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川越ゆる姫

作者: 川越ゆる姫

 たぶん、久世沙弥花は事の結末を知っていた。きっと彼が、姫様に至るということを。


「夜分遅くにすいません。私、鈴閃丘高等学校二年、長唄部津軽三味線パートの尾上凌と申します。沙弥花さんは御在宅でしょうか」

 二日ぶりに耳にする声からは、押し殺した焦燥の香りがした。あぁ何かあったのだな、と推し定めるには充分すぎた。

 沙弥花が学校を不在にしたこの二日間で、遂に離反者が出たのだろう。メッセンジャーが彼だというだけで、代役に立てた己の副部長がどう振る舞ったのかがよく分かる。

 三津宮嘉曜が自発的に事態の収拾に乗り出す性質ではないということぐらい、この一年と少しで理解しているつもりだった。己が性格と全く正反対な人物を副部長に据えれば、事に当たるに際して違った視点からアプローチができるのではないか、と考えての人選だったのだが。

 どうやら沙弥花が不在であったがために、異なる立場云々以前に一方向からの態度しか取りようがなかったらしい。それもそうか、と既に成ってしまった展開を半分諦め、沙弥花はのっそりと口を開いた。

「私です」

 答えると、彼は珍しく狼狽える。まるで、まだ心の準備ができていなかったかのように息をのんだ。

 彼をそこまで狼狽させ得る人物。あの黒目がちの、どこか幼げな印象を与える――それこそ本当に、津軽三味線なぞより琴を爪弾く方が遥かに良く似合いそうな長唄部の部長を思った。肩より少し長めの黒髪、時折不愉快そうに顰められる眉。冷静そうに見えて感情的で、激情家なのに落ち着き払った相反する印象を与える彼女。

「平藤なの?」

 けれど、問うたその名は否定される。心臓が冷い手でギュッと掴まれたような、胃がフッと持ち上げられたような、そんな心地がした。いやに気持ちが悪かった。

「いや、柴瑪だよ」

 鈴閃丘高等学校二年、アイリッシュ・ハープ部部長の久世沙弥花はこの晩、重度の貧血と精神的なショックに苦しみながらその報せを聞いていた。

 体を支えるように壁についていた手が恐ろしいほどに白く冷たいということは、沙弥花が一番知っていた。そして固定電話の受話器を握った利き手が緊張でぶるぶる震えていることも、ちゃんと認識していた。

「うちの部長殿が、セレモニーの祭祀に関する議題を優先させようとして。優先順位が違うだろうって柴瑪が」

 祭祀と聞いて。脳裏に、あの懐かしい匂いを纏った姫様がちらつく。

 きっと彼は、姫様に辿り着く。

 そう思った瞬間、初めて嫉妬した。昨年の春からこっち、初めて抱く類の感情だった。

「一応耳に入れておこうと思って。そうだ、鳥谷先生の英作文は来週いっぱいまで締め切りが延びて――」

 そうして、彼は昨日今日のよもやま話を始めた。

 その瞬間、沙弥花は瞑目する。それまでと相も変らぬトーンで相槌を打つものの、一刻も早く受話器を置きたいと思っている己が確かに居るのを感じる。なんて冷たいのだろうかと思うが、どうしようもなかった。

 ここ数か月、いつもこうだったような気がする。誰かが沙弥花に喋りかけているのに、一刻も早くその場から退散したくなる感覚。一緒に出掛けた友人と一刻も早く別れてしまいたくなる衝動。笑顔を作って応じたいのに、上手く作れないもどかしさ。

 苦痛だった。人の目を見るのも、己が喋るのも、話を聞くのも。一人きりで校内を歩きたかった。誰とも挨拶することなく、言葉を交わすことなく生きたかった。誰もが目に入れても立ち止まらないような、誰とも知られぬ墓石になりたいと思うのと似た願いを抱いていた。それもこれも、姫様と近づき過ぎた所為だということも分かっていた。

 でも、離れられなかった。



 結んで、パッと放つ。

 ただただこの所作の繰り返しだけで音楽を奏でられるということが、凌はいまだに信じられない。本当に、弦を緩く握って放すだけで女神の秘密話のような音色が奏でられるものなのかと。この一年と少し、奏でる本人以外では恐らく最も長く調べを聞いてきていたが、それでも。どこか現世ではない世界の、一番大切な秘め事を漏れ聞いているのだと思わせる魔力を有していた。彼女の音には、凌を惹きつけてやまない力があった。

 文月中旬の、午前六時過ぎ。

 「夜明け前の闇が最も深いのだ」と歌ったのは誰だったのかは、もう思い出せないけれど。空が白み始めたと感じた瞬間のこの調べが信じられないくらい儚く感ぜられることは終生忘れられそうにもない。この音色があと一年もすれば聞けなくなるのかと思うと、胸が締め付けられるような心地がした。

 けれど、凌のもっと聞いていたいという願いを裏切って。空気が夏特有の湿った暑さを纏い始める頃に、彼女は弦に両の掌を添えてしまった。ハープを肩からずらし、しっかりと両足で立たせてから立ち上がる。弦から離れた白い手が名残惜しい。

「あと一時間は大丈夫だけど?」

 ホームルームの開始時刻まで、あと一時間半ほど残されていた。

だが二日ぶりに触れているから良い音が出せていない、少なくとも、彼女が満足いくような域の音色は。だから今朝はもうやめにしてしまうかもしれないなと少し残念に思った。

 彼女はひたすら一心に奏でるよりも、他で気を紛らわせてから向かった方が良い音が出せたりするのだ。知っているのはハープ部員でもない凌ただ一人だった。

 幼い頃からピアノやヴァイオリンに馴れ親しんできたという人間が多い中でそういった事を公言するのは憚られるのだ、と以前言っていた。

 大切なのはメリハリ、時間より質が大切だと公言するには精神的に越えなければならないハードルが高すぎるらしい。この学校の雰囲気を思えば、解らなくもない理論だった。

「七時にゆきを呼んでいるの。教室の換気ぐらいしておいてあげないと」

「起きられるの? 彼女」

 低血圧が祟り、結構な頻度で一時間目は真っ白な顔で黒板を写している文芸部部長を揶揄する。すると彼女は凌に向き直った。

 あ、来るなと思うが、特に避けたくなるような問答でもないか、とこの一年半の間幾度となく繰り返してきた遣り取りに少しだけ背筋を伸ばす。

 彼女が凌の眼を射抜くように見据えた。時折彼女が口にしているほどは悲観する必要のあまりない、そこそこ整った理知的な顔立ちをしている。けれどもどこかかまいたくなる顔立ちであるように思ってしまうのは、雰囲気の為せる技なのか。だとしたら相当お得な顔だった。

「ゆきが間に合おうが間に合うまいが、私が遅れるわけにはいかないの。呼んだのは私、来てもらうのも私、ね?」

 この一年半で何度も目にしてきた、どこまでも果てしなく己に厳しい彼女の言葉。周囲にそれを強いることは基本的になかったが、あの雪の入試会場で、何か悲しくてオレンジジュースを半分こにしたときから、凌にだけは押し売りよろしく強いるのだ。

 「諦めなかったのは私の意思よ。誰も私に、鈴閃丘を受けろなんて言わなかった。でも私は言いたくなかった。病気をしたからこの高校しか受かりませんでしたなんて、私言いたくなかったもの」。その半年前に大規模な開腹手術を受け、ひと月以上入院していた中学生が言ったとはとても思えなかった。けれど彼女の痩せた頬が、蒼白と形容して差し支える点が見いだせない顔色が、それが事実だと雄弁に語っていた。

 ここまでの苛烈さを、入試会場に置き去りにされたマフラーを届けただけのライバルに。出会っただけの袖振り合っただけの、下手をすればただの一期になりかねないような輩に向けてくるような少女を。彼女以外に知らなかった。

 その言葉で、あの三月の初旬の大雪に何かが悲しくなって、だから互いに六十円ずつ出して自動販売機のオレンジジュースを半分ずつ飲んだ。

 親しくない人間は、彼女を真面目だと評してきた。少なくとも凌の知る限り、彼女は気さくな風を装って大抵の人間とそこそこの関係を築けるくせに、素を出せる人間関係を作るのが恐ろしく下手だった。飾らない言動や演じない遣り取りをするのが、見ているこちらが痛々しくなるほど下手で、何より本当に辛そうだった。

 この人にはこう見られたい、この人にはこう評価されたい、という幼くそして切実な願いがあまりにも強く彼女の根底に根を張っていて、それでいつも苦しそうで寂しそうだった。彼女は、凌の知る素の彼女は、本当にがっかりするほど不器用で、心優しい少女だった。

 けれど時折失敗してのぞかせる不器用さは、彼女が「わざと」そうしたかのように受け取られた。「あんなに良くできる人」がそんなしょうもないミスを犯すはずがないと周囲は言った。だから彼女は気を抜けなかった。素でやらかすうっかりは許されないのだから、彼女はミスを犯さないために一切気を抜くことが出来なくなっていった。

 彼女は追い詰められていた。彼女自身、きっともうずっと前から気付いてはいたのだ。でもその瞬間楽しく喋っている己が、本当は何かに押しつぶされそうになっているという事実を彼女は受け入れられなかった。

 彼女にとって久世沙弥花という己は、どこまでも裏表のない、一貫した信念のもとに在る人間でなければならなかったから。

 だから彼女がもうどうしようもないほど追い詰められていて、本当は校舎移転のあれやこれやの騒動に付き合っていられるほどの精神的な余裕がないことを知っているのは。恐らく鈴閃丘の中では凌一人だけだった。

 少なくとも、凌はそう信じていた。

 盟友と称される文芸部部長の柴瑪ゆきも、マンドリン部部長の伊波秋穂も、長唄部部長にして祝祭委員会の委員長をも務める平藤雉古も、一人として彼女の危機的な精神状況に気付いている者はいなかった。

「それで、尾上君。一体平藤が何て言って柴瑪を怒らせたのか、教えてくれる?」

 射抜いた凌の瞳が何を考えているのか探るのをやめないまま、彼女は言った。「平藤」、と苗字の呼び捨てで言ったのは彼女が少々怒っている証拠だった。本気で怒ると「彼女」と言い始めるのだが、困ったことに本当に好きな人のことも三人称で「彼女」と表するので頭を悩ますところだ。

「まぁ、久世さんの想像で七割五分がた合っているとは思うけどね」

 すると彼女は凌の言葉に薄く笑う。少しだけ照れたような、複雑な笑みだった。

 今年度、鈴閃丘高等学校の文化祭・蜻蛉祭は長月の末に開催される。例年であれば霜月の中旬に開催されるから、実質ひと月半ばかし前倒しとなっていた。これは十二月の末に実施される、老朽化した校舎を川向こうに移転するための引っ越し準備期間の確保を目的とした変更で、年の瀬が二学期の期末テストと文化祭とでてんやわんやしないようにとの配慮の為された結果だった。が、この決定が拙かった。

 例年とは異なるペースで動くよう指示された祝祭委員会には、例年通りの動きでこなそうとする文芸部部長の柴瑪ゆきが腹立たしく感ぜられたらしい。


「移転行事のセレモニーで演奏する曲って、今決めなきゃならないの? 平藤」

 不快感を隠してみるとかオブラートに包んでみるとか()しくは歯に衣を着せてみるといった、そういった類の努力の跡が一切見出せない声色だった。

 凌がしまったと思ったときにはもう遅かった。柴瑪ゆきは、切羽詰っている蜻蛉祭よりも移転行事を優先した凌の部長殿に苛立っていた。

 一方、県外遠征に出ていて暫く掴まえられなかった合唱部と競技カルタ部が帰還したことを受けて、部長殿は移転行事関連で決められることはさっさと決めてしまおうとした。翌日には短歌部と書道部の大会と県外での展覧会が予定されていたので、この場で決めてしまうしかなかった。しかし、選んだ言葉が悪かった。

「祭祀優先は気に入らなくて? ――鈴閃丘が鈴閃丘足るために、最も希求されるモノでしょう?」

 平素の物言いから考えても何ら不自然な発言ではなかった。だが、柴瑪ゆきには耐えられなかった。

「ふぅん? 校舎移築は真面目で、蜻蛉祭はお遊びだと。真正面から姫様が絡むと違うのかね?」

 定期演奏会や外部遠征などは滅多にない文芸部。なかなか本気で文筆家を目指す人間が本腰を入れて取り組む蜻蛉祭、をコケにしたかのように聞こえる物言いが拙かった。

 更に良くなかったのは、蜻蛉祭は各団体がほぼ均等な分担で計画・実施を行い祝祭委員会はあくまでもそれを取りまとめる存在であるのに比べて、移転行事は祝祭委員会が殆ど全ての権限を一任されているという点だ。

 その祝祭委員会の長である部長殿を「姫様」呼ばわりしたのが致命傷となった。

 互いに謝罪を入れない強情さに嘆息した柴瑪ゆきは、「付き合っていられないから」と会議室を去った。そして性格を鑑みるに、沈黙を守っていたというよりは単に発言の順番を行儀よく守っていただけのように思われるマンドリン部部長の伊波秋穂がとどめを刺した。

「まぁさ、平藤。論理も言い分も間違っちゃいないけれど、やっぱり祭祀云々はね。私達も、今回は引いてみようかな。ゆき一人にするのはなんだか仲間外れにしたみたいで後味が悪いし」

 と。いや、「仲間外れにしたみたい」ではなく柴瑪ゆきが勝手に抜けただけだとは発言できる雰囲気ではなかった。強豪と名高いマンドリン部を纏め上げるだけの才覚を有した人間は、やはり迫力が違った。


 結局、文芸部は今年度の蜻蛉祭と、霜月初旬から順次予定されている新校舎移転に関するすべての行事への参加・協力を全面的に拒否。そして祝祭委員会委員長・平藤雉古の発言に反発したマンドリン部部長の伊波秋穂も蜻蛉祭と新校舎移転に関連する全ての行事への参加・協力を全面的に拒否するに至ったのである。

「このまま柴瑪を宥められなかった場合、蜻蛉祭についてはまぁ、音楽系団体は各自ステージ発表だけだから何とかスケジュールの穴埋めは可能だ。でも新校舎移転関連行事、特にセレモニーでマンドリン部に抜けられるのはかなり痛い」

 縦しんば長唄部から津軽三味線と琴パートの両方の協力が得られたとしても、アイリッシュ・ハープ部との三楽器で校歌の伴奏をするのはなかなか厳しい。

 凌が言うと、そうかしら、と彼女が口を開く。

「なんだか文芸部が抜けても大したダメージではないみたいに言ったけど、実は文芸部の不在ほど響くことってないのよ」

 文芸部不在が痛い、とは一晩事態に頭を悩ませても出てこなかった解なので凌は軽く目を見張る。

「だって文芸部には――」

 そこまで言ったところで彼女は焦って口を噤む。

「ごめん、守秘義務がかかっているの」

 はぐらかさずにきちんと謝る辺りも、彼女らしい。彼女が「言えない」と言うのはいつも決まって、鈴閃丘高等学校のそこそこ長い歴史の中で、「男子は組織の長に立たない」といった類の暗黙の掟に関する事項ばかりだった。

 だから凌は、いつものようにしゃらっと笑って流す。この笑顔が彼女の救いになり得るのならと願っての、まじないのようなものだった。



「あなたの申し出は、容れることができません」

 一年以上、文化部の同級生同士として、そして文芸部員としても肩を並べて行事の度に奮闘してきたつもりだったのだが。

 一切躊躇わずにここまで言い切った彼女が前言を翻すことはまずない、と沙弥花は重々承知していた。重ねて説得しても何も生まれない。悪くすれば、彼女との溝を広げかねなかった。

 わざわざ早めに登校してもらったことに感謝の意を伝え、沙弥花は教室を後にする。頭の中では彼女との会話を反芻していた。「わたしも折れられないし、多分それは平藤も一緒」。「こういう展開を止めたかったのなら、副部長に三津宮はよすべきだった」。「本気で文芸部を取り戻したいのなら、私の首を落として沙弥花が長になれば?」

 彼女の言葉は、一つ一つがとてつもなく深く突き刺さった。どれも沙弥花が承知していたことだったからこそ、余計に。

 沙弥花がアイリッシュ・ハープ部の部長に、そして彼女が文芸部の部長となったのは、それが最も良い人選だと沙弥花と彼女が判断したからだ。

 沙弥花よりも、悔しかったが彼女の方が文芸部を率いるのにふさわしかった。沙弥花のように身体も精神も不安定な人間よりも、彼女のように自論を少しも妥協しない人間の方が向いていると思ったのだ。事実、彼女は強かった。

 「自分が書いた作品に矜持と愛情と持て」と言って誰が相手であったとしても一歩も引かなかった。児戯に等しいと、どれだけ馬鹿にされても少しも怯まなかった。けれど己が得心した意見はどんどん取り入れる。そういう直向きな強さが彼女にはあった。

 時折、心が折れそうになっていたようにも思う。けれど少しも危げのない、しなやかなプライドが彼女を支えていた。沙弥花には無いものを持っている。妬ましくもあり、同時に憧れ惹きつけられてやまない人柄だった。

 だから沙弥花は文芸部の長にはならなかった。彼女の方が沙弥花よりもずっと本気だったから。悔しかったけれど、心底悔しかったけれど、揺るがしようのない事実だった。文学の何たるかをはっきりと掴めていなくても、命を擲てるような熱情を持ち合わせていた。

 鈴閃丘では行事を実際取り仕切るのは二年生、それも部活と委員会単位がメインになる。部活と委員会への加入率がそれぞれ九十五パーセントを誇る高校であるが故に、クラス単位での参加は皆無だった。そもそも部活と委員会を掛け持ちしている生徒が大多数。何れにしても加入していないのは、勉学にだけ打ち込みたいという強者か、将又授業に完全において行かれたために放課後は予備校に通わざるを得ない状況に追い込まれたほんの一部の生徒であるかのどちらかであった。

 クラスのつながりよりも、部活や委員会でのつながりの方が強く、自然、親しくなりやすかった。だから、彼女のプライドの高さと頑なさはよく知っていた。それでも図り損ねたから、彼女にこう言わせてしまったのだということが悲しかった。沙弥花の落ち度であることは疑いがなかった。

 少なくとも沙弥花はそう思った。もう、共に姫様のもとに参じることはないのだろうなと思うと、己にとってこの一年と少しが如何に大切な時であったのかが身に染みた。



「一体如何なさるおつもりなのですか、部長殿」

 今日もジリジリと地を焼いてくれた太陽が、堤防の向こうの山の端にかかる頃。彼は雉古に向かって毒を吐くかのような口調で言った。

 いつも、雉古の総てを否定するかのような態度で臨んでくる。それが不快なのかと問われればそうではないと強がれないでもなかったが、悲しいか否かと問われれば悲しいと即答出来るぐらいには苦痛だった。

「柴瑪のこと?」

 昨日の放課後、雉古が放った一言に激昂して会議を後にした女。雉古から見る限り、柴瑪ゆきは女子生徒と形容するには忍びないほど堂々とした雰囲気を有している。祝祭委員会の長という任を与え――もとい負わされるだけの有能さを認められた雉古から見てもそうなのだから、県内屈指の進学校として名高い鈴閃丘高等学校の大抵の生徒からしても、ひょっとしたら恐ろしい何者かという印象すら与えかねない存在だった。

「部長殿は昨日、柴瑪は放っておけと仰いましたが」

 嫌味なほど非の打ち所のない敬語で、極めつけに部長殿と呼んでくる。今日は彼女が登校していたことを思い出し、何と言われるのかはだいたい想像することができた。

「文芸部長こそ手を打ちなさるべき相手だったのではありませんか?」

 雉古は彼の眼が嫌いだった。よく観ているようでその実自分が好きなものにしか興味を抱かず、それ以外は観ようともしないあの双眸が嫌いだった。

「へぇ。久世がそう言ったんだ」

 雉古が躱すと、今度は彼が躱して言った。

「マンドリン部よりも文芸部の協力が必須なのではないのですか?」

 どうやら彼女がいつものように口を滑らせたらしい、と判断できた。あの策謀に満ちた双眸と、凡庸さをにじみだした風な演技。半ば本気で、けれどそれなのに半ば無意識のそれらが、雉古はまた嫌いだった。尤もこの場合の嫌いは苦手と置き変えても強ち間違ってはいなかったのだが。

 好きなものしか観ようとしない彼、意識と無意識の間を行ったり来たりしながら演じて魅せる彼女。

 男であるが故に「姫様」の存在を知ることさえ許されない彼も、奏者でありそしてまた奏上者でもあるが故に「姫様」に触れることを許された彼女も。雉古が先達から強いられた時の重みを露知らずに、或いは知りながらも追い詰めてくるから嫌いだった。

 雉古は姫様に触れられないのに、否、御姿を拝することすら叶わないのに、同じだけのものを求めてくるから辛かった。

 彼女は、少なくとも姫様に関しては他の追随を許さない程度には天才だと思っていた。現在鈴閃丘高等学校に在籍している生徒の中で姫様と直接言葉を交わすことができるのは、彼女を除いてしまうと柴瑪ゆきだけだった。けれど彼女と柴瑪ゆきでは比べる気にもならないほど、前者が圧倒的に姫様と近かった。

「もし仮にそうだったとしても、尾上君が対処する問題ではないわ。この学校の祝祭を取り仕切るのは私で、責任を負っているのも私。だから、柴瑪と伊波をどうにかするのも私の仕事なのよ」

 冷たく言い放って、この話はもう終わりだと一方的に宣言する。部室の戸締りよろしく、と畳張りの部室の障子をタンと閉めると、中からチッと舌打ちをした音がした。

 暫く待ってみると、ポクポクとリズミカルな――昨今欧米諸国で流行っているようなロックに近いテンポが聞こえてくる。腹が立って頭を冷やしたいとき、逆に頭を真っ白にしてしまいたいとき、長唄部なのに何故か一つだけ部室にある木魚をロックまがいのリズムでポクポクするのが彼の半ば日課と化していた。随分と生徒がはけた校内に木魚のロックが鳴り響くのは、いつ聞いてもなかなか面白かった。

 すっかり暗くなった廊下を、雉古は躊躇うことなく昼間と同じペースで歩く。公立高校故、なのか午後八時以降は廊下の照明はなるべくつけないようにとのお達しがあったせいで殆ど真っ暗な廊下を雉古は歩く。北側の昇降口にある下駄箱で靴に履きかえると、グランドの真ん中に彼女が立っていた。月を真上に頂いて、こちらに気付いて笑ったようではあったが、逆光のため雉古にはよく表情が見えない。

「お待たせ」

 雉古が声を掛けると、彼女は再び、どうやら今度はふんわりと微笑んだのが判る。相変わらずその場その場にふさわしい笑みを作るのが上手なことだ、と感心半分嘲り半分で視線を向けた。恐らく今この瞬間も雉古のことをその素晴らしい観察力で推し量って、どう振る舞うかを考えているのだろうなと思うと少し悲しい。

 嫌いで苦手なのは、演じずにはいられないのであろう、作らずにはいられないのであろう彼女に壁を感じるからだった。それなのに、今日だけは。先程彼に対して抱いた悲しみとは些か異なるこの痛みが、けれどどこか心地良い。

「それほど待っていないわ」

 昼間の灼熱地獄が堪えていたのだろう、少し気だるげな声色で彼女は応える。

「でも、さっさと行きましょう? 雉古が奏でてくれるといっても、なかなか長丁場になりそうだから。ゆきが居てくれたら全然違うのだけど――」

 まぁ、言っても仕方がないよね。

 そう言って、一切着崩していない上下紺色のブレザーのスカートを、夏の宵の風に僅かに翻させて彼女は息を吐く。

 どことなく顔色が悪そうだとは思ったが、雉古一人ではそもそもお姫様に起きていただけるかどうかも怪しかったので気付かなかった振りをした。これが最後にならなければいいのだが、と何故だか胸のどこかで小さく思った。

 公立高校でありながら校舎の改修工事ではなく川向こうへの校舎移転が可能であったり、各部活動への補助金が潤沢であったり、さらには県下屈指の名門校として有名であったりするのは、鈴閃丘高等学校の歴史の長さだけに由来するというのでは決してない。歴史や輩出した各界の大物も勿論こういた状況をお膳立てするのにかなり役立ってくれてはいるのだが、一番の理由は人材ではなく、更に言ってしまえば歴史などという漠然としたモノなぞでもなかった。

 雉古の前を歩く彼女は、雉古と違って少しもこの場所を恐れていないようだった。北門の脇から主に東側へ広がる竹藪の小路を危なげなく歩を進める。結構なスピードで二十分ばかり歩いたところで、彼女は歩みを止めた。そして雉古はふと気づく。周囲はいつの間にか、竹藪から森へと変わっていた。画一的な林ではなく、多種多様な動植物が複雑に絡み合って生きる、森へ。

 その墓は墓石などではなく、れっきとした古墳だった。丘のように盛り上がった土は、草木にびっしりと覆われている。

 いつも、目の前にこの墓が現れてから森になっていることに気付く。そしてどこまでが竹藪でどこからが森なのかを知らないから、入り口から墓までの距離が判らないし、正直方角にもあまり自信がない。

 「鬼門の守護なんだからそりゃあ北東だよ」、と先代の祝祭委員長は語ったが、方向感覚自体が狂わされるようなこの場所でそう言われても正直如何ともしがたかった。

 この墓に関することをこの場以外で話すのは何となく憚られて、けれどここで私的な話をするのも躊躇われるので一度も問うたことはないのだが、柴瑪ゆきや伊波秋穂もあまり先頭を歩きたがらないのは、つまりそういうことなのだと思っている。

 やはり祝祭委員会の長には彼女の方がよほど相応しかったのかと雉古が臍を噛んでいると、彼女が振り返った。

「それは違うよ、雉古。私じゃ、お姫様に近すぎて奏者や奏上者のままではいられないから。だから雉古が適任なの」

 と、突然雉古の心を読んだかのように脈絡のないことを言い出した。しかも事も無げに、「私では法を越える」と言い切って。

 言葉を失っていると、彼女は雉古を無視して羨道への扉を開けた。顕になった羨道が風雨に曝されるのは忍びないから、と学校の予算を拝借して付けたドアだった。身を少し屈めて彼女は羨道へ這入る。雉古もそれに倣った。



 玄室の棺の中には、銅鏡が一枚納められているだけだ。片手で持ててしまうような、小さなものだった。生前の姫様が愛用したものなのかどうかまでは知らないが、姫様のためのモノなのだということは言われずとも知っていた。

 鹿野川の西岸から、舟でこちら側に遺体を渡そうとした際に竜巻に襲われて転覆し、遺骸が失われてしまったためだという。

 護岸工事が為され堤防が整備された現在でも、確かに鹿野川は荒っぽく男性的な印象を与える川だった。古墳が墓であった時代であれば尚更だろう、と沙弥花は初めてその話を聞かされた昨年の春を思い出していた。新品の制服に糊が効き過ぎていて、少し窮屈に感じていたことも一緒に思い出す。

 奏でることのできる娘と言葉を届けることのできる娘には、お姫様と関わり合いになる権利――もとい、義務があった。彼女も柴瑪ゆきも、伊波秋穂も三津宮嘉曜も、そして沙弥花だって、その素質を見出されたから奏で、奏上させていただいていた。

 そこそこの広さがある玄室の隅に置かれた津軽三味線を抱えて、彼女は座す。視界の端で確認してから、沙弥花は瞼を閉ざし、スゥッと深く息を吸った。かび臭さが鼻につくが、それはいつもほんの一瞬で。今回の奏者は彼女だから、ベン、と津軽三味線が弾かれた瞬間に嘘のように感じなくなるであろうことを沙弥花はよく知っていた。

 一年と少しでよくぞここまで、と聞き入ってしまう程度には上達したなと思う。何故かしょっちゅう沙弥花の練習を聞きに来る尾上が言うには、「センスの無さをストイックさでカバーする性質だ」ということだったが、練習量であの絶望的だった音色をここまで持ってこられるのなら本当に大した才能なのではなかろうか。幼少期から琴を嗜もうが津軽三味線はまた別物なのか、と妙に納得したことも一緒に思い出す。

 彼女が一曲弾き終えると、沈黙が生じた。残念ながら彼女がただの一度で、それも独演でお姫様を起こし申し上げたことはまだない。それを言ってしまえば数度とはいえ成功したことがあるのはこの二十年間でそもそも沙弥花だけなのだが、だからこそ身体も精神も保たなかった。近過ぎた。もはや此岸には留まっていられなくなるほどに。

 もう一度だろうか、とゆっくりと目を開いた瞬間、首もとにずっしりとした重みを感じ、次いで温もりに触れた。艶やかな黒髪がさらりと床に流れ、懐かしい香りが漂う。

 黄色がかった白地の、少しゴワゴワとした手触りのワンピースを着ているのだなと思った。

「お姫様」

 抱きついてくるそのやわらかなモノに向けて、沙弥花は奏上する。

「奏上したい旨が御座いまする故、参りました」

 沙弥花の常よりも幾分低い声に、その温もりは促すように沙弥花にさらに強くしがみついた。

「この年の終わる頃、我らは西へと向かいます。姫様、貴女の御神体となっている、この銅鏡と共に参らせませ」

 校舎が対岸へ移るのは、そもそも姫様の許可を得てのことだった。さらに正確に言ってしまえば、この姫様の寂しさを埋めるための移転だった。これまで姫様は己への哀悼の意を込めて作られた墓で一人、己の遺体がないことに悲しみを抱きながら耐えてきた。此方の東岸には生前の思い出もなく、縁ある場所もない。では翻って、彼方の西岸はどうか。鹿野川の西岸で生きた姫様は、彼方に移りなされば心の空白を埋めることができる。しかし、遥か昔にこの世のものではなくなってしまっている存在を。魂をおいそれと移動させることは出来ない。ならば――。

 十分に場の雰囲気に姫様を馴染ませたうえで、御神体と、姫様の雰囲気を受け入れている者らを川の向こうへそっくり移してしまったらどうなのか、と。

 それが戦後間もない頃に持ち上がった話だ。病気療養のためにこの地を訪れた良家の子女が、森の中の小山だと思い誰も気に留めていなかった墓に入り込み、姫様と出会った。出生率の増加に伴って不自然さを誰にも気づかれぬまま学校が建てられ、依代たる生徒が通うようになった。そうして半世紀、時が満ちた。

 今宵、本来であれば沙弥花が無理を押して奏上する必要性はない。けれど、一つ問題があった。

 現在、姫様と関わり合いになることができる生徒はそう多くはない。言うまでもなく沙弥花は現在の一年生と二年生の中ではずば抜けて適正が高かった。奏上者足り得るのは、沙弥花を除けば柴瑪ゆきだけだった。久世沙弥花が居れば、新校舎への移転も恙無く行えると皆踏んでいた。しかし。

 明日も本当に登校できるのだろうか、と医師の言葉を疑いたくなるのも仕方がないほどに。身体はもう限界を訴えていた。

 それでも学校に在ることを選んだのは沙弥花の願いだった。ギリギリまで、父ではなく姫様の傍らに在りたいと望んだのは沙弥花だった。本当は、もう墓に足を踏み入れるべきではなかった。近づけば近づくほど、呼吸を止める瞬間がリアルになってきていた。今この瞬間だって、刻一刻と。

「姫様。私は降ります。ですから、今宵で最後です。次の宵は御座いますらねば」

 そう絞り出したような声で言うと、腕の中の温もりは今宵初めて口を開いた。

「あと八月残っているのではないの? お前たちは三度目の春を前に我が前を去る。まだ、竪琴の音に飽いてはおらぬ」

 嫋やかで品のある声色。少し厚めの唇とふっくらとした白い頬。沙弥花は何度も拝した尊顔を思い出して熱い眼を閉じる。写真に残る、若い頃の母に似た花の顔。

 かねてよりもう一度と望み、今となってはもうよく思い出せないあの笑みが腕の中に在るのだと。心が震える。

 沙弥花を膝に乗せて抱きしめて、優しく歌って眠らせてくれたあの声を忘れきってしまった頃に、表情を思い出せなくなっていることに気が付いた。

 失ったのは。本当の意味で喪ったのは、あの時であったような気がする。

 だから。姿形という視覚的なものではなく、匂いと温もりと重みを残そうとしてくれる姫様が愛おしかった。抱きしめてくれる痛いほどの強さが嬉しかった。

 あまり声をあげて笑ってはくださらないという触れ込みだった姫様が。沙弥花の、下手糞で外してばかりだったアイリッシュ・ハープの演奏を聞いて吹き出して。恥ずかしそうにしながらも笑んでくれた、あの日の笑顔も忘れ難いけれど。今日のこの温もりは、何にも代え難かった。

「お暇を。どうか、私のお姫様」

 瞳を閉じて感じる姫様は。ゆかしくて懐かしい、あの女の匂いがした。川のこちら側ではもう二度と見られなかったはずの母の顔を、何となく描けるような気がした。

 だから沙弥花は離れられなかった。仮令己がそれによって命を喪うことになったとしても。会えると知っているのに避けられるほど、大人にはなれなかった。

 文芸に全てを懸ける柴瑪ゆきであれば、生きて書いてこその文学だと、躊躇いながらも、それでも去ったのだろう。けれど沙弥花は、一度喪い、そうして取り戻したモノを再度喪うことができなかった。

 だから己は文芸部の部長には向かなかったのと、ならなくて正解だったのだと踏ん切りをつけられた。

 どこかで、ゆきを妬んでいた。けれど端から文学へ向けた心の質が違ったのだから、仕方がなかったのだ。沙弥花自身、アイリッシュ・ハープと文芸のどちらに対しても本気であったつもりだったのだが、結局母の面影を追って姫様を選んでしまうあたり、きっとまだ本気ではなかったのだ。音楽も文芸も己の心を救ってくれるものではあったが己を癒してくれるものではあったが、命を奉げ得るほどのものにはならなかった。

 ゆきなら、命は擲たずとも魂は売ってしまいかねないと思った。そしてその時はもうゆきを止めてあげられる場所に沙弥花はいないということも。

 でも、それでもよかった。幼い頃、美しいままで失い喪った母と在れたから。

「――沙弥花に、わたしの心をあげる」

 沙弥花と初めて名前を呼んで、姫様は沙弥花の手に何かを握らせた。薄い、円盤の形をしたひんやりと冷たくて硬いものだった。

 温もりもくれたのに、心もくれるのかと。ゆきの人生から己と姫様の両方を沙弥花自身が奪ってしまうのだと思うと、それなのに何故か幸福を感じた。



 凌が部室を後にしたのは、部長殿が部室を出てから二時間半以上経った頃だった。しかも、別に木魚でロックをするのに飽いたからではない。

 明日何と言って謝ろうか、そもそもあれってどの団体のものなんだ、と頭の中で木魚がグルグル泳いでいる。脳みそがくり抜かれて金魚鉢になったかのようだった。

「しかしまぁ、あんなに見事に真っ二つとは」

 小声で呟く。

 お寺でやらかしたら訴訟騒ぎになりそうな、由々しき事態に違いなかった。下るのは仏罰だろうか。

「部長殿の私物、ではないよな」

 「琴は嗜みだから、部活では津軽三味線にします」と宣言していた良家の子女を思い出して頭痛を覚えた。私物だったら只事では済まない。退学処分だろうか、と半ば本気で青くなった。公立高校なので有り得ない展開なのは明白であるのに、そう思ってしまった。

 北側の昇降口にある靴箱を出たところで、北門の東側に広がる竹藪に人影を認めた。まだお盆には早いが、せっかちなご先祖がうっかりやらかしたのかなぁ、とのほほんとした心持でやり過ごすことにする。別にただの幽霊であれば恐ろしくはなかった。

 しかし。月影に照らされた顔を見て心臓が止まるかと思った。先程感情の赴くままに叩いて真っ二つにした木魚が、飛び跳ねてどこか大海原に消えていくぐらいには驚いた。

 長唄部部長にして祝祭委員長の平藤雉古と、アイリッシュ・ハープ部部長にして文芸部員でもある彼女だった。

 彼女らの姿が完全に見えなくなるのを待って、凌は竹藪へと数歩足を踏み入れる。パッと見ただけでは分からないが、けして少なくはない人数が長きに亘って踏みしめたがために出来たのであろう獣道があった。

「これが守秘義務の一つ、か?」

 公立高校のクセにどことなく女尊男卑を感じさせる暗黙の掟、無意識下の了解の正体なのだろうかと思った。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」であってほしいところだが、部長殿と彼女が連れ立って向かう場所なのだからそうもいかないようだ。

 凌を誘うように、獣道の奥からかび臭い匂いの風が吹く。不快な匂いのはずなのに、それほど嫌でもなかった。

 もう少し足を踏み入れようとした瞬間――。

「入るんだ?」

 背後から。校内はいざ知らず、少なくとも北門付近にはもう自分だけだと思っていたのに、背後から。

「柴瑪」

 蜻蛉祭と移転の祭祀を蹴った文芸部部長、柴瑪ゆきが立っていた。鈴閃丘で唯一、彼女と互角かそれ以上でぶつかれる人。

 月明かりの下で、どこか禍々しいとも受け取れるような笑みを浮かべる。それはとくにここ数日の、部長殿や彼女をこっぴどく撥ねつけた印象が強いせいなのか。眼が据わっているように感じた。本能に近い部分が警鐘を鳴らす。普段の、凌がこの一年ばかり眺めてきた柴瑪ゆきとは何かが明らかに違う。だが、その差異が何なのかが判らない。彼女なら一瞬で看破してしまうに違いないそれを見つけられないのがもどかしい。

 凌が内で葛藤している間に、柴瑪ゆきはスッと前へ出た。

「君だけじゃあ着けないだろうから、先を歩いてあげる。見失わないで頂戴ね?」

 そう口振りだけは楽しそうに言って、竹藪を迷いなく進んでいく。今朝方、彼女の要請をこっぴどく突っぱねた柴瑪だとはどうしても思えなかった。彼女といい柴瑪ゆきといい、どうしてその時々でこうも印象が変わるのかと納得がいかない。

 暫く歩くと、様子が随分と変わっていた。竹藪から――。

「森?」

 凌が瞠目したのに気付いて、柴瑪ゆきは歩みを止めた。

「へぇ。てっきり沙弥花だけだと思っていたのだけれど」

 どういうことなのかと発言の真意を視線で尋ねれば、フッと笑ってから言った。

「私も伊波も平藤も、どれだけ歩けば森になって墓に至るのか、いつも分からないの。でも君は分かったんだね」

 先を歩いてもらえばよかった、分からないから緊張するんだ、とうとう迷ったんじゃないかって、と事も無げに続ける。己が部長殿や彼女とは違ったベクトルでズレている柴瑪ゆきに、言うべきか言わないべきか凌は随分と迷って。言わないことにした。代わりに、目の前に現れた丘と形容すべきモノを訊く。

「これは?」

 しかし凌の問いに答えることなく、柴瑪ゆきは鉄製のドアを開いた。

「先に入る?」

 聞かれたので、どうせどちらでも変わりはないだろうと頷く。

 暫く中腰で歩くと、中央に直方体の箱が置かれた部屋に出た。凌が入った瞬間に、部屋の隅でチラチラと焔が揺れ始めたような気がした。先程竹藪の前で感じたカビ臭さはこれが元だったのかと得心がいく。

 一体ここは何なのだと問おうと思って、凌は硬直した。背後には、誰もいなかったから。試しに待ってみるが、柴瑪ゆきが来る気配はない。というよりも寧ろ、人っ子一人居る気配がなかった。何も言えずに固まっていると、耳元に熱い息がかかった。

「みんな、私に誰かを映し込むの」

 声を上げるのはおろか、指先ひとつ、視線ひとつ動かせそうになかった。視界の隅で、焔がチラチラ頼りなさげに揺らいでいる。

「あなた、珍しいわね。生きている人間を映し込むなんて」

 あの柴瑪の正体はコレか、と思ってしまえば指先がジンと暖かくなる。無くしたと思っていた声も、出せることに気が付いた。

「お前は、鈴閃丘の主なのか」

 柴瑪ゆきのものではない、けれど少女と思しき声に向かって凌はそう言った。

「お前が、鈴閃丘を鈴閃丘足らしめるモノなのか?」

 昨日の放課後に、部長殿が放った言葉の二言目を思い出した。「祭祀優先」に気をとられていたが、あの場で、二人がコレの存在を前提に会話していたのであれば。

「――君が、お姫様なのか」

 そこまで言葉にしてしまえば、胸の中にストンと何かが落ちてはまったような感覚がした。祭祀がコレのためのもので、蜻蛉祭が生徒のためのものなのだとすれば。柴瑪ゆきがあそこまで怒ったのも全く理解ができないまま、というわけでもない。

 そして、祝祭委員会が祭祀もとい神事を最優先事項にしたがった理由もよく分かる。祝祭を司る組織であるが故にのことだったのだ、と。

「あのね、君。私に生きた人間を見てしまう君だから、教えてあげる。沙弥花は今日明日にでも命を終えるわ」

 そこまで聞いて、凌は息をのんだ。確かに温もりはあるのに匂いのない姫様が本気で恐ろしく感ぜられた。一瞬恐怖を拭った後でのことだったから、余計に。吐き気を感じてしまうほどに、気味が悪かった。

「私に近づき過ぎる娘はみんなそう。近いから病んでゆくのか、もともと病んでいるから近づき過ぎてしまうのかは知らないけど。鈴閃丘で三年過ごせずに、息絶えるの」

 なのに黙っていられなかった。吐き気を無視して口を開いた。

「止めないのか」

「え?」

「近づき過ぎる奴を、一度も止めなかったのか」



 随分と不機嫌そうな声色だった。彼の問いにようやく得心がいって、耳元で小さく笑ってから言う。

「分かってないのね。みんな、私に誰かを映し込んでいるのよ?」

 誰かを切実に希っていて、故に映し込む。そうして再び手に入れてしまえば、二度と手放せなくなる。

「みんな、そうね――大概の子はそうなんだけど。沙弥花も、もう一度笑いかけてもらいたかっただけなの」

 それだけのために命を奉げてしまえるほど、欲していたもの。温もり、微笑み、そして思い出。もう他に何も望めなくなるほどに。抱きしめてくれた温もりと、匂いと、それから歌を。

 得られれば、それだけで良かったのだ。

 恐らくこの先、死ぬまで手放せなくなるような大親友と死別することになったとしても、川を渡ることを選んでしまえるほどには。

「だから私は、沙弥花と一緒に川を渡るわ」

 言うと、再び息をのむ。

「さようなら、千年ぶりの男君――」

 最後まで沙弥花の外野にしか在れなかった哀れな子。

 己に声を届けられない者は、己に調べを届けられない者は。墓に入る権利すらないと思っていた。

 けれど、己の存在を受け入れ続けてくれた鈴閃丘の子ら全てを、己も受け入れるべきであったのかもしれないと今初めて思った。

 確かな己なぞないのかも知れなかった。沙弥花に鏡をあげたから、今宵、この墓から喪われるであろうこの心のように。この世に在る限り、全てのモノが、確かであるはずがなかったのだ。

 きっと、誰かの願いで姿を変えるのが人なのだ。

 だから、それ故に。

 死して遥か昔に亡骸を喪った己ですら、まだ人と呼ばれ得るのかも知れなかった。切実に望み、言葉を届けたいとまで希う誰かが、人として映し込んでくれたから。



 あの日を最後に、彼女と姫様は鈴閃丘から姿を消した。あれほど彼女をひたすら思っていた津軽三味線部の尾上凌は、きっと何も知らされていなかった。証拠に、暫く雉古にしつこく付きまとっていた。「何かを知っているのではないか」と、見ていて胸が痛くなる程度の必死さがあったが、それだけだった。それが為なら死ねるぐらいでなければ、見合わない。

 西岸の新校舎の二階の渡り廊下。新入生が、何部に入るかを相談しているのが聞こえてきた。図書委員会を選び文芸部に入部したことで彼女と出会った身としては、「いっぱい悩んで自分で決めろ」とアドバイスしたくて仕方がない。だが、そこをグッと我慢する。誰に言われたからでもなく、自分でそのことに気付いて己の意思で決めなければ意味がない、ということを知っていた。

 人は、己で選んだ道でしか生きていけないことを教えてもらった。己で決断した未来でしか笑えないことを身を以って伝えてもらった。

 姫様に母親を重ね、自分で自分を追い詰めて彼岸へ行った彼女の人生と、引き換えに。

 ゆきの視線に気づいたのだろう、女子生徒が二人、気まずそうに挨拶をしてきた。文芸部の部長さんですよね、との問いに頷けば勢いよく頭を下げる。仮入部を希望するとのことだった。先程の新入生オリエンテーションでゆきが登壇したのを覚えていたのだろう。

「沙弥花も姫様もいない、か」

 この十月あまり墓から姫様が居なくなったことを一人で隠しきったゆきは、一人呟き、新入生を伴って部室へと歩を進めた。

 己も雉古も、そして尾上凌も。彼女にとっては所詮外野でしかなかったと幾度となく思い知らされた果ての、桜の白浪の立った夕暮れ時のことだった。

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