第30話 聴力と引き換えに
ルーイ少年の帰宅のあと、彼の母親の病状は悪化の一途を辿った。細かった体が、それよりも細くなって行ってしまった。やがて人事不省に陥って明日をも知れぬ状態となっていった。
少年は自分ではどうにもならないことに足踏みした。辛く苦しい一日がまた一日、また一日と過ぎてゆく。そしてふと黒い箱を思い出し、引っ張り出したのだ。
『願い事をどうぞ』
「……もし、もしも母親の病気を治してくれって言ったらボクはどうなる?」
『お待ち下さい』
黒い箱はなにやら計算をしているようだった。その試算がでたようで、光文字を表示した。
『寿命を5年ほど失うでしょう』
ルーイ少年は深くため息をつき、黒い箱に向かって嘲笑した。
「そうか。やっぱり。キミは卑怯な奴だ。そうやって人の寿命を喰らい尽くすんだな? 5年と言ったが、ボクの寿命はあといくつあるかわからない。20歳で死ぬなら、15歳で死ぬことになる。つまり母が助かってもボクはすぐに死ぬかもしれない」
『そうかもしれません』
「ふん。バカバカしい。そんなことをしたら母は余計に悲しむ。残された働けない父、幼い弟を抱えて途方にくれてしまうだろう。それならば安らかに眠らせてやった方がマシだ」
少年はそういって箱を元の場所に戻した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
母親の小さい手を握りながら父親と弟と共に、ベッドの横に立っていた。
母親の脈をとっていた医者が時計を見て立ち上がった。
「すいません。貴族の方の往診にいかねばなりません。私はこの辺で」
医者は器具を集めてカバンに入れ始めたのだ。
「そ、そんな! 先生! 今先生に行かれたら母は死ぬかもしれません!」
そう言われて医者は母の顔を見直した。
「……そうかもしれませんが、まだ持つのかも。いずれにせよ次の予約がありますので、これで」
そう言って出ていこうとする医師の腕をつかんだ。
「先生、後生です。その貴族の方からもらえる謝礼分をお払いしますからどうか、今日ばかりは」
医者は苦笑した。
「とても払えるとは思えませんな。失礼」
彼は腕を振り払って無理やり出て行ってしまった。ルーイ少年の後ろには死んだようにそのやり取りを見つめる父親と弟たち。
切なく、苦しく、やるせないまま、やがてその時が訪れた。ルーイの母は小さくなって死んでしまったのであった。
ルーイは悔しがった。まただ。自分たちの邪魔をするのはいつも貴族。
母親のほんの少しの寿命すら奪って行ってしまうのだ。
母親がいなくなって、父親も酒でノドをやられて働けない。
あわれなルーイ少年は弟たちに対して父役と母役の二つをこなさなくてはならなかった。
ウィーンにはもう行けない。
彼は音楽の道をあきらめざるを得なかった。
音楽の道。
ああ! 音楽の道!
なぜだ!?
ああ! 神よ、なぜです?
なぜ自分たちはこんなにも苦労しなくてはいけないのです?
働かなくても明日の食事に困らない貴族たちはいっぱいいます。
自分たちは一生懸命働いて、それすら税金で取られ、将来の夢ですら取られなくてはいけないんですか?
母すら天に召し上げられなくてはいけないのですか?
その御手でもお救い出来ないのですか?
少年は床に伏して泣き出した。
苦しい心境を声に出して、ただただノドがかれるまで。
ルーイ少年はこんな世の中はイヤだった。貧しいものはいつまでも貧しい。家柄のいいものはずっと身分も贅沢も保証されている。
彼は、母の病気の治癒にすら使わなかった黒い箱を取り出した。
「なぁ。この世の中の王制をぶっつぶすにはボクの何が必要か?」
『叶えられません』
「やっぱりか。……くそ!」
どうにもならないもどかしさが、少年に癇癪をおこさせた。髪をかきむしり、辺りのものに当たり散らした。
イスを蹴り倒し、本棚の本を全て落として踏みつけた。
その時、黒い箱が激しく点滅した。まるで文字を見ろと言っているようだった。
『ただし、王制を倒す者を出現させることはできます』
「なに!?」
少年は黒い箱を握って、その文字を何度も何度も読み返し叫んだ。
「英雄の誕生!? 英雄の誕生!? ……まさか。軍事クーデター?」
『未来の話しなので言えません』
「グ……しかし、む、そうか……」
少年は手を後ろ手くんで部屋の中をグルグルと回った。
王制がブッつぶれたらどうなるだろう。
貴族たちはうらみをもつ市民たちに吊るし上げられるだろう。
しばらく混乱するだろうが、市民の中からリーダーを選んでみんなで政治をする。
そうそれが理想だ。それが人間ではないか。
「何百年も続いた王制をつぶすのか。すごい! そんな英雄を出現させるのか」
『願い事を言って下さい』
「もし英雄を出現させるならば、何が必要だ?」
『音楽家の生命』
「は?」
『聴力。もはやあなたには不要なものです』
「そ、そうか。もう不要か」
『その通り』
納得だった。これ以上は自分ではどうにもならない。ジリ貧だ。
今まで覚えた音楽の知識で教師とかにはなれるだろう。
お金持ちにピアノやバイオリンを教えていって生活はなんとかなるかもしれない。
本を書いてもいいかもしれない。
「わかった。ボクの願いは万民が平等に幸せになることだ。それを叶えるなら夢破れた今、不要な聴力を捧げよう」
黒い箱はわずかに点灯した。
『急には奪いません。徐々に徐々に、英雄が現れるときまで』