第29話 故郷へ
そして音楽の大家はルーイ少年の背中を寂し気に見送った。
家を出た少年は不思議そうにその箱を見てみると黒い箱は僅かに発光した。そして──。
『願い事をどうぞ』
箱に光った文字が現れた。少年はそれに驚いて箱を手放して尻餅をついてしまった。驚いてそのまま。思考がまとまらない。こんなものを見たのは初めてだったのだ。
「な、なんだこれ。先生が言ったことは本当だったんだ」
ルーイ少年は立ち上がって、箱を手に取った。
「ね、願いを叶える? 先生は“名声”と“栄光”を叶えてもらったっていったっけ。この小さい箱がどうやって願いを叶えるんだろう」
すると、箱から光のメッセージが流れる。
『この箱はあなたの願いを叶える箱。使い方は、願い事を言う→その代償に箱はあなたの体の一部を頂きます。あなたの体がなくなれば願い事は終了です』
ルーイ少年は驚き顔を引きつらせた。
「な、なんだって? じゃぁ、先生はこれに体の一部を取られたってわけか。でも手足もあるし、何が取られたって言うんだろう?」
それに応えるようにまた箱から文字が流れる。
『人間の体内には不要な内臓があったり、人に見られない毛なども存在します。そちらを代償に捧げられました。あなたもそうしなさい』
ルーイ少年はポケットに箱をしまった。
なんということだ。これは悪魔の箱だ。魅力的な言葉で人間を欲望の海に落とし込み破滅に導くのだろう。先生は使ってきっと後悔したに違いない。だから自分を信用して渡したんだ。使うまい。決して使うまい。
少年はそう決意し、くたびれたアパートのくたびれた部屋に帰り荷物をまとめた。
ウィーンで新しく買った服をまとめたってスーツケース一つだった。
それだけ少年はものを持っていなかったのだ。
それでも隙間が空いていたので、少年はそこに黒い箱を押し込んだ。
その時、チラリと光り文字が見えた。
『体毛3本で故郷へ――――』
そう出ていた。少年は驚いて一度閉めたスーツケースを開けた。
やはり黒い箱は『体毛3本で故郷へ帰します』と光文字を放っていた。
ルーイ少年はフッと鼻で笑ってスーツケースを閉じた。
そして故郷のボンを思ってまたスーツケースを開け、すぐに閉じ、母の顔を思ってまたスーツケースを開けるということを繰り返した。
「ホントに帰れるのか?」
『もちろん』
黒い箱に問いかけると余裕の返答。
たしかにボンまでの道のりは長い。馬車で何日もかかるだろう。
その間、安いといえども旅館に泊まっていったらいくらかかる?
体毛。たった3本でボンにいける。
浮いた金で母親に薬も買ってやれるかもしれない。
だいたい、本当に願いを叶えられるのか?
確かめてみたい気もした。
「わかった。体毛3本支払おう。故郷へ帰してくれ」
『叶えられました』
箱から白い光が照射され、まぶしさに少年は目を閉じた。
目を開けるとすでにアパートの一室ではなかった。
ウィーンではない──。
それは一目瞭然。目の前にある川もドナウ川ではない。ライン川だ。懐かしいボンの街だった。少年の故郷だったのだ。
箱の力を思い知った。こんなにも簡単に願いを叶えてしまうなんて。
ルーイ少年は坂道を駆け下りると、そこには懐かしい我が家があった。慌てて家の中に駆け込んだ。
「ただいまっ!」
そう息荒く叫んでも力が無いしおれた家。母が倒れ、家事をするものがいないのだろう。家中から腐った匂いがする。残飯もそのままなのだ。
そこには父は酒を飲んで座っており、くぼんだ目でルーイ少年を見た。
「おお。ルーイか……!」
「父さん。またお酒を飲んでるんだね……」
ルーイ少年は家族の体調を聞くより先に、アル中の父の酒を咎めた。父は目をそらしてグラスの酒を口に運んだ。
「仕方ないではないか。これが飲まずにいられるか!」
父親は宮廷歌手だ。酒でノドがつぶれて今は上手に歌えない。家族は父親の稼ぎが頼りなのに、酒をやめなかった。母の薬代。少年の音楽の学資。それは父のノドにかかっていると言うのに。
ルーイ少年は母の床に向かった。
やせてしまっている。たった数ヶ月家を開けただけだったのに。
彼は母の元に駆け寄って小さくなった手を握って小さく細く泣いた。母親は我が子をわずかに口の端を上げて笑いながら迎えた。
「ルーイ。ごめんなさいね? 母さんこんなになっちゃって。でも、父さんをうらんじゃだめよ? 弟たちにも優しくしてあげて。……誰も、誰もうらんじゃダメ」
少年の声は言葉にならなかったが、小刻みに震える首は「分かってる。分かってる」と言っているようだ。母にはそれが分かってニコリと力無く笑った。
ルーイ少年は誰も掃除をしていない自室に入って埃を払い、黒い箱を両手で握ってブルブルと震えた。
『願い事をどうぞ』
「母を、母を……」
しかし止めた。次の言葉を封じた。箱を使えば、どこまでも使ってしまう。母の病気が治ればどれほどいいことか!
しかし母が自分の体を使って治したと知ったら、少年を咎め自殺するかもしれない。そんな気丈な母だ。
少年は箱を手の届かない見えない場所に置いて誰にも見つからないように隠した。