第173話 身請け合戦
大事な義弟の生き死にの話である。文吉は奥歯を噛み締めて唸った。
「本年中などと、あと二ヶ月の話ではないか! ……い、いや、よく教えてくれた」
「手前のほうでも、先方の怒りに任せた言葉とは思いますが、嫉妬の憎悪は恐ろしいものです。紀九万の親分の身辺はお気をつけなされ」
「うむ。早速そう言おう。あやつは一度吉原の帰りに身を狙われておる。さては奈良茂が……」
「はい。証拠はありませんが」
「ありがたい。これはホンの礼だ」
文吉は、そういうと懐から小判を出して郭主へと握らせた。そして文吉は話を進める。
「それならば、九万兵衛の外出をしばらく控えさせる必要があるな。ほとぼりが冷めるまでそうしよう」
それに郭主はビックリした。なぜならばそれは困る。最近、文吉のほうは思い切り遊ぶことが少なくなったし、それに輪をかけて熊吉まで吉原に来なくなっては売り上げに大きく響くのだ。
「あのぅ。紀文の大旦那」
「どうした」
「やはり、私の気のせいかも知れません」
「……ふむ。そうかも知れんが、年内中は気を付けなくてはなるまい。奈良茂は目つきの悪い男だからな。なにを企んでるか分からん」
「あのぅ。さいですか」
「うむ。すまん。邪魔をした」
ひとり得心のいった顔をした文吉の背中を見送った三浦屋の郭主は頭を抱えた。これならば言わない方が良かったと。
文吉は屋敷に帰ると熊吉を呼んだが、こんな時に屋敷にいない。千代を呼んで聞くと遊びに出掛けたとの話。
「なにをそんなに気になされます? 普段は捨て置いてますのに」
「いや、実は吉原で熊吉が人に狙われている話を聞いたのだ」
「な、なんですって?」
「うむ……。熊吉の馴染みを横恋慕している男がいてな、これがウチと並ぶほどの金持ちの奈良屋茂左衛門なのだ」
千代は頭を抱えた。
「言わぬことではありません。遊びなどほどほどにすべきなのです」
「うむ。ワシも得心がいった。帰ってきたら窘めよう」
そこに千代も一緒になって説得するということで、文吉の横に控えて熊吉を待った。
熊吉は珍しく吉原に寄らず、そのまま屋敷へと帰宅した。手には大きな包みがある。文吉はそれは何かとたずねた。
「ああこれか? 前に几帳に買ってやった伽羅の香木が切れかかってたので土産に買ってやったのよ」
と笑顔で答える。文吉は、やや呆れ顔だ。あいかわらず脳天気なやつだと思った。側に侍る千代も空咳を打った。
「なんでィ。二人しておかしな調子だな。どうしたってんでィ」
「まったく。あいかわらずだなァ。命が狙われているというのに」
「はァ?」
「実はな──」
文吉は、これこれこういうわけだと伝えると、最初は熊吉も笑っていたものの、そういう人間は何をするか分からないという結論が三人の答えであった。
「ううむ。では気を付けねばならん。しかし厄介なヤツ」
「そうですよォ。九万の旦那も、これを機に吉原通いをやめなされ」
「なにを──。遊びをせずに生きるほうが余程苦しいわ!」
というと、千代の鋭い睨みである。これには鬼も畏れぬ熊吉も視線をそらすしかなかった。
「それじゃ今から几帳にそういって来ようかなァ……?」
との言葉にも刺す視線である。さっさと吉原に行っておけばと後悔しつつ、それでは年内中は大人しくしていようという話にまとまり、熊吉は自室に帰った。
自室に帰った熊吉。土産に用意した伽羅の香木を見ると几帳への思いがさらに増す。
行くなど言われれば余計会いたくなるもので、悲劇の主人公のように、几帳へと手紙をしたためた。
曰く『ひょっとしたら奈良茂に命を狙われているかもしれない。そちらの店の主人からの情報らしい。年内中は行くのを控えようと思うが、愛している』との文である。
それを受け取った几帳、これまた涙を流し、返信をしたためる。
曰く『会いたいが、あなたの命がなくなるほうが嫌だ。達者で健勝なことを祈り、会えるまで蕎麦を絶つ』とのこと。二人はますます気持ちが高鳴って、人を使って朝な夕な手紙のやり取りをした。
しかし十日も会えなくなると寂しくなる。普段は互いを応援、鼓舞するメッセージを出し合ったがそれもそろそろ限界となる。
几帳曰く「あなたと二人の際には互いに愛し合って褥を濡らしましたが、今では枕しか濡れません。一目会いたいというのはわちきの我が儘でしょうか」との内容であった。
熊吉のほうでも、ちゃんと会って伝えた方がいいと、文吉や千代の目を盗んで、香木の包みを抱えるとサッと吉原に出掛け、几帳へと会いに行った。
その僅かな間である。奈良茂は熊吉より先にやって来て三浦屋の郭主を口説いていた。熊吉が死ぬとの予言に、気持ちが大きくなっていたのだ。
奈良茂は年末に集金が終わったら、千五百両を用意できる。それで几帳を身請けできないかと打診したのだ。
この十日、熊吉は現れていない。すでに百両ほどの損失である。
これがさらに続けば、熊吉頼りの三浦屋は倒産してしまう。今年中との話だったがそれは来年も続くかもしれない。年を取って容色が落ちれば几帳の買い手は見つからなくなるだろう。
三浦屋の郭主は、自分で打った下手もあったものだから、それ以上の買い手が付かない限りはお約束しますと頭を下げたのだった。
そして熊吉が来る前に、郭主はその話を几帳へと伝えた。熊吉が来た頃には几帳は泣いて手がつけられない状況であった。
「どうしたってんでィ、几帳。会えて嬉しくはねぇのか?」
「違うの。違うのォ!」
それでも泣いて、息も絶え絶えである。ようやく落ち着けば、ぐずりながら来年の頭には奈良茂に身請けされる。紀文の大旦那の気持ちを考えれば、自分と熊吉の身請けは適わない。奈良茂の妾になるしかないが諦めきれない。との言葉に、熊吉は心臓を引き抜かれた気持ちであった。
熊吉は郭主を呼んで問い詰めた。
「おい主人。俺と几帳は好き合っている。その気持ちは主人も分かっていてくれると思っておった。そんな奈良茂の話など断ってくれる男だと思っていたのだが?」
それに三浦屋の郭主は平身低頭である。
「もちろんでございます。そのために奈良屋の親分のお言葉をお伝えした次第でしたが、こう紀九万の親分の足が遠退きますと、遊女全員養って行くのは難しいのでございます。そこで奈良屋の親分のお話を受けざるを得ない状況となりまして──」
熊吉は震えた。何よりも几帳を失うのが怖い。文吉のために遊女に心を奪われまいとしてきたが、几帳の愛を受けて、それが無理だと分かった。几帳のために生きなければ自分の人生は死んだも同然だ。
「いくらだ」
「え?」
「奈良茂が几帳に付けた値段だ! この九万兵衛、一人で千や二千両の金を動かすことなど簡単だ。奈良茂なんぞに几帳を触れさせてたまるか! 俺が先に身請けするぞ!」
との大轟音であった。