第122話 将来の約束
延宝8年──。
西暦1680年である。ちょうど江戸幕府では征夷大将軍徳川家綱が死亡し、弟である綱吉に将軍位が譲られた時代。
江戸から遠く離れた紀州湯浅に文吉という男があった。歳は11。幼い頃、親に捨てられ、哀れに思った農民に拾われたが下働きだ。一生を召使いとして暮らす運命だった。
そんな運命に不満などなかった。働いて働いて飯を貰って生きられる。それが普通だと思っていた。
そんな文吉の近所に一つ下の三という女童がいた。同じ境遇だ。親に捨てられ、農家に拾われた。子守や水くみ、洗濯、飯炊きをしてその日その日の飯を貰っていた。
最初は文吉が6歳のときミカン畑の手入れをしている最中に、子守をしながら野道を歩いているミツに出会ったのが始まりだった。
「お前ェはどこのやつだ?」
「おら、三路の茅葺きの家だ。庭に梅の木がある」
「ほー。じゃ近くだな。おら加藤さんのウチだ」
「へぇ? 加藤さん?」
「んだ。拾われっ子だからな」
「──おらもだ」
同じ境遇に、親密になるのは時間がかからなかった。
文吉には畑に出る時間がある。ミツには子守をする時間がある。木陰に隠れては、それぞれの話をし、笑い合った。それが二人の生きている証。
互いに家に帰れば、用意されているのは母屋ではない。家畜小屋の藁置き場だ。それでも温かい寝室だ。良質のベッドだった。
飯は家人の余り物。それだけでも充分に生きれた。そして生き甲斐があった。
11歳の文吉には、将来はミツと一緒になる気持ちがすでに出来ていた。小作人でもいい。二人が生きる場所があるのなら。
畑に来ると、ミツがくる。
「おミっちゃん!」
「文吉っつぁん!」
ミカンの木に隠れて寄り合う二人。ミツの背中には新生児がおぶられていた。
「昨日はぶたれなかったか?」
「ぶたれなかったよ。そう毎日ぶたれてられないよ」
「そうか」
高い丘のミカン畑。眼下には湯浅の街が見える。
「おら将来はおミっちゃんと夫婦になりてぇ」
文吉の言葉にミツは顔を赤らめる。
「いいだろ? たとえ小作人でも二人で一生懸命働いて大きな畑を持つんだ」
それにミツは顔を赤らめながら小さくうなずいた。
「おらも、そうなりてぇな」
二人は顔を赤らめて微笑んだ。
将来の約束のために二人は懸命に働いた。とはいえ、二人はみなしごの召使いだ。飯は貰えても金など貰えない。
街に買い物に出されて、拾った一文。そんなものを集めた。悪いことをせずに真面目に働いても、文吉13歳の時に藁小屋で数えた金はたったの14文だった。
◇
ここでは、この時代の貨幣の単位を現在の価値に分かりやすく置き換えると、一文は25円ほど。それが4000文で一両となるが、これが10万円。一両の四分の一を一分というが、2万5千円。一分の四分の一を一朱といい、6千250円で250文とする。
◇
つまり文吉の持っている金は350円ほどだ。しかしそれは文吉の全て。将来を買う値段だ。文吉はそれを大事に藁で編んだ紐でつなぎ、藁の下に隠しておいた。
その日も文吉は、畑仕事に精を出していた。そこに、ミツが子守もせずにやって来るのが見えた。文吉は嬉しそうにミツへと手を振った。
ミツが近付いて分かった。その目には涙を溜めていたのだ。
「どうした。おミっちゃん」
「文吉っつぁん。おら……おら──」
言葉が詰まって出て来ない。涙を落としてようやく言葉を絞り出した。
「おら売られることになった──」
ガラ……ガラ──。
自分の世界が崩れていく。召使いの夢など叶うわけなどない。小さな幸せなど。
当時、聞こえは悪いが人身売買はこの国でもあった。女は商品だ。買われた女は男と寝る商売に就くのがほとんどだ。
器量好しほど高く売れる。ミツには幼いながらもそれがあった。
売られたからには売れた倍以上の稼ぎをしなくてはいけない。女の容色が消えるまで働いて、容色が消える頃には体を壊している。
文吉にはミツが売られる。男に買われるというのが何となく分かっていた。文吉はミツをそこに置いて走った。自分の藁小屋に。そして大事な14文を掴むとミツの家へと走り、土間に頭をつけた。
「どうか将来、おミっちゃんと夫婦にさせてください。お金は必ずお返し致しますから」
しかしその家の主人は鼻で笑う。
「おミツを家において十年。ようやく金になるときが来たんだ。お前ェにその金は一生作れねぇよ」
文吉は土間に這いつくばりながらなおも食い下がる。
「な、なん文ですか?」
「文?」
主人は声高く笑う。
「20両(200万円)だ。おミツにはその価値があるんだ。キレイな着物着て、旨いもんも食える。お前ェと夫婦になるより幸せよ」
文吉は、手に握った汚れた14文を主人の前に突き出した。
「──どうかこれでしばらく待っては貰えませんか?」
しかし主人はその手を薪で引っぱたいた。土間に転がる14文。文吉は手を押さえて土間に崩れた。
「なにふざけたこといってやがる! さっさと帰って仕事しろ。このなまけもんが!」
文吉は泣く泣く土間に転がった14文を拾っていると、主人はせせら笑った。
「馬鹿が。お前ら使用人以下が人間の口を聞くな。だがおミツに手を出してはいなかったようだな。その点ではえれぇわ」
その言葉に文吉は顔を上げる。そこには主人のニヤけた顔。
「あれはちゃんと生娘だったわ」
文吉は──。ただただ自分の無力を知り肩を落として藁小屋へ帰って行った。
※この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、名称はすべて架空のものです。