第130話 分限者
白い玉に操られたままの文吉は、紀州中納言のほうへと振り返ると、大猪にさんざん焦り倒した侍たちと紀州中納言。ようやく一息ついて、中納言は床几の上へと腰を下ろした。そして大きなため息をついて文吉のほうを見て口を開く。
「見事だ!」
『ありがたいお言葉』
「たしかにこの鷹は100両や200両の鷹ではない」
『さすが中納言さま。これの価値が分かりましたか』
「分かった。これ」
中納言はまたまた近侍を呼んで指図すると、改めて近侍は箱を担いで来た。
「千両(1億円)ある。これで余にその鷹を譲ってくれ!」
『お譲り致します』
文吉が掌を少しだけ上に上げると、鷹は飛び上がって中納言の掌へと着地した。その美しいこと。
中納言が鷹に見とれている間に文吉は熊吉を立たせ、千両箱を担がせた。
『では中納言さま。我々はこれで』
「おう!」
先ほどの剣幕はどこへやら。上機嫌の中納言は鷹を見つめたまま、文吉と熊吉をとくに咎めもせず、幔幕の外へと解放した。
そこに一人の侍が付いてきて見送ったが、途中で二人を止めた。
「言わなくても分かっていると思うが中納言さまが鷹狩りをしていたなどとは他言無用ぞ。よろしく頼む」
「あ、はい。仔細承知です」
二人は口封じに殺されるかと思ったが、そうではなかったのでホッと胸をなで下ろした。
◇
千両箱と鷹狩りで獲った獲物を担いで嬉しそうな熊吉とは裏腹に、文吉は心臓が止まりそうだった。そんなことは気付かずに熊吉の口は止まらない。いわゆるハイテンションというやつだ。
「いやぁさすがは文吉だ。最初はどうなることかと思ったが10両の鷹を100倍の千両に替えちまうんだから、まさに金剛力士の生まれ変わりだね。ホントに文吉に惚れて良かったよゥ」
たしかにそうだが、白い玉に操られてやったこと。あの鷹とて白い玉が操ったのかもしれない。そう思うと怖い。
白い玉を懐に入れてから、成功はするもののハラハラさせられっぱなしだ。まだ落ち着かない文吉は下を向いたままだった。それでも熊吉は一人で話続けていた。
「こりゃ、俺たちは今日から分限だな。分限者だァ」
分限者とは大金持ちのことだ。先日まで奉公人だった二人に千両の金はかなり大きい。千両あれば大きな店を構えて女中や小僧を数人おいて商売できる。相当な金額だったのだ。
「こうなりゃ、いつまでも熊吉を名乗ってるのはおかしいな。改名しないと」
熊吉の言葉に文吉は思わず足を止める。
「はァ?」
「だってそうじゃねぇか。これから商売して使用人に熊吉、文吉では格好がつかねェ。それに屋号も考えなくちゃな」
熊吉の脳天気さに、悩んでいた文吉も思わず吹き出した。
「プッ。じゃあどんな名前と屋号がいいんだ」
「そうさなァ。これからはこの千両を何倍にも何十倍にもしていかなくちゃなんねぇ。──熊から九万だ。九万兵衛とする。どうだ。験がいいだろゥ?」
語呂の悪さに文吉は笑ってしまった。しかし験がいい名前かも知れないし、今まで通り“くま”と呼べるのが良かった。
「いいな。良い名前だ」
「文吉はどうする? おらの兄貴だから十万兵衛か?」
「なんでじゃァ? おらも文の字は残しておきてえな。文は全ての金の始まりだからな」
「じゃァ文左衛門だ」
「文左衛門! そりゃ粋だな」
「言い方に“ぶん”も“もん”も入ってるからな。今日言った意味を忘れないためにもいいだろう」
即興で作った名前だったが互いに重みを感じる名前で気に入った。
「それで屋号は?」
「そらァ、おらたちは孤児だからどこに縁があるかは分からねェ。しかしこの紀州が故郷だ。この国を屋号としよう。紀伊国屋だァ!」
熊吉らしい真っ直ぐな名付けに文吉は微笑んだ。
「紀伊国屋! いいじゃないか。紀伊国屋文左衛門かァ」
「紀伊国屋九万兵衛かァ」
感慨深くため息をつく熊吉に、文吉はやはり語呂が悪いと声を殺して笑った。
◇
千両を抱えた二人だったが、江戸に登って材木商をしようと決めていたので、まずは運搬用の船を買うことにした。
紀州中納言に鷹を売ってから、白い玉は大人しくなっていた。大概、儲け仕事をするとこのようになる。おそらく今回のもそれだろう。力を使って寝るというやつだと文吉は分析していた。
それは文吉にとって都合がよかった。神の使いである白い玉は強引だ。勝手がすぎる。儲かるのはいいが自由がない。そんな白い玉を好きになれないのは当然で、敬う気持ちも徐々に薄れてきていたのだ。
寝ている間に自由にやろう。文吉は熊吉を連れ立って海に浮かぶ船を見に行った。中古でいい。すぐに乗れるやつ。材木を運搬するのだから小さい船ではいけない。それなりに大きなものだ。
よい船を見つけて値段を聞くと、500両である。これくらいの投資はしなくてはならない。それに見事な廻船で千石(180t)は積めるというものであったので即座に買い求めた。
船主となって二人はその日、そこで夜明かしをしようと、波止場で鷹狩りの際に獲った獲物を焼いたり煮たりして船の中に運び、瓢の酒を飲んでいると、そのうち熊吉は上機嫌になり肘枕で寝てしまった。
そこに、白い玉が怒ったように文吉に話し掛けてきた。
『まったく! おばちゃんに相談もなくこんな船を買うなんて!』
叱責であった。文吉はうんざりしながらも謝罪したが、それでも白い玉は怒り覚めやらなかった。
『こんな船なら、半値で買う交渉が出来たわ。そしたら余ったお金でよい材木をたくさん積めたのに!』
大変に怒ったままで、文吉も力の限りなだめると、ようやく代案を出してきた。
『まあいいわ。もっとよい案がある。紀州ではみかんが豊作で、値がかなり下がっているわ』
「へ、へぇ。みかんですかい?」
『逆に、江戸ではみかんがほとんどない。最近海が荒れているので、誰も江戸にみかんを運べないのよ』
「へぇ~」
『しかももうじき、鍛冶屋のお祭り“ふいご祭り”があるわ。鍛冶屋がお客さんにみかんを振る舞うお祭りよ。験を担ぐ江戸っ子は喉から手が出るほどみかんが欲しい。残ったお金で船員と人夫を雇い入れ、みかんを大量に買いなさい!』
ぴしゃりと言うご命令だ。しかし白い玉の云うことは今まで外れたことがない。
話が終わった後で熊吉がふと目を覚ましたので、文吉は白い玉の話を夢に出て来たお稲荷さまからのご神託と言うことで話すと、熊吉も文吉が言うことなら間違いはあるまいとミカンの買い付けを承諾した。
その打ち合わせも終わり眠りにつく。
すると真夜中だった。少しばかり体が冷えて文吉は目を覚ました。
ズルズル、ズルズル、ズルズル──。
蕎麦を啜るような音がする。鷹狩りで獲った獲物が積み重なっているほうだ。しかしそんな蕎麦などあるわけがない。自分は寝ぼけているのだろうと納得してそのまま眠りについた。
いつも懐にある白い玉がないことに気付かずに──。
次の日、目を覚ますと熊吉が獲物のほうを見て嘆いていた。
「どうしたい。熊吉」
「昨日、あったと思ってた、丸々太った雉鳥がなくなってるゥ」
「だったら食ったんだろゥ」
「そうかも知れねェ。ああ、あれがあると楽しみにしてたのに」
なくなった雉鳥は二人は自分たちが食べたのだろうと納得した。