第132話 みかん船
吉日を選んで、文吉の船は出航することとなった。みな死を覚悟するということで、衣裳は棺桶に入るのと同じ白装束を揃えた。
心残りがないように出航前に、たっぷり遊べと給金の前払いに1両ずつ渡した。
それぞれが町に遊びに散っていく中、残ったのは熊吉と源八。
「なんだ源八。お前ェも残るのか」
「あったり前よ。九万兵衛が惚れる旦那をオレも惚れとこうと思ってな。なぁ旦那。オレも呑みに連れてってくだせェ」
「もちろんだとも。三人で呑もうじゃねぇか。ただこの舟町は勝手が知らねぇんだ。案内を頼む」
「へぇ。任しといておくんなさい」
源八に引っ付いて、提灯のある飲み屋に入る。豆腐の焼いたの、魚の煮たのをつまみにして三人は語り合った。
「九万兵衛が言ってた彼女ってぇのは──」
「売られてしまった幼なじみを捜してるんだ。もう六年になるかな。結婚の約束をしていたんだ」
「江戸におられるんで?」
「いや分からねぇ。もう誰かに嫁いでるかもしれねぇしな」
「なるほど、天下の江戸にいって情報を集めるんですな」
「そうだ。名前をおミツという」
「ほほう。おミっちゃんですか。微力ながら協力しますよ」
「おお、心強いな。よろしく頼む」
三人は笑い合って呑んだ。その日は宿をとって文吉と熊吉は久しぶりに布団で眠ることが出来た。
次の日早朝、船の前に集まった船員たちは驚いた。文吉と熊吉が船倉や甲板まで積み上げた7000籠のみかん。これはホンモノだと唸った。
「これを江戸で売れば大金持ちですぜ!」
「そうだ。文左衛門さまはみんなを金持ちにしてくれる心意気なんだ」
熊吉は胸を張って威張った。
「しかし、これでは大嵐の中をくぐっていけませんぜ。暫時時間を下さい。俺たちで積み荷を縛っちまいます」
源八は他の連中に命じて、布や縄でがっちりとみかん籠を結んだ。揺さぶってもびくともしない。
「さすがだなァ、源八」
「いやぁ、この程度で旦那に褒められると面映ゆさを感じやす」
「よし、では出航だ!」
文吉の号令でそれぞれが持ち場へとつく。江戸へと向けて航海が始まったのだ。
最初は平安なものだった。数名に船の操舵を任せて、釣りに興じるほどだった。文吉と熊吉も少ないながらも釣りの経験はある。しかし川釣りばかりだったので、佐平次という男が船釣りを優しく教えてくれた。
「こうやって投げるんでさァ」
「ほう。面白いな」
文吉と熊吉もやってみると、果たして文吉のほうにあたりが来た。熊吉も加勢して、格闘の末に吊り上げたのは大きくて真っ赤な真鯛だった。
「おお、旦那。こりゃ運がいい。鯛ですぜ!」
「これが鯛かァ。めでたいってやつだな」
「その通りです。早速刺し身にして食べやしょう」
器用な男で、さっさとおろして文吉と熊吉の前に刺し身を差し出した。
「ワシらはこんな贅沢なもの食らったことねェ」
「え? そうなんですか? 大金持ちなのに?」
「まさか。金持ちになったのは最近よ。成金というやつだな」
「へぇ。でもそんなに簡単にはなれやしないでしょう」
熊吉は胸を張って威張った。
「そこが文左衛門の旦那のすげぇところよ。10両で買った鷹を、紀州中納言さまに1000両で買って貰ったのよ」
「へ! そうなんですかい! 100倍ですかい!」
文吉は驚いて熊吉を止めた。
「ば、馬鹿! 九万兵衛、他言無用だったろう!」
「あ。そうでした。しかし、佐平次ももう我々の仲間ですから」
「そういう訳にもいかん。口止めされていたからな。佐平次。そういうことだ。今聞いたことは他言無用に頼むぞ。なにしろ生類憐れみの令に逆らっているからな。中納言さまに災いがふることはいかんのだ」
「あ、へい。おやすいご用でさァ」
その場はそれで終わった。しかし文吉が一人で積み荷を調べていると、懐から声がする。文吉はまたかと思った。
『中納言さまに口止めされたにも関わらず、広言するなど熊吉は愚か者だ!』
激しい叱責だ。義兄弟を責められて文吉も怒った。
「なにをおっしゃいます! 人間誰にも間違いはあります。私が咎めましたからもういいでしょう! それに佐平次には口止めしました!」
『そんな危険なことでどうする! 危険は文吉の身に及ぶぞ!』
言っていることはもっともだが、終わってしまったことは仕方がない。それに文吉は自分が折れなくてはただの水掛け論になってしまうと思い、早々に引いた。
「そうですな。熊吉には私から言っておきます」
『もう遅い。佐平次がいる限り危険の種だわ』
「そんなこと言われても、口止め以外に方法はありますまい」
『あるわよ』
「なんですか」
文吉は白い玉にたずねた。
『佐平次を殺しなさい』
殺せ──。文吉は固まった。いくらなんでもそんなことは出来ない。それに人を殺せば重罪。中納言のことがバレるより、こちらの殺人が露呈するほうが確率が高いではないか。
「嵐を越えるには人の力が必要です。佐平次を失えばそれだけ江戸に着けなくなる。この話は聞かなかったことに致します」
白い玉は重い言葉で返答した。
『あっそう──』
文吉の中に嫌悪の気持ちがますます高まった。白い玉のおかげで商売が成功しそうだったが、やり過ぎる態度に文吉は距離を取りたくなってきたのだ。