「先生の口づけはとても苦い味です」
「そうかね? 歯は磨いているのだが……」
「いつものコーヒーの味がいたします」
「さもありなん」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「なぁ、ジュリエッタ。キミと一緒になれればなんと幸せなことだろう──」
「うそ……。先生はそういって私をからかってるんだわ」
「いや、本当さ。聞かせてくれよ。キミの気持ちも」
彼女は真っ赤な顔をしてうつむいてしまった。
「先生の近くで同じ部屋の中で先生の弾くピアノを聞いていられたらなんと幸せなことでしょう……。私は先生の顔に手を当てて先生がどんな顔をしているのかなで回すのだわ。そしてその広い胸に倒れ込んでまた口づけをしていたい」
「本当か?」
「ええ……。好きです。先生」
ルーイは思わず小躍りしてしまった。
そして、照れて頬を掻いた。
「今度、キミの兄君に挨拶をしよう。キミを下さいと申し入れるんだ」
ジュリエッタはニコリと微笑んで
「ああ、うれしい! ほんとうですの?」
「本当だとも!」
二人は長椅子に腰を下ろし互いの肩にもたれあった。
「先生。まるで先生は人に聞く湖の白鳥のようだわ。気高く優雅で大空を美しく飛ぶんですってね?」
「そうか? そんなこと人に言われたことは無い。キミが初めてだよ」
「先生。私はその横にいる水鳥になりたいです……」
ルーイは彼女のその肩をがっちりと抱いた。
「何を言う。ボクが白鳥ならキミも白鳥さ。共に湖を優雅に泳いで生きて行こうじゃないか」
「はい! うれしゅうございます……」
時間が過ぎてやがてジュリエッタは玄関までルーイを送った。そしてうれしそうに夕食の準備をし、兄の帰宅を待った。