常に楽する彼女は答えた。
逃げ出すことには慣れていた。
随分と多く人間から、その悪意から、何度も何度も逃げ出して、そして今の自分を作るに至ったのだから、過去なんてものを思い出すより、鏡を覗く方が自分というもの知れるほどだ。
だって、その方が楽なのだから、手を抜けるのだから、仕方ない。
クラスメイト達は、どうやら僕が何かしらの理由で、あの古くさいキーホルダーを盗んだと思っているのだろう。しかし、僕の記憶違いでもなければ、あるいは事象が変わってでもいなければ、あれは確かにモモちゃんが落としたものに違いない。
そう考えれるのするならば、あのときの女の子は、嘘をついて僕を悪人にしようとしたと分かる。
まあ、そんなことが分かったとして、口に出したとしても僕が悪人であることに変わりはしない。
原因は……何だったのか? 考えるのも、もう面倒だった。
ゲームに逃げる気分になれず、着替えてすぐに一階に降りる。リビングに向かうと、すでにモモちゃんがテレビの前を陣取っていて、バラエティー番組を見つめていた。
内容はかなり下らない、レベルの低い芸が乱雑に行われている。こんなものが面白いのか、そう思ってモモちゃんを見ると、その目はボーッとしていて、何か難しいことを考えているような、そんな顔をしていた。
作り物みたいな笑い声が耳障りで、僕はそっとチャンネルを変えた。
次にテレビに映ったのは、いつもこの時間に放送されている学園ドラマで、麻薬や虐待等を取り扱う、健康志向の現代には、あまりそぐわない番組だった。
丁度今日は、複数人のいじめっこ達が、ダンゴムシのように丸まっている被害者を、これでもかと何度も蹴りつけるシーンが流れていた。
自分はまるで、このダンゴムシのようだ。
誰かの自己満足のために傷つけられて、それを善しとされるような、黙認されて当然というような、彼女達にとっての害虫なのだろう。
これ程までに目立たないようにして、これ程までに手を抜いて、それでも彼女達には邪魔でしかない。
しかし、僕がまるで、一人の人間のように、普通のように扱われるというのは、少し笑える。
無意識に小さく笑っていると、隣で声が聞こえる。
「どうして、犠牲は必要なのでしょうか……」
そう言ったのは、モモちゃんだった。
自分の考えが見通されたのかと思い、顔の筋肉が強ばるのが分かる。だけど、すぐにドラマの話だと理解して、力が抜けた。
「モモちゃんは良い子だねぇ~」
怖がらせてしまったかも知れないから、なるべく優しく声を発する。盗まれたのは、この子の私物だ。あまり、悟られたくはない。
「でも、生け贄か~……」
僕はそう言って、質問の意味を繰り返す。
子供に教えるには、酷く難しい問題だ。夢があるとは思えないし、蔑ろにするには現実的過ぎる。
そこに、もう一人の同居人が通りかかる。
「あ、リンゴちゃん!」
その声に気がついたリンゴちゃんは、ムッとした表情でこちらに気がつくと、タオルを僅かに握りしめた。
「何よ? 人の顔を見るなり、名前を呼んで」
キツイ物言いだが、怒ってはいない。彼女は面倒見がよくて、すごく優しいのだ。僕とは違って。
理解を示すように、僕はリンゴちゃんに笑顔を向ける。
「今ねぇ~、モモちゃんと哲学してたの~」
「そ、そんな大袈裟な話していませんよ!?」
モモちゃんは予想外なことでも言われたかのように、動揺してみせる。大体同じようなことだから、べつに訂正はしない。
リンゴちゃんは、眉をひそめて尋ねる。
「哲学? 小学校で、そんな宿題あるの?」
「い、いえ。その……、よくドラマだと、必ず悪い人が居るので、何故だろうなと思いまして……」
モモちゃんが凄く怖がっているのだが、その姿は新鮮で可愛いものだ。妹が出来たら、こんな感じなのだろうか。
真面目なリンゴちゃんは、モモちゃんの問いに深く思考して、一つの答えを提示する。
「それは、そちらの方が面白いからでしょ?」
しかし、的が外れている。いや、あの話から考えれば、確かにこれが妥当なのだろうけど。
僕はリンゴちゃんに言う。
「リンゴちゃん、それはそうだけど、モモちゃんが聞きたいのは、そういうことじゃないと思うよ~?」
その言葉を聞いて、リンゴちゃんは間違えてしまった罪悪感からか、眉間に皺を寄せ、小さな声で呟く。
「……面倒ね」
「ごめんなさい」
言葉が足りなすぎて、モモちゃんはまた怖がってしまった。それを見て、リンゴちゃんは慌てて言葉を付け加える。
「モモは悪くないわよ。ただ、もどかしいだけよ」
本当に、何ひとつとして解決していない補足だが、モモちゃんは何かを感じ取ったらしく、緊張が僅かに解けている。
本当に、よく出来た子だ。うまく周囲と馴染んでいる。リンゴちゃんだって慣れ親しめば、とても慕われるような人格だ。
僕とは違って、手を抜かなくても、本気を出しても生きられるのだから、少しだけ羨ましい。
「犠牲なんてない方が、楽しく無いのでしょうか?」
モモちゃんが問う。僕は即座に返した。
「それが人間だからねぇ。下が居れば、安心できるんだよぉ~」
人間というのは、猿から進化しただけで、本質はあまり変化していない。山の上から地面を見下ろして、神様にでもなったように振る舞うのだ。
神様なんて居ないのに。そんなのが居たら、僕は最初から……。
「犠牲なんて、拒めばいいのに」
リンゴちゃんは、いつもの冷たい声でそう言った。
拒む、というのも選択肢のひとつだ。
しかし、僕は知っていた。拒めば次があるということを。
楽に生きたいのだ。もう、誰にも邪魔をされず、ただ僕に何の関心も持たれずに、期待されずに……。
それが難しい。有り余る才能は、世界に対応していない。
そんな時は、モモちゃんが立ち上がる。
「今度、お話を聞いてみます」
何のことか、解らなかった。……わからなかった。
「犠牲なんて、ドラマだけで十分ですから」
そうか、この子はさっきから戦っていたのか。
頭の中で、小さな壁が割れていく。世界にはバグがある。どこかで間違えて、説明書に乗っていないパターンが存在する。
僕は、まだ何も知らない。
僕は小さく微笑んで、からかうようにこう言った。
「……モモちゃんは、ヒーローになるんだねぇ~」と。
こんな小さな子が覚悟を決めたのだから、僕もたまには本気を出そう。本気になるためじゃなく、楽をするための本気だ。
僕は考えた。
■■■
ガラリと、いつもより早く教室の扉を開けた。大したことはない、普通のことだ。
それなのに、彼らは一様にこちらを不思議そうに見ている。
時間は平均1.1秒。会話が止まり、それくらいの時間を掛けるということは、僕が注目するにたる人物であるということだ。
……面倒くさい。でも、今はダメだ。
僕は真っ直ぐ、昨日の女の子の前に立つ。机に座って、取り巻きと話していた彼女は、一度も僕から視線を外すことはなかった。
「昨日のキーホルダー、返して貰えないかなぁ~?」
「はぁ? アンタが盗んだんでしょ? 謝罪くらいしたらどうなの?」
「謝罪~? あー、それは佐竹君にしてもらえばぁ~?」
僕はクラスに在籍する、一人の男子生徒の名を出した。主犯の女の子は、意味が分からないというようだった。
「何で、佐竹が出てくんの?」
「だって、佐竹君から情報が漏れたんだよ?」
僕は自分の端末を取り出し、クラス全員が所属しているSNSの会話を見せる。もちろん、僕は誘われていないため、この会話を見ることが出来ない、はずだった。
主犯の女の子は驚いて、佐竹君を見るが、当人は否定の意を示している。
「何で……」
こちらを見るが、僕は何も言わない。その方が、仲間割れを引き起こしやすいから。
まあ、別に難しいことではない。先月くらい、彼のパスワードが見えて、それを記憶しただけだから、単純に考えれば分かるはずだ。
僕はさらに続ける。
「考えたらねぇ~、おかしいと思ったの。だって、盗まれたものを言わないし、全員が荷物を見せたとは考えにくい。だって、先生にも言わなかったんだよね?」
たぶん、僕が遅刻したから、計画がずれたのだ。休み時間や、昼休みの合間では、他のクラスの生徒が出入りするし、僕が出し渋れば先生に見つかりかねない。
だから、全てが終わった放課後になったのだ。
「犯行動機は、僕が学年一位を取ったこと。同居人が怖くて、仕方なく取ったのだけれど、それが許せなかったのかな?」
主犯の女の子は俯いている。しかし、手には力が残っているから、反撃が面倒だ。
僕は軽く笑みを作り、彼女に語り掛ける。
「一ノ谷口 真由美。年齢は13歳、牡牛座、生年月日はーーー……」
一通りの個人情報を語り続け、彼女の顔が青くなるまで続けてあげた。僕を止める人はいないから、人望の方は少ないようだ。
さて、そろそろだ。
「返してくれるかな?」
「い、嫌よ! あの汚いキーホルダーなんて、捨てたんだから!」
丁度そのとき、ガラリと扉が開く。そろそろ来る頃だと思っていた。
とりあえず、事情を聞いて探させよう。その前に説教かな? あの先生のお説教は怖いから、大変だろうな。
本気を終えた僕は、気楽に笑う。
ユズちゃんは、今後一生逆らわないように、相手を脅かしました。天才の本気は怖いのです。
これで沢山ゲームが出来るね! 明日からテスト期間だけど……。