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きらり奔る  作者: 濱野乱
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act5 美しきカナリア

 

きらりの時に辿々しい言葉の数々に、冬馬は図らずも打ちのめされた。

美優の知られざる素顔は常軌を逸していた。自分の知る彼女の像が崩れていくのを感じる。

話は一時間以上に及んでいた。既に日は沈み、きらりの疲労した顔が、くっきりと窓ガラスに映し出されていた。

「信じられないよね、こんな話」

きらりは喉を癒すように、コーヒーに口をつける。

「貴方が嘘を言ったとは思いません。でも誇張はあったのではないでしょうか、ほんの少しの脅威を大げさに・・・・・・」

きらりは悔しそうに唇を噛み、冬馬から目線をそらす。

冬馬は過ちを自覚し、謝罪した。これでは過去に彼女を迫害した人々と何ら変わりないではないか。

「貴方が謂われのない中傷を受けた原因はわかりました。でも、どうします?」

「どうにもできないじゃない」

「復讐したいですか?」

きらりは即座に首を横に振った。冬馬は微笑む。

「少し安心しました。貴方はそれでいいと思います」

きらりの不思議そうな顔を冬馬は見つめ、ある重大な決意を固めていた。

「美優とはもう会わないよね?」

きらりは冬馬の様子を下手に窺うように訊ねた。冬馬は、割合あっさりと返事をする。

「いいえ。それはできません」

「そんな・・・・・・、やっぱり私の話を信じてないの?」

「そういう意味に捉えないでください、少し思う所がありますから」

きらりが絶句するを見るのは心苦しいが、冬馬はこの場で、自分の胸の内をさらけ出すことはできなかった。

「真田のバカ、信じて話したのに」

きらりはテーブルを叩き、悲嘆の混じった声を出すと、店の外に飛び出していった。

冬馬は、すっかり冷めたコーヒーに口をつけた。全部飲み干すと、痺れるような苦みがしばらく口の中に残った。

明くる日も冬馬は、何事もなかったように美優と試験勉強を続けた。

図書館に行く道すがら、冬馬の些細な変化に美優は感づいたのか、探るような質問を投げかけてくる。

「昨日、勉強は捗りました?」

冬馬は、ああとかうんとか曖昧に応える。

「では今日は、しっかり確認してあげます。よろしいですね?」

その後、美優の自作の練習問題をみっちり解かされた。これには冬馬も閉口した。

帰り際も美優は英語の単語帳を見ながら歩いていた。

「やはり図書館に二人で来るのは引け目を感じますわ。そうは思いません? 冬馬君」

「勉強するのは問題ないと思いますよ、相談するのは不向きですが」

そうですよねと、何故か嬉しそうに相づちを打つ美優。

「試験前一週間を切りましたし、私の家なら気兼ねなく勉強できますわ。冬馬君の家でもいいですけど」

「僕の家は狭いからなあ、賃貸のマンションだし」

「では交互にお互いの家に行くのはどうかしら」

冬馬は快諾した。まずは冬馬の家で勉強会が行われた。大学生の姉に散々茶々を入れられ、あまり勉強に身が入らなかった。しょっちゅう理由をつけては冬馬の部屋をのぞきに来るのだ。

「明るいお姉さんがいて羨ましいわ。私、一人っ子だから」

「あんなのでよければ差し上げますよ。・・・・・・、姉さん! 何回漫画を取りに来れば気が済むんですか!」

勉強会の場所がプライベートに移っても、二人の間にこれといった変化はない。美優の家にいる時も同様であった。美優は意外というか真面目に試験勉強をしており、普段のおふざけは全くといってなかった。

期末試験前日は、美優の家に十八時半頃に来るように言われ、夕食をご馳走になる約束をした。

リビングのテーブルに並べられた料理は、西洋料理のフルコースである。色とりどりに並べられた料理に冬馬は食べ切れるだろうかと不安になる。

「母に手伝ってもらったの。でも普段から料理をしない娘だとは思わないでね」

はにかむ美優に夕食に招かれた栄誉を述べながら、冬馬は耳を澄ませた。晩にも関わらず、彼女の継母も父親も不在のようである。冬馬の背後にはあのピアノが置いてある。

「では乾杯しましょう」

美優は杯を持ち、冬馬に向けた。

「まだ試験も始まっていないじゃありませんか、一体何を祝うんです」

「祝う理由なんて何でもいいの。ほら、冬馬君」

冬馬も杯を手に取る。美優は微笑んで自分の杯を近づけた。

「この美しき世界に」

彼女にとっては、世界はなるほど燦然として曇りのないものに映るに違いない。

「そこからの眺めはさぞ壮観なんでしょうね」

冬馬が口火を切ると、美優は口にしていた杯を静かに置いた。

「ええ、それも冬馬君がいてこそです。恋をすると世界が変わるって本当ね」

美優が首を動かすと、髪に隠れていたピアスがのぞいた。冬馬はそれを眩しそうに眺めた。

「倉科先輩から全て聞きました」

美優の表情に全く変化はなかった。続きをどうぞと言わんばかりに、いつも冬馬の話を喜んで聞く彼女のままそこに座っていた。

「貴方と倉科先輩が旧知の仲だったこと、天使の卵のこと、貴方が倉科先輩にしてきたことを」

美優は膝に手を置き、冬馬の口元に視線を注いでいた。まるで一言一句聞き漏らすまいとしているようだった。

冬馬は徐々に苛立ちを募らせていった。

「どうして何も言ってくださらないんですか? そんな話くだらないって、否定してください!」

冬馬が我を忘れ、叫んでも美優は白い頬にえくぼを浮かべていた。何となくいとわしく感じ、目をそらした。

「仮に全部、本当だったとして冬馬君は私を軽蔑できるのかしら?」

「・・・・・・、難しいですね」

ここ数日、冬馬は美優を憎もうと努力した。あえて側にいる時間を増やし、きっかけを探していた。だが、それが無駄な努力だと気づくのに時間はかからなかった。

厳しさの中にもやさしさがあり、先輩として人として、異性として尊敬できる人物。彼女に見つかるのはそんな顔ばかりである。

「僕は貴方をこんなにも愛してしまった。もうそれは変えようのない事実だ」

頬を朱に染めた美優は、少し落ちつきをなくし、椅子に座りなおした。

「白崎さん、かつて貴方は僕が倉科先輩に同情しているとおっしゃいましたね」

「そうね、でもそんなことどうでもいいわ。冬馬君が愛してくれるなら」

「同情に近い愛情。それが貴方に対する僕の答えなんです」

美優は口をぽかんと開けていたが、ややあって口を閉じて身繕いをした。

「貴方は可哀想な人だ」

それが決定打だった。美優は手で顔を覆い、俯く。冬馬は見ていられなくなり、席を立った。

「さようなら」

冬馬がリビングを出ていくと、美優は空っぽの食卓を虚ろな瞳でへいげいした。

「そうなの・・・・・・、貴方も私を捨てるのね」

冬馬が玄関で靴を履いている時、リビングのドアがゆっくりと開き、美優が姿を見せた。

両手をだらんと垂らし、先ほどとは別人とは思えないほど落ち着きをなくしている。

「ねえ? 考え直して? 私たちいつまでも一緒にいるって言ったじゃない。何でもするから、お願いだから、私を捨てないで」

冬馬は逃げるように外へ続くドアに手をかけた。

美優は、玄関にあったゴルフバッグからクラブを引っ張りだし、冬馬の脳天めがけて振りおろした。

激痛に耐えるよりも、驚きの方が強い。頭を庇うのも遅れた。冬馬は一度は膝に力を入れて堪えたものの、二度三度と冷徹に振りおろされるクラブに冬馬の意識は混濁し、ついに倒れた。

意識を失う最後に目に映ったのは、美優の震える内股ぎみの足、ゴルフクラブが床に音を立てて落ちる瞬間だった。




期末試験当日の朝、それぞれの思いを胸に学校に向かった安心極楽会のメンバーたち。

篠山秋穂は、特に試験に不安を感じていなかった。まめな彼女は一夜漬けという愚行を犯すことはなく、毎日の積み重ねが結実するのを実感していた。

武藤つかさは逆だった。一夜漬けを敢行し、睡眠不足の彼の記憶はおぼつかない。こんなことなら毎日少しずつでも勉強しておけばよかった。毎度試験直前には同じことを思うのだが、結局こういう輩は悔い改めることをしないものである。

そして、倉科きらりは・・・・・・

「きらりちゃん起きて!」

きらりは教室で船を漕いでいた。昨夜は早めに床についたのだが、断続的に眠気が襲ってきて、電車も乗り過ごしそうになった程だ。 眠気を堪えて、一限目の物理の試験を終えたきらりは、周りの生徒が試験勉強する傍ら、安心してこっくりする。

「こら! 起きて!」

きらりの肩をしつこく揺すっていたのは、秋穂であった。試験が終わった秋穂は、きらりの教室に入ってきたのだった。

「ふぁ・・・・・・、秋穂どうかしたの?」

秋穂は血相を変えていた。きらりも異変を感じ、目をこすって意識をはっきりと保とうとする。

「真田君が学校に来てないの。携帯も通じないし、何かあったのかな」

きらりは、鞄からのぞく冬馬からもらったマフラーに目をやった。結局別のものを買うのも億劫で、使うことにした。

「風邪でも引いたんじゃないの? あいつ体弱そうだし」

きらりは、ぼんやりとした口調で言った。

「先生も何の連絡も受けてないって」

きらりも携帯を開いて、電話してみた。冬馬の携帯は電源が入っていないようだ。きらりが秋穂と不安そうな顔を見合わせ固まっていると、次の試験を始めるべく教師が入ってくる。秋穂は渋々退散した。

ここ最近、異常なことが多かったから、余計に不安になるのかもしれない。また美優の手引きだとしたら別だが、もうその心配はないと、きらりは請け負うことができた。

きらりの後ろの席の方で、ひそひそ話が聞こえてきた。

「二組の白崎さん、無断欠席らしいよ。優等生ぽいのにどうしたんだろ」

「寝坊はないか。誰かさんじゃあるまいし」

きらりも少しは心臓が強くなり、この程度ではビクともしない。

それより気になるのは、冬馬と美優が同時に無断欠席しているという事実である。まだその符号に気づいているのは、きらりを除いていないようだが、一大事になる予感がしてきた。



冬馬は、顔に日差しを浴びて薄く目を開けた。

リビングの窓から差し込む白い光が冬馬の目に注がれていたのだ。冬馬は白崎家のピアノの側の床で足を投げ出し座っていた。膝の上に毛布がかけられ、床暖房もあったのでとても温い。ただ、ひどい頭痛がして、昨夜のことがまだうまく思い出せない。とりあえず学校に行かなければという気持ちが沸く。

「おはよう、昨日はよく眠れた?」

美優がお盆を手にリビングにやってきた。

まだ冬馬はよく事態が飲み込めずにいた。とりあえず立ち上がろうとしたが、両手首がピアノの脚に後ろ手で縛られていた。冬馬を縛っているのはしっかりとした太い縄のような材質で、痛みを感じるほどきつく結びあわされていた。

「朝食、食べるわよね? 冬馬君は紅茶と、コーヒー、どちらが好みかしら?」

「あの、この縄をほどいてくれませんか」

冬馬の懇願を無視するように、美優は薄く微笑んだまま、一人でテーブルに座り、朝食をとり始めた。 冬馬の位置からは、椅子に座った美優の組んだ足だけが、かいま見えた。

「貴方はとうとうおかしくなってしまったようだ」

冬馬が嘆くと、美優の長い足が組み替えられた。

昨夜、冬馬が美優に別れを告げた後、美優に殴られ昏倒させられたのだ。信じがたい事実だった。

「私は至って正常ですわ。その証拠に貴方と会話が成立しているじゃない。紅茶とコーヒーどちらにします?」

「・・・・・・コーヒー、ブラックで」

ぶっきらぼうに冬馬が言うと、美優がポットからお湯を注ぐ音が聞こえた。

「試験はどうなったんです?」

「予定通り行われているんじゃないかしら」

美優は床の上にソーサーを置いて、その上にカップを置いた。

「どういうつもりですか?」

「ああ、そうね、これじゃ飲めませんね。少し冷ましてから飲ませてあげます」

「違いますよ!」

冬馬の怒声に、美優は目を丸くした。

「・・・・・・、こんなことして何になるっていうんです。ご両親だっていつまでも家を空けてはおかないはずだ」

「母は家を出ていきましたわ。一週間ほど前だったかしら」

そういえばテスト期間に入ってから、一度も美優の母親の姿を見ていなかった。

「父は半年前からこの家に帰ってきませんでしたし、離婚するんじゃないかしら、あの人たち」

どこか冷めたような美優の言葉は身内を語るものとは思えない無機質なものだった。

「試験はどうするつもりですか? 落第するつもりですか」

「追試か何か受ければいいじゃない。冬馬君もね」

冬馬が慄然とさせられたのは、美優がこんな蛮行を行ってもなお、昨日までと同じ生活様式に戻るつもりがあるということだった。自棄を起こしているわけではなく、彼女はあくまで冷静なのだ。

「とってもつらそうね、楽にしてあげたいけど」

美優は冬馬の縛られた手首をいたわるように撫でていた。

「逃げやしませんよ、話合いには応じるつもりですから」

「今は駄目よ、だって冬馬君、混乱しているから。もう少し我慢しましょうね」

宥めるようにように言ってから、美優は冬馬の口元にカップを近づけた。少し温いコーヒーに何度もむせる。

「僕は当分このままらしいですね。それなら貴方の目的をゆっくり聞かせてもらうことができそうだ」

「ふふ、理解が早いわね。よしよし」

美優が頭を撫でている間も、冬馬は状況を打破する術を模索していた。美優は冬馬を傷つけるつもりはないようだ。それに遅くとも、今日中に解放されることにはなるだろう。冬馬の家の人間は、美優の家に行ったことを知っているし、きらりたちも、怪しんで騒ぎだすかもしれない。

「さあ、次はサンドイッチを食べましょうね。持ってきてあげるわ」

美優が背を向けている間、手首を縄から力任せに引き抜こうとしてみたが、ピアノが不吉な音を立てて揺れたただけで終わった。

美優は横目で物音のする方をちらと見ただけだった。

冬馬はおままごとの人形のように扱われ、サンドイッチを食べさせられた。食べ終わると口をハンカチで拭かれた。そのハンカチはかつて彼が美優から借りたものであった。

時間の感覚が薄い。今何時なのか気になるが、冬馬のいる位置からは時間のわかるようなものは見あたらなかった。

「これも倉科先輩に対する嫌がらせなんですか?」

「きらりは・・・・・・、そうね・・・・・・」

美優は含み笑いをしていたが、隠しきれない悪意の片鱗がちらついている。

「冬馬君は勘違いをしているわ。さっき混乱しているって言ったのはそういうことよ」

「どういう意味ですか」

「私は、きらりを心の底から愛しているもの」

美優の態度に異を唱えるように唇を曲げる。

「初めて会った頃、試練の話をしたの覚えてる?」

「人は打たれて強くなる。鉄は熱いうちに鍛えよという話ですか。今となっては全く承服できませんね」

「そうかしら、貴方はきらりのそういうところに惹かれたんじゃなくて?」

脳裏に浮かぶのは、きらりの無垢な笑顔だった。それが美優の言う試練による結果でしかないとしたら。自分の価値観が揺さぶられるのを感じた。

「私、きらりにいくら憎まれても構わないの。貴方はわかってくれるわよね?」

美優の信念を突き崩す決意がなかったわけではない。しかし、美優の十年越しの狂気を超えるだけの器が果たして冬馬にあるのだろうか。

「・・・・・・それは本当に愛でしょうか」 「形式にこだわる必要はないわ。しょせん形式なんか凡人の理解が及ぶ範囲にしか定義されていないのだから」

冬馬は孤独をはっきりと意識した。美優と出会ってから感じる違和感の正体がこれだった。美優はきらりしか見ていない。

「倉科先輩を傷つけ続けて、それで彼女が潰れたらどうするつもりだったんです?」

「それはありえないわ。だって私はきらりのことを知り尽くしているもの。あの娘はまだ大丈夫」

大丈夫なものか。きらりはやっとの所で踏みとどまっているのだ。

「僕には、わかりません。貴方が倉科先輩にそこまで執着する理由が」

美優は冬馬が縛られているピアノに手を触れた。

「きらりはね、とっても母に似ているの。と言っても、生みの母の方だけど」

「お母さん・・・・・・」

「母は、私が小さい時に自殺したの。このピアノの側で首を吊ってね」




「母はピアニストだったわ。若くして海外に留学して、腕を磨いたそうよ。才能があったのか、なかなか著名だったみたい。今でも探せばCDも見つかるかも」

美優はピアノの蓋を開け、鍵盤を人差し指で押した。音の残響が消えてから、話を再開する。

「そして二十六歳の時、仕事でウィーンに来ていた父と恋に落ちた。ロマンチックよね」

美優は椅子に座り、音階を奏で始めた。

「出会って三ヶ月で結婚。ほどなくして私が生まれた。でも私を生んでも、母は変わらなかった。ピアノの悪魔にとりつかれていたの」

美優が一度大きく息を吐くやいなや、突如、演奏が始まった。

曲は冬馬の耳にしたことのないものだった。 重苦しい低音から始まり、高い技術を感じさせる指運びである。美しい旋律だったがどこか陰鬱な曲だった。根元的な恐怖を呼び起こされるように、思えた。冬馬は唇を噛み必死に耐える。

「どうだった? この曲は母が死ぬ間際まで作っていたものなのよ。それを私が完成させたの」

冬馬は、しばらく脳しんとうでも起こしたように、頭がくらくらして禄に口を利くことができなかった。

「母は自分の中の魔物を抑えることができなかった。そして無様に負けたの。小さかった私の目の前でね」

美優はピアノの蓋を閉じ、リビングを出ていったが、冬馬は気づかなかった。やっと目の前の地平が確かになる頃に美優がまた戻ってくる足音がした。

「ハロー、聞こえる? 冬馬君」

美優が四つん這いになり、冬馬の目をのぞき込んでいる。

「やあ・・・・・・、大した演奏でしたよ。忘れられないものになりそうだ」

「そう、母も喜ぶと思うわ。冬馬君にそう言ってもらえて」

冬馬は美優の背後に吊された人間の幻影を見た。冬馬が目を閉じてからまた開いた時、そこには美優の無垢にも思える瞳が冬馬を捉えていた。

「貴方は捨てられたわけじゃない・・・・・・」

「え?」

「倉科先輩も、貴方のご両親も、生みのお母さんも、貴方が自分から逃げたから、いなくなっただけだ」

美優の白い額に血管が一瞬、雷光のように閃いて消えた。口元からも笑みが引いた。

「貴方は一人になるのが恐いだけだ。それで倉科先輩を縛り付けているんじゃないですか?」

冬馬の頬を美優は力一杯打った。それから床に倒れ込み、嗚咽を漏らす。

「きらりは、弱い子なんだから、私が守らないと・・・・・・、もう私は何も失いたくないのよ。どうしてわかってくれないの・・・・・・!?」

美優は病的に唇を噛み、不安定な心をどうにか落ち着けようとしていた。

「倉科先輩は貴方よりずっと強い。依存しているのは貴方の方だ」

ぐっと首を突き出して美優は冬馬を見据えた。目を真っ赤にして、蔑むような眼差しをしている。

「貴方だって、きらりに相手にされなかったから私になびいた癖に。そんな貴方に私を笑う資格なんてないでしょう?」

冬馬は神妙に頷いた。

「確かに。僕もとても弱い人間だ、あの人を深く傷つけてしまった。それは重い罪に当たるでしょうね」

「開き直るの?」

「単に認めただけですよ。貴方はどうですか、認める気はありませんか」

美優が自分の非を認めるとは冬馬も思っていない。ただ例えきらりとの関係が修復が不可能だとしても、少しでも考える力が美優に残されているとしたらと、期待せずにはいられなかった。

「・・・・・・、貴方も私を捨てるのね」

「その話は止しましょう。お互い別の道を行くんですよ。それはもう変えようのないことのようだから」

美優が何か言おうとした時、インターホンが唐突に鳴った。美優は出ないつもりのようだ。口を閉じ、冬馬にも黙っているように合図した。

インターホンは執拗に鳴らされ、来訪者は帰る気配を見せない。宅配業者でもなさそうである。短時間に連続でインターホンを押す様は何か偏執的なものを感じさせた。

「誰かしら、何だか怖いわ・・・・・・」

美優は冬馬に囁いて、腕にそっと触れた。冬馬は必死に笑いを堪える。

「どうかしたの?」

「いえ、こんな子供じみたことをする人間に一人くらいしか心当たりがなくて」

美優は、ぱっと飛び上がり、室内にあるインターホンに向かった。肩で息をしている倉科きらりの姿がそこに映し出されていた。



きらりが白崎邸に突入し、リビングに飛び込んだ時、憔悴した状態でピアノに縛り付けられている冬馬を発見した。

口元を手で押さえ、絶句するきらり。

冬馬は彼女に向かって力のない笑みを投げかけた。

きらりは激高した様子で、馬の側にやってきた。

「何・・・・・・、怒ってるんです?」

「馬鹿が色仕掛けに引っかかって泣いてると思ったからさ」

きらりは縄を解くのに躍起になっていた。こめかみに流れる汗をうっとおしそう拭いながら力を振り絞っている。彼女の首にはマフラーが巻かれていた。

「美優は?」

「こっちには戻ってきませんでしたよ」

「二階か・・・・・・」

きらりは好戦的な目で天井を仰いだ。

「ああもう! イライラする、ハサミないの?」

きらりは部屋をうろうろしたが、何も見つけることができず、冬馬の元に戻ってきた。

「僕のことは後でいいですから。あの人と話してきてくれませんか」

「・・・・・・話すことなんかもうない」

「ここで決着をつけないと、貴方もあの人も一生くだらないしがらみ囚われることになると思います。どうか・・・・・・、お願いします」

冬馬は首を曲げ、きらりに頭を下げた。きらりは拳を強く握りしめる。その顔は迷いの雲が払われたように頼もしくなった。

白崎邸に幼少の頃から足を運んだことがあるので、きらりは迷わず二階に上がった。

部屋は五つあり、始めに入ったのは夫婦の寝室のようだったが、きれいに片づけられており、美優はいない。他は衣装部屋や書庫などだったが、美優はいずれにもおらず突き当たりの美優の部屋を残すのみとなった。

ノックもせずにドアを開ける。背を向けた美優の姿が部屋の中央にあった。美優の足下には、夥しい数のぬいぐるみが散乱していた。その中には冬馬の選んだものも混じっていた。

美優は写真立てを握りしめていた。それはかつてきらりのアルバムに入っていて、冬馬が見つけたものと同じ写真が納められていた。

きらりは声をかけず、ただ部屋の入り口に立ってその背中に目を注いでいた。

幼少の頃から、きらりを牽引してきたその背中の翼は無惨に剥がれ落ち、失墜してしまったのだときらりは悟った。

「ここに来るとは思わなかったわ、どうして来たの?」

美優は、予定調和のような余裕のある口振りである。

「来たくて来たわけじゃないよ。真田は連れて帰る」

「好きにして、私はもう用済みみたいだから」

引き際の見事さに、きらりは少し恐れを抱き始めた。

「何でいつもそうなのよ、美優は・・・・・・人のこと無視して、勝手な理屈ばかり振り回して」

その時、美優が振り返った。その顔はきらりの知らないものだった。高校生でも、中学生でもない一人の少女。どこにでもいてどこにもいない美優という少女ときらりは初めて巡り会うことができたようだった。

ただそれも一瞬のことで、白崎美優という記号で陽炎のように消えてしまった。

「まだ、お昼前よね? 試験はどうしたの? きらり」

「あんた達のせいでさぼったんだよ!」

「そう・・・・・・悪かったわね。真田君にも悪いことしたわ」

「そんな風には見えないけど」

「そうね、私は自分が間違っているとは思えないわ。ほんの些細な行き違いなのに」

これだけのことをしておいて、些細なと言い切る彼女は、やはり異常だった。

予想はしていたが、きらりは動揺した。しかし、すぐさま階下にいる冬馬の言葉を思い出し、意気を上げる。

「拒んでいるのは美優の方じゃない。私や真田も、あんたを理解しようとがんばった。でももう限界だね、美優」

美優が儚く笑った。

「冬馬君にも、さっき似たようなこと言われたわ。似てるわね、貴方たち」

ふと懐かしさが蘇り、きらりは助けを請うように美優、美優と名前を呼び始めた。

「美優・・・・・・、私は美優のことが好きだったんだよ、感謝もしてる。真田も同じだと思う。ねえ、やり直そうよ、きっとできるよ」

きらりは涙し、美優の更正を願った。それが絵空事だと、きらりにもわかっていたが、言わずにはいられなかった。それほど美優は頼りなくて粉々に散ってしまいそうだった。

きらりは震えそうになる声を必死に絞る。

「真田は、あんたのこと……」

美優は首を横に振る。

「私は彼に愛される資格がないみたい」

それが倉科きらりと白崎美優の人生最後の会話になった。



きらりに支えられて、冬馬は白崎邸を後にした。紺碧の空がやけに高く感じる。駅に近づくまで、二人は無言で寄り添っていたのだが、どちらともなく体を離した。

駅は昼間近と重なり、人の往来が激しかった。冬馬は霞む目を何とか開き、おぼつかない足取りで駅のホームへの階段を上り、ホームの椅子にきらりと一緒に座った。

「これからどうするの?」

きらりが訊ねた。

「学校へ行きます。事情を説明しないと、試験が」

もちろん美優のことは黙っているつもりでいた。頭のけがは階段で転んだことにすればいいだろう。

「美優は最後まで私に謝らなかった。ムカつく」

「あの人も自分を曲げるわけにはいかなかったんでしょう。今までの積み重ねを否定することになりますから」

「でもさあ・・・・・・」

きらりは口を尖らせた。

「もうあの人には何もできませんよ、きっと」

「何でそんなに楽天的になれるかなあ」

両手を頭の後ろにやり、きらりはぼやいていた。

冬馬も納得はしていなかった。もう少しやりようはあったのではないかと後悔していないと言えば嘘になる。最後は美優の顔も拝めなかったのである。これから学校で会うとしても、もう以前の関係には戻ることはできないだろう。

「ねえ、本当に病院行かなくていいの?」

「ええ、大したことありませんよ・・・・・・、いたっ!」

きらりが不意に冬馬の頭頂部に触れた。じわじわと痛みが広がる。

きらりはそれからしたり顔になる。

「ほら、怪我してるんだからさ、行こうよ」

「大丈夫ですって」

「し、心配だって言ってるの。学校には私が電話してあげるから、行こうよ」

きらりの真摯な態度に冬馬は折れて、ひとまず頼川先生に電話をして、病院に行く旨を伝えた。

ホームに電車が滑り込む。

きらりが冬馬の手を取り、立ち上がらせた。今にも奔り出しそうな元気な彼女と、一緒に奔ることができるようになるのは、まだもう少し先のことになりそうである。


その後、追試が認められ、冬馬は本年度の期末試験を無事終えた。

きらりの風評被害もしだいに収まっていた。元々気弱で誰かに危害を加える性格でもないきらりは、また元のような不思議ちゃんとして扱われることになった。

解散はしたものの、安心極楽会のメンバーは美優を除き、時々誰ともなく会う約束しては、集まっていた。

三月につかさが卒業し、きらりが三年生になり、冬馬と秋穂は進級して別々のクラスになった。それからは集まることは少なくなったもののそれほど以前と変わらない狭い人間関係が続いた。

しいて言えば、つかさの役割が冬馬に移っただけである。

週末にきらりの祖母の家に向かい、学校の行事を祖母に伝え、きらりの部屋の掃除をし、空いた時間にきらりの暇つぶしに付き合ってやり、祖母の作ってくれた料理を食べ家に帰る。きらりの祖母はきらりの話から鬼婆のような人物を想像していたが、品があり、折り目正しい人物であった。冬馬は彼女と向き合うと自然と背筋が伸びる。好ましい相手であっても、恐らく慣れることはないと思う。

帰り際、きらりが玄関まで送ってくれる。

「と、とう・・・・・・豆乳いる?」

きらりは、何故か帰る間際におみやげをくれる。その前の週は豆板醤、その前は豆腐だった。

「はあ、どうも。それじゃまた学校で」

「う、うん」

この頃は慣れてきて冬馬も特に気にせず受け取るようになっていた。

きらりの両親とは、五月頃に一度顔を会わせた。父親とは意気投合したのだが、母親はきらりの側に男がいるのは面白くないらしかった。受験生なんだから節度を守ってねと何度となく言われた記憶しかない。

大学受験・・・・・・。ある時、冬馬は掃除をするついでにきらりにどう考えているのか訊いてみた。

「え? 考えてなかった。まあ何とかなるよ」

冬馬は、きらりの将来の危機を我が事のようにひしひしと感じた。

「あの、差し出がましいようですが言ってもいいですか」

きらりはポテトチップスをかじりつつ頷いた。彼女は部屋が汚い割にいつも小ぎれいな格好をしている。白のノースリーブシャツにショートパンツ、素足を無造作に投げ出している。

指からは、ポテトチップスのカスが掃除機をかけたばかりのフローリングにぽろぽろと落ちている。

「もう六月ですよ! 予備校に行くとか、部屋に赤本の一冊もないなんておかしいじゃないですか」

きらりは言われたくないことを言われた時の癖で、黙ってお菓子の封をして部屋を出ていこうとするかと思いきや、冬馬の間近に迫ってくる。そのまま壁際まで追い込んできた。

「・・・・・・、行きたいの」

「え?」

きらりは、言いづらそうに上目遣いで冬馬に何かを訴えていたが、やがて怒ったように腕を振り上げた。

「だから、真田と同じ大学に行きたい・・・・・・!」

冬馬は真顔できらりの肩に手を置いて、カーペットに座らせた。自分も正座し向き合った。

「それはできません、ごめんなさい」

「な、何で?」

きらりは、冬馬が二つ返事で了承するかと思っていたのか狼狽えた。

「僕と貴方では頭のできが違い過ぎる。ここ数ヶ月でよくわかりました。貴方が僕のレベルに合わせていたら、きっと駄目になる」

「それなら、真田ががんばればいいじゃない」

「無理ですよ、自分の限界は、自分が一番わかってますから」

本当は、きらりが進路に悩んでいることを冬馬は祖母の光代から聞いていた冬馬はきらりの重荷にならないために決断していた。

「じゃ、じゃあ私、一人?」

「誰も貴方を一人にするなんて言ってませんけど」

おろおろとしていたきらりの顔に光が差す。

「今まで自分で自分の道を決めたことなんてなかったでしょう? もう貴方は一人で歩けるだけの力を持っている。自分で将来を決めてください」

「しょうらい・・・・・・」

きらりは不思議そうな顔つきでその言葉を反芻していた。

「僕だけじゃなく、ご両親、光代さん、篠山や武藤先輩もそれを望んでいるんですよ。できますよね?」

きらりが頷き、真剣に将来を見据えるようになったと、光代からうれしそうに話をされる頃には夏は過ぎ、受験生にしてはかなり悠長ではあったが、きらりは着実な一歩を踏みだそうとしていた。

そんな頃の事である。冬馬は予備校の帰りに喫茶フラウに寄り、復習をしていた。相変わらず客足の細い事と言ったらない。

「君が僕のライフラインだ」

と、店主から真顔で言われた時は冬馬も妙な責任を感じ用もない時でも訪れてしまっている。

アイスコーヒーのグラスに水滴のついた午後四時過ぎ、冬馬は、ふと鞄から原稿用紙の束を広げて目を通していた。

そこにドアが開く音がしたと思うと客がやってきた。いくら閑古鳥が鳴いていても、客くらいは来るだろう。そう思ったのも束の間、客は冬馬のいる席にまっすぐやって来た。カンカン帽に白のワンピース、足にはサンダルを履いている少女は優雅に冬馬の側に立つ。

「ごきげんよう」

美優は真夏でも、不自然なほどに白い肌をして冬馬を見下ろしていた。

「相席してもよろしいかしら?」

冬馬は口も聞けず、手振りで肯定を示した。

美優は座るや否や、冬馬の手元をのぞき込み、表情を曇らせる。

「あら勉強? いけませんわ、小説を書いてると思ったのに」

「来年は受験ですからね。・・・・・・って、今年受験生の貴方が言う台詞とも思えませんが」

二人は声を揃えて笑った。思えば二人が話すのは冬馬が監禁されて以来のことである。学校ですれ違っても会釈する程度で、どちらともなく避けていたのだ。

「何だか懐かしいですわ、こうして一緒に勉強していたこともありましたっけ」

「そうですね・・・・・・」

昔を懐かしむかのように、二人は目線を交わした。そこに特別なわだかまりは生じなかった。

「武藤先輩はどうしていますか? 私、お別れ会には顔を出さなかったから」

美優が喋るきっかけを与えてくれた。冬馬は煩わしくも頼りがいのあった先輩の近況を語る。

「料亭で板前修業をしていることは知ってますけど、後はさっぱり。倉科先輩や、篠山とはよく連絡を取ってるみたいですよ」

「ふふっ・・・・・・、何だか連絡して欲しいみたいね」

「そんなわけないじゃないですか、いなくなってせいせいしましたよ」

冬馬が黙っていると、美優がまた話題を提供してくれる。

「篠山さんは?」

冬馬は謎めいていて、大人びている同級生の近況を語る。

「彼女は相変わらずですね、覆面しなくなっただけましですが、愛想はあまり良くないからクラスでは浮いているそうです。最近は獣医を目指していることを教えてくれました」

「まあ! 素敵ね」

美優は我が事のように喜んだ。冬馬はその様子に寂寥感を覚えた。

「本当は倉科先輩の事を聞きにいらしたんじゃないんですか?」

瞳を伏せたまま美優は返答を留保していた。その沈黙が示すように彼女が今日ここに来た目的は明白だった。

「あの人はやっと自ら進路を決めようとしている所ですよ」

「まあ、のんびりねえ」

美優は顔を綻ばせた。

「そうなんですよ、まあやる気になったのに水を差すのも悪いから黙っていますけど」

「真田君は?」

ふいに冬馬自身の話題になり、まるで火から手を引っ込めるように冬馬は身を乗り出しかけていた体をまっすぐに伸ばした。

「僕は・・・・・・、僕です。来年は受験も本格化するし、そのための準備をしています」

ふと美優を伺うと、もの悲しそうに目を細めていた。はっとするほどの美しさに冬、馬は半年前にこの少女とともに過ごした時間を幻のように感じた。

美優が店の時計をおもむろに見上げた。

「あら、もうこんな時間。帰らないと」

美優は誰も待っていないあの家に帰るのだろうか。冬馬は考えて憂鬱になる。

「それでは真田君、勉強がんばってください」

「あっ、はい・・・・・・、あ、あの」

冬馬は先ほどからテーブルに乗せていた原稿を両手で捧げ持つようにして美優に渡そうとしたが、美優は首を振り、手を伸ばそうとはしてくれなかった。

「もう・・・・・・、私にはそれを読む資格はありませんわ。きらりに読んで上げてくださいな」

「いいえ、貴方でなくては駄目なんです。これは貴方のために書いた物語だから」

その小説は冬馬が美優と別れてからからまもなく、書き始めたものだった。始めは自らの傷を癒すために書いたのだが、いつのまにか美優に読んでもらいたいという目的に取って代わっていた。

冬馬の真剣さに打たれたように美優は恐る恐る手を伸ばし、原稿を掴んだ。

「今読んでくれなくても、気に入らなければ破り捨ててもらっても構いません」

美優は吹き出した。

「何をおっしゃるの? 私がビブリマニアなの知っているくせに。こんなおもしろそうなもの読まずにいられるわけがありませんわ」

冬馬は胸のつっかえが取れたように、息をはいた。

「この原稿は預からせてもらいます。それではごきげんよう。真田君」

小説の感想は結局聞かずじまいとなった。美優が卒業するまで、冬馬に彼女と話す機会がなかったためだ。

その後、美優は都内の国立大学に進んだらしい。人づてに聞いた限り、それが冬馬が知る白崎美優の最後の消息である。

フラウを後にした冬馬は、近所の子供たちが遊ぶ路地を抜けて通りに出た。五時近くになってもうだるような暑さは健在だ。外は明るく、人通りも多かった。

冬馬の携帯が鳴る。開くと、きらりからのメールであった。

「お土産あげる。取りに来て」

冬馬はその足できらりの家に寄った。きらりは一週間ほど前から家族でハワイに行っていたのである。ぎくしゃくしていた家族の問題も少しずつ氷解し始めている兆候であった。何でもきらりの書いた論文が、アメリカの専門誌に載ったお祝いらしい。彼女の父親が特にはしゃいでいた。

今日、きらりが帰ってくることを冬馬は忘れていたので、とりあえず久闊達を叙するような丁寧な対応をこころがけた。万一忘れたことを気づかれれば、きらりは不機嫌になり冬馬に八つ当たりすることは目に見えている。

小麦色の肌にハワイアンワンピースを着たきらりを見ると、何だかほっとする冬馬であった。

「真田、ただいま。寂しかった?」

「はいはい、とても寂しかったですよ。勉強もろくに手につきませんでした」

きらりはむくれたが、ハワイで買った木彫りの人形を冬馬にくれた。

「ねえ、決めたよ私」

「はあ・・・・・・、何をですか」

きらりは秘密を打ち明ける子供のようににやけていた。悪い予感がしながらも冬馬はその続きを待つ。

「私、MITに入ることにするよ」

「そうですか、おめでとうございます・・・・・・、って本気ですか?」

「うん」

マサチューセッツ工科大学、通称MITは、アメリカにある私立大学である。工学、理学に重点を置く大学として有名だ。世界のトップクラスの頭脳を要するかの大学に目の前のハワイアン少女が適応できるのか冬馬は心配になる。急に手の届かない場所へと、きらりが行ってしまう不安の前兆だったのかもしれない。

きらりの両親、祖母ともに既に説得は済ませていたらしい。普段に比べて段取りがいい。それだけ本気ということなのだろう。

しかし、冬馬以外の人間は、露骨に懐疑的な反応を示した。学校では多くの教師が真面目に取り合わなかったし、考え直せとまで、言われたのだ。きらりは成績優秀ではあったが、社会性のないちょっと可愛い顔をした不思議ちゃんと周りに見られていた。

そんなアウェーの状況でも、頼川先生だけが背中を押してくれた。

「自分の器を知る良い機会です。やってごらんなさい」

単なる妄想に過ぎないと誰もが考えていたある日、きらりがMITの試験に合格したことが広まると、周りの評価も一夜にして一変した。

やれ神童だの、能ある鷹は爪を隠すだの、周りにちやほやされたのだが、きらりはあまり興味を示すことなく、不思議ちゃんキャラのまま卒業していった。

きらりが日本を発つ前夜に冬馬、休みを取って戻ってきたつかさ、秋穂は、きらりを送る会を行った。場所はつかさがアルバイトしていた蓬莱軒だ。

つかさは大人びており、まるで別人のように礼儀正しくなっていた。それでも秋穂の顔を見るや、抱きつこうとしてビンタされていた。

つかさは秋穂にテーブル席でずっと仕事の愚痴を言っていた。秋穂は嫌がらずに大人しく聞いていた。

「あの二人、付き合ってるのかな」

きらりと冬馬はカウンター席でラーメンを食べていた。二人の目の前では店主がチャーハンを豪快に炒める音が荒波

のように聞こえてくる。

「さあ・・・・・・、どうなんですかね」

「もう少し人に興味持ったらどうなの。何か心配だなあ」

きらりに心配されるとは冬馬も思わなかった。立場が逆になったのか、元通りになったのかわからない。

「僕は僕で何とかしますよ、それよりやめるなら今のうちですよ、あっちでは助けてくれる人はいませんからね」

 きらりは、いつになく神妙な表情をかいまみせた。

「ねえ、待っててくれるんだよね?」

 冬馬はちゃんとした返事ができなかった。きらりはどんどん自分の手の届かない所に向かう。きらりだけでなく、つかさや、秋穂も自分の進路を着実に歩んでいる。自分は果たして前に進んでいるのだろうか。こんなことを訊ける人物がここにいないのが、悔やまれる。

明くる日からきらりがいなくなり、冬馬の生活にメリハリがなくなった。家と学校の往復、時々予備校。

きらりに偉そうなことを言った手前、受験だけは失敗できない。がむしゃらに勉学に取り組んだ甲斐があったのか、第一志望の私立文学部の席を手に入れた。達成感はあまりない。

きらりからは、お祝いのために今度の休みに日本に帰るとメールがあった。

ぼんやり過ごしているうちに当日を迎える。空港で待つ間、冬馬は美優のことを考えていた。

駕籠の中のカナリアを欲していた美優はカナリアの歌声を失ってどんな気持ちだったろう。

冬馬も内心ではきらりにカナリアであった欲しかったと気づき愕然とした。望む時に美しく鳴くカナリアを手放して、この空虚感たるや、筆舌につくしがたい。

ただ得るものもあった。カナリアが美しいのは歌声だけではない。天高く舞う彼女の姿を側で見ることができるだけで、十分満足だ。

「冬馬ー!」

きらりが入港ゲートの向こうから大きな声で呼びかけてくる。冬馬はわざと黙して聞こえないふりをした。

きらりが手荷物を受け取り、目の前に歩いてくるまで冬馬はそのままの体勢でいた。

「と、冬馬・・・・・・」

冬馬は顔を上げた。きらりは髪を伸ばし、へんてこな柄のTシャツを着ていた。唇を尖らせ子供っぽい怒り方をする所は変わっていない。

「もう! 迎えに来たんだから抱きしめるとかしてくれってもいいんじゃないの?」

「こんな所でそんな真似できませんよ」

「ああ、どうせ田舎のカップルみたいとか言うんでしょ」

「そんなとこです。おかえりなさい、きらりさん」

きらりは、やっと笑ってくれた。冬馬はそれにぎこちない笑みで応える。

タクシー乗り場まで歩く間、話したのだが、きらりの言葉は日本語でも遠い異国の言葉のように感じられた。

冬馬がつまらなそうにしているのに気づくと、きらりはそっと手を握ってきた。

「どうせあたしら田舎のカップルでしょ。何恥ずかしがってるの?」

冬馬はため息をついた。易々と駕籠を破って飛び出た彼女には、隠し事はできないようである。

たまには自分の話でもしてみようと思う。彼女には物足りないかもしれないが、最後まで付き合ってくれる。そんな気がした。


(了) 



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