怒れる誰かは過去に言う。
私は発作を起こして倒れた。逃げ出すべき状況なのに、意識はあっても身体が動いてくれなかった。
すぐに保健室へ運ばれたから、両親がどんな顔をしていたのかは分からないけれど、きっと、心配はしていないのだろう。
あのとき見た光景を洗い流すように、私はシャワーを頭から被る。
私は不幸ではない。
昔、そんなことを施設の子に言われた。その子の両親はすでに亡くなっていて、産まれたときから独りきりだと、皆から憐れまれていた。
そう考えると、途中までとはいえ、なに不自由ない生活を送っていた私は、かなり幸せな方なのではないかと思わされた。だから、また地獄を見るのは必然ではないかと、心が諦め始めた。
彼らは何のために私を取り戻そうとしているのだろうか。次は、私に何をさせようと言うのか。
最初から私には、何もないのに。何もかもを奪ったくせに。
シャワーが床を叩く音が戻った。無音にも感じられた空間に、色が返る。
どれくらい、ここに居たのだろう。そんなことを考えながら、蛇口を捻って水流を止めた。お湯を浴び続けて火照った身体を動かして、脱衣場に出る。
タオルで身体を吹きながら、なるべく考えないように思考を止めた。そうでもしなければ、また風邪を引いてしまいそうだからだ。
寝間着に着替え、長い髪で衣服が濡れないようにタオルを首に肩に掛けて、ドライヤーでゆっくりと乾かす。
私が居なくなったら、同居人達は困るのだろうか。……いや、そんなことはないだろう。
モモは年齢のわりにしっかりしているし、ユズだって、普段はだらしないけれど、取り組めば人並み以上に出来るのだから、たぶん大丈夫だ。私よりも大丈夫だ。
髪はまだ乾ききっていなかったが、最後までやるよりも、今は早く眠ってしまい、全てを忘れてしまいたい気分だった。今の私が口を開けば、苛立ちで同居人達を傷つけてしまいそうだったから、さっさと消えてしまいたい。
私は肩にタオルを掛けて、足早に廊下を歩き出す。
「あ、リンゴちゃん!」
居間でテレビを観ていたユズが、こちらを見て楽しそうに言う。ここで無視しては意味がないため、私は反応せざるを得なかった。
緊張しながら、私はユズに尋ねた。
「何よ? 人の顔を見るなり、名前を呼んで」
少し厳しい言い方だったのだろう。傍らに居たモモの表情は、僅かに恐怖していた。
しかし、ユズだけは気にしていないのか、いつも通りの笑顔で返す。
「今ねぇ~、モモちゃんと哲学してたの~」
「そ、そんな大袈裟な話していませんよ!?」
また会話を飛躍させたようだ。いつものことだが、モモはまだ不馴れなようで、かなり動揺している。
ユズがそのような話を切り出すことはないため、モモが言い出したのだろうけど、随分と変わった話題だ。
私は首を傾げ、モモに尋ねる。
「哲学? 小学校で、そんな宿題あるの?」
この聞き方も悪かったのか、モモは私の顔色を伺いながら答えた。
「い、いえ。その……、よくドラマだと、必ず悪い人が居るので、何故だろうなと思いまして……」
その様子を楽しそうに見つめるユズは、悪戯が過ぎる。後でお説教をしてやらなければいけない。
最後になるかもしれないけど。
とりあえず、モモの疑問に答えようと私は考えた。テレビ画面の向こうに、悪い人がいる理由……。
「それは、そちらの方が面白いからでしょ?」
思い付いたのはそれだけだった。少し余裕が無かったとはいえ、あまりにもセンスが無い。
ユズが僅かに困惑しながら、助け船を出してくれた。
「リンゴちゃん、それはそうだけど、モモちゃんが聞きたいのは、そういうことじゃないと思うよ~?」
分かっているのだが、まあ、私では力不足なのだ。
「……面倒ね」
思わず声が出てしまった。
「ごめんなさい」
瞬間、申し訳なさそうにしているモモに、リンゴは内心慌てながら、訂正に口を動かした。
「モモは悪くないわよ。ただ、もどかしいだけよ」
なるべく優しくモモの頭を撫でると、柔らかい髪の毛が指に触れる。まるで人形のように可愛らしいその姿は、私には無い要素ばかりが目に入った。
「犠牲なんてない方が、楽しく無いのでしょうか?」
まるで、自分のことを言われているような気がした。いや、正確には自分ではなかった。
「それが人間だからねぇ。下が居れば、安心できるんだよぉ~」
ユズは言う。
私は昔、犠牲にしたあの子のことを思い出す。辛いと泣いて、暗いと怒って、逃げろと責めたあの子の声は響かない。
「犠牲なんて、拒めばいいのに」
拒めなかった私はそう言った。まさしく無様な私は、モモの頭から手を離し、自室に向かおうと身体を動かした。
こんな二人に、私が助言する意味など無い。
その時、モモが立ち上がった。
「今度、お話を聞いてみます」
驚いて、彼女の顔を見ると、そこには自信の色が存在していた。
「犠牲なんて、ドラマだけで十分ですから!」
そう言って、何かを決意した様子で歩き出す。ユズは何かを悟ったのか、楽しそうな笑みを作ってそれを見送る。
「……モモちゃんは、ヒーローになるんだねぇ~」
どういうことなのか、居ないモモに尋ねることも出来ず、私は立ち尽くす。
そのとき、ユズと目があった。
「リンゴちゃんみたいな、ヒーローに成れたらいいよねぇ~」
いつものように、私の居る目の前でお菓子の袋を開ける。
私は、彼女達のために成れたのだろうか。
私のような人間が、私を捨てた人間が、ここに居ても良いのだろうか。
私は、胸に手を当てる。熱く、叫び続ける声がようやく聞こえた。
ユズの手から袋を取り上げ、私は笑う。
「この時間に、お菓子はダメだからね」
「リンゴちゃん、きびしぃ~……」
項垂れるユズの頭を、そっと撫でる。もさもさして、撫で心地は微妙だった。
■■■
「決めたんだろ? もう理事長には話をつけてあるんだ」
「早く行きましょ。貴女に会いたいって人が居るの、会わせてあげるんだから」
彼らは私に向かって、懐かしい声を並べている。目は窪み、少しやつれた様子からは、檻の中での生活を伺わせた。
冷たい床も、暑い室内も、私はもっと昔に経験した。
「私は、アンタ達のところには行かない」
はっきりと、生まれて初めての反抗を見せると、彼らはまるで異常なものを見るかのように狼狽える。
「ふざけるな。まだ未成年なのに、一人でやっていけると思っているのか?」
「そうよ、貴女にいったいどれだけの価値があると言うの? これからどれだけ稼げるの?」
彼らの視界には、私は居ない。女の形をした人形を、売りに出せる従順な奴隷を、目の前にしての発言だった。
これではっきりした。いや、ずっと前から知っていた。
「ふざけるな、誰が行くか。このクズッ!」
彼らに愛情はないのだ。この言葉は頭に来るだろう。
男は怒りの形相で、私に近づいた。その表情は、かつての親に似ている気もしたが、昔ほど大きくは感じない。
「リンゴっ! お前を育てたのは―――ッ!」
ドゴン。そんな音を奏でて、男は床に伏せた。
女の叫び声を上げてから、私を睨み付ける。かつての親に似ている気もしたが、昔ほど鋭くはない。
私が睨み返すと、女は静かになった。
「私は、お前らなんかと一緒に居たくない!」
声を張り上げた。小さな空間に響くそれは、地面を揺らしたかのように思えるほど大きな声だった。
彼らはこちらに敵意を見せている。でも、私は負けない。こんな奴等よりも、私はもっと怒っている。




