第27話 ルーイと音楽の大家
黒い箱……。それは願いを叶える箱。だが、願いを叶える代償に、肉体の一部を差し出さなくてはならない。
それは歴史上に於いても例外ではなかった──。
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン。
16歳の少年は一人の男を待っていた。音楽家の名高い男に師事するためだ。少年は、その音楽の大家が劇場から出てくるのを出待ちしていた。
すると、念願かなって人づてに聞いていた端整な顔をした男がそこからでてきたのだ。少年はその男へと駆け寄った。
「先生! 先生! モーツアルト先生!」
音楽の大家は立ち止まり声をかけた少年の方に顔を向け、上品に両足のかかとを揃えた。
「キミは誰かね?」
にこやかに好印象に話しかけてきてくれた。少年の顔に嬉しさの赤みがさす。
「ああ! 先生! お会いできて光栄です! 私は、ルーイと申します。ルートヴィッヒ・ヴァン・ヴェートーベンです」
「はーん」
音楽の大家は面白そうな顔をして、少年の顔を覗き込んだ。田舎から出て来た子だろう。華やかな音楽の都に憧れたのだと思った。音楽の大家は微笑みながら聞く。
「で?」
そう言いながら近距を縮めて楽しそうに微笑みかける。
「は、はい。私、先生を尊敬しておりまして是非弟子にして頂きたく思いまして……はい」
ルーイ少年は真っ赤な顔をして尊敬している音楽の大家に対して一生懸命言葉を伝えた。
「ほーう! 弟子ねぇ!」
音楽の大家は少年の頭へと手を伸ばし、そのくせ毛をモチャモチャと触りからかった。
「これはなに? ウンコでも乗せてるのかい? はは!」
音楽の大家は周りに付いて回っている弟子たちの顔を見渡すと、彼らは苦笑いをした。少年は照れて頭を手で覆いうつむいてしまった。
「あの……私は荘厳たる音楽の道を信奉しております。先生のような作品を志しております。是非、是非とも」
「ふーん。作品ね」
音楽の大家は尚も楽しそうに笑い、さらにからかいを続けた。
「あんなもの、小便みたいにジョロジョロっと出てくるもんだよ。なぁ君たちもそう思わないかい?」
音楽の大家は弟子たちの方を振り向いて訪ねる。彼らはこの音楽の大家の作品は好きだがどうもこの下品なところは嫌いだった。かといって否定するわけにもいかず、ゆるく笑っていた。
「はっはっはっは。まーいいじゃないか。弟子。さっそくウチに来たまえ!」
大先生と言えるであろう彼はルーイ少年の手を握り、それを引きながら我が家への道を進んだ。少年は想像していた感じとは全然違う音楽の大家に驚きを禁じ得なかったが、早速自分の腕前を披露できると内心喜んでいた。その後に弟子たちが「またか」とあきれ顔で付いて行った。
家につくと一室に案内された。そこには様々な楽器が置いてあり、中でも見事なピアノが存在を示していた。
「うわーーー! ここが先生の作品を作る場所なんですね!」
「うむ。弾いてみたまえ」
音楽の大家はイスに腰をおろして、弟子にお茶を持ってくるように指で指示をする。
「は、はい。で、では」
ルーイ少年は一気に緊張しブルブルと震えながら手足を揃えてピアノに向かって行進して行った。その姿が滑稽で音楽の大家はずっと笑っていた。
ルーイ少年がピアノに座って、これが音楽の大家のピアノかと感動している頃、弟子が音楽の大家にお茶を出した。彼はそれをゆっくりと回して香りを楽しみながら弟子たちに笑いかける。
「さてさて、どんなのが飛び出すのかねぇ?」
悪い趣味だ。緊張しながら少年の弾いた曲をからかおうというのが目に見えていた。弟子達はこの前途のある少年に同情の念を禁じ得なかった。
音楽の大家がお茶が入ったカップに口をつけようとしたとき、その口はピタリ止まった……!
ルーイ少年の指がピアノをすべるように走って行く。
“ピアノソナタ第11番 イ長調 トルコ行進曲”だった。この音楽の大家の曲。それは見事な腕前!
ルーイ少年はあこがれの音楽の大家の前で全身に全霊を捧げてピアノを弾いた。
少年に弾かれた鍵盤は元気良くポンポンポンと躍り上がった。
誰しもが聞き惚れた。その時だった。
「止めたまえ」
ピタリ
静寂だ。音楽の大家からの一言が部屋の空気を緊張で凍り付かせる。音楽の大家は少しばかり紅茶で濡れた唇をハンカチで拭きながら立ち上がる。
ルーイ少年はすぐにイスから降り立って、反省の面持ちで頭を下げた。
不合格だったのか。間違いはなかったと思うが……。そんな思いでうなだれてしまった。
「キミ。少しここで待ちたまえ。大切な客が来たかもしれない」
音楽の大家の声は今までとはガラリと変わり、重々しい口調であった。そしてドアを開けて出て行く。残ったのは数人の弟子たちとルーイ少年だけ。ルーイは弟子たちに頭を下げた。
「あの。私に不手際がありましたでしょうか?」
「いや。いい出来だったと思うよ」
「うん。かなり」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。もちろんだとも。このウィーンを探してもこれほどの弾き手はいないだろう」
「どうしてだろう? 先生が曲の途中で席を立つなんて。ひょっとしたら既存曲だったからなのかなぁ」
「うん……客なら我々が取り次ぐのに」
そんな話をしていると音楽の大家は戻ってきた。手には皿に乗せられた新しいカップが一つ。客に持って行く途中で戻ってきたのかと皆が思ったとき、音を立ててドアを後ろ手で閉めた。
そして、大家からの重い口調が部屋を支配した。
「“春”と言う題で弾いてみたまえ」
弟子たちはグゥッとうなった。即興曲をやれというのだ。こんな少年に。先生も罪なことをおっしゃられる。しかし、いつもの冗談の雰囲気ではない。
厳しい目はルーイ少年を見据えたままだ。こんな顔は初めてだったのだ。
「や、やります! やらせて下さい!」
ルーイ少年は叫んで、もう一度ピアノの向き合った。一同静寂のまま。誰かの息を飲む音が聞こえるほどだ。
ルーイ少年の指が動く。そこから暖かい日差し溢れる音が流れてくる。
これは小川のせせらぎだ。
小鮒が泳いでいるようだ。
蝶が野原を飛び回り小鳥が鳴いている。
新緑の並木道。その下を通る馬車。
貴婦人は活気ある街に入ってゆく。
農夫は草だらけの畑にクワを入れて麦をまく。
子ども達が棒を振り回して遊んでいる。
そんな情景が目の中に浮かんでくるようで、みんなうっとりとした表情で聞き惚れていた。ルーイ少年の曲はフィニッシュを迎え、皆一様に喝采を贈った。
音楽の大家は黙ってイスから立ち上がった。ギッというイスと床がこすれる音。それに驚いてみな押し黙ってしまった。
「ルーイくん? ……とか言ったか?」
「は、はい」
「キミを弟子にするわけにはいかないな」
そう言って、自ら持ってきた一つのカップにお茶を注いだ。
他の弟子たちは顔を見合わせた。
完璧だ。完璧な奏でかただった。自分たち……先生の弟子たち束になってもあの少年の今の爪弾きには叶わないだろう。みんなそう思ったのだ。彼にどんな落ち度があったのか?
ルーイ少年はしばらくうつむいていたが、「失礼しました」と涙声でドアに向かって歩き出そうとした。
その時、音楽の大家は明るい表情に戻って片方の手で頭をかきながらこう言ったのだ。
「完璧だよ。嫉妬せざるを得なかった。キミはボクと同席してお茶を一緒に飲むに等しい客だ。ボクの方がキミの門弟にしてもらいたいくらいだよ。さぁ、こっちにきて座りたまえ。小さい客人の話しを聞きたい」
そう言って、ルーイ少年の為にイスを用意させた。少年は感激のあまり、涙をこぼしたのだった。