第15話 知性の代償
きゃんは、楽しく笑いながらハイハイしだした。全裸ではあるが、隆一は可愛らしいその姿の方を注視していた。もちろんそれは欲情の目ではない。赤ん坊を見守る父のような目だ。
「おー! ハイハイしてる! もうすぐ立てるかな? ……いや、言ってる場合じゃない。すぐ明日は仕事だ。きゃんちゃんを連れて行くわけにもいかないし……。どうすれば……」
そんな中、きゃんはいろんなものに興味があるのか触って不思議そうな顔をしていた。
テレビ台のガラス面を押すと前に出るのにビックリしたらしい。すぐに隆一のところにきて泣きそうな顔をして抱きすがった。
「だぁ! だぁ!」
「よしよし。大丈夫だよ」
撫でてやると安心したようだった。ふと、黒い箱に目をやると文字が出ている。
『知性を上げればいいと思います』
隆一はムカつき、最初からその状態で出せと思った。
しかし、赤ちゃんのきゃんもカワイイ。これはこれでよかったのかもしれない。
「じゃ、知性を上げてくれよ」
隆一が黒い箱に向かって言うと、黒い箱は当然のように別の文字を表示した。
『代償は?』
「……クソ!」
分かっていた。箱は代償に体の一部を求めることを。隆一は、スマホを取り出し人間のいらない器官を検索した。
すると結構ある。
進化の途中で不要になった筋肉や器官が体の中に残っているのだ。
虫垂や親知らず、尾てい骨もそうだったらしい。前の願いで使ってしまったが。
すると、その調べている隆一にきゃんは組み付いて邪魔をし始めた。
「だ、だ! だぁー!」
「こ、こら! きゃんちゃん! りゅーくん、お仕事でしょー! ダメだよ! ナイナイ。ね? ナイナイ」
「だ! だぁーー!」
それでも両手を上げて邪魔をするきゃん。知性は赤ん坊でも、体は大人だ。力も重みもある。
これでは調べ物をすることが出来ない。かといって変ないたずらをされて怪我をしても困る。
隆一は彼女をクローゼットに入れてドアを閉めた。クローゼットから泣き叫ぶ声が聞こえる。
「あ。そうか。暗いから。ごめんね! ちょっとの間だからね!」
隆一は、検索した不要な器官や筋肉を箱に提示した。その結果──。
『53%できます。代償を追加しますか?』
その表示に隆一は悔しがった。もう失っていいものなんてない。腎臓も使ってしまった。他に二つあってもう片方で補えるもの。
「精巣の片方はどうだ?」
『79%できます。代償を追加しますか?』
ダメだった。まだダメなのだ。隆一はさらに検索をした。
「脾臓……。これもなくても他の臓器で代替えできるのか。脾臓はどうだ?」
『100%できます。叶えてよろしいですか?』
ようやくだ。ホッとした。ようやく叶えられる。赤ん坊のきゃんは、やっと“きゃん”になるのだ。
「頼む」
『叶えられました』
クローゼットの方に白い光が伸びて行く。それに伴い泣き叫んでいるきゃんの声が次第に小さくなってやがて止まった。
次に、隆一の全身に赤い光が照射される。隆一は眩しさに目をつぶった。
次の瞬間、クローゼットが乱暴に開いた。隆一は驚いてそちらを見ると、きゃんが怒った顔で隆一の前に足を踏み鳴らして進んできた。
「あは……。きゃんちゃん」
きゃんは眉を吊り上げスッと右手を上げ、隆一を思い切り平手打ちする。隆一は打たれた頬を押さえながらきゃんの方を見た。
「え……?」
「もう! 隆一! バカじゃないの! もう、“お母さん”を使っちゃダメ!」
きゃんは怒った声を上げた。
「え……。お母さんって」
きゃんは黒い箱を指差しながら答える。
「あれ。私を産み出したんだからお母さんに決まってるでしょ! もう。ダメだよ。悪い母親なんだから」
「そ、そっか」
「ね。約束して。二度と使わないって」
「うん。そうだね」
その二人のやり取りに対して黒い箱は『www wwwwwwwww』という文字を表示していた。
「笑ってる。ムカつくよね」
きゃんは、黒い箱を手に取って小さいダンボール箱に入れ、マジックで『母の家』と書いて少しばかり乱暴に冷蔵庫の上に上げた。
「ほら。隆一。明日仕事でしょ? 早く寝ないと。そーだ。美味しいお弁当作って上げる」
隆一はずっと呆然としていた。
「あれ? どーしたの?」
「……まとも。きゃんちゃんまともーー!」
そんな男の様子にきゃんは笑う。テレビで見るのと同じように。
「もう、当たり前でしょ? でも……まだ産まれてきて間もないから世間のこと知らないの。後でデートしようね。そしていろいろ教えて」
「うん。うん」
きゃんは隆一の顔をじっと見て微笑みながら両手を握った。
「ありがと。隆一。私を作ってくれて。自分の大事な物たくさん失っちゃって」
「あ。う、うん」
「あー。もうちょっと赤ちゃんのままで隆一に面倒見てもらいたかったな」
「そ、そう? じゃぁ、たまに赤ちゃんごっこでも……する?」
「ふふ。ヘンタイ!」
「わー……。ごめん」
「いいよ。じゃ寝よう!」
二人はシングルベッドに手を繋いで向かって行く──。
「ベッド一つしかないけど……」
「いいじゃん。夫婦なんだし。それに新婚でしょ?」
「お、おう」
きゃんに促されて、二人は一つのベッドに入って寝た。