第136話 白い夢
文吉は襖を開けると、その廊下には文吉一家のものが心配そうに立っていた。
「文左衛門の大旦那。九万兵衛の親分は大丈夫だったんで?」
文吉は首を横に振りながら襖を後ろ手で閉め、文吉一家の連中の前に立つ。
「いいか、九万兵衛は流行病にかかった。ワシは今から看病するからお前らは部屋に帰って布団をちゃんとかけて寝ろ」
「そ、そんな。親分たちを放っておいて寝れませんよ」
「ダメだ。お前らまで流行病にかかってはいかん。命を大事にしろ。この部屋に近づくな!」
文吉は部屋に入り、ぴしゃりと襖を閉めた。
手拭いを濡らし、熊吉の額にあてがって、温くなったらすぐに変える。体の汗を拭いてやる。火鉢の炭を足してやる。暑いだろうと団扇で体をあおいでやった。
熊吉の寝息は落ち着いたり、荒くなったり。その度に文吉は一喜一憂だ。熊吉は死なないと自分自身に言い聞かせた。
熊吉の顔は真っ赤で、意識が回復しない。文吉は泣きそうだったがこらえ、ずっと熊吉の顔を覗き込んでいたがハッと思い出した。
懐から白い玉を取り出したのだ。
「玉さま。ああ玉さま。どうか熊吉を助けて下さい。熊吉を殺さねェで下さい!」
白い玉に懇願すると、白い玉はせせら笑った。
『熊吉かい。心配する必要はない』
文吉はホッとした。どんな医者の言葉よりも信用できる白い玉の言葉だ。熊吉は治るのだと思ったが違った。
『危なっかしい熊吉なんて失ってもどうと言うことない。源八を一人失えば船を操舵できるものはなかなかいないが、熊吉を100人失おうとも代わりはいくらでもいる』
何を言っているか分からない。文吉は混乱した。
「あ、あの。玉さま。熊吉は治るんですよね?」
『治らない。病膏肓に入ると言うヤツだ。文吉がいくら手を尽くしたとて、あと数日で黄泉の人だ。ムダなことをするな。金の無駄だ。却って熊吉の寸法の棺桶を買いなさい』
文吉は激高して白い玉に向かって叫んだ。
「なにを! 熊吉は死なねェ! 縁起でもねェことをいうな! 熊吉はたった一人の兄弟だ! おらが熊吉を治すんだ!」
文吉は千両箱を開けて金と金の隙間に白い玉を押し込んで蓋をした。そして襖を開けて廊下に出ると、文吉一家のものが壁によりかかり、布団に丸まって部屋の前に陣取っているので文吉は泣きそうになった。
「お前たち……」
「お。旦那。旦那だけに辛い思いはさせませんよ。オイラたちゃ船乗りだ。板間は慣れたもんだ。好きでここにいるんだから心配なさらないで下せェ」
人の義理を温かく感じた。しかし、病になられても困る。文吉は仲間たちに命じた。
「すまねぇが、今日売った塩鮭を一本、どこからか調達してきてくれねぇか? なに、金に糸目はつけねェ。買ったら宿の主人に渡してワシらの食事のたびに出してくれるように言ってくれ。熊吉にはお粥だ。紀州の梅干しがあると最高だ」
そういって源八に100両手渡すと、若いのが外に走り出した。文吉はその後ろ姿を笑顔で見送った。
部屋に戻って熊吉の看病を続ける。手拭いを濡らして額にのせる。汗を拭く。団扇であおぐ。手拭いを濡らして額にのせる。汗を拭く。団扇であおぐ。手拭いを濡らして額にのせる──。
夜の間、ずっと繰り返し。次の日の朝に、朝食が来た。源八は襖を開けて、旦那がたのお食事ですとお盆を入れてすぐに襖を閉じた。
文吉は寝ていなかったが、食事を頂くことにした。塩鮭の切り身と漬け物、味噌汁、白い飯。それを味も分からずにかき込んだ。
熊吉の食事に上品に真っ白なお粥。文吉は熊吉の頬を叩いて起こした。
「熊吉。起きろ。飯を食え」
熊吉はまぶたを揺らして目を開ける。
「……文 吉」
「お。起きたか。大丈夫か?」
「頭が 痛ェ。腕が痛ェ。 肩が 痛ェ」
頭痛に関節痛。これはまだ熱が上がる兆候である。
熊吉の開けた目に光りがない。言葉に力がない。しかし文吉は笑顔で声をかけた。
「そうか。すぐ治るさ。さっさと治して江戸の屋敷に帰ろうな。少しだけ口をあけろ。お粥を食わせてやる」
熊吉は力無く小さく口を開けた。文吉はそこに木の匙で掬ったお粥を挿し入れた。
「どうだ。うめェか?」
「わから ねェ」
熊吉は目を閉じて体を揺らしている。また寝込みそうだ。
「熊吉。塩鮭を食え。脂がのっててうめェぞォ」
そういって、箸で摘まんだ少しばかりの塩鮭を熊吉の口へと押し込んだ。熊吉の口が旨そうに動く。
「うめェ……」
「そうだろう。塩が病を殺すんだ。脂が体力を回復するんだ。もっと食え」
しかし熊吉は頭を小さく横に振ってまた寝込んでしまった。熱は依然高いまま。
その調子で二日、三日。文吉は寝れなかった。熊吉はだんだん衰弱していく。無理にお粥を口に入れても、力無く口の横から流れ出した。
文吉は立ち上がって廊下に出ると、文吉一家の面々に重い言葉で伝えた。
「みんな、今日までご苦労だったな。九万兵衛の病は一向に良くならねぇ。九万兵衛が死んだらワシも生きてはおれねェ。ワシと九万兵衛で紀伊国屋だからな。ワシと九万兵衛が死んだら今まで稼いだ金と屋敷と船はお前たちにやろう。みんなで分けて商売してくれ」
文吉は肩を落として、もう一度部屋に戻ろうとするのを仲間の声が追いかける。
「旦那!」
「親分!」
しかし文吉は振り返らずに熊吉の元へとと戻った。そして手拭いを濡らして熊吉の額にのせる。汗を拭く。団扇であおぐ──。
三日間、一睡もしていなかった文吉は熊吉の布団の縁でいつしか眠りについていた。
「やい。文吉、相撲をとろう!」
熊吉の声に目を覚ます。そこには子どもの頃の熊吉。自分も子どもの頃の姿だった。
そこは白い世界で自分と熊吉だけ色がついていた。見覚えのある、奉公先のやまやの大部屋。熊吉と二人だけだった。
「やだよ。熊吉に敵いっこない」
「そう言うな。遊びだ。遊びでいいじゃねェか」
文吉はその言葉に立ち上がって熊吉の前で四股を踏む。熊吉も笑って足を高らかに上げて四股を踏んだ。
二人は真ん中で見合う。真剣な眼差しだ。ふと熊吉がつぶやく。
「文吉。お前は本当に強ェのか?」
「なんだやぶから棒に」
「自分の力でぶつかってこい。誰かの力を借りるんじゃなくな」
「あたぼうよ。今はお前ェと二人きりじゃねぇか」
「そうだな。──じゃあ、見合って見合って。はっけよい、のこった!」
がっぷりと絡み合う二人。さすがの熊吉だ。びくともしない。少しずつ土俵間際まで追い詰められていく。
「どうした。そんなもんか文吉」
「何言ってやがんでェ。そぉーれィ!」
文吉は熊吉の回しをとって横に捻ると、不意を突かれた熊吉は横倒れになる。文吉もその勢いで熊吉の上に乗りかかって倒れた。
そして二人して床に転げ、天井を見上げて笑い合ったのだ。
「強ェえな、文吉。さすがは金剛力士さまだ」
「なあに。まぐれよ」
「それなら一人で大丈夫だ」
「……何を言ってやがンでィ、熊吉──」
「これからは一人でやるんだ。なあに、大丈夫だ。いつか迎えに来るからよ」
「オイ、やめろ。どこに行くんだ、熊吉!」
熊吉の体が遠くに離れていく。文吉はそれを追いかけようとするが体が重い。
手のひらが空を掴む。熊吉は白い闇に消えてゆく。
「熊吉! 熊吉!」
「熊吉!」
文吉が飛び起きると、そこは宿の部屋だ。布団の中には熊吉。文吉はおそるおそる熊吉の額に手を当てた。
「そ、そんな──」
あれほど高かった熱がない。熊吉は目を閉じたままだった。文吉の声に驚いた仲間たちは襖を開けると、そこには熊吉の上にかぶさって大泣きする文吉の姿。みんなは全てを悟った。
「熊吉! お前が死んじゃ、おらは生きていけねェ!」
「……おいおい、苦しいぞ、文吉──」
ハッと熊吉の顔を見るとその目はしっかりと開いていた。
「お前、生きてたのか!」
「ああ。まだ体中痛いが熱はなさそうだ。腹が減った」
強張った文吉の表情が徐々に和らいで笑顔になってゆく。そして泣きながら寝ている熊吉の胸に覆い被さった。
「このバカヤロウ! 百発殴らせろィ!」
「なんでだ。病み上がりなのにヒドいことを言うヤツだ」
文吉は泣きながら笑っていた。それを見ている仲間たちも泣きながら笑う。熊吉は重い体を起こして立とうとするが文吉の肩につかまった。
「すまねぇが便所に行きてぇ。文吉、肩を貸してくれ」
「お前、水くせえこというな。いつでも貸してやらァ」
文吉は熊吉の肩を支えて立ち上がったのだ。