第101話 契約の誘惑
その訃報は、黒い箱の持ち主のテオの元へと届いた。それを聞いたテオの嘆きようは筆舌に尽くしがたいヒドいものだった。
大声でわめき散らし、大粒の涙をこぼし自分で立ち上がれないほどだった。
自分が兄を殺した──。
テオは嘆いて自分を責めた。もしも兄がパリに来なければ。パリの印象派の絵を学ばなければ。絵が売れなければ。ポールと共同生活していれば──。
いろんな思いがテオの胸を押しつぶす。よかれと思って黒い箱を使ったことは全て裏目に出た。
もともと兄フィンセントと同じような精神の持ち主だったのかもしれない。
テオは赤い血をまた吐いた。
黒い箱──。それはテオ自らが隠した場所から転げ出る。そして笑うように光った。
『あなたがただ死んでしまうのはもったいない。自分の身を売って、兄の名を後世まで残すのです。私にならばそれができる。あなたの体を全て提供してくれれば、無名の兄フィンセントは世界に名を轟かす画家となるのです』
血の泡を拭きながら、テオはその文字が流れる様を見ていた。
箱に自分の身を与えれば、兄の絵は世界に広まる──?
確かに兄フィンセントの絵はたくさんある。
その一つ一つが世界中にわたって行けばどうだろう。今まで聞いたことのある画家どころじゃない。フィンセント・ファン・ゴッホの名は世界中へと広まる。
天国に昇った兄もきっと望んでいるだろう。
きっと。きっと──。
テオは力なく黒い箱を掴んだ。
『さぁ願いなさい。今度はチンケな間違いなどしません。フィンセント・ファン・ゴッホの名は世界に轟くのです。さぁ、さぁ、さぁ』
「兄の……。兄の絵を──」
テオはまた口から血をこぼす。命は終わりに向かっている。もはやこれ以上、長くは持つまい。その命を黒い箱に捧げれば、兄フィンセントの絵が世界に認められる──。
だがテオはその血を袖で拭い立ち上がった。
「……何を言うクソッタレ。悪魔め。二度と私に甘い誘いをするな」
『? ? ? ? ?』
「兄の絵は貴様の手を借りなくても勝手に売れるさ。すばらしい絵なんだ。お前に目があればきっと心を奪われるだろうよ」
テオは気丈に箱に向かって主張する。
箱はたじろいだ。
『そんなバカな。大衆が無名な画家など相手にするわけが無いのに』
「私が売るんだ。私が死んでしまったら妻が。妻が死んでしまったなら子どもが売るだろう。もうお前の力は借りない」
テオはそう言うと、窓から黒い箱を放った。いつもの黒い箱ならば、持ち主が破滅するまで近くにいる。だが箱はテオが部屋に戻る様子を感じると、次の客を捜して転がり始めた。少しずつ男の家と距離が出来て行く──。
『フン。 バ カ な 男』
黒い箱もまたテオと決別したのだ。
フィンセントの死から6ヶ月後。テオドロス・ファン・ゴッホもまた神の元へと旅立つ。
残されたテオの伴侶であるヨハンナはテオの1歳になる子どもを抱えて再婚せざるを得なかった。しかし彼女はフィンセントの素晴らしい絵を受け継いでいた。
彼女はテオの代わりにフィンセントの絵を売り、やがてその絵の評価は世界中に広まった。
テオドロスが黒い箱に言ったように、時代が。世界がフィンセント・ファン・ゴッホの絵を認めたのである。孤独の中で絵を描き続けた兄フィンセント、そしてその理解者である弟テオドロスの苦労は、誰の力でもない自分たちの力で世間を認めさせたのだ。
現代に戻る。そこは宇宙船に破壊尽くされた日本。
復興がままならない状況に苦悩する首脳。
次回「総理と瓦礫篇」。
ご期待下さい。