第201話 式神
黒い箱の目の前で、その元芦屋だったものはゆっくりと起き上がる。
「こ、これは……」
己の手のひらを見つめて呟いた。地面への距離で背の高さが変わったことにも気付いた。
沢の水に己の姿を写してはっきりとそれが分かる。
「そうか。私は鬼へと……! ふふふふ。はっはっはっは!」
自身が変わったことに、芦屋は高笑いをする。そしてその目付きは変わった。
「そうか。先祖の古文書に書いてあったぞ。恨みを抱いたものは鬼になると! なにも変身ブレスレットなぞ必要ない。こうして人の力を超えたのだから!」
芦屋が近くの木を殴り付けると、それはアシヤギーンの頃と同じように、木を吹っ飛ばす力。
空を見上げると、巨大なヒホリント星人の戦艦が地上に飛来してくるのが見えた。
「そうか。約束から五日目。どうせ世界は滅びるのだ。しかしアイツだけはこの手で……!」
鬼は念じると、その姿は黒い箱の前から消えてしまった。どうやら瞬間的に距離の概念を吹き飛ばし、安倍総理の元へと飛んでしまったようであった。
黒い箱には、絶えず喜ぶように文字が流れていた。
『www www。いいぞ、いいぞ。やれやれえ!』
それはまるで鬼と総理を煽るようであった。
◇
鬼と化した芦屋は、堂々と総理官邸の前に立っていた。神通力で距離を吹き飛ばして移動したのである。
居合わせたものは驚いた。恐ろしい怪人の姿。叫び逃げるもの、腰を抜かすもの。
それでも総理に近づけまいと警備のものは侵入を拒んだが、丸腰である。鬼のひと薙ぎで吹っ飛んでしまった。
人の力を超えている。バスターマンにはその姿から誰しも喜んで近づくだろう。しかしこの怪物は違う。恐ろしい姿に人々は逃げ出し、辺りには人がいなくなってしまった。
「ははは。小うるさいハエどもめ。恐れて逃げおったわ!」
鬼はカラカラと笑い、総理の執務室のある五階を目指す。
その頃、バスターマンはようやくヒホリント星人の捕縛から解放され反撃を開始した頃であった。
鬼は安倍総理の元へとたどり着き、執務室のドアを開ける。
岡官房長官は腰を抜かして逃げ出したが、安倍総理は苦笑してこちらを見ている。
それに鬼は驚いた。そして安倍総理は言ったのだ。「芦屋くん」と。
自分は異形へと姿を変えた。分かるはずがない。だのに安倍は全てを知っているかのように言うので、ますます腹が立った。
「だったらどうした。貴様が頼りにしているSPは殴り付けてやったし、バスターマンも戦闘中でここにはこれまい。貴様の命も風前の灯火だ。すぐさま這いつくばって土下座しろ!」
しかし安倍総理は顔色を変えない。
「なんのための土下座かね? それをすれば君は満足なのかい?」
「当たり前だ! いつも人を上から見ているその涼しい顔が鼻につくのだ!」
「やれやれだ。そのために人の姿を捨てて鬼へと変貌するとはな」
「いけないか? どうせすぐにみんな死ぬんだ。ヒホリント星人によって全滅させられる。その前に貴様だけはこの手で殺す!」
安倍総理は深く深くため息をついた。
「バスターマンはすでに反撃に出たよ。ヒホリント星人の野望は砕かれる。芦屋くん、君の敗けだ」
敗けと言われて鬼はさらに激昂する。その怒りで辺りには書類などの軽いものが舞い上がり渦を巻いて飛び回っている。
「なにが敗けか! 貴様を殺せば、私の勝ちだ!」
鬼は丸太のような腕を振り上げて安倍総理を殴り付けようとしているが、安倍総理はまだまだ余裕だった。
そして妖しく笑ったのだ。
「所詮君は私の手のひらの中だったよ、芦屋くん。君が黒い箱を使って宇宙人などというものに頼ることは分かっていた。だからこそ私も人ならぬ力をもつ式神、バスターマンを用意していたのだ」
「く、黒い箱? なぜそれを知っている? それに式神だと?」
「そう。私も君と同じように陰陽師の家系だよ。君は“蘆屋道満”の家系、私は安倍晴明の家系──」
「な、なに!?」
「君の先祖は、そんな外法だけ残したのかね。なんとも哀れだな」
「やかましい! 今すぐ死ね! 安倍清陸!」
鬼は安倍総理へと巨大な腕を振り下ろして殴り付けて来た。
しかし──。
「な、なんだ? 腕が動かん?」
安倍総理は笑ってその場から動かない。
「鬼には鬼へのやり方がある」
そう言って手首をスーツの袖のほうへ返すと、そこには文字の書かれた札が人差し指と中指に挟まれている。
「おのれ、貴様!」
「式神はバスターマンだけと思ったかい? 全然違う。鬼の来る方向は丑寅の方向だ。だからその逆の式神、太裳に君を押さえつけさせている。力が出まい」
「く、くぬう! なんだこれは!?」
安倍総理は、挟んでいた札を鬼へと飛ばす。すると札は白い虎の形となって鬼へと向かって行く。
「そして式神、白虎だ。噛み砕け!」
安倍総理はまるで咆哮するように前のめりとなる。札から放たれた式神は、動けなくなった鬼を一呑みにせんと大口を開けて噛みついたようになると、そこにはもう鬼の姿はなく、文字の書かれた札が床に落ちているだけだった。
安倍総理が指を鳴らすと、その札はポッと燃えて灰もないほど燃え尽きた。
「ふう。終わったか」
安倍総理は小さくため息をつく。すると、岡官房長官が両手で大きなトロフィーを掴んで震えながらやってきた。
「あ、あれ? 総理。お、鬼は?」
その姿に安倍総理はプッと吹き出す。
「なんだね、岡くん。そのトロフィーは武器かね?」
「こ、これしか見つからなかったものですから……。それより総理。鬼がおりません」
「はっはっは。岡くんに恐れをなして逃げ出したのかな?」
それに岡官房長官は肩の力を抜いてすこしばかり笑顔になる。
「そ、そうでしょうか?」
「冗談だ。あれはヒホリント星人の映像攻撃であろう」
「そ、そうなんですか?」
「おそらくな。毅然とした態度だったら消えてなくなってしまったよ」
「それは凄いですね」
「ああ。それよりバスターマンはどうなったかな?」
それを聞くと、岡官房長官は情報を集めに出ていった。安倍総理は自席について、その報告を待ったのだった。