彼女が喜ぶ理由について。
子供の頃……いや、今だって十分子供と呼ばれる年齢なのだが、それよりもずっと以前、幼稚園児に成り立ての頃の自分に、母は何度も語りかけていた言葉がある。
『喜ぶより、喜ばせる人間になりなさい。それが貴女の価値になるのだから』
とても、その年の子に言うような言葉ではないし、今でだって、聞かされる機会はほとんど無い。
それでも、その一篇の小説のような台詞を飲んで、"モモ"という可愛い少女を演じている。
■■■
目が覚めて、昨日のことを振り替える。
これは日課だ。こうすることで、記憶力が上がるのだと、学校の先生である父が教えてくれた。
そして、ピンク色の子供らしい布団を取り払い、ベッドから降りると、もう一つの日課である行動を取った。
鏡を見て、モモの笑顔を確認する。女優だった母から受け継いだ、この可愛らしい顔は周囲からも評判で、笑顔で話し掛ければ大体の人間が優しく返してくれる。
ひとしきり、何も変わり無いこと確認した後、制服に身を包み、身だしなみを整えてから、モモは自分の首の高さの取ってに手を掛け、なるべく音を鳴らさないようにして扉を開けた。
母が死んでから三年が経つ。
死因は窒息。よくある自殺だった。
美人薄命なんて言葉があるけれど、母の場合は自業自得だったとモモは思う。
父が浮気をしてから、母はお酒を飲むようになり、お酒を飲むようになってから、モモに暴力を振るうようになった。モモが怪我をして倒れると、母は悲しそうに何度も謝るのだが、病院には連れて行ってはくれなかった。
結局のところ母は、父も、モモも、周囲の人間達をも喜ばせる事が出来ず、独りになった。それで死んだのだ。
母は愚かだった。
周囲の期待に応えることを怠った。でも、モモは違う。どこに居ても、誰の前でも、周囲を喜ばせて見せよう。
それが、モモという人間の喜びになるのだから。
同居人を起こしてから、階段を降りると、まるでドラマのような、包丁の叩く音が一定の感覚で聞こえてきた。
着替えを洗濯籠に入れ、リビングに出ると、リンゴお姉ちゃんが台所に立っていて、味噌汁の具材を切っている。
何か考え事でもしているのか、こちらの気配に気づかない。その様子を見ていると、階段を降りる音がした。
振り返ると、先程起こしたばかりの、ユズお姉ちゃんの後ろ姿がトイレの中に消えていった。基本的に、この家に居る人には、おはようが必要ないらしく、二人が挨拶しているところを見たことがない。
しかし、やっていないからと言って、自分もやらない訳にはいかない。習慣とは意外と重要なのだ。
モモは、意を決してリンゴお姉ちゃんに、笑顔で挨拶をした。
「リンゴお姉ちゃん、おはようございます」
しかし、案の定というのか、反応がない。いや、無視をしているだけなのかもしれない。
可愛いモモの笑顔を見れば、大抵は笑顔で返してくれるはずなのだが、リンゴお姉ちゃんの顔は怒ったような表情で、一心不乱に調理を進めている。
……少なからず、変な人ではある。
仕方なく、モモは出来る限りの手伝いをすることにした。
まず、テーブルの上の物を片付ける。
そこには、お菓子の袋や食べこぼし、ちり紙やペットボトルなどが、無造作に置かれていた。
これをやるのは、ユズお姉ちゃんだけであるから、本来モモはやる必要は無いのだが、それでも進んでこなすのが、良い子であるモモという人物なのである。
モモはゴミ箱を持ってきて、袋やちり紙を摘まみ上げて、中に詰め込んでいった。ペットボトルは中身が残っていたので、シンクに出して別の袋に入れる。
全てのゴミを無くしたら、あとは細かい汚れを台拭きで取る。ピカピカに磨きあげたら、仕上げにリンゴお姉ちゃんの所に行く。
「リンゴお姉ちゃん」
お礼を言って貰いたい、なんて子供染みた理由ではなく、単に現状報告としての意味合いで、モモは近づいたつもりではあった。まあ、多少ホメても良い、とは思っていたけれど。
しかし、それどころか、今度はサラダ用の野菜を切っているばかりで、こちらに全く反応しない。
これには流石のモモも不満に思い、笑顔のままで、大きな声を上げた。
「リンゴお姉ちゃん!」
「はぁ……。何、モモ? いま、忙しいんだけど……」
眉間に皺を寄せて、リンゴお姉ちゃんはこちらを見た。怒らせてしまったかと思ったが、しかし、モモは恐れずに、いつものように振る舞った。
「テーブルの上は片付けました。他に何か用はありますか?」
楽しそうに、子供のように振る舞えば、母のように異常な人間でさえなければ、怒るはずがない。
変わっているけれど、そこはマトモであって欲しい。
「ありがとう。あとは盛り付けるだけだから、何もない。テレビでも観て待ってて」
ぶっきらぼうに、それでもモモの頭を撫でながらそう言った。これは誉められたのだろう。
そう思うと、体が震える。
「分かりました!」
いつもより、先程より、大きな声でそう答えた。
嬉しくなって、言われた通りリビングへと向かう足が数歩分、動いてから声が引き留める。
「あ」
不意に歩を止める。何か間違えたのだろうかと、そんなことを考えているたが、リンゴお姉ちゃんは全く別のことを尋ねた。
「ユズは何やってるの?」
そういえば、あのとき以降は見掛けていない。
「ユズお姉ちゃんですか? さっき起こして、それからずっとトイレに入っていますよ」
「やっぱり……」
何かを察したらしいが、二人よりも遅くに入って来たばかりのモモには、それを予測することは難しかった。
怒った表情で、おそらくは呆れたような感情で、リンゴお姉ちゃんは包丁を置いて、トイレのある方へと向かっていく。
時計を見ると、午前6時30分くらいだった。
モモの時間的には問題ないのだが、リンゴお姉ちゃんは部活の朝練があるため、もう10分くらいで登校しなくてはならないはずだ。
このお姉ちゃんはよく無理をする。自分を責めているみたいに、独りだけでよく頑張る。
イマドキの女子高生らしく、お化粧する暇はないけど、水泳部だから構わない、そう言っているのは、強がりではないようだった。
美人なのに勿体無い。
何か二人が話しているようだが、時間が足りないことを知った以上はそれを無視して、進んで食事の準備を始める。
と言っても、火や包丁を扱えば、もしもの時に怒られるし、手も届かないから、もっと簡単なことしか出来ない。モモは台座を持ってきて、食器棚からお椀を出して、リンゴお姉ちゃんがすぐに分かる場所に置いておく。
さらに、茶碗と箸を持っていき、テーブルの上に並べた。
そろそろ戻って来る頃だと思って、テレビを点けて待っている。チャンネルは、天気予報が知りたいだろうから、ニュースに決まっていた。
「お箸出して起きました」
それから二、三分して戻ってきた二人に、モモは笑みを浮かべてそう言った。
「ありがとう。いまサラダと味噌汁出すから」
「ふぁ~眠いぃ~……」
「いま寝ても、もう起こさないからね?」
リンゴお姉ちゃんが連れてきた、ユズお姉ちゃんは眠そうにしていて、ふらふらとしている。
ユズお姉ちゃんも、リンゴお姉ちゃんと同様に、目元まで覆っている髪の毛が整った顔を隠していて、あまりにも勿体無い女の子だったりする。
リンゴお姉ちゃんが美人なら、ユズお姉ちゃんは本来、アイドルみたいに可愛いのだ。
まあ、二人にそれらの褒め言葉は通じない。モモも理由は分かる。
日常的に聞く言葉は、あまりにも軽率で、つまらないのだ。
モモは、ユズが寝ないように肩を揺すりながら、二人の観察に勤しんでいる。
喜ばせなければ、つまらない。
喜ばれなければ、意味がない。
もう少しだけ、生意気でも良いと思うのですがね……。普段は悪態ついてくるけど、ホラー映画観たときだけ、一緒に寝よ、とか最高ですから……。