第31話 名月の君
あれから時が経った──。
ルーイ少年は立派な青年になっていた。
そして諦めた音楽の道だったが、彼にはいい友人がたくさんいた。
ステファン・ブロイニングや医者のフランツ・ヴェーゲラーは必死に音楽の道を切り開いてくれた。
彼が軽蔑していた貴族のワルトシュタイン伯爵は多大な援助をしてくれた。
また音楽ができる! ルーイ青年に失っていた笑顔が戻った。
彼はまた音楽の都ウィーンにやってきてハイドンに師事した。
このころ──、すでにモーツァルトは亡くなっていた。
ルーイ青年にとってこんな悲しいことはなかった。生涯の友人と先生を同時に亡くした気持ちだった。
「そうか。黒い箱に命を吸われてしまったんだ。ボクの聴力だっていつか……。でも、いつになったら英雄は現れるんだろう?」
自分の聴力を失う恐怖と英雄の出現をただひたすら待ち続けた。
やがて、ルーイは音楽の大家と言われるようになった。
貴族から援助金をもらったり、劇場でコンサートを開いて生活も楽になり、弟たちをウィーンに招いた。弟たちは口々にこの偉大な兄を誉め称え、ルーイは有頂天だった。
さらに、友人たちも集まってきた。ルーイは毎日が楽しくて仕方なかった。
しかし彼はよく癇癪をおこし、“気難し屋”だと言われた。
当たり前だ。なかなか現れない英雄にやきもきしていたのだ。そして徐々に聞こえなくなる耳。それがよけい癇癪に拍車をかける。
どうしていいか分からなかった。
しかし後悔はしたくない。モーツァルト先生に信用され託された箱を使ったのだ。
いつ聞こえなくなるかもしれない耳に彼は怯えたが、精力的にたくさんの曲を世に送り出して行った。
そんな彼の息抜きは、彼は朝起きると嬉しそうな顔をしてピンセットでコーヒー豆を一粒一粒選んで皿に置いて行った。
きっかり60粒。それを焙煎して挽く。
「うーん。選りすぐられた英雄たちのこの香りったらないな」
彼は最高の香りと最高の味の一杯のコーヒーを楽しんだ。
こればかりは耳は関係ない。関係ないのだ。
そんな毎日だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、ルーイは友人のステファンとワルトシュタイン伯爵で酒を飲んでいた。
気の置けない友人だ。普段気難しがりやのルーイだが、その時ばかりはバカ話に興じていた。
ワルトシュタイン伯爵が窓に向かって提案する。
「名月だなぁ。どうだ。夜風に当たって歌でも歌いながら歩かないか?」
それに呼応しルーイとステファンは声を上げる。
「賛成!」
それを合図にサンニンハ立ち上がる。
故郷のボンの歌を口ずさみながら酒に酔った足でフラフラと歩いて行くと名調子のピアノの音が聞こえてきた。
「分かるかい? キミの曲だよ?」
ステファンがルーイに向かって話すと、ルーイは音に集中する。その耳に小さく聞こえてきた。
「ホントだ! こっちのほうだ!」
ルーイを先頭に歩いて行くと、下町のおんぼろな家の玄関に灯りがもれている。
ちゃんと閉じられていないのだ。
三人はどんな人がひいているのか興味津々だった。勝手に家に入ってもワルトシュタイン伯爵がいる。きっと許してもらえるだろうと思った。
中に入ると暗い部屋で少女が一人ピアノを弾いていた。
滑る指から軽快な音が聞こえる。美しき指のダンス。踊る踊る、細い腰の10人のダンサー。
やがて曲が終わり、彼女が「ほーぅ」とため息をついたところで三人は拍手した。
「ど、どなた?」
驚く彼女は拍手の方に首を向ける。それはそうだろう。急に家の中に知らぬ人がいるのだから。
「いえいえ。いい音色だったので聞かせて頂きました。私はワルトシュタイン伯爵と申します」
「ええ? 伯爵様!」
慌てて彼女は床に平伏した。
「いえいえ、お気になさらずに。なにかお礼をしたいのですが何がよろしいでしょう? それにしても暗いですな」
伯爵は窓を開いて月明かりを入れた。
「なんとも見事な名月です。こんな日に窓をしめているとは」
「いえ、私、目が見えませんので……」
ルーイはドキリとした。彼女と共通点を感じたのだ。
彼女は目が。自分は耳が。
しかし彼女も音楽が好きなんだと思った。
ルーイは彼女の手を握って立たせた。
「お礼に月の光をプレゼントしましょう」
そう言ってピアノに向かった。
ルーイの指一つ一つが重々しく鍵盤を叩いて行く。まるで月の光が天から降り注いでくるように。ドナウ川の岸辺にさざ波が押し寄せるように。
ステファンとワルトシュタイン伯爵も思わず「むぅ……」と声を上げた。彼女はうっとりとして聞いている。
長く長くうねるような月の光は最後に「ドゥン……トゥン……」と鳴って締めくくられた。
「ベートーヴェン先生!」
彼女は声を上げた。
「え!?」
「先生だわ! こんな素晴らしい曲を弾けるのは世界中を探したってベートーヴェン先生しかいないもの!」
ルーイは真っ赤な顔をした。まさか音で正体を見破られるとは。
「……エヘ。ではそうかもしれませんね。はは。あなたが思うなら」
彼女はルーイに近づいて手を伸ばして握手を求めた。
ルーイもその手に触れて硬く握る。
「君の名は?」
「ジュリエッタと申します」
「そうか。よい名だ」
その様子を親友二人はにこやかに見ていた。
「しっかし良い曲だ。ルーイはまた傑作を作ったなぁ」
「ああ、まるで月の女神が降りてくるようだ」
「なんだ? ワルトシュタインくんには見えないのかね? 月の女神が」
「ん? ぉお。そう言えば。なんと素晴らしき美貌。まさに名月の君だな」
そう言いながら肩を組んで二人して笑い合った。