第162話 細見
牛車は遅い。目立つための乗り物だから、のろのろと街道を進む。文吉は定吉に、なにも心配いらないから安心しろと励ます。
ようやく大門をくぐると、すでに熊吉は待っており出迎えた。
「遅かったな兄ィ」
「今日は趣向を変えよう。サダや。ついといで」
定吉は来たこともないものだから、あっちへキョロキョロ、こっちへキョロキョロ。すると店頭に立つ男と目が合う。男はいやらしく笑って近付いてきた。
「いらっしゃい! いい娘揃ってますよ。亀屋で遊んでらっしゃい。飲んで遊んでたったの一分だ」
その声に文吉は振り返る。客引きの男は驚いた。
「なんだ、お前さんはどこの、牛太郎だい」
「え? あ……いや。紀文の大親分!」
「あいにくこれはうちの息子だ。下手な客引きは御免被ろう」
「い! これはこれは手厳しい!」
そう言うと男はサッと離れる。定吉はただなされるがままだった。
「大旦那、あれは?」
「あれは牛太郎といって、吉原の客引きだよ」
今も昔も変わらない。飲み屋や色街には客引きの男が立っていたものである。牛太郎とは男の従業員で、客引きをしたり、金の取り立てをしたりする仕事をしていた。語源は妓夫からである。または女は男を乗せるから馬。その傍らで働くから牛。なんというのも吉原らしい洒落で粋なものであろう。
そんな文吉についていれば安心だ。この吉原で紀文の遊びに野暮なことは出来ない。
文吉の案内で、引き合わせ茶屋というところに入る。いわゆる遊女の斡旋所だ。定吉は初めての色街で目のやり場に困っていた。
文吉から細見という吉原ガイドブックを手渡され、胸は高鳴る。
茶屋の主人は紀伊国屋のお出ましと籾手をしながら現れる。
「紀文の親方。新造ですか? 年増ですか?」
新造とは遊女が客を取れるようになってからの14歳から21歳くらいの年齢。年増は22歳から27歳くらい。さらにその上ともなると大年増という。新造は若いが年増となるとテクニックや客のあしらいが上手だ。好みはそれぞれ分かれた。
「新造だ。それも水揚げ前の未通娘がいいなァ」
「水揚げ前? そりゃ難しいご注文ですなァ」
「とにかく何人でも良いから座敷に呼んどくれ。礼ははずむよ」
「と、当然心当たりはございます。暫時お待ちを!」
礼ははずむ。紀伊国屋のその言葉に勝るものはない。茶屋の主人は、紀伊国屋が満足するであろう、飛び切りの処女を捜しに使いを何人も使って吉原の町を飛び回る。
文吉たちが、遊廓の二階で待っていると、ようやく襖が開いた。
「へっへっへっへ。紀文の親方」
「なんだ。茶屋の主人じゃないか。連れて来たか?」
「へぇ、もちろん。しかし新造ばかりですので、なにも出来ませんぜ? 歌は下手だし、三味線も満足ではありません。床入りしても寝ているだけかもしれません」
「構わないよ。さぁ入れな」
「へ、へい」
入って来た四人の遊女は、自信なさげな無垢な顔。それもそのはず、この四人はまだ見習いも見習い。客を取ったことのない正真正銘の処女である。
それが、吉原において太夫と遊ぶ有名人である紀伊国屋の旦那に呼ばれたということで、おっかなびっくり。
自分たちが先輩たちもいないのに、この旦那たちを楽しませることなど出来るわけなど無いと知っていたからである。
「ではどうぞ、ごゆっくり」
そういって茶屋の主人は襖を閉めて出て行ってしまう。遊女たちの顔は一気に真剣になり、横一列に並んでようやく頭を下げた。
「よ、よ、よ、ようこそあがりんすゥ」
挨拶すらまったく形にならない。しかし文吉は笑顔のまま四人を近くに呼んだ。
「まあそう固くなるな。歌も遊びも今日はいい。一緒に食事をして酒でも飲もう」
ときたので、一同ぽかんと口を開けた。言われるがまま、文吉、熊吉、定吉の間、間に遊女が入り、互いに食事。
文吉は、定吉に遊女たちと話をするように命じた。酒が入ってくると遊女たちも少しは大胆になり、自分の話をするようになる。しかし、三人は主役を文吉と熊吉と思い込み、そちらを優先に酒を注いだり話をしたり。
残った一人だけ、定吉の横で給仕をした。その素朴そうなのは小春と言った。
「お前さんは吉原は長いのかい?」
と定吉は話し掛ける。小春のほうでは顔を赤らめてそれに言葉を返す。
「はい。もう五年になりんす」
決して美人ではない。自信がなさそうにもじもじしている。しかしそれが守ってやりたくなる雰囲気を持っていた。
「歳は?」
「十四でありんす」
「へぇ。じゃあ九つの頃にここにきたのか」
「はい」
「どこの出だい?」
「磐城の……、あいえ、ここ吉原でありんす」
自分の出身地など夢のないことは言えない。あわてて取り繕うと定吉が笑うので、赤くなって声が小さくなってしまった。
「いじわるゥ」
「いやぁスマンスマン」
そんな話をしていると、階下がざわめく。「太夫だ。太夫が道を行くぞ」との声だ。いわゆる花魁道中が始まったのだろう。文吉は定吉を誘った。
「おいサダや。珍しいものだよ。太夫が道を行くそうだ」
「へぇ……。それはなんです」
「吉原の中でもとてもいい女だ。ちょっと覗いてみよう」
文吉と定吉は立ち上がって窓のほうに。熊吉はさして興味もなく新造相手に酒を飲んでいた。
窓に行った二人が見ると、三味線と鼓を抱えた禿を二人、後ろにつけて、黒い雪駄をカパコポカパコポならして、太夫が走るように進んでくる。
窓から覗いた文吉と定吉。暗がりでよくは見えないものの、美人そうな顔立ち。たくさんのギャラリーが道を塞いではならないと横に避けていた。
「なんだ。珍しいな。足が速いよ」
「そうなんですか?」
「あんな太夫は見たことないな」
カパコポカパコポ。
袋帯に付けた鈴が、リンリンしゃんしゃん。
普段は禿が前を行くのに、少し遅れて後ろである。その太夫が、文吉のいる店の入り口を開けて入って来たようだった。
「なんだ、なんだ?」
そうしていると、襖がタンと音を立てて開く。そこには柳眉を逆立てた几帳太夫が立っていたのである。
これは几帳の嫉妬であった。熊吉が吉原に来たのに自分に会いに来ない。人の話だと新造をかき集めているらしい。そんなことが許されてたまるかとばかり、自分の所属する三浦屋の主人に熊吉からだと自分のサイフより十五両を出して急いでここにやって来たのだ。
真っ直ぐに熊吉睨みつけると、熊吉はお猪口につけた口をブッと吹き出した。
几帳は文吉へととりあえず愛想笑いだ。
「紀文のお大尽、おいでなんしィ」
「なんだ几帳。お前さんは呼んでないよ」
「ええ、存じているでありんす。ただ見たところ鳴り物もありませんし、普段お世話になってるお二人に座興で一曲披露したいと思いしんしてェ」
「ほほゥ。それは殊勝だねェ」
「おほほほほ。ではァ──」
そういって、座敷に入り込み新造の遊女をどかして熊吉の隣に座り込む。さらに逆どなりには自分の禿を座らせて完全なるガードである。
「お、おい。几帳──」
「なによ浮気者。身ぐるみ剥いで大門の外に捨ててやるからね」
「なんだよゥ。浮気じゃねェ」
「なによ。鼻の下伸ばしちゃって」
そういって他からは見えないように熊吉の二の腕をつねり上げた。
「痛ェ!」
「どうしたい、九万兵衛」
文吉が振り返って心配しながら声をかけると几帳は涼しげな顔で扇で顔を隠した。
「おほほほほ。紀九万の旦那はここに居たいとこういうわけでありんしょう」
と笑うので、文吉もなるほどそうかと気にしないことにした。