act4 聖少女領域
1
A女学院、中等部校舎の正面玄関につながる廊下には、トロフィーの納められたガラスケースが目立つ位置に置かれている。毎年の吹奏楽部を初めとした部活動の輝かしい成果を誇示するようであった。
その前を一人の少女が息せききって、走り抜ける。倉科きらり、十三歳。
少し癖のある髪を肩まで伸ばした彼女は、トロフィーなどには目もくれず、その先の人混みへと、突っ込んでいった。
「ちょっとー、どいてよー!」
背伸びをしても、見えるのは人の黒い頭、頭、頭だけ。
総合得点の字体はちらっと覗いているのが、悩ましい。
今朝、一学期中間考査の順位結果が廊下の壁にはり出されたのである。
この学校では、クラスも成績順で決められる競争社会だ。誰もが目の色を変え、掲示板を確認しようとしていた。
「きらり、廊下を走ってはいけませんよ」
鈴を鳴らしたような声にきらりは、はっと振り返る。
楚々とした歩みでその少女は現れた。見目麗しく、かといって気負いがなく悠然としている。
彼女は白崎美優、倉科きらりの幼い頃からの親友である。
「だって、だって、結果が・・・・・・」
地団太踏むきらりの横に美優が立つと、ほかの生徒が自ずから道を開けた。
「白崎さま、前へどうぞ」
「おめでとうございます」
「今日も素敵ですわ」
美優は声をかけられるたび、笑顔で会釈をしていた。その姿は海を割って進むモーゼのよう。
きらりもおずおずと後に続き、掲示板の再前列に行くことができた。
中等部二年 中間考査総合結果 第一位
学籍番号×××× 白崎美優 896点
美優は結果を前にして、何の反応も示さなかった。ところが、聴衆に振り返った時には満面の笑みである。笑うとえくぼができるのでとても愛嬌があった。
満場から拍手が送られる。美優は胸を張ってありがとうと言った。
大勢の拍手に当てられて、美優の隣にいたきらりは、気持ちが悪くなってしまった。
自分の順位を探すことに集中する。程なくして見つかった。
「あっ・・・・・・!」
順位を確認した後、二人は食堂でお昼を食べた。
「気を落とすことないわよ、十一位は立派な順位だわ」
美優は心から慰めてくれたが、きらりは肩を落としたままだった。きらりの母親はこの順位に満足しないだろう。家に帰れば、お小言が待っている。
「理系科目は私より上だったじゃない。きらりはもっと胸を張っていいのに」
「主席様に言われても嫌みにしか聞こえないよー」
定食の鮭の骨を取りのけながら、きらりは言った。うまくできずに魚の身を崩してしまう。
「そうやって卑下していれば、自分の身は守れるものね」
美優はきらりに容赦しないところがある。もちろん悪意からではなく、きらりの身を本気で案じているからだ。二人の信頼関係があってこその言葉にきらりはいつも感謝していた。
「いいもん! 次は負けないから、覚悟しとけよ」
「ふふ、その意気よ。私の玉子焼きあげるわ。きらり、好きでしょう?」
「あーん」
美優に直接、箸で食べさせてもらう。途端にきらりの目がとろとろになり、多幸感に満ちあふれる。
「ところで、きらり。先日のデートの首尾はどうなりました?」
「んぐっ・・・・・・」
先週末、きらりはとある男の子と二人で遊園地に行った。
相手は年上で高校一年生、年は二つ上だった。碓井君と言って、先輩風を吹かすこともなく親しみやすい男の子である。それ以前にも美優の家で会ったりして、何度か一緒に遊んだことがある。彼は美優の父親の友人の息子だ。彼はきらりの初恋の相手である。物心つく前から、女子校育ちで男性に触れあう機会も少ないせいもあり、きらりが彼に夢中になるのにそう時間はかからなかった。
美優にお膳立てしてもらって、デートが決まった。きらりは当日、子供じみたところを封印して、少しでも大人っぽく振る舞うよう努力した。
ところが観覧車に乗り、二人きりになると会話が弾まない。二人の共通の話題といえば、美優のことくらいである。
話の最中、きらりは彼が美優を異性として意識していることに気づいた。
態度で、声でありありとその事実を突きつけられ、きらりは己の浅はかさを呪った。
それからはもう幼さを隠さず、いつも通りに振る舞うことができた。
「きらりちゃんと一緒にいると本当に楽しいよ。君みたいな妹がいたらな」
こう言われた時、きらりは我ながらうまく笑えたと思った。
吹っ切れたというより、戦わずして逃げたのである。美優にかなうわけがない。それは誰の目にも明らかな事実だった。
「きらり? どうかしましたか?」
現実に引き戻され、きらりは箸もまともに使えない自分と向き合うのであった。
「何でもないよ・・・・・・あっ、今日、私日直だったわ。先に戻ってるね」
そそくさと席を立ち、廊下に出た。
美優は彼の気持ちに気づいているのだろうか。気づいていたとしたら、デートをすすめたりはしないだろう。
何故なら二人は腹心の友だから。
「あの倉科って子、本当に目障りですわ」
きらりは女子トイレに入ろうとして、入り口で立ち竦んだ。誰かが自分をあしざまに罵っている。
「白崎さまに四六時中くっついて、ご迷惑だとは考えないのかしら。いくら幼なじみと言ってもねえ」
「あの子って、前理事長のお孫さんなんでしょう? 先生方も厳しく注意できないらしいじゃない」
「彼女が白崎さま以外の方とお話している所を見た記憶がございませんわ。何だか暗い感じだし、ちょっと怖いですわよね」
きらりはトイレ入り口の壁に張り付いたまま、身動きがとれない。逃げ出したかったし、耳を塞ぎたかったがそれも何故かできなかった。
「それにあの噂、本当なのかしら」
「ああ、倉科さんがこの学院に入ると同時に前理事長が退任したっていう」
「何でも退任を条件にお孫さんを入学させたって」
「それって、裏口入学ってことでしょう? そこまでするのかしら」
「前の理事は現理事と折り合いが悪かったそうですわ。お孫さんを入れるのは難しかったんじゃありません?」
「ひょっとして試験の結果も・・・・・・」
きらりは無理矢理、体をひきはがすようにしてトイレを離れた。
目には涙ため、拳をきつく握りしめていた。
彼女達が話していた噂のほとんどがデタラメだ。
きらりの祖母、光代が理事長だったのは本当だが退任の理由は病に倒れた夫の介護をするためだった。周囲の猛反対を押し切り、光代は理事長をやめた。きらりは理事長としての祖母を知らない。
祖父はその後、数年もたたないうちに亡くなってしまったが、誰に非難されようとも、祖母の人間の尊厳を守ろうとした行動は、きらりにとって誇りであった。
そんな祖母を愚弄されたにも関わらず、きらりは怒鳴りつけることができなかった。そんな自分が情けない。ただ逃げるだけしかできない自分が許せない。
倉科きらりは卑怯で、臆病な少女だった。
きらりは放課後まで机に突っ伏して、授業を受けた。時折、注意された時だけ、教科書を立てておいて顔を隠した。
隣の席の美優だけがその異変に気づいていた。
「帰りましょう、きらり」
美優が言ってもきらりはぼんやりとして席を立とうとしない。美優はきらりの両脇から手を入れ、引っ張りあげた。
「何すんの! やめてよ!」
きらりの悲鳴に教室中が騒然とする。素知らぬ顔で美優はきらりの手を引き、教室を出た。
「離して! 美優。何て乱暴なの」
美優は立ち止まって、きらりの顔をじっと見つめた。泣きはらして赤い目がそこにあった。
二人が来たのは一つ上の階にある音楽室であった。そこでは大きな声で数人の生徒が騒いでいた。上履きの色で一つ下の学年だとわかる。
美優がまっすぐ近づいて行くと一年生は背筋を伸ばし、お喋りをやめた。
「申し訳ないけれど、五分だけ席を外してもらえないかしら? すぐにすむから」
「あっ! はい。誰も入らないようにしておきます」
「勝手言ってごめんなさいね」
美優に返事をした子は感激したように顔を赤らめ、出ていった。
それからピアノを奏でる美優の背中をきらりはぼんやりと見ていた。曲はフランツ・リスト作曲「愛の夢」。美優はとりつかれたように演奏を続ける。鬼気迫る集中力だ。にもかかわらず、指は軽やか、音も渓流のせせらぎのように静かなものだった。まるできらりのためだけに弾いているようである。
そんな美優に声をかけることなど、できるはずもない。棒立ちのまま音に身を任せていた。
「きらり!」
「ふわっ」
知らぬ間に美優が肩を揺すっていた。午睡をしたような気持ちできらりは目をしばたたかせた。
「ほら! しっかりなさい、ここは学校ですわ」
椅子に座らせてもらうと、意識がはっきりしてきた。
「えへへ、やっぱすごいね。美優のピアノは」
美優はピアノのコンクールで何度も優勝している。ゆくゆくは海外で活躍を期待されるほどの才能の持ち主なのだ。
美優はきらりがピアノを褒めても嬉しい顔をしてくれない。初めは照れ隠しかと思ったが、美優はあまりピアノが好きではないようだ。
「幸か不幸か、人は生まれを選べないわ」
きらりの不振を慮っているようにも自嘲しているようにも聞こえた。
「この地獄でもがくしかないのよ」
美優がこんなすれっからしな口をきくのはきらりと二人きりの時に限っている。
多くの人間に崇められる彼女も荒れ野のような一面を覗かせる。そういう時は決まってきらりが慰めていた。
「美優、そんなこと言ったらダメだよ・・・・・・」
落ち込んでいた自分のことを忘れ、きらりは美優を励ました。
「ふふ、変ね。きらりを元気づけようと思ったのに、私が落ち込んでたら世話ないじゃない」
「美優・・・・・・」
気づけば音楽室に来てから、二十分ほどが経過している。外で待ってもらっている下級生には気の毒なことをした。
帰りの途につき、今日あった嫌なことを半ば忘れかけていたきらりは胸につっかえた思いを美優に告げる。
「美優は、気になっている人いる?」
珍しく美優は虚をつかれたような顔をした。通学途中に恋文を渡されたり、声をかけられる彼女だが、浮いた話は聞いたことがない。
「今はそういうことを考える余裕はないわ。どうかしたの?」
「いや、何となく気になっただけ」
きらりは肩すかしを食らってしまった。美優は自分の手の届かないところを見ている。これでは対抗心を燃やそうにも、その甲斐がない。
それを見透かしたように美優は言う。
「私が彼のことをどう思っているのか気になるのね? 心配しないで。彼は良いお友達の一人だから」
美優がどう思うかより彼がどう思うのかが重要だが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。
「余裕ないってさっき言ってたけど、悩みごとでもあるの?」
きらりが訊ねても、美優は乗り気でないのか、はっきり返事をしなかった。それでもしつこくきらりが探ろうとするとようやく話してくれた。
「お願いがあるの、聞いてくれる?」
2
「お手紙を届けて欲しいの。それもできるだけ見立たないように」
美優が頼んだのは簡単な郵便配達のようなものだった。美優の手紙をきらりが校内のげた箱に届けるのである。
「平安時代かよ。メールじゃダメなの?」
まるで子供のお使いのようである。癪に障った。
「手書きの方が気持ちが伝わるのです」
学校は女子しかいないので、恋文の可能性はあまりない。だが美優は同姓からもモテるので恋文の返信の可能性はあった。
「まさか、陰で私の悪口を言ってるわけじゃないよね?」
一応、きらりは慎重に尋ねた。親友にそんな裏切りをされたら立ち直れなくなるだろう。びくびくしている。
美優はそんなきらりの不安を払拭するように笑いかける。
「そんなわけないでしょう。きらりは心配性ね」
「ほんとかあ? もし陰口だったら絶交だよ」
きらりは虚勢を張っていた。
「そうね、絶交ね」
「え? マジで」
耳を疑うきらり。美優はくすくす笑う。
「冗談よ。そんなことあるわけないでしょう? 親友なんだから」
「親友かあ・・・・・・」
その響きがきらりの気に入る所となった。単純だ。
「そう、いつまでも共に歩めるようにがんばりましょう、きらり」
きらりは美優を信じ、封筒の中身をあらためることをしなかった。同じクラスのげた箱だけでなく、別のクラスのところにも手紙を投函した。休み時間や放課後、影のように動き人目に付かないよう心がけた。
そして一ヶ月程、秘密の運び屋を続けたある日のこと。
「え? 学校の外に?」
「そうよ、悪いけれどお願いできないかしら」
きらりは良い気持ちがしなかった。美優の目的は初めからこれだったのだと勘ぐった。
「男でしょ? 回りくどいことして、今までの予行演習だったんだ。ここまでやったんだから、相手のこと教えてよね?」
つき合う相手を把握するのも親友の務めというのは方便で、本音は異性への興味からである。
「年上の人よ。でも皆には内緒して欲しいの、相手にも迷惑がかかるから」
美優は澄まし顔で答える。
きらりは羨望と嫉妬を押し隠して、平静を装った。
「わかってる。うまくいくといいね」
きらりでも本音と建前を使い分けることができた。大事な親友を取られておもしろいわけがない。知らずに奥歯を噛みしめていた。自分より大人な友人に対する負け惜しみだったのかもしれない。
「何でこんなことしないといけないんだよ・・・・・・」
きらりはぶつぶつ言いながらも指示通りの場所に向かっていた。普段乗ったこともない沿線の電車に乗り、知らない駅で降りた。午後六時頃、ホームは家路を急ぐ人でごったがえしていた。人混みが嫌いなきらりは息が詰まりそうである。
やっとのことで駅の外に出ると携帯の地図で方角を確認。
早くしないと暗くなってしまう。家の門限は七時だから、ギリギリだった。
歓楽街に入ると、胸の前で鞄をしっかり持って、きらりは早足で歩いた。道行く人が好奇の目に晒されるようである。誰とも視線を合わせないようににきつく地面だけをにらむようにしていた。
美優の依頼した手紙がある場所は奇態な所だった。居酒屋などが入る雑居ビルの二階のゴミ箱。その建物の前に立ってもきらりは真実味が持てずにいた。大人たちの欲望の吹き溜まりのような場所だ。
団体の客が近づいて来る。追い立てられるようにきらりはビルに入ってしまった。
エレベーターは故障していた。テナントを見るからにいかがわしい店が多い。目を背けるようにして階段を上った。
二階は飲食店が一つ入っているだけの狭い空間だった。ゴミ箱は確かにあった。通路の突き当たり、目立たない所に。
きらりは一瞬触れるのをためった。ゴミ箱は年季が入っていてそれに何だか臭う。中身は何も入っていなかった。意を決してゴミ箱を持ち上げると、封筒が底に張り付けてあった。結構分厚い。中身を見ずにそれを回収し、ほっと一息。ゴミ箱を元の場所に戻し建物を出ようと思っていると、
「ここでなーにしてんの?」
「ひっ・・・・・・!?」
いきなり両肩を掴まれ、きらりは心臓が縮みあがる思いがした。背後にいたのは四十がらみの酔っぱらいだった。既にかなりできあがっており、足取りがおぼつかない。
「お嬢ちゃん、いくつー? 一緒に飲まーない?」
酒臭い息を吐き掛けられきらりは気を失いそうになる。普段人見知りで大人と会話するのも苦手なのである。
悲鳴を上げることすらできず、ただ身をよじっていることしかできなかった。
そのうち男が泥酔して、きらりの方に倒れ込んできた。
「きゃっ・・・・・・! いいかげんにしてよ・・・・・・。何なのもう」
男は目を覚まさない。息はしている。とりあえずその場に寝かせておいてきらりは急ぎ足で建物を出た。
家までどうやって帰ったのか思い出すことができなかった。母親に病院に連れていかれそうになって、我に返るまで自分の異常に気づかなかった程である。落ち着くと、怒りが体内でスープのように煮えたぎってきた。夜はまんじりと眠れずきらりは体をベッドに横たえていた。
深夜、美優によっぽど電話したかったが遅い時間だったので、メールで「バカ」とだけ送信した。返信は結局なかった。
眠ることはできないが、考えるのも耐えがたかったのである。美優のことも諸々のことも頭から締めだそうと躍起になっていた。
明くる日、早くきらりは寝床から起きて学校へ向かった。大股で向かう先は中等部音楽室。部屋に入る前からピアノのしらべが流れていた。誰が弾いているかは明らかだった。
「どういうことよ!」
荒々しく扉を開け、きらりは室内に踏みいった。
演奏を止めた美優が首だけで振り返る。
「騒々しいわよ、きらり。大きな音を出さないでくれる?」
「澄ましてんじゃねえよ! 昨日は大変だったんだから」
きらりが大声を上げても美優は動じた様子はない。所詮自分の気持ちなどわかりはしない。そう思ったら尚更悲しかった。
きらりは封筒を美優の足下に投げ落とした。美優は目線をちらと下げた後、ゆっくりと身を屈めた。
「ご苦労様。またお願いするわね」
封筒の中を確認することなく、鞄にしまうと美優は何でもない口調でそう言った。
「はあ!?」
きらりは美優の肩を突き飛ばした。美優はピアノの鍵盤に軽く手をつきどうにかバランスを保った。
「いいかげんにして! 美優。どういうつもりかしらないけど、私、私、恐かった・・・・・・」
美優はもっと繊細で人に気遣いできる子だと思っていたがその認識が誤りだったのかもしれない。言葉にしないと伝わらないならはっきり伝えてしまえ、そうすれば美優は謝罪してくれるだろうと期待した。
だが美優は顔を背けて沈黙を守った。ただその横顔が笑みの形を浮かべていたのが不気味だった。
「何がおかしいの? 美優が何考えてるのかわかんない」
不安に駆られ半ば叫ぶようにして、きらりは美優に詰め寄った。自分の知っている親友の面影が感じられないのが怖かった。
「おかしくなんかないわ、きらり。でもうれしいの。ごめんね」
やはり美優はおかしくなってしまったのだ。せめて病院には一緒に付いて行こう。
「美優、頭でも打ったんじゃないの」
「そうじゃないったら。私ね、気づいたんです。この世の真実に」
美優は真剣そのものの鋭い口調で持論を展開する。
「天国ってどこにあると思う? きらり」
「天国も地獄もないと思うよ、人間が死亡すると、腐って蛆がたかって・・・・・・」
美優はかぶりを振ったのできらりは黙った。
「理屈を言っているんじゃないの。貴女の天国はどこにあるの? きらり」
「抽象的だね。でもやっぱり私は私の肉体が死んで意識が途絶えた時が私の死ぬ時だと思う」
「メルヘンが足りないわね。とても女子中学生の科白とは思えないわ」
美優はひどく落胆したようだった。
「何も死んだ後に限った話をしているんじゃないの。貴女の天国はどこ?」
きらりは懸命に頭を働かせた。自分の言葉で美優が迷わないように。
「あえて言うならここ」
きらりは床を指さした。
「美優は前に今現在が地獄だって言ってたけど、私は美優といる今ここが天国だったらいいなって思う」
きらりの答えで美優が満足したかはわからない。軽くふっと笑っただけのように見えたから。
「きらりらしいわね、即物的で」
「嫌み言うなら、美優の意見も聞かせてよ」
「私の天国は・・・・・・、この話は別の機会にしましょう」
美優は何故か言いよどんで、首を振って話自体をやめてしまった。
人声がだんだん増えてきた。そろそろホームルームが始まる時間だ。
「とにかくまたお願いするから、もう少しだけがんばって」
これまで十年余りで築いた美優への信頼が初めて揺れ動いた瞬間だった。
美優は妙な議論できらりを煙に巻いた。不信感を拭えないきらりだったが、誰にも相談せずに自分一人の胸にしまいこんだ。
季節は梅雨を過ぎ、夏になった。
美優はその後、外見上は何も変化がないように見えた。学業をそつなくこなし、誰にでも分け隔てなく接する少女のままだ。
変わったことといえば、美優の交友関係が広がったということだった。
教室内には、目には見えないヒエラルキーのようなものが存在する。勉強やスポーツができたり、容姿が端麗だったりと、ある種の住分けが自然とできる。どのグループに所属するかで学校生活は雲泥の差がでるのだ。
きらりと美優のいるクラスは、いじめこそなかったが、クラスで大きな声で話している子は上位のグループに属しているということになる。格差とは言えないまでも、そういった空気があるのも事実だった。
きらりはこれまでどのグループにも所属していなかった。周りは良家の子女ばかりで話についていけないのが理由の一つである。前理事長の孫だからと周りも扱いかねていることもあるが。
美優はそんなきらりと一緒にいるため自然とクラスで浮いている。美優もきらりに気を遣って、積極的にグループと関わろうとしなかったのかもしれない。
そんな美優が他のグループに加わるようになったのできらりも一緒に付いて回るようになった。
お弁当を囲んだり、放課後お店を回ったりと普通の学生の気分を味わうことができた。
あの封筒は悪い夢であったのだときらりは少し忘れそうになることもあるくらいに平穏な日々。
それでも手紙のやりとりは続いていた。あの場所に行くことはあれからなくなったが、不思議な回収場所に行くことがあることに変わりない。神社の境内に落ちていたり、時には自販機の裏にあって回収に苦労した。
「倉科さんってさ、どういう人がタイプ?」
「えっ?」
昼休み、教室できらりを含めた五人がお弁当を広げている時だった。突然、無遠慮に訊ねられ、きらりはとまどう。美優は隣に座っているが、じっと見守るだけで助けてくれそうにない。
そうこうするうち話はきらりを置いて進行していく。
「倉科さんにはそういう話は早いんじゃなくて?」
「そうでもないんじゃない、年頃なのだし」
他愛のない会話でもきらりには驚異なのだった。必要以上に心身を砕いてしまう。そんな風に必死になればなるほど言葉は遠くなる・・・・・・
「松田・・・・・・ゆう、ひゃく」
「え? 何?」
どっ、と笑いが起きる。きらりは顔を真っ赤にして机の下で拳を握りしめていた。
そんなきらりを一顧だにせず、会話は進行する。何でそんなに切り替えが早いのかきらりには不思議だった。
話に加わらなかった美優がきらりの袖をひいた。二人は少し間を置いて席を立ち、廊下へ出た。
「はー、何か疲れる」
きらりは壁に手をつき、一息ついた。先に廊下に出ていた美優は振り返って、
「無理に一緒にいることないのよ? 私に気をつかわなくても」
きらりは苦い顔をして教室の花園を見つめた。遠くから眺めている分には毒のない世界だったが、見栄や駆け引きが交錯するあの場所にいるには自分を捨てきってしまうしかないのかもしれない。
「誰かさんしか、友達いないし・・・・・・」
「じゃあ作ればいいじゃない」
「簡単に言わないでよ」
「簡単よ。ちょっと勇気を出せば」
それができたらとっくの昔にやっていただろう。美優もそれは承知のはずである。
「美優も美優だよ。何であんな連中と付き合うかなー」
あの娘らは、自分の家柄を鼻にかけている節がうかがえた。それもきらりが彼女たちを気に入らない理由の一つである。
美優はとぼけた口調で言う。
「社会勉強かしら」
「はあ? ・・・・・・ぷっ、あはは」
うっかり笑ってしまったきらりだが、慌てて口元を引き締める。
「あの手紙と、あの人たちって何か関係あるの?」
「・・・・・・どうしてそう思うの?」
美優の瞳に怜悧な光が宿る。きらりは少したじろいだ。
きらりは以前、あのメンバーのげた箱に手紙を入れたことがあるのを覚えていた。
美優は作り笑いのようなものを浮かべた。
「あの手紙に深い意味はないのよ。ただ仲良くしようってだけで」
きらりは腑に落ちなくて、切り返す。
「同じクラスなんだし口で言えばいいじゃん。仲良くなってからならわかるけど、美優は私みたいに内気じゃないし」
「・・・・・・きらり」
まっすぐ美優がきらりに向かって歩いてきた。そのまま顔と顔がふれそうな距離で足を止めた。
ぐーっと目をのぞきこむ。まるで美優の瞳には重力でもあって、きらりの体にのしかかってくるようだった。
「私を疑うの?」
美優のその有無を言わせぬ異様な迫力にきらりは言葉を失った。
「私たちは罪を重ねて大人になるの。そして天国の門でその罪を浄化してもらうのよ」
これまで経験のない寒気を感じ、きらりは顔を背けた。出会ってから初めて美優のことがわからなくなった。
「あー、もうやめた。美優はさ、からかってるんだね、あの人たちと」
声に悔しさをにじませ、きらりは美優の体を押しのけた。思った以上に身に堪える。倒れそうだ。
「待って!」
美優が引き止めるが、きらりの耳には遠く感じた。心が離れてしまったようだった。
「私が悪かったわ、きらり。どうしたら許してもらえるの?」
「あの人たちともう付き合わないで。私に隠し事しないで」
「・・・・・・あらあら束縛して。彼氏みたい」
呆れたように美優が言う。
「ううう・・・・・・」
耳まで真っ赤になってきらりは下を向いた。
美優はきらりの肩にぽんと手を置いた。
「わかったわ。あの方達とは距離を置きます。それで許してもらえるかしら」
きらりは渋々頷いた。本当はまだ腹に据えかねていたが、美優を失ったら元も子もないので黙っていた。
「隠し事はもうなしだよ、美優。私、心配だったんだからね」
「・・・・・・ええ」
これで元通りの日常が帰ってくる。二人だけの時間が、子供じみた独占欲も手伝ってかきらりにはそれが何より貴いものに思えた。
美優はそれから本当に約束を守ってくれた。表だっては他の娘と交際を控え、きらりの側を離れなかった。
美優を独占できた安心感に浸りながら、きらりは日々を過ごす。美優の協力で期末試験を五位の成績で突破し、面目を保つことができた。
夏休みは塾に押し込められたが、美優も同じなので乗り越えられた。
そして二学期を迎えたある日のことである。きらりは放課後、音楽室に向かうため廊下を歩いていた。だが途中で忘れ物に気づき、教室に取りに戻った。
教室には誰もいない。カーテンが閉まっていて、ちょっと暗かった。とはいえ、物の形がわからない程でもない。自分の机に真っ直ぐ向かう。詞を書いたノートを机から取り出し鞄に押し込む。美優にメロデイーをつけてもらう約束をしていた。自分の席を離れようとしたきらりは反射的に体をこわばらせた。
前の座席の机の中から見知った物が顔を覗かせていたからだ。ごく一般的な茶封筒。だがきらりにはそれが忌まわしいものに思えた。
喉をならし、ドアを振り返る。足音は響いてこない。
ゆっくりと手を伸ばし、指先で封筒をひっぱった。距離が遠かったためか床に落としてしまった。焦りながら屈んで、手を伸ばす。
その時、突如後ろのドアが開いて誰かが入ってきた。
きらりの方に向かって、迷わず近づいてくる。きらりは封筒をあきらめ、ただ床に縮こまっていた。
「あれ、倉科さんだ。どうかしたの?」
きらりが面を上げると、一人の女子が不思議そうにして立っていた。髪にパーマを当て、メイクもしていている大人っぽい子だ。彼女はいつぞや美優と一緒にいたグループの一人だ。
「あはは、かくれんぼでもしてたの?」
「ち、違うよ・・・・・・」
この娘は佐伯さんという。実家は確か病院を経営している。きらりのクラスのグループの中でも筆頭格で、きらりをいつも子供扱いする。
「どっちでもいいけどほどほどにね。学外でやってたら笑われるよ」
「こ、子供扱いしないで」
佐伯さんは笑いながら、きらりの一つ前の席へと足を向ける。きらりはあっ、と声を上げそうになった。封筒は床にそのままだ。
「あれ、ないな・・・・・・確かに机に入れておいたと思ったんだけど」
暫し机を漁っていた彼女だったが、床の封筒に気づき、それを拾い上げ中を確認していた。
「あー、よかった。入ってる」
「ねえ、そ、それ・・・・・・」
「んー? なあに」
人を食ったような返事をして、佐伯さんは振り返った。きらりはちょっと怯みつつも目線は逸らさない。
「もしかして、美優から?」
佐伯さんの目が若干不自然に泳ぐ。
「そー、そー。白崎さんから、ね」
きらりがどの程度事情を把握しているか探っているようである。佐伯さんは明らかに不都合な秘密を隠していた。
「実は似た封筒を私も持ってるんだよ。ほら」
とっさに、きらりは同じような封筒を鞄から出し、佐伯さんの鼻先に見せびらかすようにして鞄にしまった。
佐伯さんの防備は簡単に崩れた。甲高い怒ったような声を上げる。
「は? 嘘? 何で・・・・・・ふ、ふーん」
腕組みをして平静を装ったが、佐伯さんはきらりが同じ封筒を持っていたことに憤りを感じている。つまりはこの封筒に中身は優劣を競い合う何かが入っているのだろう。
「ねえ、中身、見せっこしない?」
「!?」
きらりが言うと、佐伯さんは身を固くし、自分の持っている封筒を背に隠した。
「べ、べ、別に、見せ合うようなもんじゃないでしょ、これは」
「まあまあ、気にしないで、佐伯さん。ほら、いくよっ! せーの・・・・・・」
「えっ? ちょっ・・・・・・」
きらりの動きに釣られて佐伯さんは封筒の中身を引っ張り出す。
二人とも目を見開いたが、佐伯さんはきらり以上の反応を見せた。
きらりが先ほど見せた封筒の中身は空だった。この封筒は昨日、母親から渡されたものだ。参考書を買うためのお金が入っていたが遣ったのでもうない。
「だ、騙したのね・・・・・・」
佐伯さんは心底悔しそうにうめき声を漏らした。
「嘘はついてないもん。これ、美優からもらったとは言ってないよね」
きらりは断ってから、佐伯さんの封筒の中身を机に並べた。
「・・・・・・ねえ、これって本物だよね」
机の上にはピン札の一万円札が五枚。
「子供銀行券だと思った? 残念、本物の日本銀行券でした。・・・・・・さっきからジロジロ見てるけどパクるんじゃないよ」
佐伯さんはお嬢様とは思えないぞんざいな口調できらりを牽制した。
きらりはちょっと自分を恥じ、物欲しそうに曲げていた体をまっすぐにした。
「どういう経緯で美優からこのお金が回ってきたか聞いてもいいかな?」
佐伯さんは机に寄りかかったまま黙っている。中学生に五万円は大金である。佐伯さんの場合は家が裕福なので、当てはまらないかもしれないが、美優が関わっているとなると、ただのお金ではないかもしれない。
「ねえ、倉科さんはさ、天国って信じる?」
きらりは拳を握りしめた。幼い頃からキリスト教に慣れているとはいえ、きらりは熱心な教徒ではない。何だか忌々しく思い始めていた。
「信じて・・・・・・ない」
自分が天国を信じていると佐伯さんを納得させられれば、美優の隠された顔に近づける。だが土壇場で躊躇した。本当はもうこんな刑事みたいなこと忘れて、自宅のベッドで眠りたい。うたた寝していると母がやさしく起しにきてくれ夕食をお腹いっぱい食べて、宿題をやって、わからない所を美優に聞いて・・・・・・。何も知らなかった頃に戻りたい。でも目を落とすと福沢諭吉が睨んでいる。忘れたとは言わせぬぞとという目つきだった。
「奇遇だね、あたしも同じ」
「えっ・・・・・・」
佐伯さんはお札を宙に投げた。
「あたしが信じるのは、こーれっ! シンプルにして最強。これに勝るものがあるなら持ってこいってのよ!」
「・・・・・・」
「何よ、その目は。あげないわよ」
佐伯さんは地面に落ちたお札をまとめて封筒にしまった。俗っぽい仕草にきらりは苦笑を隠せない。普段の教室では顰蹙を買う行為だったが今は何となくほっとするのだった。
「だいたい今時、カトリックなんて男の気を引く装飾に過ぎないのよ。何か清楚に見えるっていうか」
「駄目だよ、そんなこと言っちゃ。マリア様が見てる」
あからさまな暴言にきらりですらおののいた。
「あー、何の話だっけ、倉科さん。この間、食べたパンケーキのことだっけ」
「話をそらさないでよ」
きつく念を押すと、佐伯さんは観念したのか椅子に座り、頬杖をついた。
「わかったわかった。負けたわよ、何が知りたいの?」
訊きたいことが山ほどあって、頭で整理するのが手一杯である。
「OK、まずはこのお金の出所が知りたいんだよね? 親とか先生にチクらないって約束できる?」
きらりは真顔で頷いた。佐伯さんは顔を近づけ、声を落とす。
「このお金はね、デート代だよ。少し懐に余裕のある大人の男の人とお食事して、おしゃべりして楽しい時間を過ごしてそのお礼にもらうのよ」
「それって、援助こ・・・・・・」
佐伯さんは恐い顔をしてきらりの口を手で塞いだ。
「言っとくけど、あたしは断じてウリはやってない。そこんとこヨロシク」
きらりは何度も頷いた。佐伯さんは手を離した。
「まあそんな感じ。どう? あたしのこと軽蔑した?」
「いや・・・・・・突然のことで何が何だか」
佐伯さんはきらりの頭を乱暴に撫でた。
「あんた、自分の考えをちゃんと言える子だったんだね。白崎の腰巾着だとばかり思ってた」
きらりは、はっとした。
「そうだ! 佐伯さんのことはどうでもいいんだった。美優だよ、美優がそのことにどう関わっているか教えて」
「あたしのことはどうでもいいんかーい・・・・・・」
佐伯さんは少し残念そうだったが、きらりの真剣さに当てられ話し出す。
「うちの学校裏サイトって知ってる? 覗いたことくらいあるでしょ?」
「一応は・・・・・・」
学内の不満を匿名掲示板で晴らすのは構わないが、穏やかに見えるクラスメートの誰かの別の顔が露わになる時、きらりはぞっとするものを感じるのだった。
ちなみにきらりの悪口もよく書き込まれるので見ないようにしている。
「サイト内に隠しページがあるの。パスワードがいるけどね。その隠しページが天使の卵」
「天使の卵・・・・・・」
「そこで外部と情報のやりとりが行われているの。ここまではいい?」
「美優は・・・・・・?」
じれったくなり、きらりが質問すると、佐伯さんは鋭い目線でそれを封じた。
「倉科さん、あたしはまだあんたを完全に信用したわけじゃない。それに白崎が今回の件に関わっているという確かな証拠があるわけじゃないんだ・・・・・・続けるよ」
きらりは頷いた。
「情報のやり取りと言っても学生からアクションは起こせない。あたしらはプロフィールを載せて指名待ち」
「じゃあどんな人の相手になるのかわからないわけだね」
「そう。でも男の方も直接メールがやり取りできるわけじゃない。サイトの管理人が間に立って、あたしらにメールを送ってくる」
「サイト管理人・・・・・・」
「そいつがまたいやらしい奴でさー、相手の男の学歴、職業、人となり、履歴書みたいにまとめて事細かに送ってくんのよ」
佐伯さんがその管理人をまるで知り合いかのように話していた。
「でね、その情報を元にあたしらがコンタクトするかどうか決める。嫌ならそれっきりでおしまい」
「めんどくさいんだね・・・・・・」
「あたしらの安全を考えたらこれくらい当然じゃない? それからメールをやり取りするのも管理人がまた仲介するからね」
「相手が嘘をついたりとかしない? 全然違う人に豹変したり」
佐伯さんは目を閉じ、考える仕草をした。
「あたしが聞いたかぎりじゃそういう話はないね。あたしが会った人も温厚そうな人だったし。お互い偽名だからその点は嘘なんだけど、基本は信頼で成り立っているかな」
佐伯さんの話を聞いていると単なる交流サイトのようにも思える。未成年という点を除けば法には触れていない。
「皆が中学生だって相手は知っているんだよね? つまり・・・・・・その、特殊な性癖の方達という」
きらりが言いよどむと、佐伯さんは急ににやつきだした。
「中にはそういう人もいるけどね。もしかして興味出てきた?」
「ち、違うよ」
「そだね、やめた方がいい」
佐伯さんは即答する。その声に冗談の色はなく、いつの間にか膝に手をおき、姿勢良く座っていた。
「佐伯さん・・・・・・?」
「ここまでが今の倉科さんに開示できるぎりぎりの情報だ。これ以上知りたかったらあたしらの仲間になるしかないよ、どうする?」
返す刃で勧誘するとは佐伯さんもただでは起きない。ただこれはきらりを泥沼に引きずり込むよりも危険から遠ざけるために言っているように思えた。
「美優のことまだ教えてもらってないよね?」
「ちっ・・・・・・まだ覚えてたか」
佐伯さんは何かを恐れている。だが、それが美優に関することなら一歩も引けない。
「確認するけど、倉科さんにとって白崎美優はどういう存在?」
「親友!」
「あたしの推測はその考えを根底から覆してしまうかもしれない。その覚悟はある?」
きらりはためらうことなく頷いた。どんな事実を聞かされても美優を信じる自信があった。
「白崎美優は天使の卵にプロフィールを載せていない」
きらりは少し胸をなで下ろした。やっぱり美優はそんなことをする子じゃない。
「じゃ、じゃあ、美優は無関係なんだね」
「載せていないから無関係とは言えないよ。だから言ったろ? あたしの推測だって」
「じゃあどういう・・・・・・」
きらりは苛立ち始めていた。肝心の内容は推測ときている。
「あたしは白崎美優が天使の卵の管理人だと思ってる」
きらりは失笑した。笑わずにはいられなかった。
「佐伯さん、それはあんまりだよ。美優がそんなことできるわけないよ」
「何故?」
佐伯さんはあくまで真剣だ。美優を陥れてきらりと同士討ちさせるとかそういう意図は感じられない。
「何故って、美優が大人たちを丸め込んで、佐伯さんたちに危険が及ばないように気を配るなんて器用な真似できると思う? だって私たちまだ中学生なんだよ」
「あんたの言い分も一応正しいけど、管理人は間違いなくこの学校にいる。ある日、この手紙がげた箱に入れられていたんだ」
佐伯さんは一枚の便せんを見せてくれた。
「貴女には天国に行く資格があります」
そうワープロで打たれた一行の下にアルファベットが並んでいる。
「これがパスワードよ。一人一人違うんだ。他の娘たちのげた箱にも同じものが入れられていたらしい」
「これは封筒に・・・・・・?」
声が震えそうになるのを堪えながら、きらりは訊ねた。
「そうみたいよ。差出人は不明。現金も同じような方法で届けられるんだ」
佐伯さんの話が本当なら、きらりも知らずして天使の卵の活動の片棒を担いでいたことになる。
現金の回収、パスワードの配布、これが美優の目的だったとしたら、きらりはただ都合よく使われたのだ。
佐伯さんはきらりの異変に気づくこともなく、話し続ける。
「多分、運び屋がいるんだと思う。男の人も管理人に直接現金を手渡さないらしいし。管理人は仲介手数料として、謝礼の何割かを差し引いて、残りがあたしらの取り分になるんだよ」
「美優が管理人だって証拠は・・・・・・? やっぱり推測だけじゃ信じられないよ」
美優が管理人だという決定的な証拠が出てしまったにも関わらず、きらりは美優の無実を証明しようと躍起になっていた。
佐伯さんは肩をすくめる。
「あたしの話を聞いた全員が同じ反応するね。あいつ、人望あるから」
美優は学年主席で才色兼備で学年問わず、人気がある。バレンタインにはチョコレートをたくさんもらい、きらりもおこぼれに与っている。教師や親たちからも信任が篤く、まさに非の打ち所のない少女だ。
「だから証拠はないって言ったでしょ、あたしの勘ってだけ」
「もういいよ、今日のことは忘れるから。それじゃ・・・・・・」
美優に直接訊くため、きらりはもう歩きだそうとしていた。
「ねえ、ちょっと。まさか白崎のとこに直接訊きに行くんじゃないでしょうね?」
「そうだけど」
佐伯さんは駄々をこねる子供でも見たようにあきれたため息をついた。
「あんた、バカぁ? そんなことしたらどうなるかわかってんの?」
「わからない。でも、美優が関わってるならこんなことやめさせてみせる」
「忠告しといてあげる。そんなことしたら、あんた消されるよ」
佐伯さんは美優を過大に畏れているようだった。だが、きらりは美優に関することだけは沸点が低くなる。自然、声も大きくなった。
「私、幼稚舎から美優のこと知ってるんだからね! ずーっと、ずーっと知ってるんだからね。やさしくて思いやりあって・・・・・・」
佐伯さんは手を伸ばし、遮る。
「はい、ストップ。それはあんたが白崎シンパだからよ。それを承知であえて言けど、白崎美優は異常だよ」
佐伯さんが感じている違和感をきらりも感じたことがないと言えば嘘になる。美優の容姿、学力、家柄、運動神経、人格、どれをとっても規格外の存在だ。だがそれは地を這う虫が空を舞う蝶に羨望を抱くのと同じものだときらりは思う。地を這う虫が劣っているわけではないし、蝶はたやすく蜘蛛の餌食となる。妬んだところで無駄なのだと、きらりは結論づけていた。
「考えてもみて、倉科さん。文武両道で性格も良い美人さんなんてキャラ、気持ち悪いよ。思ったことないの? いつも側にいるのに」
「美優は美優だから。私は美優の友達だから、気持ち悪いなんて思わない。佐伯さん、これ以上美優を悪く言うなら私は佐伯さんを許さないかもしれない」
きらりは精一杯恐い顔ですごむが、佐伯さんは涼しい顔をして、ドアの方へ手を振った。
「本当にあんたって娘は白崎に惚れてるんだね。好きにしたら?」
きらりは返事をせずに音楽室に向け駆けだしていた。
佐伯さんはあくびをしてから、椅子に座ったまま伸びをした。
「嗚呼、仲よきことは美しき哉。あたしもそろそろ身の振り方考えねーとな」
上へ向かう階段に足をかけた途端、きらりの足が鉛のように重くなった。
美優の演奏がここまで届いていた。大方、後輩からせがまれて暇つぶしにやっているのだろう。
美優が天使の卵の管理人だとして何のためにそんなことをしているのか。美優の父親は若くして成功した実業家で、別荘まで持っている。お金に困ることはないはずだ。
佐伯さんの妄想だとした方がまだ現実味がある。
「天国で罪を浄化してもらうのよ」
だがきらりは美優のあの言葉が忘れられずにいたのである。
音楽室では美優が見知らぬ後輩にピアノの指導をしていた。恐らく後輩はきらりよりも良い生徒なのだろう。美優も楽しんでいるように見えた。
きらりが幽霊のような暗い顔で、扉の所に佇んでいると後輩が気づいて、美優に伝える。美優は怪訝な表情を浮かべた。
「きらり?」
3
「美優、遅れてごめーん」
裏返りそうなほど甲高い声が、きらりの喉から飛び出した。
美優はピアノを教えていた後輩になにやら耳打ちして退出させた。後輩はきらりの側を通りがかる時、舌打ちしたように感じた。
「今日のレッスンは中止ね」
美優は部屋の時計を見上げて呟いた。やけに白い喉元、同姓のきらりから見ても時折ドキッとさせられる。
「美優、それなんだけどさ、今日は二人でこれからどっか行かない?」
本来なら美優はこの後、塾に行く予定だったのだ。きらりもそれを知っていて誘った。美優は誘いを断らなかった。
二人は駅前でたこ焼きを買い、側のベンチで食べた。
「あちっ、あちっ・・・・・・」
「きらり、焦りすぎです。冷ましてから食べればいいじゃない」
苦笑していた美優も自分のたこ焼きに息を吹きかけてから口に入れたが、口元を押さえたまま押し黙ってしまった。
「美優ー?」
にやにやしながら、きらりが顔を近づけると美優は顔を背ける。喉をこくんと鳴らし、飲み込んだ後に軽く咳払いする美優。顔がほんのり紅い。ハンカチで口元を一生懸命拭っている。
「このたこ焼き、存外内部に熱がこもっていたわ。これからは、切れ目を入れて冷ましてから食べなくてはなりませんね」
「誰もそんなことしてないって。変な美優」
美優は大まじめだ。天然なところは幼いところから変わっていない。きらりは苦笑しつつも、安堵していた。美優だって人間なのだ。たこ焼きを食べてやけどをする女の子だ。
「私ね、美優に感謝してるんだよ。子供の頃、砂場で遊んでた私を引っ張ってくれたこと」
きらりは幼少の頃、人の輪にうまく入れず砂場でよく遊んでいた。もし美優がいなければ、きらりはいつまでも砂場から離れることができなかったかもしれない。
だが美優はきょとんとした顔をしていた。
「ごめんなさい、きらり。何の話かしら。砂場がどうかしたの?」
「覚えて・・・・・・ないの?」
きらりが大事にしていた思い出は美優にとってはさして重要ではなかった。その事実はきらりを一層深いところに追いやった。
「心当たりがないわ。何か大事な話だったの?」
「う、うん、いや、覚えてないならいいや。大したことじゃないんだ。私の思い違いだったのかも」
気まずい空気になり、きらりは黙った。結果的に美優を責めてしまった。美優は悪くないのだ。場を仕切り直そうと、笑顔を作る。
「ねえ、今度さ碓井君と三人でどっか遊びに行こうよ。今度はどこがいいかな? 美優はどこが」
「きらり、ちょっといいかしら」
美優が人の話を中断させることはごく稀だった。普段どんなにくだらない話でも、相づちを打って最後まで聞いてくれるのだ。
「私、彼とお付き合いすることになったわ」
「えっ・・・・・・?」
時が止まったかのようにきらりの感覚は急速に麻痺した。かろうじて口だけが、機械のように音を鳴らす。
「い、いつから?」
「夏休みの終わり頃だったかしら。告白されて、初めは断ったけれど、どうしてもって、しつこく言い寄られたから・・・・・・」
口では迷惑だと言いつつも、えくぼを作る美優の顔は幸せそうだった。
きらりは下を向いた。
「そ、そうなんだ。悪いこと訊いちゃったね。お邪魔虫だね・・・・・・、私」
「そうじゃないわ、勘違いしないでね、このまま黙っていたら、きらりを騙していることになってしまうもの。卑怯だと思われたくなかったの。だから今まで通り三人で出かけましょう」
今まで通りに三人で笑えるなんて誰が考えるだろうか。普段のきらりなら、お似合いの二人だね、とか、いいなー私も彼氏欲しいとかその場を誤魔化すことも言えたかもしれない。
だが佐伯さんの話で気持ちを揺さぶられていたきらりは、胸に沸き上がる黒い衝動を押さえ込むことができなかった。
気づいた時にはベンチの下に美優が転がって、地面に手をついていた。
「なんでよ、なんで、あんたばっかり・・・・・・!」
きらりが絞り出した声は自分のものとは思えないほど、えんさがこもっていた。
美優は地面に座り込んだまま、星でも眺めるようにきらりを見上げている。
その時、丁度折り悪く通りかかった警察官に事情を聞かれたものの、美優が貧血だと言って、うまくごまかした。美優が言うことは何もかも真実に変わるのだ。
美優の手のひらから血が垂れていた。きらりが突き飛ばした時に擦りむいたのだろう。
それから二人とも何も言葉を交わすことなく、反対の方角へ歩きだしていた。
きらりは家に帰った後、ベッドのシーツを握ったまま朝を迎えた。悔し涙が乾くことはなかった。
学校に行くと、美優が教室でクラスメートに取り囲まれていた。
美優の右手には包帯が巻かれている。かすり傷だったのに痛ましく演出されていた。
きらりはそれを遠巻きに眺めてから、自分の席についた。
美優の方から話しかけてこない以上、自分から謝る気は、きらりにはなかった。
教室にいる間、時折、美優の視線を感じたが、気づかないふりで通す。意地の張り合いだ。
まるで「貴方が悪いんだから、自分から謝りにきなさい」と告げられているようだった。
お昼は食堂でうどんをすすっていた。席は満席に近いにも関わらず、誰もきらりのテーブルに近づいてこない。いつものことなので気にしないでいると、きらりのすぐ後ろに人が立っている気配がする。美優が来てくれたときらりは内心喜んだ。
昨夜の仕打ちはやりすぎたと、反省し始めていたきらりは謝る機会を得て、急ぎ振り返る。だが立っていたのは意外な人物だった。
「倉科さん、お金貸してくれない? すぐ返すから」
佐伯さんだった。いつもいる取り巻きが一人もいなかった。
手を合わせ、本当に困った顔をしているので、きらりも無視できずに応対せざるを得ない。
「いくら?」
「三百万」
きらりは、提示された奇妙な金額を冷静に頭で数えた。円なのか、ドルなのか、ユーロなのか。
「払えません!」
「冗談だよぉー。六百円でいいよ(はーと)」
それくらいならと、きらりは、財布からお金を手渡した。お金を受け取ると佐伯さんは、早速羽でも生えたような軽い足取りで食券を買いに行った。騙されたと悟った時には佐伯さんはちゃっかり自分と同じテーブルについている。
「いやー、助かったよ。近頃金欠でさ」
「嘘つき。昨日、五万持ってたじゃん」
佐伯さんの口振りからしたら相当、ため込んでいそうなものだ。あるいは、きらりと話す口実が欲しかったのかもしれない。
「使った。昨日デートで」
「? どうして佐伯さんがお金を払うの?」
「だーからあ・・・・・・」
佐伯さんは声を震わせてテーブルを叩いた。
「本命の彼氏とラブするために決まってんでしょーが。つーかラブとか言わすな、恥ずかしい」
「すみません・・・・・・」
逆ギレして喉が乾いたのか、佐伯さんは水をごくごく飲んだ。
「佐伯さん、彼氏いるんだね。だったらもう・・・・・・」
「ああ、あれね。もうやめたやめた。危ない橋渡るのやーめた。今日から真面目子さんになったんだよ、あたし」
きらりは天使の卵から手を引けと言うつもりだった。だが佐伯さんには何を言ってもどうせ聞き入れないだろうと思っていたので耳を疑った。
「どうして・・・・・・?」
「だってえ、昨日、倉科さんから言われたことが胸に響いたんだもの。自分を大切にしろとか、お嫁に行けくなるぞとか」
「私、そんなこと言ったけ・・・・・・?」
「言った言った、ちゃんと言った。熱き血潮をたぎらせて」
佐伯さんの言葉は軽くて胡乱だ。まったく信用がない。
「はあ・・・・・・、なんか倉科さんといると楽しいわ。白崎があんたを手元に置いときたくなるのわかる気がする」
「・・・・・・えっ? そう?」
一緒に居て楽しいなんて美優以外に言われたのが始めてだったので、お世辞でも胸が躍ってしまう。
「うん! 手頃なサンドバックって意味だけど」
すぐには理解できずとも佐伯さんの目にありありと悪意の光がちらついている。二人はやはり水と油なのだ。
「美優は私でストレスを解消しているってこと?」
佐伯さんは指をぱちんと鳴らした。
「察しいいじゃん! 正確に言うと、あんたは白崎に負の部分を押しつけられているっていう方が正しいかな。倉科きらりという舞台装置に照らされることによって、白崎美優というキャラが成り立っていると言っても過言ではないよね」
「よくはわからないけど・・・・・・」
「それこそ嘘だよ、倉科さん。わかってるからこそ、白崎を憎んでいるくせに」
佐伯さんは右手の平をわざとさすった。美優のケガの原因も見抜いている。やはりクラスの長だけあって恐ろしい洞察力だ。
「佐伯さんは私と美優を不仲にしてどうしようっていうの?」
「それはー・・・・・・ちょっとここでは言いづらいなー」
照れたような笑みを浮かべて、佐伯さんは二つに折ったメモ用紙をきらりの前に置いた。開いてみると、
「放課後、礼拝堂に一人で来い。白崎や教師に漏らしたら・・・・・・わかってんだろうな?」
きらりが悪寒を感じ、佐伯さんの方を窺うと既に食事を終え立ち上がるところだった。
「てなわけでよろしくねーん! お金助かったよ、ごちそうさん」
片目でウインクして佐伯さんはその場を離れた。
きらりは不測の事態に怯えた。佐伯さんは、天使の卵のメンバーを集めてきらりの口封じをするつもりかもしれない。不用意にきらりに情報を漏らしたことで佐伯さん自身の身も危うくなっているのだ。
きらりは今のところ、天使の卵の情報を外部に漏らすつもりはなかった。きらりでも、天使の卵がろくでもないことはわかっていた。だが、美優への疑いも宙に浮いたままである。友人を密告することになるかもしれない。
きらりが教室に戻っても美優は目線一つ寄越さない。
佐伯さんは友達の輪に戻り、にこやかに談笑していた。
美優と佐伯さんの考えが読めない。きらりはおとなしく放課後を待つしかなかった。
礼拝堂はきらりのいる中等部から離れた高等部の近くにあり、外履きにはきかえて行かなければならない。大正時代に建てられた礼拝堂は瀟洒な作りで、外国人建築家が設計したそうだ。
木造の扉を押し開けると、独特の香りが鼻をかすめた。両脇三段ずつ並んだ長椅子、小さな祭壇。卒業生はここで結婚式を上げることもできる。
佐伯さんらしい人物が一番前の席に座っている。きらりの足音が近づくと、首だけで振り返る。
「やあ、来たね」
きらりが隣に少し間を空けて座ると、佐伯さんはぴったり身を寄せるように移動してきた。暑苦しい。
「こんなとこに呼び出してどういうつもり? 言っとくけど私になんかあったら・・・・・・」
きらりも馬鹿ではない。罪を告発する文書を机の中に入れて置いた。
「そんな怖い顔しなさんな、可愛い顔が台無しだよ」
佐伯さんはどういわけか上機嫌だ。そのことがきらりを一層不安にした。
「まあまあ気楽にして・・・・・・」
きらりの肩をなでさすそろうとする佐伯さんをうるさそうに払いのける。
「私を懐柔しようとしても無駄だよ。ばらしたりしないから」
「もうその話はいいんだってー、もうあたし関係ないし」
「本当に?」
今にも舌打ちしそうな顔で、佐伯さんはきらりをにらんだ。本領発揮だ。
「今日はその話じゃないんだってば。ねえ、あんた男に振られた?」
きらりは思わず椅子から立ち上がる。この話はきらりと美優しか知らないはずだ。だが美優と佐伯さんが昨日今日で込み入った話をするだろうか。少なくともきらりには二人の関係がそこまで深いものとは考えていなかった。
「あはは、図星っぽいね」
「誰から聞いたの?」
佐伯さんのからかうような笑い声が礼拝堂を行ったり来たりする。
「聞いたわけじゃないよ。倉科さん、あんたが白崎と揉めることは滅多にないことだよね。よっぽどのことがない限り。つまりは、男関係かなって」
せいこくを射ていて、みるみるきらりの顔は青ざめてしまった。
「だから言ったじゃん。あいつと関わるとろくなことにならないって、男取られてきらりちゃんカワイソー」
「別に佐伯さんに関係ないでしょ、話はそれだけ? ならもう行くよ」
「待ってよ。あいつに一泡吹かせたくないの?」
きらりは浮かせていた腰を椅子に下ろした。以前では考えられないが、自分は佐伯さんの話を聞くためにここに来ているのだ。
「何も悪い話じゃないんだってば。きらりちゃん、私の友達になんなさいよ」
きらりは逡巡した。思えば、生まれてこのかた友達と呼べる存在を美優しか知らない。だがきらりの内で、答えは既に決まっていたのだ。
「お断りだね」
「えー? どうして」
佐伯さんは異議を申し立てるように席を立ち上がった。きらりは呆気に取られた。自分を引き留めるための冗談だと思ったのである。
「どうしてって、佐伯さんとは・・・・・・」
佐伯さんは大仰に天を仰ぐ。
「あー、そっかそっか。売春まがいなことをしている奴とは口も聞きたくないってことか」
きらりはピアノの蓋をばたんと落としてしまった気分を思い出した。佐伯さんの目は真っ赤になっていた。
「でも忘れるんじゃねえぞ! 白崎の側にいたら、あんたは確実に破滅するんだ」
そう捨てぜりふを残して佐伯さんは、乱暴な足取りで礼拝堂を出ていった。
「・・・・・・知って、たのかも」
手に入りそうで届かないもの。あえて見せてそれを奪う。自分は本当は美優が憎いのだと認めてしまえば少し気が楽になった。一歩踏み出せば案外軽い。だが二人にとっては重い一歩だった。
きらりは教室に戻り、美優の姿を探した。美優の鞄は机に置いてあった。が、本人の姿は見あたらない。当然佐伯さんの姿もなかった。
きらりは再び、教室を出ようとして人にぶつかりそうになった。
美優だった。白い頬に紅を浮かせて、走ってきたようである。
「あ・・・・・・、きらり」
何事にも臆することのない美優が怪物にでも出くわしたようにひどく狼狽している。きらりにはそれがおかしかった。だから余裕を持って美優に立ち向かうことができる。
「昨日はごめんね、美優。痛かったよね?」
美優は戸惑ったような笑みを浮かべ、首を振った。
「いえ、いいの。それよりも私の方が配慮が足らなかったと反省していた所です。本当に申し訳なかったわ」
「もう気にしてないよ。これでおあいこってことにしようよ」
二人は健康そうに頷き合った。
普段のきらりにはこれで十分だったが、一度たぎった憎悪は容易に消えず、心中にナイフを忍ばせて、その日は美優と別れた。
家に帰って一人になり冷静になると、美優に復讐するという考えを持て余してしまった。
だが泣き寝入りはしたくない。ほんの少し困らせる程度でいいのだ。復讐などと大それたことをせず、日頃の鬱憤を晴らせればそれでいい。
美優が天使の卵の管理人だと仮定して、彼女にとって最悪の事態とは何か。それは事が露見し、罪が白日の元に晒されることだ。だが、その可能性は限りなくゼロに等しい。証拠といえば、今のところ佐伯さんの勘だけだ。
きらりも本当はそこまで望んでいない。側で美優が石を投げつけられるのを見るのは忍びない。
その翌朝、少しばかり早起きしたきらりは、自分の部屋でストレッチをしていた。
部屋の前を通りかかった母親はそれを認めて不思議に思った。
きらりが家を出たのはいつもより早い時間だったにも関わらず、学校に着いたのは終業チャイムが鳴る寸前のことだった。
教室に入ってまず目に飛び込んだのは佐伯さんのグループが思い詰めた表情で固まっていたことだった。
きらりに気づくと蜘蛛の子を散らすように散っていった。
「今朝は遅いわね、きらり」
通りがかりに美優に小言を頂戴したが、きらりは平然としていた。
「スポーツを始めたんだ。疲れちゃった」
「急に激しい運動をするのはよくないわ。ほどほどにね」
「うん、気をつける」
美優には覇気がないように思った。心配ごとでもあるように手指をいじっている。
きらりは少し得意になっていた。たとえ美優でも自分の企みに気づくわけがない。気づいていたとしても指をくわえて見ている他ないのだ。
昼休み、きらりは中庭の一角にいた。学院の創設者の銅像の側は人気のない区域だ。それもそのはず生け垣で遮られたその場所は生徒の立ち入りは禁じられている。
日差しの強さにも関わらず、四つん這いになってきらりは犬のように地面を這い回っていた。こめかみから汗がしたたって、芝に落ちた。
「そこのいちごパンツ! 止まりなさい」
きらりは慌ててスカートを押さえ、銅像の陰に身を潜ませた。芝を踏む音が近づいてくる。
「何隠れてんのよ、だっさー」
佐伯さんが突然現れて、妙な安心感があった。教師より幾分ましというだけだったが。
「またかくれんぼしてんの? あたしも混ぜてよ」
「・・・・・・もう終わったよ。帰るから」
佐伯さんを押し退けるようにして道を開けるきらり。
「待ちなって。あんた、何しようとしてるわけ?」
「昨日、佐伯さんに言われた通りだよ。私は美優に嫉妬してる。だからもう我慢しない。やりたいようにやるんだ」
首を振って佐伯さんは銅像に手をついた。
「・・・・・・あんた、変わったね。今、楽しい?」
「楽しいよ」
「じゃあ、その楽しみのためにあたし達の邪魔をするんだね」
佐伯さんはきらりの右手を強く掴み上げた。その手に握られていたのは封筒だった。
「あんたのやってるのは泥棒じゃない! 返しなさいよ」
きらりの目が据わっているので、佐伯さんはたじろいだ。
「じゃあ、佐伯さん。このお金の出所をみんなの前で説明できる?」
ねこじゃらしのように佐伯さんの鼻先に封筒をちらつかせる。
「・・・・・・あたしをおどすのか?」
「そうならないように今見たことは黙っていて欲しいな」
よろよろと貧血ぎみのように佐伯さんは銅像によりかかっていた。玉の汗を浮かべ、歯ぎしりをしている。
「佐伯さんにもメリットはあるよ。美優が管理人かどうかはっきりするんだから」
資金源が絶たれれば、美優は何らかのアクションを取るはずだ。その前に天使の卵のメンバーに報復される危険も伴っているが、きらりは自分の身の危険などどうでもよくなっていた。
「そうやって隠されたお金をいちいち見つけだす気? あんたまさか運び屋・・・・・・」
「美優には私がお金を横取りしているってすぐにわかるはずなんだ」
そこからが本当の勝負だときらりは思っていた。美優と向き合うにはこの方法しかない。
「あんた、マジであいつに刃向かう気なんだね」
佐伯さんはそれ以上何も言ってこなかった。きらりは封筒を潰れるくらり握りしめ、校舎に戻った。校舎の中は眩しい屋外から目が順応するのに時間がかかる暗さだ。空気は棺のように暗く重苦しい。ふらふら歩いていて途中で誰かとぶつかりそうになった。かつて美優と音楽室で一緒にいた子かもしれない。顔は忘れた。
女子トイレに入り、個室に閉じこもった。震える手で、封筒の中身を引きずりだす。
二万円、入っていた。スカートのポケットにお金だけ押し込む。封筒は細かくちぎってゴミ箱に放った。
鏡の自分は口をヘの字にして、何かつらいことに耐えているような顔をしていた。放課後もお金を回収するべく目を皿のようにしてかけずり回った。美優に回収を頼まれた時と、隠し場所の傾向は変わっていない。きらりに代わる別の運び屋を美優は遣っているのかもしれない。その人物とバッティングすることはなかった。
校内にあった封筒は金額にして十五万円。それ以上は見つからなかったが、一日にしてそれだけの金額が集まるのなら、美優の手元にはどれだけ集まるのか。考えるだけでおぞましい。まして校外にも隠し場所は存在しているのだ。
その日は美優には声をかけず、校門を出た。
明確な見当があるわけではなかった。適当に電車を乗り継ぎ、違う駅へと移動する。
顔のない人たちとすれ違う。色のない泥が鼻から口から入り込んでくる。
とうつうがしてしゃがみ込む。ローファーを脱ぐと、靴擦れしており、かかとに血が滲んでいる。白いソックスに血が広がっていく。
「何やってるんだろ、私・・・・・・」
こんなこそ泥のような真似をしても自分が惨めになるだけだ。わかってはいたが、美優に対する憎しみを見て見ぬふりをするのが苦しくてならない。いっそ自分の喉に刃を突き立て、内の本音をぶちまけることができればいいのにと思う。
そんなことできるわけがないのでとりあえず、持っていた絆創膏をかかとに張り、靴を履き直す。
携帯を開くと、五時を過ぎていた。ひぐらしの声が脇の林から響く。
「あれ、ここは・・・・・・」
無意識に見知った道を選んでいたらしい。ここは白崎美優の実家のすぐ側である。きらりと美優の家は二駅程隔たっていたが、幼少のよしみで、この辺りには何度も足を運んでいる。何かを思い出したきらり。体を引きずるようにして、動き始めた。長い石段を上る。一段一段が魂を削られたようにへこみ、かけている。最近来ていなかったから、頂上につくまでが長く感じる。靴は脱いで手に持っていた。息を切らせ階段を上りきると、小さい神社がある。この高台から見る景色は格別で幼い頃は美優とよく来たものだ。夏は花火が見られる穴場スポットとして地元でも有名である。下生えが放置され、御利益もないがしろにされていそうだ。
ふと人声がして、きらりは神社の脇に回った。何気ない足取りで近づき、ふと立ち止まる。きらりは神社の陰に隠れるようにしてパッと身を潜めた。声の主が旧知の人たちだと気づいたからだ。
美優ともう一人、碓井君である。
きらりは口に手を当て息を殺した。何故二人がここにいる理由よりも、まず二人の会話を知りたかった。
美優と碓井君は制服姿で、一歩分くらいの距離を空けて並んで立っている。美優は俯きがちで、碓井君が何か言うたび、かすかに頷いていた。
もう少し近づかないと、会話が聞こえない。摺り足で距離を地道に詰めた。ところが小枝を踏んでしまい、乾いた音がきらりの居場所を知らせる。雨だれのような会話がふいにやむ。
きらりは動くことも逃げ出すことも、二人の前に姿を見せることもできず、ただ神社の壁に地虫のように張り付いていた。出ていけば、軽蔑されるという予感があった。
ところが、美優たちはそれから何事もなかったように会話を再開した。
気づかれなかったのを幸いと、きらりはまた耳をそばだてた。だが美優の口からこぼれた言葉が偶然、きらりに届いた。
きらりはわき目もふらず、神社の階段をかけ降りていった。
「きらりのことが心配」
美優は確かにそう言った。自分がダシに使われているという悪い考えが頭を病原菌のように侵す。石段は冷たい。かかとの血は止まらない。
「靴・・・・・・履かないと」
ローファーに水滴が垂れた。冷たい雨が降りだした。初めは小降だったが、だんだんと本降りになってくる。きらりは顔についた飛沫を袖で拭い、歩いていった。
数時間後、自宅最寄り駅のコインロッカー前にきらりは立っていた。手には先ほどまで持っていなかった買い物袋を握りしめている。きらりは震えていた。雨に濡れた寒さのせいばかりではなかった。それから持っていた袋をロッカーに押し込め、そのまま自宅に帰った。
明くる日も雨は降り続き、きらりは学校で雨粒の弾ける窓ガラスを眺めていた。
「倉科さん、それエルメスのポーチじゃない?」
きらりが何気なく机の上に置いていたものは、通りがかかったクラスメートの注意を引いた。薄ピンクのエルメスのポーチだ。
「・・・・・・ああ、ええと、ママのお下がりなんだ」
きらりは髪をいじりながら生返事をした。
「へー、いいなー」
やっかみとも賞賛とも取れるような曖昧な表情をクラスメートは浮かべていた。
きらりは優越感を覚え、美優の背中に視線を注いだ。それを感じ取ったのか、すぐさま美優は振り返ってきらりのいる席にやってきた。ポーチを一瞥した後、強い口調で言う。
「きらり、今日一緒に帰りましょう。いいわね?」
「いいけど・・・・・・」
美優は帰りがけにも口をいっかな開こうとしない。巌のように口を結び、沈黙を守っていた。午後になると雨は小降りになっていた。
不気味だった。かいしょうがくる前兆のようである。そもそも美優が声を荒らげたり、強い言葉を使ったことはない。こんなに余裕をなくした美優は初めてである。
「ねえ、怒っているんでしょう? 何でもいいから話してよ」
美優はきらりの数歩先を歩き、前を向いたまま口を開いた。
「私は別に。美優は碓井君とうまくやってるんだね」
その時、美優はぐるりと振り返った。いつかの神や天国について語る憑かれたような美優の顔だった。
「私、どうかしてたわ。心がざらざらなの、乾いた砂みたいに」
深く傷ついたような目をして美優は言うのだった。傷ついていたのはきらりも同じだが、より深く傷ついたのは美優の方のような気がして、目をそらしてしまう。
「きらりは意地悪だわ。何か言ってよ。ねえ!」
美優の度はずれた腕力に突き飛ばされ、きらりは傘を落とし、尻餅をついた。恐怖を感じ、手で頭を庇う。
一呼吸置いて、きらりが手の隙間からうかがうと美優がうつ伏せ倒れていた。
「・・・・・・美優?」
何が起こったのかわからず、きらりは気が動転していた。
美優の額をさわると、ひどい熱を帯びている。呼吸も乱れていた。うわごとを呟いて立ち上がろうとするので押しとどめるのが大変だった。
救急車を呼ぼうとしたが美優は首を横に振る。
しかたなくきらりは、美優の自宅に連絡し、迎えに来てもらった。車を運転してきたのは美優の母親だ。美優は数日前から頭痛を訴えていたという。それでも彼女はあまり美優に関心を持っていないように見えた。何度か対面しているが、美優を嫌っているというより、壊れものを扱いかねているという感じだった。
車中で美優の意識が戻ったので病院に行かずに、自宅にそのまま向かった。自室のベッドに寝かせると落ち着いたと、母親から聞いてから、きらりは家を辞去した。だが、きらりは美優の呟いていたうわごとをしっかり聞き取っていた。
「私を見捨てないで」
何と自分は浅はかだったのだろうときらりは思った。危うくあの母親と同じように美優を遠いところに追いやるところだったのである。
美優も多感な十代の少女、決して怪物なんかじゃない。こんな単純なことで目が覚めた。
謝罪するにはまだ遅くないはずだ。だが、自分の鞄が重くなっている。
エルメスのポーチ。昨日、激情にまかせて買ってしまったのだ。もちろん使ったお金は拾った封筒のものである。扱いに困ったが、これは誰かに相談するわけにはいかない。
とりあえずほとぼりが冷めるまで、隠しておこう。それで罪が消えてしまうわけではないけれど。
美優は部屋のベッドにおとなしく寝かせられていた。相変わらず意識は夢うつつをさまよっていた。夢の中で、美優は白百合が咲き誇る場所に立っていた。普段は気にならないのだが、その時だけは百合の香りでどうしようもなく胸が悪くなり、憎しみが沸いた。気炎を上げて、百合の花を踏みつぶしていった、それが何を意味するか彼女にとっては知ったことではなかった。夢だから、他にやることもないから、ただ執拗に美優はその行為に耽っていた。
机に置かれた携帯が一度大きく震えた。
夢想の百合園から現実に立ちかえる。もうきらりは部屋におらず、家の中は押し殺したような不自然な沈黙が横たわっていた。
まっすぐ机に手を伸ばし、携帯を開く。無表情のまま天井を仰いだ。
「審判の日はもうすぐそこ。誰も逃れられない」
4
何事も終わりは唐突にやってくる。
その日もきらりは、学校に行く前に、テレビで朝のニュースを観ていた。きらりは、本当は朝は静かに過ごしたいのだが、母親が許してくれない。
首相の海外歴訪から始まり、酷暑はいつまで続くのかという観測、きらりは食事をとりながらだからあまり耳に入らない。リビングに入ってきた母親が何気なく、チャンネルを変更した。
きらりは文句を言おうとして、ぎょっとした。テレビに不吉な映像が流れていたのだ。
それは会社社員の男が中学生少女と淫行したというニュースだった。
普段なら聞き流す内容でも、今のきらりには意味合いが違ってくる。手の震えを悟られない内に、持っていたスプーンをテーブルに置いた。チャンネルがまた変更された。
隣を盗み見ると、母親は軽蔑と好奇心を混ぜ合わせたように目元に小皺を寄せ、食器を片づけている所だった。
「ああいやだ、いい大人がみっともないったら。それに女の子も女の子よ。親の顔が見てみたいわ」
きらりは母親の苦言に作り笑いを浮かべ、制服に急ぎ袖を通して家を出た。
きらりの嫌な予感は的中していた。校内に入った途端、騒然とした空気に足が引けそうになる。
何とか教室の前の扉から入ると、まず目に飛び込んでくるのは自習という書き殴ったと思われる黒板の文字だ。
クラスメートはきらりには一瞥もくれず、隅に固まり、声を潜めていた。
美優の姿を探す。彼女は怯えた羊みたいなクラスメートの輪の中心にいた。まるで聖女のようにくもりない瞳をして彼女らを守っているようである。
声をかけるべきか迷っているうち自分の袖が強く引っ張られた。振り向くと、青白い顔をした佐伯さんの姿があった。
「オハヨ。ツラかしな」
廊下の端の人目につかないところに着くと、佐伯さんは誰にも聞かれていないことを確認してから話し出した。
「時間がないから手短に言うよ。これから何を聞かれても知らないって答えろ」
「えっ? どういうこと? 聞かれるって誰に? やっぱり天使の・・・・・・」
佐伯さんはきらりの口元をぱっと押さえた。のっぴきならない事情が差し迫っていることは明白だった。
今朝のニュースで報道された女子生徒はこの学校の生徒だったのだろう。そこから天使の卵の存在、ひいては佐伯さん達のやっていたことが明るみになりそうなのだ。
きらり自身は直接、天使の卵と関わりがない。問題はなさそうに思われた。
「わかったら戻るよ。怪しまれる」
佐伯さんに手を引かれ、教室に戻るとクラス担任の伊藤詩織先生が背を向け立っている。
「・・・・・・貴方たち、どこに行っていたのです?」
伊藤先生は髪を後ろで束ね、銀縁眼鏡の奥に光る瞳はいつも冷えている。威圧感たっぷりにきらり達に迫る姿は氷の女帝と呼ばれるにふさわしい貫禄だった。
「あ・・・・・・、えっと」
「すみませーん。倉科さんが具合が悪いそうなので、一緒にトイレに行ってました」
佐伯さんはしれっと誤魔化したが、伊藤先生は表情一つ変えず、二人の顔を交互に観察している。
「まあ、いいでしょう。倉科さん、お話があります。一緒に生徒指導室へ」
きらりは、おずおずと頷いた。佐伯さんが耳元で「がんばって」と囁く。
生徒指導室は一階の職員室に隣接している小部屋のことだ。きらりは入ったことがないけれど、確か学園の七不思議に入っていたと思う。誰もいないのに話し声がするとか、ここに入って出てこない生徒がいるとか。とにかくあまり良い印象のない小部屋だ。伊藤先生が先にドアを開けた途端、一気に熱気が溢れてきた。
「クーラーが故障しているようです。私は入り口にいますから、何かあったらいつでも呼びなさい」
「あっ・・・・・・はい」
伊藤先生は冷たいだけの先生ではない。背中を守られているようで心強かった。
話を聞くのは伊藤先生ではないことが判明した。部屋に入るとすぐ仕切ができており、その向こう側から手招きしている。
「おーい。こっちこっち」
きらりが仕切を覗き込むと、若い男が座っていた。細身で長身の男である。ちょっと高価そうなスーツを着ていた。
彼は、きらりの姿を認めるとうれしそうに立ち上がり身を屈めて挨拶する。
「初めまして。僕は古手川っていいます。君が倉科きらりさん? 少しの間だけお話いいかな?」
「は、はい・・・・・・」
近くで見ると、さわやかな好男子である。きらりは顔を赤くして俯いた。
「あれ? 大丈夫? この部屋暑いからね。何か飲むといいよ、オレンジジュースでいいかな? 自分の部屋だと思ってくつろいで」
部屋に設置された小さな冷蔵庫からペットボトルを出し、テーブルに置いた。そして椅子を引いてくれて、きらりに座るように促した。
「ごめんねー、窓開けたいんだけど、外は雑木林でしょ。蚊とか入ってきちゃうんだよね」
きらりは天井に蠅が一匹止まっているのに気づいた。
「追い出そうとしたけど、彼は頑固でね。ブンブンいわすけど気にしないで」
「ふふっ・・・・・・」
きらりはこの古手川という男に心を開きかけていた。大人だが威張らないし、気安かった。
「古手川さん、聞いてもいいですか?」
「どうぞなんなりと」
古手川は、きらりの向かいに腰を下ろし、貴公子然とした笑みを浮かべた。
「古手川さんって、教育実習生か何かですか?」
「えっ・・・・・・?」
古手川の顔が一瞬で固まり、言葉を失った。
きらりの的外れの発言が予想以上の効果だったようだ。古手川はちょっと苦しそうにこめかみを抑えていた。
「あの・・・・・・違うんですか?」
「ふっ・・・・・・」
一瞬、笑い声がしたのは仕切の向こう側からだった。
「伊藤先生ー? 笑うことないじゃないですか。僕傷ついちゃうなー」
きらりは血の気が引く思いがした。以前から大人と会話していて場を白けさせることがよくあったのだ。つい油断してしまった。
「すみません・・・・・・、私勘違いしてて」
「ああ、いいのいいの。しょげるとこじゃないよ、スマイル、スマイル」
古手川は元の笑顔に戻った。きらりもつられて小さく笑った。
「僕の職業はね・・・・・・」
古手川が取り出したのは警察手帳だった。彼が手に持つとドラマの小道具のようである。
「こういうものなんだ。というわけで改めてよろしく」
刑事が学校にやってきた。
佐伯さんの警告をそのまま聞いていれば、この展開は容易に想像できたはずだ。だが早くも息が苦しくなってきた。
古手川に動揺を悟られてはマズい。きらりは表情にありったけの困惑の色を浮かべ、その場を乗り切ると決めた。無実の学生が有害な取り調べで気分を損ねた感じに見えるように。
「うんうん。皆そういう顔をするね、じゃあさくっと終わらせちゃおう。伊藤先生、十五分でしたね?」
「いいえ、十分間です。後がつかえていますから、始めてください」
伊藤先生は几帳面でストップウォッチを持ち歩いている。たとえ刑事が相手でも時間が経ったら、取り調べを終わらせるに違いない。
「もう知っていると思うけれど、この学校の生徒が昨夜、補導された。未遂だったけど、いわゆる援助交際って奴だね」
古手川の口調は先ほどとあまり変わりなく、世間話でもするような軽さだ。それゆえに危険なことは、きらりにもわかった。うっかり口が滑ることにもなりかねない。
「君は、彼女とは知り合いだったかな? 名前は・・・・・・」
その娘の名前をきらりは全く知らなかった。
「いいえ。名前は今、初めて聞きました。事件はニュースで知ったこと以外は知りません」
「君はA組だったね。その子はC組なんだ。この学校では成績でクラスと席順が決まる。クラスが違うと、そんなに交流もないかな」
「そうとも限らないですけど。私、あまり友達いないから・・・・・・」
「そうか・・・・・・、でも君は厳しい競争を勝ち抜いてここにいる。がんばり屋さんなんだね」
「私、大したことないですよ。Aでも下の方ですから」
きらりも古手川も沈黙した。この場合はきらりに有利に働く。時間を稼げば取り調べは終わるのだ。
「時計、気になる?」
「え?」
きらりは古手川の背後にある掛け時計に無意識に目をとられていた。慌てて目を正面に戻す。
「それにしても暑いね。地球はどうなってしまうのだろう」
「このまま乾いて・・・・・・」
「ん?」
「地球が干上がったら、陸地が増えて飛行機に乗らなくても世界旅行ができますね」
「そして人間は耐熱スーツを着て、水分補給に頼らないで生活する術を編み出すわけだ。案外何もなさそうな宇宙空間に移住するより、夢のある話かもね。人類の未来に乾杯」
「カンパーイ・・・・・・」
二人は大汗を流しながら人類の未来に想いを馳せた。きらりのあたら突飛な話題に着いてこられるのは古手川は、やはりただ者ではないのかもしれない。暑さでどうにかなっているせいかもしれないが。
「君は海外旅行に興味があるのかい?」
「あ、はい。いつか行ってみたいと思って。寒いところがいいです」
「これだけ暑いとねえ・・・・・・。僕もなんだかその気になってきたよ」
もしかしたら、警察は天使の卵の存在にまだたどり着いていないのかもしれない。だとしたら、自分から口に出すことははばかられる。佐伯さんが危険を推して忠告してきたのにそれを反故にしたらどんな報復あるかわかったものではない。古手川には申し訳ないと思いつつも、学生にとっては学校生活を守ることは命を守ることと同義なのである。
「もう十分経ちそうだね。そうだ、最後に一つだけいいかな、どうして僕を教育実習生だと思ったの?」
「それは・・・・・・」
きらりは机に目を落とした。大人と会話をする時は、よく考えてから口を開けと母親に口を酸っぱくして言われているのだった。
「単なる好奇心だから、そんなに難しく考えないで、教えてもらえないかな」
「古手川さんの靴・・・・・・イタリアのブランドのものですよね」
古手川は手を打って笑顔になる。
「これに気づくとはお目が高い。倉科さんはブランドものに詳しい?」
「パ・・・・・・、お父さんが欲しいって前に言ってたから」
古手川は得心がいったという風に爽やかに笑うのだった。
「ありがとう。疑問が氷解して、すっきりしたよ。倉科さんのお父さんはどんな人?」
「大学で経済学を教えてます。家では頼りないお父さんですけど」
「ん? あれ、間違ってたらごめん、君のお父さんって倉科政光さん?」
「え? ええ・・・・・・」
きらりの父は大学教授だが、最近ではテレビのコメンテーターなどもしている。古手川が知っていても不思議ではない。
「テレビで何度かお見かけしたことがあるよ。発言に迷いがない。お父さんは意志の強い方だね」
父を誉められても、こそばゆいばっかりできらりには実感が薄かった。テレビの向こう側に映る父の姿はどこか真実味がない。虚像じみている。そもそもきらりはテレビをあまり見ないのだった。
「そろそろ時間です」
伊藤先生が正確な時刻に取り調べの終了を知らせてくれた。こんなに長く感じる十分間はこの先の人生でついぞないだろうときらりは思った。
「時間取らせて済まなかったね。君の話、参考になったよ」
「? あ、はい。失礼します」
伊藤先生の待つ入り口に立った時にもう一度、きらりは振り返った。仕切の向こうから声だけが返ってくる
「海外旅行、早く行けるといいね。僕も陰ながら応援しているよ」
教室に帰ると、疲れが一気に襲ってきて、きらりは床に座り込んでしまった。佐伯さんが駆け寄ってきて耳元に話かける。
「何? その汗。取り調べヤバいの? 変なことされたの、持ち物検査とか」
きらりが虚ろな目を向けると、佐伯さんも気がとがめたのか苦笑いを浮かべた。
出席番号順に呼ばれるようで、続いて佐伯さんがその次に美優が伊藤先生と出ていった。時計を見上げると、まだ九時にもなっていない。長い一日になりそうだった。
「楽勝、楽勝。超ヌルゲーだよ」
鮎の塩焼きに箸をつけながら、佐伯さんが言った。
きらりは半ば放心したように座っている。
食堂は閑散としていた。正午を過ぎた今も取り調べは、続いている。精神的に参ってしまう娘もいて、机に突っ伏している姿をよく見かけた。きらりも食欲がない。自販機で買ったジュースをすするのが精一杯だ。
「食べないのー? 奢ってあげようか」
「いらない・・・・・・。佐伯さんすごいね、平気なの?」
「んー? だってぇ、やましいことなんかないしぃ」
「何でご機嫌なのさ・・・・・・?」
佐伯さんは、猫なで声を発し、笑みを浮かべている。正直気持ち悪い。
「もしかして古手川さんがイケメンだったから?」
「はあ? あんなチャラいののどこがよ、あんた目ぇついてんの?」
「ち、違うの?」
「はあ、あんたってほんとお子ちゃま。それでよく足下すくわれなかったわね」
きらりは反論できずに唇を尖らせた。佐伯さんの言うことももっともだ。浮ついていた点に関しては、反省しないといけないだろう。
「まあ古手川の品評会は後で皆でやることにしてさ、あいつに天使の卵のこと何も聞かれなかったでしょ?」
「うん。もしかして佐伯さんも・・・・・・?」
よく考えれば不思議である。警察が天使の卵を知っていたからこそ、全校生徒に話を訊くという手間のかかることをしていると、きらりは思っていた。
「実は一ヶ月くらい前から天使の卵は閉鎖されていたのよ」
「え?」
きらりは思わず立ち上がりそうになるほど驚愕していた。
「その顔を見る限り知らなかったみたいね。変だと思わなかった? あたしがあんたにべらべら喋ったこと」
「そんな! だってあのお金は・・・・・・」
きらりが回収したお金は何だったのだろう。その意味は。
「ああいうヘマやっちゃう娘が出ることは誰の目にもあきらかだった。天使の卵は期間限定だったんだ。その期間は一年。去年の四月から今年の三月三十一日まで」
「隠してたの?」
「人聞き悪いな、訊かれなかったから答えなかっただけじゃない」
スタンプラリーのように配置された封筒。それを提案した美優の真意。新たな疑問と不安がわき起こる。
「というわけで今回捕まった娘は、単独で動いていたに過ぎない。仮に彼女がメンバーの一人で天使の卵の情報を漏らたとしても、あたしらにはたどり着けないはず。大方甘い汁吸うのがやめられなくてボロがでちゃったってことでしょ」
誰がメンバーなのか、人数も不明確だ。警察は彼女の証言をまじめに受け取らなかったのかもしれない。
「でも楽観するのもどうかと思うよ、佐伯さん。学校に警察が来たのは、他にも・・・・・・やってる娘がいると疑っているからだよね」
「まあ一応? 形式的なもんだよ、多分ね」
佐伯さんの口振りは幾分強がりを含んでいるようだ。語尾が萎んでいる。
本当は彼女も不安を抱えている。一歩違えば身の破滅。それを彼女自身が一番わかっているのだ。
「ねえ、昨日の封筒はどういうことだと思う? だって佐伯さんの話だと・・・・・・」
「その話は後でしよう。誰に聞かれているかわからない」
少し苛立った風に佐伯さんが話を打ち切る。食堂にも他の生徒はいるのをきらりは忘れていた。話題を変えるべきなのだが、佐伯さんと今更世間話という空気でもない。
「佐伯さんは後悔してる? こんなことになって」
「・・・・・・YES、NOで割り切れることじゃないのよ、これは」
「そうやってすぐにはぐらかす。少しくらいまともに話してよ」
「あんたはあたしの友達でも何でもない。くだらないおせっかいは迷惑だ」
きらりは佐伯さんの態度に憤慨していた。思わせぶりに嘘をついたり、美優の不信を煽ってみたりと、きらりを振り回してきたのだ。少しは釈明してもらいたいものである。
「いいかげんに・・・・・・」
きらりは怒りをぶちまけようとして正面を向いた。だが食堂入り口に立っていた伊藤先生と目が合い、口を閉じた。
伊藤先生の目は、きらりを捕らえて離さない。射すくめられてきらりは身を縮めた。佐伯さんも異変に気づき、振り向いてから狼狽した。
「ねえ、倉科、あんた見つけたお金どうした?」
「あっ・・・・・・!?」
「おいおい・・・・・・、まさか遣ってないでしょうね?」
きらりの反応で佐伯さんは全てを悟ったようだ。きらりにも肩を落として伊藤先生の元に向かう。
「持ち物を全て持って生徒指導室までもう一度来てください。貴方も大変でしょうが、もう少しがんばって」
事情を知らない伊藤先生は心から同情を寄せてくれた。きらりは信じてくれた伊東先生に対して申し訳なくなり、涙を堪えるのに必死だった。
伊藤先生と共に再度きらりは生徒指導室に舞い戻ってきた。クーラーの効かない部屋の中央で、古手川は悠々と座っていた。彼はざる蕎麦をすすっている。のんきに昼食をとっているのだった。
「おっ、来たね。お昼はまだ?」
「もう済ませてきました」
きらりは意を決して古手川に向き合う。古手川もきらりの覚悟を汲んでくれたようだ。箸を置き、食膳を片づけてから戻ってきた。
「話してくれるね? 君の知っていることだけでいいから」
きらりはかすかに頷いた。本当は誰かに胸の内を聞いてもらいたかったのかもしれない。天使の卵に関することについて、佐伯さんの名前は伏せて友人から聞いたときらりは証言した。お金のこと・・・・・・美優のことは伏せておいた。古手川はそれらを逐一手帳に書き込んでいた。
きらりが後に聞いたことによると、警察は昨夜の事件が発覚する以前から天使の卵をマークしていたそうだ。摘発しなかったのは現行犯で取り押さえることができなかったから。
「古手川さんはどうして私が天使の卵のことを知っていると思ったんですか?」
「君がエルメスのポーチを持っているって教えてくれた娘がいたんだ。それって高価なものだろう? だから君が・・・・・・」
「私、売春なんかしてません!」
きらりは勢い余って立ち上がってしまった。神経が不要に高ぶっている。自制がきかない。
古手川に席にゆっくり座らせてもらっても、興奮は収まらず、目がちかちかした。
「君がそういった行為に荷担していたとは僕も思わない。ただ、直感で君が何か知っていると感じた」
「さっき話したことが全てです。もう何も知りません」
絶望的な状況にも関わらず、きらりの頭には美優を密告するという考えは浮かんでこなかった。
「では君はいかにしてエルメスのポーチを手に入れた? 母親のお下がりだと僕にも言うのかい?」
きらりはお金のことを言うべきか迷った。きらりの非は確かだし、そのこと自体を認めるのは恐くない。ただし美優のことに触れずにはおれない。
その時、きらりの背後でドアの開いた気配がしたと思うと、言い争う声がした。振り返る間もなく、母だときらりにはわかった。
椅子から立ち上がり、母と面と向き合う。母の目は充血していた。
きらりが口を開く前に母から、強烈な平手打ちが飛んできた。心構えができていなかったので、床に倒れて頭も打った。
「あんたは・・・・・・、なんてことをしたの。どうして」
返事もできず、立ち上がることもできずにきらりは母へかける言葉を探していた。
「落ち着いてください、お母さん。娘さんが今回の件に関わっているかまだ決まったわけではありません」
母は、いかにも恥辱に耐えているといった風に体を大きく震わせた。
「ごめん、ママ、でも私・・・・・・」
「言い訳なんか聞きたくないわよ! ああ、どうしてこんなことに・・・・・・」
古手川が母を落ち着かせるのにまた時間を要した。きらりはふらつきながらも椅子に戻る。母もその隣に腰を下ろす。
「話を戻そう。倉科きらりさん、君の潔白を証明するためでもあるんだ」
きらりは俯いたまま黙っていた。母親がすかさず声をかける。
「返事をしなさい、きらり。本当はやってないわよね? ね?」
母が自分を信用しないだろうということは覚悟していたが堪えるものがあった。母の物差しは世間の常識とか空気に支配されている。きっときらりを許さないだろう。
「私がお金を遣いました」
母がおぞましい悲鳴を上げ、泣き崩れた。
5
「いやー、歌った歌った」
カラオケ店から先に出た佐伯さんが大きく伸びをしている。きらりは店の階段の上で留まったままだ。
「おーい、行くよー」
「うん、今行く」
十二月二十五日、街はクリスマス一色で染められている。華やかな音楽と人波の輪舞。お祭り騒ぎの中、きらりの顔は浮かなかった。
「きらり、せっかくの誕生日なのにあたしと一緒でよかったの?」
「いいの。家にいても気詰まりだし」
あの事件から三ヶ月が経過した。通常の援助交際事件ならそれほど報道は加熱しなかったかもしれない。だが、天使の卵が学校のサイトに付随していた事実が明るみになり、学校側の責任が大きく取り上げられたのである。謝罪会見まで開かれ、学校の信用は地に落ちた。
警察は結局、サイトの管理人にたどり着くことができなかった。金の流れが全く掴めなかったのである。しまいには教職員までにあらぬ疑いをかけられたようである。
きらりは遺失物横領として書類送検されたが、拘留はされなかった。
それから程なくして、きらりが天使の卵の中心メンバーであるという噂が流れた。始めは誰も相手にしなかった。同情してくれる人さえいた。
しかし、コメンテーターM大学教授k氏の娘が大規模売春組織に荷担かという見出しの週刊誌が出た途端、倉科家の生活は一変した。
学校で、きらりの存在は抹殺されてしまった。口を利いてくれる人間は皆無になり、美優すら距離を置いた。彼女たちはそうすることで事件の決着を図ろうとしているようだった。きらりをいもしない管理人に仕立て、全ての責任を押しつけたのである。そしてきらりがクラスメートを誘惑し堕落させた張本人であるかのような風説が定着してしまった。
始めからきらりが全てを計画し、学校を破滅させようとしていたのではないかと恨みに思う教師まで存在し、学校に居場所がなくなった。
皆が信じるものが真実なら、きらりもそれに従うしかなく、食事も喉が通らない日々が続いた。これほど自分は無力で小さな存在なのかと確認することしかできなかった。
佐伯さんがいなかったら、家から出ることもできずに干からびていたかもしれない。佐伯さんは立場上学校で話しかけてくることはしないが、メールや電話で連絡を取り合っている。
きらりの父は、大学に辞職届けを出した。知名度が災いし、大学では大事になったのである。週刊誌にあることないこと書かれて、今住んでいる家も売却し、今年度中には立ち退く予定だ。
「あんた、高校は別のとこに行くんですってね。淋しくなるわ」
「うん、おばあちゃんの家から通うつもり」
高校のランクは幾分落ちるが、都心から離れているので、記者などに追いかけ回されずにすむだろうと母がすすめてくれた。本当はやっかい払いをしたいのだと、きらりは気づいていた。
「その方がいいかもね。心機一転がんばるといいよ」
きらりは急に足を止めた。
「佐伯さんは、何で私と一緒にいるの? 同情? ほんとは陰でみんなと笑ってるんでしょ?」
きらりの声はつららみたいに鋭くて、なじる調子だった。頬はこけて、目は淀んでいた。
「ちょっとそこで休も。何かあったかいもの買ってくるから」
佐伯さんはきらりの肩を抱いてゆっくりベンチに座らせた。ココアを買って戻ってから、二人で飲んだ。
「あんたはあれね、あたしが卑怯者だと言いたいわけね」
佐伯さんに学校で話しかけないで欲しいと頼んだのはきらりだった。でも時に耐えきれなくなり、その不安をぶちまけてしまうのである。
「じゃあ、あたしが友達になったげるよ。学校でも一緒にいて守ってあげる」
「いい、いらない」
このやり取りも何回繰り返したかわからない。佐伯さんは飽きずに付き合ってくれる。
「あんた、自分で決めたもんね。みんなの代わりに背負い込むって。初めに聞いた時、バカだなって思った」
自分がお金を遣ったのは事実だから責任は取らなくてはならないと思ったのである。
「頑固っていうかなんというか・・・・・・あんたよりあたしの方が本当は罪に問われるべきなのに」
佐伯さんはきらりの肩に頭をのせる。きらりはもうこの話を止めようと思う。
「白崎はもしかして何も関係なかったのかもしれない。あたしが余計なこと言ったからあんたがこんな目に遭っているのかもしれない」
「それは違うよ、佐伯さん。多分、美優とのことはなるべくしてなったんだと思う」
美優に渡された封筒の中身をお金ではなかったのか、本人に確認しなかった。恐ろしかったから。
「本当に悪い奴ってのは案外、天使みたいな顔をしているもんなのかしらねえ」
通りを行き交う人々をぼんやり眺めながら、佐伯さんはつぶやくのだった。それからきらりもそれに倣い、幾ばくかの時間が過ぎる。二人の時間はいつも静かに流れている。
「あらもう八時過ぎてるじゃん。きらりちゃん、もうあんた帰りんさい」
きらりは子供のように首を横に振る。
「やだ。今日は帰りたくない」
「うれしいことを言ってくれる。でもお母さんが心配するよ」
「うん・・・・・・」
家まで送ってもらい、電気の消えた家の前に立つきらり。3LDKの自宅は自分が生まれ育った確かな下地だったのだが、今は何の感慨も湧かない。
母はあの一件以来、逃げるように仕事に没頭している。きらりと極力顔を合わせないようにしているのだ。父も新しい仕事を見つけるべく奔走している。何とか目処がつきそうだと、昨日言っていた。
鍵を開け、家に入ろうとしたきらりは人の足音を耳にし、振り返った。美優が間近の道路を歩いている。手に紙の箱のようなものを下げていた。
きらりは急ぎドアノブを回そうとするが、美優がもう自分の背後に立っているのがわかりあきらめた。
「きらり、メリークリスマス」
荷造りの最中で、家の中は寒々としている。美優は特に何の感想も述べなかった。
「どうして来なかったの? 今日のパーティー」
「ああ・・・・・・、今日だっけ。明日だと思ってた」
美優の家で行われるクリスマスパーティーに誘われていたが、適当な返事をしていたのだった。
「誕生日のお祝いもしたかったのに。きらりが来ないから、ケーキ持って来ちゃったわ」
「いいの? 主役が抜けて」
「もう宴もたけなわだったもの。それに今日の主役はきらりですから」
美優が笑み、それに合わせてきらりも力なく笑った。それから、おもむろに手を振り上げ、勢いのまま美優の手を叩いた。
「・・・・・・!? 何をするの?」
美優は不可解なきらりの行動に戸惑ったような顔をした。落としたケーキは崩れてしまっただろう。
「気を・・・・・・、落とさないでね。私はいつだって、きらりの味方だから」
「誰が誰の味方だって言うんだよ」
きらりは低い声を出し、美優を壁際に追いやる。必死の形相で。だが美優は確かに、くすっと小さく笑った。
「今、笑ったでしょ? 何がおかしい!?」
美優をどんなに壁に強く押しつけても抵抗しない。むしろきらりの方が押し戻されるような気さえしてくる。
「もう気は済んだ? きらりって結構力あるのね」
きらりの腕を掴んだ美優の指に見慣れぬリングが光っていた。誰からもらったか見当はつく。きらりは敢えて訊いてみた。
「それ、いいね。どこで買ったの?」
「きらりも買ったらいいのに。今度一緒に選びましょうか」
「とぼけんなよ。私のことコケにして何がそんなに楽しい?」
「どこでそんな言葉覚えてきたの? 佐伯・・・・・・絢香さんから?」
きらりは体を離した。携帯を取り出し、佐伯さんに電話をかけてみた。
「彼女には何もしないわ。本当に臆病ね、きらりは」
「全部、知ってたの?」
美優は壁から離れて、きらりに迫ってくる。家の奥に逃げ込みたくはなかった。立ち向かうなら今しかない。
「佐伯絢香が天使の卵を立ち上げたのは知ってたわ。それを利用して種をばらまいたのは私」
美優は堂々としていた。まるで悪事を働いたのではなく、慈善事業に投資でもしたように語る。
「あのままではビジネスになりそうもなかったから、手を貸してあげたの。それは副次的なものに過ぎなかったわけだけれど、しばらくうまくいっていたみたいね」
「美優は佐伯さんたちで遊んでたってこと? それともお金が欲しかったの?」
「そんなことに興味なんかありません。私が大事にしているのは、貴方だけよ、きらり」
美優は、何故か頬を赤く染めている。きらりは当惑するばかりだ。
「天使の卵は私から、きらりへの贈り物。どういうことかわかる?」
もう思考が追いつかない。きらりは考えるのも億劫になってきた。美優は一体何がしたいのだろう。
「人は試練によって成長するわ。強き者も弱き者もそれは変わらない。逆に言えば、試練がないと人間は成長しない」
「は? 私が? いつ成長したって? 私は全部を失ったじゃない」
「その苦しみはいわば貴方の滋養なのよ。どうしてもわかってもらえない?」
きらりは耳を押さえて、家の奥に逃げ込む。これが美優の本心だとは信じたくない。
「待って、きらり! お願い待って、話を聞いて!」
きらりが逃げ込んだのは台所だ。引っ越し間際と言っても、料理はする。キッチンの下に仕舞ってあった包丁を抜き取った。追いかけてきた美優にそれを突きつける。
「ねえ聞いて? 私、迷ったんだよ? きらりが耐えきれなかったかったらどうしようかって。それにやっぱり変よね、こんな・・・・・・愛情表現」
「お願いだから・・・・・・、帰って。もう私の人生に関わらないで」
悲哀に打ちひしがれた美優の顔を見るのが忍びなく、きらりは俯いた。
美優は一歩また、きらりに近づく。きらりは包丁を構えた。それでも美優の歩みは止まる気配がない。
「近づかないで! 刺すわよ!」
「きらり・・・・・・、良い顔になったわ。もっと近くで見せて」
「あんた、本当におかしいんじゃないの! やめて! やめ・・・・・・」
美優がきらりの持つ包丁を握り、自身の喉元にぐいと近づけた。そして嗤った。
「きらりが悪いのよ、清らかすぎる貴方がいけないの。汚れのない貴方の側にいるだけで私・・・・・・」
その声には涙が混じっていなかったか。
包丁が手から落ち、床に刺さった。
美優には自分の何も届かないのだろう。そう確信した途端、魂まで脱力してしまった。
この美優の躯を使って喋っているのは何者なのか。
あの砂場で出会った美優の面影は失せていた。どうしようもなく、歪んでしまった彼女は美しく正しくない成長をしてしまったようだ。
「美優、私を殺してよ。もう疲れちゃったから」
そう自分から願いでるしかもう白崎美優という地獄からは逃れる術がない。
美優は白い手できらりの手をやさしく包み込みこう言うのだった。
「そんなこと絶対にしないわ。だって私たち、親友でしょう? これからも励みましょう、きらり」