第137話 旦那
熊吉の快癒に誰しもが泣き笑った。それから三日、熊吉の完全な平癒を待って江戸に向かうことになる。
文吉は誰もいないところを見計らって、白い玉を封じた千両箱を開けた。
『──文吉! この恩知らずめ!』
白い玉は最初から怒っていたものの、文吉は白い玉を抱きすくめた。
『???』
「ああ、玉さま。熊吉の病は人の力でどうなるものではありません。玉さまがこっそり力を貸して下さったのでしょう?」
『──熊吉が……治ったのかい?』
「その通りであります。ありがとうございます!」
『恐ろしい生命力──』
白い玉は小さくつぶやく。文吉はただ白い玉を抱いたままお礼を言うだけだ。白い玉はボウッとしたように、またつぶやいた。
『その力……欲しい──』
白い玉は熊吉の生命力の強さに強い関心を持ったのであった。
◇
文吉一行は江戸に帰ることにした。途中、また紀州の港に入り、みかんを買い求めた。あれからひと月以上経っており、みかんの価格は下落していた。
一籠二百文(五千円)だ。それを6000籠、300両で買い付けて船へと詰め込んで、江戸の港に帰った。
すでに鍛冶屋のふいご祭りは終わって値が下がっていたものの、まだみかんの数が少なかったので、一籠一分二朱(36500円)で売れた。早々に完売し、2250両を得た。
文吉一家は屋敷へと帰り、塩鮭の売り上げとみかんの売り上げを金蔵の中に納めたのであった。
文吉は文吉で白い玉を神殿のお宮の中に納め、改めてお礼を述べた。
「この度は熊吉の病を治して下さりありがとうございます」
『その意気や由。これからは私の言い付けを守るように』
「はい。それはもう──」
『では今後、ひと月に一度は、ウズラやニワトリのような生き物を捧げなさい』
「は。生き物でございますか?」
『左様。私が神に祈る際に使うのよ』
「となると、死骸はどうするんで……?」
『大丈夫。神と同化するよ。神として生きるのよ』
「はぁ……。この生類憐れみの令の中、調達は難しいものの、玉さまのためです。やりましょう」
『よろしい。納めた後はしばらく部屋を覗かないように』
「へぇ。おやすい御用でやす」
文吉は白い玉の言い付けを守った。
使用人や職人などの人集めをし、木材の買い付けを行い、材木問屋としての商売を始めた。
商売を始めたものの源八は文吉と熊吉に苦笑いする。
「いつまでそんななりなんです。醤油問屋の手代の格好をいつまでもしてちゃなりやせん。これじゃ誰が店の主人かわからない。紋付きくらい着てもらわないと」
文吉と熊吉は自分の服装を改めて見るとその通り。周りの大店の店主や番頭はいいものを着ている。
これでは旦那として慕われないはもちろん、客にも信用されまいと早速呉服屋を呼んで寸法を測らせ、2万5千両持ってる旦那に恥じない着物を作らせた。
日が流れて、桐箱に入れられた黒紋付が届き、袖を通すと粋なこと。文吉と熊吉は互いの格好を見て褒め合った。
「えれェなァ。まさしく江戸の金持ちだ」
「本当だ。こりゃ旦那さまだなァ」
二人して、現場の視察という名目で仕事場をうろついてみると、みんな目を見張ってぽかーんといている。
「どうしたい。なんか可笑しィかい」
「いえ、旦那。見違えました」
「そうだろィ。はっはっはっは!」
二人は得意げに笑った。そして源八やその他八人の仲間にも黒紋付を着せた。この八人が番頭、源八が大番頭だ。めいめいが職人の養成や観察。源八がそれを取り仕切った。
源八が源蔵と名を改めたのもこの頃だった。
◇
さて、商売も順調。文吉が買うものはぴたり、ぴたりと当たって、金蔵には5万両が積み重なっていた。
しかし、まだ木曽檜を扱えるまでにはなっていない。文吉は白い玉に質問した。
「玉さま。次はいかがしましょう」
『そうねぇ。では遊びなさい』
「遊ぶ? なんですその遊びってェのは」
『遊びよ。町に行って好きなことをしてお金を散財なさい』
「好きなこと……。なんでもいいんですかい?」
『なんでもいいのよ。江戸を隅々まで見て知識を貯めなさい』
「はい。言い付け通りに致します」
文吉は神殿を出て、熊吉と源蔵を呼んだ。
「源蔵。今から九万兵衛と町に遊びに行ってくる」
「遊びですかい!」
「ダメかい?」
「いえ、そうじゃありやせん。今まで旦那がたは遊ばな過ぎました。あっしらだってたまに友だちと芸者を呼んで三味線弾かすことぐらいありますよ。お二人とも休みの日だって仕事をしてらっしゃるでしょう。こうなると奉公人は遊びにくい。旦那がたの遊び。結構じゃありませんか」
「そうかい。じゃちょいと遊んでくるよ。江戸をあちこち見てくるつもりだ。晩は遅くなるかも知れないから、先に寝てていいからね」
「左様ですか。では私が奉公人をちゃんと監督しますから」
遊ぶということになって文吉と熊吉は黒紋付を着て玄関からでようとすると、女中たちが挨拶に出て来た。
「お時。お清。アタシらは夜遅くなりますからね。晩も外でとってくるつもりだから。食事の準備はしなくていいよ」
「はい。かしこまりました」
二人の女中頭に命じて、二人は外に出て歩き出した。その背中を源蔵率いる奉公人が見送った。
「ホラご覧よ。ウチの旦那を。あまり遊び慣れてないとああいうふうになる。歩き方が丁稚か手代だよ。どうも旦那になりきれないね。あ。籠屋を追い越しちゃったよ。あの人たちは徒歩で江戸を回るつもりなんだ。困ったもんだね、しかし」
当の二人は初の遊びということで、足取り軽く大通りへと向かっていった。