第167話 行水
定吉の死より三ヶ月がたち、世間では夏真っ盛りである。文吉もようやく立ち直って普段通り人と話せるようになった。
文吉が屋敷の部屋で手を打つと、やって来たのは千代であった。
「おう、お千代。九万はどこにいった」
「さぁ。商売で朝早く出掛けて行きましたよ。でも今日は帰らないと言ってたのでまた吉原でしょう」
義弟である熊吉がいないと本調子ではない。雑談でもいいから話がしたかったがいないなら自分から出掛けてくるかと立ち上がった。
「あら大旦那。どちらへ?」
「野暮を言うな。九万のところに決まっているじゃないか」
「ああ吉原ですかァ……」
千代の汚いものを見るような目。文吉にこんなことができるのは江戸ひろしといえども千代だけだ。
文吉はなぜかこの千代の軽蔑した目が怖かった。まるで嫁の睨みである。
「こ、こら。そんな目をするな」
「あらそうですか。ではどうぞ」
そういって目を閉じて空に顔を向ける。襖に向かって歩いてくるものの、また戻ってきて座布団へと腰を降ろした。
「いかん、いかん。いかんぞ。そんな顔されてまで行きたいと思わん」
そういってそっぽを向くと、千代は嬉しそうな顔を文吉へと向けた。
「あら、そゥですかァ? だったら今日はご馳走にしましょう。鰻でも買ってきましょうかね」
「ウナギ……」
文吉のノドが鳴る。
「わかった、わかった。あと冷酒を用意せよ!」
「もちろん。すでに暗所で冷やしております」
千代は夕食の用意のために立ち上がると、文吉は咳払いをして千代を止めた。
「なんですか? 大旦那」
「そのゥ。なんだ。九万のやつもおらんしつまらん。もしよかったらお千代、今後はワシと一緒に食わんか……?」
その言葉にお千代の心は大きく動き、鼓動は高鳴った。
「ええ、いいですよ! それじゃ準備して参ります」
千代は嬉しそうに下がっていった。文吉は、なぜそんなことを言ったのか分からずに、照れくさそうに頬を掻いた。
さて、熊吉は商用の帰りに、やはり几帳に会いにいった。三浦屋の主人は喜んで歓待して座敷に上げる。
熊吉は几帳は貸し切りだと三十両、主人に渡して二階に上がる。
夏なので熱い。熊吉は、上っ張りを脱いで扇で首元をあおぐ。
「いやァ、暑い。こりゃたまらん」
窓際に寄って涼むと、店の外には暑さなど関係なく、男達が楽しそうに張り見世を素見している。
窓にある鉄製の風鈴は鳴らない。風がないのだ。熊吉は恨めしく吉原の街を眺めるしかなかった。
「あー。暑い、暑い!」
その声とともに、几帳と禿二人が入って来た。几帳は入るなり打掛を全図脱いでしまい、襦袢姿になって禿たちにあおがせた。
「禿づかいが荒いなァ」
「アンタたち良かったね~。あおいだら九万の旦那がお小遣いくれるわよ」
「勝手に決めるなよ」
熊吉は袂に手を突っ込んで、禿一人に一両ずつ渡すと、若い彼女たちはお礼を言って楽しそうに扇で二人をあおいだ。
「はァ~、暑い暑い」
「これから汗かくってのに」
そういって熊吉は几帳を引き寄せ、彼女の背中と己の体を密着させると、彼女は暑いと言うものの微笑んだ。
「ふふ。それとこれとは別。あ~、倒れそう」
「行水でもしてェなァ」
「あ~いいねェ」
「あれは体が冷えるぞォ。大ダライに水入れて、二人で入るんだ。楽しいぞ」
「そうだね。やりたいね」
「よし。小紅。郭主を呼べ!」
熊吉は、禿の一人を名前で呼ぶ。禿は立ち上がって郭主を呼びにいった。郭主は何ごとかとすぐにやって来た。
「紀九万の旦那。一体なんのご用でしょう? 几帳が無礼でもしましたか?」
「まさか。それよりも無心である!」
「無心? 飛ぶ鳥を落とす勢いの紀伊国屋の旦那がたならできないことなどないでしょう」
「いや、主人にしかできん。三浦屋で一番風通しのよい部屋はどこだ?」
「されば奥座敷は行き止まりですので迎えの窓を開けますれば風通しもよいと思います」
「左様か。そこで、几帳と二人で行水したい。タライを持ち、お茶を引いてる遊女に水を運ばせろ。差し湯もあったほうがいいな。タダとは言わん。運んだ女には心づけを弾むぞ?」
そんなこと聞いたことがない。郭主は面くらった。しかしそんなことされたら畳は腐るし、木の板も傷んでしまう。そうなったら商売どころではない。大事な得意先の紀伊国屋ではあるものの、丁重に断った。
「あのゥ。紀九万の旦那の頼みとあらば喜んで! といいたいところではございますが、こればかりはどうかご容赦を。店は悪くなりますし、今日の営業にも差し支えます」
と、畳に頭を擦りつけて懇願したが熊吉は一笑する。
「はっはっは。この紀九万の遊びだぞ。野暮なことを言うな。何も心配はいらん」
熊吉は袂から百両の包みを取り出して、郭主の前に重ねる。それは五つ。つまり五百両(5000万円)である。郭主は目を丸くした。
「ああ、もちろん大丈夫です! 今すぐ準備させますから!」
熊吉は褌一つ。几帳は襦袢姿で奥の座敷へと向かう。タライが持ち込まれ、遊女が水を運んでくる。非力なので少しずつだ。湯飲みや水挿し。熊吉はニコニコしながら一分ずつ配る。それは遊女が一晩の営業で稼ぐほどの金額だ。
遊女は喜んで二回三回と運んだ。中には小さな連れて来られたばかりの禿もいて、小さいお椀に水を汲んできて、タライに入れ、熊吉から一分貰うと、他の遊女たちに嬉しそうに見せていた。
「ねぇ、姐さん。これ貰ったでありんす」
「そうかい。よかったねェ。もっと持ってきな!」
そうこうしていると、タライの中はいっぱいになり、熊吉は襖を閉めた。
「よし、几帳! 一緒に入ろう!」
「すごい! 九万ちゃんは本当にすごいねぇ」
差し湯をいくらかして水を温くして、服を脱ぐ。二人して足をタライの中に入れる。そして腰を落として行水を始めた。
「きゃあ、冷たい!」
「はっはっは。こりゃいいや!」
「九万ちゃんは本物のお大尽だよ!」
「几帳のためなら金なんか惜しかねぇや」
二人して楽しく遊ぶ。熊吉の言葉には一点の曇りもない。それは几帳も知っていた。
五百両は太夫を身請けできるほどの金だ。しかしまだ身請けは出来ない。几帳は教養もあり、頭のいい女である。熊吉の言えない心情を察して、今は楽しく遊ぶことにした。