第157話 三千両
金の力が二人の目を釘付けとする。それは魔力だ。ミツも弥次郎も縛られていることを忘れて魅入った。
それに文吉は二人へと伝える。
「これは二人にやる。身請けの金もやる。だから二度と俺の前に姿を見せるな!」
これは決別の言葉。ミツは文吉と結婚する気満々だったが、目の前の三千両に思わずうなずいた。
「そ、そう。ぶんきっつぁんには悪いことをしたもの仕方がないわよね。でも、ぶんきっつぁんのことを一日たりとも忘れたことはなかった──」
そんな言葉は、誰の耳にも嘘だと分かる。熊吉は耳を洗いたくなった。
文吉は、三箱の千両箱を横に並べて、蓋を開けてその中を見せた。
提灯の光りにまばゆく輝く三千両。見たこともない金額に、ミツも弥次郎も息をするのも忘れる。
ふと文吉が動く。ミツの後ろに回ったかと思うと、ねじり鉢巻きを猿ぐつわとして口にあてがう。
それに驚いて三国弥次郎は叫ぼうと口を開いたところに熊吉が近づいて、アゴの骨を外してしまった。だらりと情けなく開いたままの弥次郞のアゴ。よだれをだらだらとこぼしても後ろ手を縛られているがためにそれを拭くことも出来ない。
「すまねぇ熊吉」
「なぁに。長い付き合いよ。お前の考えている哀しみも分かった」
「本当にすまん」
文吉は熊吉に対して深々と頭を下げると、二人して一度舟小屋を出て行ったが、すぐに戻ってきた。
たくさんの石を手に抱えている。それを千両箱の隙間に入れ込み、蓋を閉じる。残った石は、ミツと弥次郎の懐と袂に入れた。
ここは船着き場だ。これから何が起こるのかが分かって二人は身をよじったがきつく締められた縄はますます身に食い込むばかり。
ミツを文吉が担ぎ、弥次郎を熊吉が担ぐ。そして吉兵衛が乗ってきた小舟に二人を寝かせ、もう一度舟小屋に戻ったかと思うと、文吉が一つ。熊吉が二つの千両箱を持ってきて、舟の上に置いた。
二人の顔が恐怖に歪むが、文吉も熊吉も心を無くしたかのように、事務的に縛っている後ろ手の縄へと千両箱を結びつけた。
熊吉は竹竿を取って闇夜の川を漕ぎ出す。
だぶーり、だぶり。
海からの潮が舟の横腹を打つ。
目方の多い熊吉だ。力足を踏むと、そちらの船縁から川の水が入り込み、話すことの出来ない二人の顔を濡らす。
許して欲しい。勘弁して欲しい。そう思っても後の祭りだった。
可愛らしかったミツをこのようにしたのは誰だろう。それは世の中なのかもしれないが、もともとの性質もあったに違いない。
支え合ったあの頃はまやかしだったのだろう。
文吉は月のない空を見上げた。
舟は海の近くになり、横には林があってひと気が全くなくなった。ここの川底は木の葉が多く沈んで、腐っている。どろどろになったそれは沈んだものを浮かび上がらせたりはしないのだ。
「さて、そろそろお別れだ」
文吉の声に、二人はもがくが縛られた体。括られた千両箱。狭い舟の底。袂や懐に入れられた石のお陰で身動きなどとれなかった。
文吉は弥次郎に括った千両箱を持ち上げて川に放ると、重さで弥次郎の体も動く。
それの体を転がしながら川へと押し入れると小さくザンブと音がして、沈んでゆく。
アゴの骨を外された弥次郎の口の中に大量の水が入り込んでそのまま──。体内に残った空気がゴボゴボと音を立てて浮いてきたが、やがてそれも消えてしまった。
それを見届けると今度はミツの番だ。恐怖に顔を歪めたがどうすることもできない。
文吉は名残なども言わず、千両箱を水に放り込むと、その勢いでミツは水の中に消えた。
文吉はその様子をジッと眺めていた。
悪運がいいのか、先に放り投げた千両箱。これが重さのあまり、ミツの後ろ手を縛る縄に傷を付けていた。それが水を吸って収縮すると、傷がさらに深まって、簡単に切れてしまった。
手が自由になったミツは、水中で足の縛めを解き、今度は口の猿ぐつわを解いて浮き上がる。
死にたくないという思いで必死に水面を目指し、文吉の乗る船縁へと手をかけ、顔を浮き上がらせると大きく咳き込んで、そのまま文吉へと詫びた。
「ゴメンよ、ゴメンよ。ぶんきっつぁん……」
しかし、文吉にはもう詫びの言葉は不要だった。もう一つの千両箱をすでに頭の上に掲げていたのだ。
「なんだ。千両じゃ足りねぇか。この強突く張りめ!」
振り下ろす両腕。千両箱の角がミツの頭に的確に当たる。グシャっと頭蓋が割れる音がして、千両箱を頭にいだきながら音も立てずに川底へと沈んでいった。
だぶーり、だぶり。
満ち潮が舟の横腹を打つ。文吉は寂しそうな顔を川面にさらしてしゃがみ込む。
水に手を伸ばして、しばらく子どものように手を濡らしていた。
おもむろに袂へと手を入れて、ゆっくりと引きだしたものは、藁を結って作った粗末な紐に通された十四文。それをしばらく見つめていたが、ミツが沈んだ辺りへと沈めた。
「おらの昔からの財産だ。持って行け、チクショウ。三途の川の渡し賃は六文だというからな。二人で仲良く渡ればいいさ。残った二文で飴でも買えィ」
だぶーり、だぶり。
文吉はゆっくりと熊吉のほうを見る。熊吉はいつものように穏やかな表情をしていた。
「兄弟今日は本当にすまねぇ」
ようやく雲の間から月が覗いて熊吉の顔を照らした。
「なぁに。おらたちは兄弟だ。二人で紀伊国屋だ。文吉の苦しみはおらの苦しみだ。文吉の喜びはおらの喜びなのだ」
その言葉に文吉は深く頭を下げた。
「もうおらにはお前しかいねェ」
追い求めたミツはもうこの世にはいない。自分の愛するものは熊吉だけだ。しかしそんな文吉の頬を熊吉は張りつけた。
「何言ってやがる。人生これからじゃねぇか。おらだけじゃねぇぞ。源蔵もいる、吉兵衛もいる。定吉だって、千代だっているじゃねぇか。まだまだ文吉には人生を楽しんで貰わなくっちゃな」
たった今、人を殺めたばかりなのに、いつものような明るい熊吉につい笑顔がこぼれる。それが涙につながる。
熊吉は、腰に付けていた瓢をとると、一口飲んだ。それを文吉へと渡す。
「さぁ飲め。ぐっと飲め」
「ああ。すまねぇ兄弟ェ」
文吉が瓢に口を付けると、熊吉は立ち上がって竹竿を取り、船着き場へと帰っていった。