第32話 コーヒーの香り
それからしばらくして、ステファン・ブロイニングはルーイの家のドアを開けた。
「ルーイ。いるかい?」
すると、ルーイの弟が金目のものをポケットに入れているところで、バツの悪い顔をしていた。
ステファンはそれを見て嫌悪の表情を浮かべた。
ステファンは、偉大なるルーイは大好きだったが、この弟──。二人の弟たちは大嫌いだった。
兄の稼ぎを全て食いつぶしてしまう。兄はこの小さい借り宿で過ごしているのに、こいつらの家族ときたら豪奢な暮らしをしている。
「な、な、なんですか。ブロイニングさん。ノックもしないで。失礼じゃないですか!」
彼は逆ギレをした。
ステファンは彼を挑発するようなゼスチャーをした上で答える。
「さぁて? ここはルーイの家だろ? ボクやワルトシュタインやヴェーゲラーはノックをしないでいつでも入ってくるように言われてるんだ。ノックをする方が逆に失礼だと言われてね」
そう言われて、弟はスゴスゴと帰ろうとした。ステファンは足を揃えてその方向に体を向けた。
「ポケットに入れたものを全て机の上に出したまえ!」
その怒声に彼は肩を大きく振るわす。仕方なく、弟はポケットから時計やら銀のスプーンやらお札や小銭を机の上に出し帰ろうとした。しかし、ステファンはその腕をガッシリと掴んだ。
「その胸の膨らみはなにかね?」
弟は見破られてビックリした顔をした。
苦い顔をしながら、服にしまい込んでいた封筒を出し、ステファンの胸に舌打ちをしながら叩き付けて部屋から出て行った。
ステファンは封筒をあけてつぶやいた。
「やはり……」
そして、どっかりとイスに腰を落として封筒の中身を見ながらしばらく茫然自失だった。
それは楽譜だった。タイトルに「月光」と書いてある。
まだ書きかけで完成していない。
こんな名曲ですら、弟は質の店主の言い値で売ってしまう。
ステファンはどうにもならない怒りでいっぱいになった。
自分が作曲家ならこの怒りをピアノにぶつけていることだろう。そしたら悪魔のような名曲が出来たかもしれない。
そんなことを考えていると、玄関のドアが開いてルーイが嬉しそうな顔をしてステファンに抱きついて来た。
「なーんだ! ステファン! 来ていたのか。すまんな留守にしていて」
ステファンは彼の耳に顔を近づけて落ち着きを払った声でこう言った。
「なぁに。待つのも楽しいものだ」
ルーイが耳が遠いことは先刻承知だ。
彼の友人たちは、みなそうしていた。
それを聞いてルーイは尚も嬉しそうな顔をした。
「今、極上のコーヒーを煎れよう!」
「ああ、それが楽しみなんだ」
ルーイは奥に引っ込んで行ったが、首をかしげながら出て来てテーブルの上に欠けたコーヒーカップを二つおいた。
そして、秤を持って来て皿にコーヒー豆を一粒一粒落として行く。
うっとりとした笑顔だ。そしておもむろにステファンにつぶやく。
「また妖精が出た」
そうつぶやく言葉にステファンは「そうかね」と答えた。
「君たちが来たら、コーヒーは極上でも器が汚かったら恥ずかしいので見事な陶器のカップを4組買っていたのだがね? また妖精に隠されてしまったようだよ。ふふ」
ルーイは小さく笑う。そこでもステファンは「そうかね」と答えた。
「まぁ、結局はボクがズボラなためにどこに置いたか分からないだけかもしれないけどね。スマンな。ステファン。このいつもの欠けたカップで……。申し訳ない」
「いやいや、極上のコーヒー。極上のもてなしにいつも感謝しているよ」
と言って二人して微笑み合った。ステファンが冗談まじりに問う。
「ところで。今日はドコに行ってらした? 音楽の大家様は」
その言葉にルーイは真っ赤な顔をした。
「いやぁ……。はは」
そんな真っ赤なルーイをステファンは肘で小突いてからかった。
「名月の君かね? 相当ご執心だな。とうとうルーイも結婚かね」
ルーイは照れて自分のもじゃもじゃ頭を掻いてみせた。そして、あの名月の日にあった盲目の彼女との話しをし始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの時、勝手に家に入って悪かった。自分はその通り、ベートーヴェンだ。美しい音を聞かせてもらったお礼に君のピアノのレッスンをしたいと──。
そう言って始まったレッスンはすでに2週間は経過していた。
ジュリエッタは兄と二人暮らしだ。
彼女は目が見えないながらも家の中を切り盛りしていた。
そんな彼女の家のピアノは貧しい作りだった。そのピアノを使って彼女はルーイからレッスンを受けていた。
彼女は一通り弾き終えて、ほーぅとため息をつく。そして、笑顔でルーイの方を向いた。
「先生。いかがでしたか?」
「うん。筋がいい。とっても」
ルーイは大きく手を打って拍手を送った。
「そうでしょうか? 先生は甘いからなぁ」
「オイオイ。ボクは気難し屋で有名なんだぞ? そのボクがいいって言ってるんだから最高の賛辞だと思いたまえ」
「スイマセン。そうでした。んふふ」
「だけど、あの小節で少しもたついたね」
と言いながら彼女の手をふわりと握った。
「あ──……」
「スマン……。でもこうせねば教えられん」
「いえ……」
ルーイと彼女の指は鍵盤の上を踊って行く。
ポロン。ポロリン。
暖かい音が部屋中に響き渡った。
その軽快なリズムが止まって、二人の合わさった手は鍵盤の上でパァーンと雑に鳴り響いた。
「ジュリエッタ!」
そう言ってルーイは抑えられぬ感情のまま、彼女に顔を近づけて唇を奪った。
トキトキと二人の心臓の音が聞こえるくらい高鳴っていた。
「……コーヒーの香り」
「スマン……」
「いえ! ……うれしゅうございます」
「そ、そうかね」
「先生の胸。とっても広いんですね……」
「ピアノを弾いてる間にこうなったんだ。手を広げるからかな?」
「ふふ。先生、おかしい」
彼女は美しく笑う。
「そ、そうかね」
ルーイは彼女の前では一人の男であった。