第170話 愛する人の相手
奈良茂は大金を使ってハラハラするわ、几帳太夫を待ってドキドキするわである。
襖が開いた! と思うと酒と料理を持ってきた女中。開いた! と思うと幇間と芸妓であった。
幇間はお座敷を盛り上げようと、声を張る。
「さァ! 旦那、本日は楽しんで参りましょゥ!」
幇間は楽しげな芸をして、芸妓は三味線と太鼓、笛などを鳴らして座敷を盛り上げる。
奈良茂は、これが何両、これで何両と野暮な計算をしながら、几帳のお出ましを心待ちにしていた。
そうして幾分時間が経った後、廊下にチリーン、チリーンと鈴の音が鳴る。几帳太夫の袋帯につけられた鈴の涼しげな音である。
奈良茂は慌てて座布団に座り直す。幇間や芸妓も座り直して曲をやめた。
そうすると、上座の襖がスッと開いて禿が二人、すまし顔で入ってくる。続いて希代の傾城、几帳太夫が白塗りの顔で威厳を保ちながら入って来た。
それにあわせて、幇間は帯を叩き調子をとる。
「〽️立てばァ芍薬ゥ 座ればァ牡丹ンン 歩く姿はァ 百合の花ァ」
太夫を讃える都々逸が歌われる。それが終わると、几帳は奈良茂に流し目を送った。
「奈良茂さま。ようこそ、おいでなんしィ」
これには奈良茂、声も出ない。一日千秋の思いで待ちわびた几帳太夫との再会である。しかも名前を呼んでくれた。
「そうそう。先日は美味しいお差し入れを頂戴いたしんした。粋な贈り物でありんしたァ」
奈良茂の顔が燃えるように赤くなる。こんなに好きな人に褒められることが嬉しいなんて。
もじもじしていると、几帳は扇を持って立ち上がる。
「では、拙いものでありんすが、踊りを披露いたしんしょう。善兵衛さん、三味線をお願いいたしんす」
と、仕切りの幇間を名指しすると、善兵衛という幇間は、粋な曲を弾き出した。
几帳はそれにあわせて優雅な鳥のように踊る。奈良茂はそれに息を飲んで魅入った。そして、手に持っていた盃をうっかり落として畳を濡らしてしまった。
「ああ。これはとんだ粗相を」
奈良茂は慌てて畳を拭こうとしたが、慌てているために、手拭いを取る手もともおぼつかない。
几帳はすぐさま禿に命じて畳を拭かせにいかせた。
奈良茂は情けないやら、恥ずかしいやら。しかし思い出した。心づけを渡すのは今だと。
奈良茂は懐に手を突っ込むと、二両取り出し、畳を拭いた禿の前に突き出した。
「すまん。ありがとう。これはお礼だよ」
となると、二人は驚いた。熊吉並みの豪気さである。二人とも一度、几帳のほうを見る。几帳は優しげな顔をして、二人へと勧める。
「お大尽からのお振る舞いでありんす。ありがたく頂戴しんせ」
それに二人はようやく手を出し、小判を受け取るとお礼を言った。
奈良茂はここぞとばかり、幇間と芸妓にもご祝儀と称して一両ずつ渡す。ケチで有名な奈良茂も豪気なもんだと、みんなビックリした。
「だ、旦那。ありがとうございます……」
「いやいや、いいってことよ。それより太夫の機嫌を損ねてはいけませんよ。さァ皆さん。楽しもうじゃありませんか!」
几帳は優雅で静かな音楽よりも、激しくて楽しいのが好きである。そして面白い芸が好きだ。
幇間が腹踊りをすると、歯を見せて美しく笑う。奈良茂はそれにも目を奪われた。
そして自分も立ち上がって袖をまくり、裾をたくし上げ、農民の真似をした踊りだ。几帳もたまらず吹き出すので調子に乗った。
「〽ホイソ、タラヤン アッチャレ、コッチャレ」
奇妙な掛け声と片足で回る姿に座は最高潮。奈良茂は最大限の自分を出し切って、几帳を楽しませたのであった。
程なくすると時間である。几帳は禿と同時に頭を下げて、上座の襖から出ていこうとしたので、奈良茂は駈け寄って腕を優しく引いた。
「あのぅ。本日のお出まし、とても嬉しかったです。これはほんの寸志です」
と、几帳に十両握らせた。几帳はニッコリと笑ってそれを受け取る。
「またおいでなんしィ」
禿に襖を閉めさせると、自室へと帰っていった。奈良茂はそこに立ち尽くしてガッツポーズである。
また来てくれ。この言葉に次の逢瀬を期待し、胸を高鳴らせた。
それからしばらく時間が経つ。三ヶ月が経過し、元禄十六年の秋である。空気の肌寒さも感じさせるが、熊吉と几帳は相変わらず熱々であった。
熊吉は几帳の部屋で膝枕されながら、耳掃除をさせていたのだ。
「まァ、大きい」
「そうか?」
「天ぷらのネタほどあるよ。九万ちゃん」
「かっかっか。そりゃいいや」
「こうしてると夫婦みたいだねェ」
「そうだなァ。いつかなれるからな」
穏やかな微笑み。几帳はその言葉に期待していた。几帳から添えられた手に熊吉は手を添え返す──。
その二人のいる部屋の灯りを恨めしく睨むものがいた。これぞ奈良屋茂左衛門である。
几帳とは三度目の逢瀬は適ってはいなかったのである。
曰く腹痛である。頭痛である。月のモノである──。
太夫ともなると、好みではない男性を断ることが出来る。数度断られているのだから諦めなくてはならないが。諦めきれるものではない。
三浦屋の郭主に、こうすればよいと助言を受けた。またおいでなんしィという言葉を聞いた。なのになぜ。太夫は別な男と楽しそうに言葉を交わしているのか。
三浦屋の二階から、ははは、うふふとの声が漏れてくる。間違うはずはない。あれは几帳太夫だ。その声をかけられた主は紀伊国屋九万兵衛だ。
悔しい。
苦しい。
嫉ましい。
ケンカを仕掛けようにも自分は非力だ。ましてやあの男は剣客も素手で相手してしまう豪傑。どうにかしたい。どうにか──。
奈良茂はハッと思い立ち、屋敷へと帰っていった。