彼女の過ごす日常は、喜びに満ちている。
モモという人物の周りでは、いつも笑顔が溢れていた。
微笑む度に返ってくる、それらの表情は、まるで自分という存在を肯定してくれるようで、生きることを許される心地がして、幸せを思うことができた。
……やはり、母と自分は違うのだ。
テレビで活躍する母は、どちらかと言うと悪役の方が多かった。
それを気に掛けたことはないけれど、毎度毎度、同じような顔で正義の味方の前に立ち塞がるのだから、子供でも気になる。
いつだったか、そんな幼い疑問を口にしてみたことがあった。
その時、母は『私に合っていたからよ』と言って、少し優しく笑っていた。当時、子供過ぎたモモには理解できなかったが、今にして思えば、それが"諦め"であることが分かる。
可能性を捨てたのだ。
もっと努力をして、笑顔でいて、都合の良い言葉を振り撒いてさえいれば、死ぬ必要なんて無かったのだ。母は愚かで、馬鹿な人間だった。
モモのように生きるべきだった。
ユズお姉ちゃんが身支度をする様子を確認してから、モモは玄関の扉を開けて外に出た。
この家に住む三人は全員、学年と校舎こそ違えども、同じ学校に通っているはずなのに、一緒に登校することはない。リンゴお姉ちゃんは部活動のために早く、ユズお姉ちゃんは遅刻ギリギリ、そしてモモは、通常の小学生より少し早めに登校する。
それで、丁度20分くらいの合間を作って、それぞれが家を出るのだ。
モモは可愛い小学生であるから、誘拐や猥褻なんて物騒なものが存在する世界を少しだけ恐れてはみるけれど、歩いて5分だけしか掛からない学校までの道のりを、怖がる必要性は見つからない。
「おはよう、モモちゃん」
「おはようございます!」
近所のお婆ちゃんに向かって、遠い耳にまで聞こえるように、モモは大きく元気な声で返事をする。
いつも、この時間には多くに人々の姿を見かけた。つまり、ここは家の中よりも自分を見せる機会が多いということに他ならない。モモにとって学校とは、舞台のようなものだった。
すぐ先にある校門をくぐれば、四年生から六年生の体育を教えている先生が立っていて、大きな声で挨拶をしてきた。もちろんのこと、その声に負けないくらいに大きな声で返事をする。
それから、何人かの先生がこちらに気付き、声を掛けてくると、モモは常に笑顔で言葉を交わした。
可愛いモモの登場は、少なからず喜ばせたに違いない。そう信じて、たまに疑う。
これが彼女の日常だった。
そして、教室に来ると、まだ誰もいなかった。だからと言って、そこで休んでしまえば、モモという人間は怠ったことになる。
モモは、教室に飾ってある花瓶を手に取り、花と水が落ちないようにして水道まで歩くと、まだ透明な水を取り換えた。
これは植物委員の仕事ではあるが、目につく仕事は進んでやることにしている。
人間は重荷を取り除けば、喜んで跳ねるものだから。
丁度、件の植物委員の子がやって来た。短い、男の子のようなボサボサの髪をしているのだが、一応女の子である。
名前はコノエちゃんと言ったはずだ。
コノエちゃんは戸惑いながら、水に手を入れるモモを見て、少し戸惑いながら、口をもごもごと動かして頭を下げた。そして、足早に教室の中に入って行く。
人見知りなのか、いつも挙動不審で、あまり口を聞いたことはない。けれど、自分で切ったであろう髪の毛や、外見に気を使った様子も見当たらないことから、経済的に裕福でないことくらい、小学生のモモでも察しがついた。
まあ、それが怠る理由にはならないのだけれど。
モモの髪留めは100円均一のもので、言葉遣いや礼儀作法だって、自分で気を使っている。
制服は与えられたのだから、せめて努力をしなければいけない。そんなふうに、モモは一つの反面教師としてコノエちゃんを見ていた。
水を入れ換えてから、モモは教室に戻る。いつもの笑顔でコノエちゃんを探す。言いそびれたが、おはようを言っていないのだ。
良い子であるモモという人物は、誰であろうと平等に接するのである。
「コノエちゃん、おはようござっ……います」
少しだけ、ほんの一瞬だけだけれど、モモは言葉に詰まった。
コノエちゃんは日直の仕事である、黒板掃除をしている。
ただ、それだけではあるのだが、その黒板の端の方、日直の名前が書かれるはずの場所に、モモの名前が存在していた。
喜ばせなければいけないのに、今モモは、喜ばされようとしている。……キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ。
存在が否定されたように思った。自分の存在価値に、初めてマイナスが付いたような、深淵を目の前にしたような、底知れない後ろめたさが心臓に触れた。
「ごめんなさい」
言ったのは、自分ではなかった。
気がつくと、コノエちゃんがこちらを見ていて、申し訳なさそうに身を縮めながら立っていた。
どうやら、笑顔を忘れていたようで、モモらしからぬ行動だった。
急いで表情を戻して、モモはコノエちゃんの方を見つめる。そして、可愛らしい声で応える。
「いいえ、ありがとうございます。コノエちゃんは、とても優しいですね!」
「えっ……」
言われなれていないのだろう。コノエちゃんは視線を迷わせ、頬を染めながら黙ってしまった。
よく見れば、意外と可愛いのかもしれない。モモほどではないのだろうけれど、磨けば光るというのに勿体無い。
「あの、コノエちゃんーーー」
「モモさん、その子に話し掛けないで」
モモの言葉を切り捨てた、冷たく、それでも幼い声に振り向くと、扉の前には同じ制服を身につけた女の子達が三人、横に並んで立っていた。
真ん中の子、名前はフミと言う、その女の子がモモとコノエちゃんを交互に睨んでから、何も言わずに歩いて自分の席に座った。
理由は何となく知っていた。
■■■
思い出せる限りで、一番古い記憶がある。
それはまだ、父と母が笑いあっていて、世界全体が喜びに満ちていた頃の光景で、モモは地面に近い視点から、二人の様子を見上げていた。
嬉しい気持ちと、何故いまは見られないのかという疑問が、頭の中を渦巻いて、苦しくなるけれど、結局ひとつの答えがそれらを止める。
ああ、母が捨てたからか。
放課後の事、優秀なモモらしからぬ行為ではあるが、忘れ物をしてしまった。
使う頻度が低い"下敷き"は、うっかりしやすいのがいけない。
日が高いとはいえ、いつもより遅れて帰ると心配されるかもしれないから、モモとしては嫌だった。少し足早に、気を付けることを誓いながら歩いていくと、声が聞こえてくる。
部活も委員会も、今日のこの時間、校舎の中で行われる予定はないはずなのだが、どこか調子の外れた声が廊下に漏れていた。
音の発信源は、女子トイレの中。
いつまでも残っていては、先生に注意をされるだろうし、明るく、それとなく言えば、帰ってくれることだろう。そう思って、モモは扉を押した。
考えることを怠って、開けてしまった。
「キモい。なんで生きてんの?」
「マジで死んでくれない? ねぇ、おねがいだから」
「何とか言ったら? つまんないんだけど」
気がつかない、今朝こちらを睨んで来た三人は、幼く無意味な言葉を並べている。
なるべくなら、壁に向かって言ってくれたら良かったのだが、そんなわけもなく、壁の端に追い込まれ、人形のようにぐったりと横たわるコノエちゃんが、彼女達の前に居た。
典型的なイジメである。
今ここで、助けるべきだろうか。いや、先生を呼ぶべきだろう。
モモが注意をすれば、たぶんフミちゃん達は帰ってくれる。しかし、それで全て丸く治まるのなら、そもそもイジメなんて言葉は必要ない。
モモはゆっくりと、後ろに下がる。
ギギッ……。
ドアの金具が錆びていたのか、歪んでいたのか、こんな時に限って、音がやけに大きく響いた。
「モモさん?」
フミちゃん達が振り向き、コノエちゃんの視線もこちらに向いた。
逃げ出したのなら良い子ではない、この状況において、何を言うべきか。全員が喜べる方法を考えて、モモが口淀んでいると、フミちゃんが鼻で笑った。
「モモさん、丁度いいところに来たわね」
フミちゃんの表情は、予期せぬ人物の登場で、喜びに満ちていた。
「モモさんも何か言ってやってよ。この子、何言っても無反応なの」
……暗く沈んだコノエの顔が、昔、母が見せた顔に似ているように思えた。美人だった母とは遠く異なるが、あの顔の種類は知っている。
「ねぇ、なるべく面白いことを言ってよ? ねえ!」
喜ぶよりも、喜ばせる人であれ。……一人と三人ならば、どちらを選ぶべきだろうか。一人を貶める多勢か、抵抗を忘れた生け贄か。
母ならば……ーー。
女の子のイジメは、もう少し陰湿らしいですが、今回は直接的ですね。……私は標的になりませんでしたよ、影が薄くて相手にされない。