act2 Departure for
1
武藤つかさが姿を現してから、冬馬の足は部室から遠のいた。一ヶ月後の期末試験の準備もあったし、きらりにやる気が見られない以上、一緒にいる理由も見いだせなかった。
「どうして部室に来ないの?」
秋穂が焦れたように訊いても、まともに請け負わなかった。
美優にハンカチを返す機会を探したが、クラスも聞けなかったので、それきりになりつつある。
週明けの月曜、きらりから謝罪の手紙が届いた。下駄箱の中にピンクの便箋が入っていた時は、うっかり変な声を上げそうになった。便せんを手に取るが、折しもその日は寒さの厳しい日だ。手指がかじかんでいて、うまく便箋を開けられない。もどかしい想いを味わった。人目につかない所で中身をあらためる。きらりらしい丸っこい字で書かれていた。
『この間は、つかさ君がふざけてごめん。気を悪くしたかな。でもあの人はいつもああなんだ。真田はつかさ君が嫌いかもしれないけれど、つかさ君は君がいないと寂しいと言っている。私や秋穂も同様だ。ぜひまた部室に顔を見せて欲しい。君の席はそのままにしてある。いつでもおいで』
冬馬は読み終わるなり、手紙を強く握りしめた。
「悪いの僕かよっ!」
きらりは、冬馬が子供っぽく駄々をこねていると思っているようだ。ついでにつかさに責任をなすりつけて、一切の非を認めるつもりもないらしい。
「頭に来たな。これは」
驚かせるつもりで、秋穂にも内緒で部室に行ってみることにした。待ちに待った放課後、部室の前に立つ。鍵がかかっている。
『放課後課外活動中、IN 体育館』という紙が扉に貼ってある。
「何なんだよ、もう」
ぷりぷりしながら冬馬は、体育館に足を運んだ。
体育館ではしきりを作って、バレー部とバスケ部が練習をしていた。床の振動でこちらまで跳ねているような気になる。そして見慣れた剣道面の少女が、コート奥にいた。
冬馬は練習の邪魔にならないように気を遣いながら、早足で秋穂の元に向かう。
「一体、何をしているんだい?」
冬馬が興奮した様子で尋ねると、秋穂はやっと聞こえるような声で答える。
「何って活動だけど」
「それは見ればわかるさ。でも先週まで何も決まっていなかったじゃないか。それをいきなり」
「真田君がいない間にもそれなりにやっていたよ。武藤先輩がホームページを作り、そこに記事を載せることになった。だから今はそのネタ集め中なの」
冬馬は疎外感を覚えた。自分があれほど説いてもきらりは動かなかった。にもかかわらず、つかさの言うことをあっさり聞いたのだ。
「おー、真田だ」
きらりがほふく前進しながら現れた。
「手紙読んだ? なんかドキドキするよね、こういうの」
きらりは制服の埃を払って立ち上がった。手にはカメラが握られている。
「ずいぶんやる気になったみたいでよかったです。僕がいなくてもやっていけそうですね」
「そんなつれないこと言わないの」
きらりは冬馬の肩を気安く叩いた。それだけで情けないことに不平を言う気が失せた。
「武藤先輩はどこです? 発起人がいないとは」
「ああ、つかさ君ならもう帰ったよ。バイトだって。エライよね」
冬馬は自分にできることを探すことにした。どうやらきらりが写真を取って、ホームページに載せるようだ。自分は記事を書かせてもらえるのだろうか。
「それにしてもよく動きますよね」
冬馬は目前で行われるバスケの練習試合を眺めて言った。 真冬だというのに滝のような汗を流し、ゴールを目指し殺到する姿に圧倒される。
「どうしてここを選んだんです?」
「つかさ君の後輩がバスケ部にいるからさ。つかさ君さまさまだよ」
冬馬は、面白くなさそうにコートに目を戻した。
その時、見当違いに投げられたボールが秋穂の顔面に向かって飛んできた。結構なスピードだ。面で死角の多い秋穂にとって危険に思われた。だが、秋穂は右手だけで、飛んできたボールをがっちり止めた。それから人差し指でくるくる回してもてあそんでいた。
「わりー、大丈夫?」
赤のゼッケンを着た少年が走りよってくると秋穂は黙ってボールを返した。
「篠山、すごいな。バスケの経験あるの?」 秋穂はコートの方に身体を向けたまま答える。
「昔、お兄ちゃんとよくやった。結局ワンオーワンでは勝てなかったけど」
秋穂の兄とはどういう人物だろう。詮索するのも気が引けた。
「真田ー、つまんなそうだね」
さっきからちょこまか動き回っていたきらりが、撮影を終えて戻ってきた。
「別に。そういうわけではありませんけど」
「そうにゃのー? なら、真田はあっちの方が好みだったかな」
きらりが、にやつきながら、顎をしゃくった先には女子バレー部の練習風景がある。
「武藤先輩じゃあるまいし。やめてください」
冬馬は語気を強めて否定した。
「怪しい。真田はむっつりスケベな顔しているから気をつけろって、つかさ君が言ってたよ」
きらりにからかわれるのは悪くない。だが、つかさの名が出るたびに沸く黒い感情はなんだろう。
その時ふと、バスケ部のプレイが荒くなった気がした。声が大きくなった代わりにミスも増えた。
「どうかしたんですかね? 何だかハラハラするなあ」
「あ、ああ、そうだね。でもこれくらいラフなプレイも・・・・・・」
きらりが突然よろけて、秋穂が抱き止めた。彼女の顔は病的に白くなり、唇まで紫色だった。
「だ、大丈夫ですか? 座れますか?」
冬馬は、とっさにその時持っていた美優のハンカチを下に敷いてきらりを座らせた。
「ありがと・・・・・・、貧血かなあ。動き回ってちょっと疲れたみたい。今日はもう帰るわ、ごめんね」
きらりは俯きがちに体育館の入り口に向かった。この学校の体育館は入り口が一カ所だけだ。自然、そちらに目が運ばれる。
入り口にいたのは、白崎美優だった。髪を一本にまとめて三つ編みにしているが間違いない。遠くからでも耳目を引く少女だ。バスケ部の集中が切れたのも彼女が原因だろう。
きらりは通りがかりに二言三言、美優と会話していたが、脇に押しやるようにして体育館を出ていった。
それから美優は、冬馬のいる方に向かって手を振った。
手を振り返すか迷った。自分に向けられたものなのか。もしかしたらバスケ部に知り合いがいるのかもしれない。たった一度会っただけの冬馬にそんな大胆なことをするわけがないという思いこみがあった。迷っているうちに美優は体育館を出ていった。その背が怒っているように感じるのは気のせいか。
「もう僕らにできることはなさそうだ。篠山、君はどうする?」
「もう少し、ここにいる」
インタビューするにしても今は邪魔になる。冬馬はバスケ部の顧問に挨拶をしてから体育館を出た。早くも暗くなり始め、空が薄く紫に染まっている。ついきらりのことを探してしまった。大事にならないといいが。
「だーれだ?」
背後から両目を塞がれた。こんな子供じみた真似をする人物を、冬馬は一人しか知らない。
「元気じゃないですか、驚かせないでくださいよ。倉科先輩・・・・・・」
冬馬の背後にいたのは美優だった。彼女は失望したような顔をしていた。自分も無意識に似たような顔をしていたのかもしれない。
「あ・・・・・・、すみません。てっきり別人だと」
「失礼。私も人違いでしたわ。ごきげんよう」
美優は身を引いて、さっさと冬馬を残して歩いていこうとした。
「謝ったじゃないですか、白崎さん。怒らないでください」
美優は立ち止まりはしたものの、腕組みしたまま振り返らない。
「貴方のことを探していたんですよ。ハンカチを返そうと・・・・・・」
間が悪いとはこのことか。ハンカチはきらりが座ったのでシワになっている。これでは返すことができない。
「手を振りかえしてもくださらないですし、人違いもなさって。私のこと、探したとおっしゃいましたけれど、それほど必死とは思えませんでしたわ」
美優が振り返り、厳しい顔を向ける。
冬馬は、ぞっとした。美人の無表情は、とてつもない威圧感を秘めていると知る。
反射的に、弁解を試みる。
「え、ええ。確かにそれほど積極的に探したとは言えません。ごめんなさい」
「謝らないでください。私を悪者にするおつもり?」
美優の怒りは本物だ。きらりとは別の意味で対処に困る。と思うなり、美優は突然、笑顔になった。機嫌が直ったかと安心しかけた。
「ではこうしましょう、真田君。私の機嫌を直してみてくださいますか?」
それから美優は、つぶらな瞳を冬馬にまっすぐ見据えた。
冬馬が動揺して何も言えずにいると、見かねたのか美優は三つ編みを手で横に払った。
「今日の私、前に会った時とは違うと思いません?」
冬馬は急いで答えようとして、舌を噛みそうになった。
「・・・・・・髪型、ですか」
「そうです。似合っていますか?」
「は、はい。とても」
冬馬はわざとらしい程、しきりにうなずいた。
美優は渋々と言った風に許しをくれる。
「まあ、それで良しとしましょうか。四十点ですけれど」
やっと解放され、額の汗を手の甲で拭った。だが、美優の追撃は容赦がなかった。
「それで件のハンカチはいつ頃、返して頂けるのでしょう? 実はあれ、とてもお気に入りでしたの」
「そ、それは・・・・・・」
崖を上りきったとたん、突き落とされた気分だ。もう許してもらえるまで謝り続けるしかないのかもしれない。穴があったらはいりたい。
美優は突然、相好を崩した。あっけに取られるほど柔和な顔つきになった。
「ふふ、少しイタズラが過ぎたようですわ、ごめんなさい。さっき一部始終を見ていたんです。ハンカチはいつでも構いませんわ」
冬馬は一緒に笑うことができなかった。また何か罠があるのではないかと勘ぐってしまう。
「真田君、本当に大丈夫ですか? お薬効きすぎたのかしら」
「ええ、本当に肝が冷えました。もう勘弁してください」
美優は本当に驚いたらしい。ほんの少し困らせるつもりが、冬馬には刺激が強すぎた。自分の肝の小ささを恨みたくなる。
「私、校内探検していましたの。そうしたら真田君を見かけて。お邪魔だったかしら?」
「いえ、僕の方こそ至らないことばかりで」
美優は、一週間ほど前に編入してきたそうだ。どうりで見かけないはずだ。
「それはそうと、真田君は部活をなさっているのですか?」
冬馬は安心極楽会の説明に困り、ただ校内新聞を作っているのだと説明した。
美優はそれを聞くと、興奮ぎみに身を寄せてくる。
「まあ、それは素晴らしいですわ。いつ頃読めるのでしょう?」
「え、えーと。そのうちですかね」
新聞と言ってしまったが、冬馬は内実にそれほど通じているわけではないのだ。根ほり葉ほり訊かれるかと思ったが、美優はそれ以上追求してこなかった。
「ではお忙しいのね。長々と引き留めてしまって」
「いえ、部長が早退しましたから。僕も帰る所ですよ」
「その部長さんって、この間お話されていたトラブルメーカーの方?」
美優か、どこか熱っぽい声で訊ねた。
「そうなんですよ。手紙寄越したと思ったら、こっちの意見も聞かずに勝手に始めちゃうし。でもメールじゃなく手紙をもらったので怒ることもできませんでした」
おそらく秋穂からの入れ知恵だろうが、冬馬は手紙を大事に持っている。
「その方、幸せね。こうして真田君に想ってもらえて」
美優の横顔がふいに陰った。
「私、まだ校内を歩いてみますわ」
「もうだいぶ暗いし、親御さんも心配しますよ」
美優は上目遣いをし、恥ずかしそうに口を開いた。
「誰かと一緒なら、心配しないかも……」
冬馬はエスコートを買って出るかためらったが、美優との時間は楽しさだけでなく、緊張感もあり、ありがたい申し出であった。
「僕でよければ案内しますが・・・・・・」
「まあ! それではお願いしますわ」
美優は子供のようにスキップして先を行った。美優の軽やかな背中を見ていると、自分の心もしなやかに感じる。
「真田君は、試練というものをどうお考えになって?」
美優は、その質問をなんの前触れもなく振ってきた。彼女は、プールのフェンスの前で冬馬に背を向けている。
「それは、人生における障害といった類のものでしょうか」
「ええ、でも障害という言い方はあまり良い感じはいたしませんね」
「では貴方が言いたいのは・・・・・・?」
美優は両手を広げて振り返る。
「喜び、幸福、あるいは感謝。人の成長にとってなくてはならないものですわ」
冬馬は賛同しかねた。不慮の事故や災害などに見舞われて、同じ科白が果たして吐けるものだろうか。世慣れていないお嬢様らしい発言なのではないか。
「ポジティブなんですね、貴方は。でもあの冷たい水の張ったプールには飛び込めないでしょう? どうです」
こういう話になると冬馬はつい意地が悪くなってしまう。意図せず皮肉っぽい口調になった。
「それが私に与えれた役目でしたら喜んで」
美優は不快な素振り一つ見せることをせずに、言い切った。本当にプールに入ってしまいそうで冬馬の方が情けなく怯んだ程だ。
「でも風邪をひきそうですわね。真田君、タオルをお持ちになって?」
結局、冬馬が必死になって説得するまで、美優は発言を撤回しなかった。
与えられた役割、つまりは運命といったものが存在するとして、冬馬はそれを受け入れることは容易ではないだろうという結論に至った。美優とはその点、意見が相容れない。
案内と言っても、敷地内などたかがしれている。体育館はさっき行ったので、弓道場、最後に部室棟についた。
「ん?」
部室棟にはまばらに電気が点いてたが、安心極楽会のある部屋も点いている。消し忘れだろうか。冬馬が行った時は消えていたと思ったが。
「この建物は?」
部室棟を指して美優が言った。
「ここは部室棟です。うちの部と言っていいのかわかりませんが、僕らもここで・・・・・・」
冬馬が突然、口を閉じたので隣の美優は困惑したようだった。
安心極楽会は部の活動要件を満たしていない。顧問はいると秋穂に聞いていたが、部員数はつかさが入っても四人だ。
「どうかなさいまして?」
「い、いえ。何でもありませんよ」
冬馬は美優を建物に案内しつつ、きらりがいるのかどうかが気にかかっていた。
「はあ・・・・・・」
安心極楽会の部室ではきらりが一人、パソコンと向き合っていた。
きらりは体育館で美優の姿を認めた途端、我を忘れ気を失いそうになった。先ほどは冬馬たちの手前、誤魔化すことができたが、それが長く続くとは思えない。
「どうしよ・・・・・・」
パソコン画面をぼーっと眺めていると廊下を伝う足音。段々と近づいてくる。美優だったらどうしよう。パイプ椅子をたたんで両手で持つ。足音が部室の前で止まった。それからノックの音。
「あの・・・・・、倉科先輩、いるんですか?」
遠慮がちな冬馬の声にきらりはふいに肩の力が抜け、椅子を落とした。大きな音が部室に響いた。
「大丈夫ですか? 先輩」
きらりは後輩の前で醜態を晒したくないという見栄がある。声を取り繕って冬馬に答える。
「何でもない。入っていいよ、真田」
入ってきた冬馬を驚かせてやろう。そうして扉の前ににきらりは立った。扉が開いたと同時にきらりはぱっと両手を胸の高さに上げた。
「わっ・・・・・・!」
だが、入ってきたのは冬馬とその後ろから入って来たのは、美優だった。
呆れた顔をした冬馬とその後ろにいる美優は頬に手を当てきらりの行動の意味を考えているようだった。
「また子供じみた真似をして。先輩、具合は大丈夫なんですか?」
「へ、平気だよう・・・・・・・、あはは・・・・・・」
その時、きらりは美優と視線がすれ違った。美優の目に浮かんでいたのは侮蔑、嘲笑。耐えがたいほどの寒気を感じ、きらりは自分の腕をさすった。
「すごい顔してますよ」
きらり二人から距離を取り、窓辺に立つ。
「やっぱり早く帰った方が・・・・・・」
「うるさいなあ! ほっといてよ!」
突然のきらりの怒号に、冬馬と美優は示し合わせたように、苦笑した。
「あなたが部長さん、ですか?」
涼しい顔で美優が一歩前に進み出た。きらりは窓に背を押しつけていた。
「初めまして、私、白崎美優と申します。お加減が悪いようですね、どうぞこちらに」
慇懃に美優は椅子を引き、心配する素振りである。既に我が家にいるような振る舞いに虫酸が走った。だが何故、初対面を装うのだろう。冬馬を伴って現れたのも気になる。
きらりは、美優の示した椅子ではなく、さっき床に落としたものを拾ってきて座った。
「気を悪くなさらないでください、白崎さん。この人、ちょっと変わっているんです」
「いえ、誰でも虫の居所が悪い日はありますから」
美優の理解ある態度にきらりはハラワタが煮えくり返るような思いを味わう。
「ところで真田、何か用? 彼女を見せびらかしに来たわけじゃないんでしょう?」
きらりの剣幕に、少し冬馬はたじろいでいた。
「そんなわけないでしょう。ただ電気が点いてたから、先輩がいるかと思って」
冬馬の言葉から察するに、美優とはまだそれほど親しくないと踏んだ。
「そっか、それじゃ私はお暇しようかね。二人の邪魔しちゃ悪いし」
「勘ぐりすぎですよ、白崎さんとはつい最近知り合ったばかりなんです。二人で校内を見て回ってただけですから」
「ああそう」
きらりは興味のなさそうな振りをしつつ、これ以上、冬馬に何かしたら容赦しないぞという牽制の視線を美優に送る。
「そういえば先輩、部員のことなんですが」
きらりはぎこちなく固まった。
「え? ああ、つかさ君がいるじゃん。後は適当に見つけるからさ」
きらりは自分の言葉に意味がないことに気づく。美優の狙いはこれだったのだ。
「白崎さんに入ってもらったらどうでしょう? さっきここに来るまでに話したんですが、やる気もあるみたいですし、人柄は僕が保証します」
冬馬を利用して、穏便にきらりの側に張り付く術を手に入れる。美優の勝ち誇った顔が嫌みったらしい。
「それなんだけどさー、やっぱり辞めるわ。安心極楽会」
きらりの決断は早い。覚悟はしていたがなりふり構っていられない。ぐずぐずしていたら、冬馬や秋穂も巻き込んでしまう。
「この世には、安心も極楽もないよ。私には努力する気も才能もない。だからもう、君たちを付き合わせるのは止めにしたいんだよ」
「今更そんなこと言わないでください。あんなに楽しそうにしてたじゃないですか。安心でも極楽でも目的があるのなら、恥入ることなんかない」
冬馬の真剣な表情に当てられ、きらりは美優の本性も前の学校で何があったのか洗いざらいぶちまけたくなった。だか、それには自分の醜聞にもふれなくてはならない。
「これだから真田は・・・・・・、後輩は先輩の言うこときかないと駄目なんだぞ。何でわかんないかなー」
いくら否定しても、冬馬はぶつかってきてくれる。誰にも彼の役は務まらないのだ。
「だからさ・・・・・・」
「じゃあもういいです」
きらりの言葉を遮るように冬馬が言った。
「倉科先輩が抜けても、僕が後を継ぎますから。いいですよね?」
「へ・・・・・・、あ、うん・・・・・・」
きらりの返事を聞くやいなや、冬馬は美優の方に振り向いた。
「そういうわけで、僕が部長になります。白崎さん、それでも構いませんか?」
美優は少なからず虚を突かれたようで、すぐには返事をしなかった。
「え、ええ。わたくしは構いませんけれど。倉科さん、本当によろしいんですの?」
美優が冬馬を操っているわけではないだろうが、きらりにとっては苦渋の決断だった。部を続ければ、美優と関わることになるし、辞めれば美優に率いられた部員たちを見せつけられるだろう。
「よくないよ! 真田、ちょっとこっち来て」
部屋の隅に冬馬を呼んで、先ほどの発言を否定しにかかった。
「誤解があるようだから言っとくよ。私はあの女が気に食わないの」
冬馬は冷めた表情を浮かべ、眼鏡を押し上げた。
「はっきりはしてますが、論理的ではないですね」
「生理的に嫌なの、わたくし、お嬢様ですのとか言ってさ、カマトトぶっているんだもん」
冬馬はきらりの声が美優に届かないように大きく咳払いをした。その気遣いがまたきらりの怒りに火をそそぐ。
「あーあ、見損なったなあ、真田はああいうのが好みか」
きらりは部のことが半ば忘れ、個人的な目的に終始していた。冬馬が美優に奪われることに心が占められていたのだ。
「馬鹿なこと言わないでください。あの人は僕のことなんか多分、歯牙にもかけていない。それよりも安心極楽会どうします? 僕に任せて本当にいいんですか?」
「う、ううん。やる。部長はきらりちゃんだ。真田にもあのカマトトにも好き勝手はさせないよ」
部員が五名になったことで冬馬は安心して帰っていった。
部室に残ったきらりは足を組んで座った。
「きらりから居場所を奪えると思った?」
美優は薄笑いを浮かべ、黒板を背にして立っている。
「調子こいてんじゃねえぞ、コラ!」
きらりは突発的に椅子を放り投げた。美優の体のすぐ脇の壁にぶつかり、壊れんばかりの音を立てた。
「本当に変わりませんね。そうやって物に当たる癖」
美優は余裕の態度を崩さなかった。きらりも負けじと胸を張る。
「分析してんじゃねーよ。それで? どうするの?」
「目下、予定に変更はありません。わたくしはきらりの新たな友人としてここに籍を置くことに決めました」
きらりは美優の頭のすぐ後ろの黒板を強く殴りつけた。
「あんたさあ、どの立場からものが言えるの?」
「無論、お友達として。そして私は、きらりの神様ですから」
きらりは恐怖を感じながらも、それを悟らせまいと歯を見せ笑ってみせる。
「あんたになんか屈しない。どんな手を使おうと見破ってみせるから」
美優には、きらりのことなどお見通しだろう。それでも、きらりには意地がある。
「きらり、成長しましたね。それでこそ私がここにいる意義があるというもの」
2
日曜日、リセットするかのように冬馬の生活は元の穏やかなものに戻った。
安心極楽会の面々の顔を見ないですむと、淋しいと感じるあたり不思議なものである。自堕落な生活をしていたら、きらりのようになってしまいそうで、午前中から机に向かう。
冬馬は大学受験をするつもりなので、二年時のクラス分けに影響する今回の学年末試験は大事なのである。
「あれ・・・・・・? そういえば」
冬馬は動かしていたペンを止め、ノートから顔を上げた。
きらりや、つかさは進学を考えているのだろうか。その割に予備校に通っているという話は聞いたことがない。いずれは彼らもそれぞれの道を見つけ、旅立つのだろう。自分にとっても遠い未来のことではない。
ところが苦手な数学に取り組んでみたものの、思ったほどの成果はでなかった。。一時間ほど立って、机の引き出しから原稿用紙を取り出した。
今、執筆中の小説、タイトルは奔る少女。こちらも難航している。
話は湖畔のお城に住むお姫様が、湖に流れ着いた瓶の中の手紙を見つけるところが始まる。
お姫様は字が読めなかったので、乳母に読んでもらおうとするが、それは他国の文字なので読めないという。外の世界に憧れていた彼女は城を飛び出すが、森で迷子になってしまうのだった。
ここまで書いて冬馬は鉛筆を置いた。隣の姉の部屋から物音がしない。冬馬には三つ離れた姉がいる。姉は友人と出かけたのだろう。
時間は正午を回ろうとしていた。
「魔女でも出そうかな・・・・・・、いやそれじゃ白雪姫みたいだ」
ありきたりな案しか出てこない。お腹も空いたし、外の空気でも吸おうと、ニットの上にコートを羽織って冬馬はマンションを出た。
空は晴れていたが、風が吹くたびにいじらしい木枯らしが飛んでくる。行き交う人々も体を丸めて寒さにじっと耐えていた。
クリスマス商戦まっただなかで街は絢爛なイルミネーションにあふれていた。冬馬はそれを目の毒だと思いながら、人混みを縫って歩いていた。
ふと狭い路地の奥に冬馬の注意が向く。ジャズ喫茶フラウという小さな看板があった。引き寄せられるように扉を開けた。
「いらっしゃい」
個人経営の小さな喫茶店だった。店主はやせた五十代男性である。他に客はいない。
「ご注文は?」
「じゃあ、サンドイッチとコーヒーお願いします」
窓際の席に冬馬は座り、店を眺めた。古いレコードが何枚か壁に飾ってある。それと誰のものかわからない色あせたサイン色紙が何枚か。
冬馬がこの店に入ったことは一度もない。入ったのには理由があった。
安心極楽会のホームページはまだ開設準備中だが、部長のきらりの紹介だけが載せられている。
「やっほー、部長のきらりです。趣味はレコード集めです」
無意識にきらりの面影を求めているのかもしれなかった。雑念から解放されるために持ってきた原稿を広げた。ここは集中するのに悪くない場所である。
運ばれたコーヒーを飲んでいると、しばらくして来客があった。店なのだから当然だが、ふと気になって入り口に目をやる。
客の一人はグレーのスーツを着た四十代くらいの女性。その後ろからは冬馬と同じ高校の制服の女子が入ってきたが、顔はよくわからない。二人は冬馬と離れた席に座った。
「久しぶりね、背伸びたんじゃない?」
「・・・・・・」
親子の会話が聞こうともせずとも流れ込んでくる。冬馬は二人から意識をはずし、原稿に向かった。店主が冬馬のテーブルにサンドイッチを持ってきてくれた。
「ねえ、いつもこのお店を使ってるの?」
「時々・・・・・・」
沈んだような声で返事をしている少女がなにやら気にかかり冬馬は会話に耳をそばだてた。
「こういうお店はちょっとね・・・・・・、変な噂が立つと貴方も困るでしょう? 今度会う時はママがちゃんとしたお店を選ぶから、ね」
「・・・・・・」
店主はというと、週刊誌を片手にあくびをしていた。それくらいの神経の持ち主でないと商売が成り立たないのだろう。
どうやら客の二人は母と娘らしい。離れて暮らしている娘は親の過干渉に悩んでいる風である。
「お義母様とはうまくやれているの?」
「・・・・・・、うん」
神経質にカップをかき回している音が聞こえてくる。母親がしているようだ。
「この間の模試の結果はどうだった? パパとママに送ってくれる約束だったでしょう? 今日は持ってきたんでしょうね?」
紙のこすれる音がしてしばらく静かになった。ところが母親の落胆のため息が店内に響きわたった。
「はあ・・・・・・、志望校がc判定だなんて。前回より落ちてるじゃない。どうしてこうなったのか言ってごらんなさい。遊んでたの? だいたいお義母様は貴方に甘いのよ、あんなことしでかしたというのに自由にさせておくから」
「ごめんなさい・・・・・・」
娘がすかさず小さな声で謝った。冬馬は我がことのように心が痛み、今すぐ店を出ようか迷った。
母親が指でテーブルを叩く音がする。娘は黙っている。
「受験までもう一年よ、わかってるの? ×××ちゃんは・・・・・・」
母親の声が急に聞き取りづらくなった。マスターが突然レコードをかけたからだ。ゆったりとしたワルツが高ぶった神経を和らげてくれる。冬馬は少し落ち着きを取り戻した。
「×××ちゃんがね、この間、家を訪ねてきてくれたのよ。本当によくできた娘さん。まだ貴方を親友だって言ってくれたのよ。あの娘を見習わなくちゃね。大丈夫、幼稚舎から一緒だったんだから、また肩をならべて勉強できるわ」
「私、大学行きたくない」
冬馬には何かを打つ乾いた音が聞こえた気がした。レコードのノイズだと思いたかった。
「いいかげんにしなさい! どれだけママたちの顔に泥を塗れば気が済むの。苦労して入れた学校も変えても何も変わってないじゃない!」
「ごめんなさい、ママ・・・・・・」
「わからないわよ、貴方にママの気持ちは。ご近所から陰口叩かれるし、パパだってもう・・・・・・」
母親のすすり泣く声。娘はどんな顔をしているのだろうか。
「ママは、貴方が憎くてこんなこと言ってるんじゃないのよ。貴方のことを思って・・・・・・、愛しているんだからね。わかるでしょう? きらり」
冬馬は自分の耳を疑った。立ち上がって確認したかったがそんな勇気はなかった。
しばらくして二人が席を立つ気配がした。
「今後のこと、パパとも相談しないとね。ママはお義母様にご挨拶してから帰るから。きらり、ちゃんとするのよ」
ドアに取り付けられた鈴が鳴ってからは店内には静かなピアノ曲だけが流れていた。
修羅場の空気に身が縮み、すっかり冷めたコーヒーを口に含み、冬馬は確かに胃が痛むのを感じた。
きらりは今回のことを冬馬に知られたくないと思っているだろう。冬馬だけではなく他の誰にも知られたくないはずだ。今日起こったことは胸にしまっておこう。
ただきらりの母親の言っていたあんなことという言葉が気にかかった。きらりは何か不祥事を起こして親と離れて暮らしているようだ。
「下世話な趣味だな。くだらない」
「あっ・・・・・・、すみません」
店主が驚いて振り返る。どうやら週刊誌のことを言われたと思ったらしい。
詮索好きは人の本能。冬馬もやはり本能の呪縛からは逃れられないようである。きらりとの付き合いが長そうなつかさにでも、探りを入れてみようかと携帯電話を入れたバッグを手元に寄せた時だった。
いつの間にか冬馬と向かいあうようにして、見知らぬ少女が座っていた。大きなロイド眼鏡をかけ、髪はおさげ。モスグリーンのセーターを着ている。
少女がいつの間に座ったのか冬馬は気づかなかった。店の人かもしれない。何故黙って座っているのだろう。
「あの・・・・・・?」
冬馬が尋ねようとすると少女は笑みを見せた。その時、顔にえくぼができたので冬馬は彼女が誰かを特定できた。
「ひょっとして、白崎さんですか」
「ふふ、わかってもらえて何よりですわ」
「いつからいらしたんですか? 全然気づかなかったですよ」
「真田君が『下世話な趣味だな、くだらない』とニヒルな表情で独り言をつぶやいて・・・・・・」
「はい、もうわかりました。そのことは忘れてくれませんか、失言でした」
苦しそうにこめかみを押さえる冬馬を満足そうに美優は見ていた。それから携帯を取り出し、なにやら操作した。スピーカーから音声が再生される。
「下世話な趣味だな、くだらない」
「何で録音してるんですか! やめてくださいよ」
美優は素早く携帯をバックにしまう。まさか録音までしているとは思わなかった。
満面の笑みで美優は頬に手を当てる。
「ご心配なく。私が個人的に楽しむだけですから」
「楽しまないでくださいよ。消してください」
冬馬は懇願した。美優も冬馬をからかって遊ぶ癖がある。こういうところはきらりとよく似ている。
「冗談はさておき、お勉強ですか? 感心ですわね」
「まあ、そんなとこです・・・・・・」
よりにもよって、美優とはち合わせるとは考えなかった。休日だったし、完全に油断していた。
美優は不思議そうに冬馬とテーブルの上の原稿を見比べていた。
「その割にあまり集中なさっていないご様子でしたわ」
美優の目は明らかに、テーブルの上の原稿に引き寄せられている。美優が冬馬をいじるのに格好の材料だ。
冬馬は原稿から美優の注意をそらすべく話し始めた。
「白崎さん、ここの常連なんですか?」
「いいえ、今日初めて来ました。真田君の方こそ常連さん?」
「僕も初めてです。なんとなく足が向いて・・・・・・」
冬馬は前を向いたまま原稿を自分の手元に引こうとした。ところがカップが原稿の上に乗っているのに気づかなかった。カタンと小さなカップが倒れ、原稿にみるみる染みが広がる。
「あら・・・・・・、大丈夫ですか? 片づけませんと」
「いえ、大丈夫ですから」
冬馬の制止の声も届かず、美優は店主からぞうきんを借りたり、要領よくカップを処理した。その仮定で原稿も目に留まったようだ。
「真田君は小説を書いてらしたのね」
美優はテーブルから身を乗り出すように尋ねた。熱を帯びた表情。冬馬はそんな彼女が少し苦手だ。
「単なるお遊びですよ。そんな大したものじゃありませんから」
冬馬が謙遜すると美優も少し平静になったようだ。
「ねえ、真田君、もしかしてご迷惑だったかしら?」
「いえ、そういうわけでは。ただ・・・・・・」
「なあに? 教えて」
耳を冬馬に向ける美優の仕草は他の女性がしたら、あまりにあざとくて顰蹙を買いそうだったが、彼女がすると、害のない愛らしいものに感じられた。
「僕は人に読ませるというより、単に自分の楽しみのために書いてる感じですから」
「誰かに読んでもらいたいと思ったことはない?」
その時、きらりの顔が脳裏に浮かび、冬馬は唇を噛んだ。
「もしかしてですけど、会長に読んで欲しいと思っているんじゃなくて?」
「え? 何故ですか」
冬馬の顔に朱が差すのを美優は見逃さなかった。確信を深めたように頷く。
「だって、会長が安心極楽会を作ったのは貴方のためという気がしたんですもの」
「そんなわけないですよ、あの人は利己的ですから」
「だからこそじゃない、貴方を想ってのことだとしたら、とても美しいわ」
美優は酔ったように目を細めた。
冬馬はきらりの心慮に思い至ることもなくはなくて、冷静さを失うところであった。
「ねえ、私にもそのお手伝いをさせてくれないかしら、私も会の仲間として協力したいの」
「その言い方は狡いです」
「だってそうでも言わないと、読ませてくれないんだもの、おねがーい」
美優が冬馬の心を操ることなど簡単である。初めから結果は見えていた。
まだ中途のものを読んでもらうのは忍びないから、完成したら、読ませると冬馬は約束した。
美優は原稿をきれいにまとめて冬馬に差し出す。
「続き、必ず書いてくださいね。約束ですよ?」
冬馬は不思議な感動に打たれていた。人から書くことを要請されたことは今まで一度もない。
勝手に壁を作って、美優を遠ざけるよりここは一歩歩み寄る方がいいのかもしれない。冬馬は心よく承知して美優を先に帰した。冬馬はコーヒーをおかわりし、店主に尋ねた。
「すみません、ちょっといいですか? さっきのあの親子、よくこのお店に来るんですか」
「娘さんの方はたまにね。君、きらりちゃんの知り合い?」
「ええ、倉科先輩と同じ学校の後輩です」
「さっき一緒にいた子、カノジョ?」
冬馬は苦笑して答える。
「いえ、あの人も先輩ですよ」
「だよねー、君には合わないと思った」
店主はやけにうれしそうだった。
冬馬も店主の評には賛成だが、他人にから言われておもしろくない。頼もうと思っていたチーズケーキを取りやめることにした。
3
安心極楽会のホームページに妙なリンクが貼り付けられていたのを冬馬は日曜の夜に発見した。クリックすると蓬莱軒という中華料理屋のホームページに飛ぶのだ。創業二十年地元に愛される料理店ですとある。
会には、ゆかりもないと思うのだが、事実貼れられているということは会の誰かの仕業だろう。
冬馬はメールで問い合わせてみた。返信があったのは美優と秋穂だけだった。二人とも店のことは知らないという。
冬馬は翌週の放課後、秋穂と店の調査を行うことにした。秋穂は案の定、面を外すつもりはないらしい。人選を間違えたかもしれない。だが美優を誘うのははばかられた。二人で歩くには不釣り合いだ。
秋穂は面をかぶっているとは思えないほど、すいすい人混みを縫って歩く。どうやって前を見ているのだろう。
だが完全に見えているわけではなく、死角はあるようだ。左手側から自転車が来るのに秋穂はそのまま進もうとする。
「危ないって」
冬馬が秋穂の腕を掴んで止めなかったら、事故につながったかもしれない。
「その面は、何か宗教的な意味でもあるのか、篠山」
「別に・・・・・・、ないけど」
「そうか。なら、外歩く時くらいは外してくれないかな。これは命令とかじゃない。友達として頼んでいるんだ」
取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。嫌われることを覚悟で言ったおかげか秋穂は慎重に歩くようにはなった。面は外さなかった。
くだんのお店、蓬莱軒の前について冬馬は根本的な問題に気づいた。秋穂はどうやって食事をするのだ。これだけ言っても外さなかったのだ。だが今更帰るのも悔しい。秋穂が先に店の引き戸を開けていた。
「いらっしゃーい!」
威勢の良いかけ声をしたのは妙に目力の強い五十代くらいのおじさんだった。客はサラリーマンが二人。店内は熱気が籠もっている。
「お腹空いた・・・・・・」
秋穂はそう言ってカウンターの席にためらうことなく座ってしまった。冬馬も仕方なしに座る。
「ご注文は?」
ぬうとカウンターから店主が尋ねてくる。ちょっと恐い。
「あ・・・・・・、チャーハンと・・・・・・、篠山はどうする?」
「ラーメンと餃子」
冬馬の隣の少女がよく通る声で注文した。
「あいよ」
店主が厨房に入ってから冬馬はその少女をまじまじと観察した。
髪型はマッシュルームボブで、鼻がちょっと上に向いている。小さい顔が揺れると髪が左右にふんわり広がる。少女の膝の上に剣道の面が載っていた。
「篠山・・・・・・、なのか?」
「うん」
冬馬は秋穂の素顔を初めて目の当たりにして驚きの念に打たれた。秋穂は意外と大人びて高貴そうな顔をしている。むしろきらりより堂々としていた。面を被っている必要もないくらいに。
「あんまりジロジロ見ないで欲しいんだけど。照れる」
「ご、ごめん・・・・・・」
単なる人見知りなのだろうか。この際、もっと深く秋穂を知る機会を逃したくない。
「へいおまちどお」
言葉を選んでいるうちに冬馬の頼んだチャーハンが目の前に置かれた。少し焦げ目のあるお米の上にエビが載っている。食欲をそそられ、無意識に蓮華を手に取る。
「真田君には感謝している」
秋穂は正面を見据えたまま言った。その目線の先の壁にはメニューが貼ってある。
「感謝って、倉科先輩のことか? 僕はまだ何もしてないよ」
「それがいい。何もしてくれない方が助かる」
秋穂の頼んだラーメンと餃子が来た。その時、店のドアが開いて、一瞬の寒風が部屋に舞い込んだ。
「出前戻りましたー」
「おう、ごくろさん」
入ってきたのはお店の店員らしかった。冬馬が振り返るとその人物とばったり目が合った。
「何だ、真田来てたのか?」
出前から帰ってきた店員は武藤つかさだった。息を弾ませ、お店の制服の白い服を着ている。ここでバイトとしているようだ。
つかさは入ってくるなり、冬馬を店の隅へと連れていった。
「あのクレオパトラはお前の知り合いか? 真田」
「彼女は篠山秋穂ですよ。僕も仮面を外したところは初めて見ました」
あらぬ期待を持たせるのも酷だと思ったので、冬馬は早々と真実を告げた。
「武藤先輩、改めましてこんにちは」
秋穂は立ち上がり、丁寧にお辞儀した。
「お、おう・・・・・・、エレガントだな、篠山」
つかさは秋穂の堂々たる有様に緊張しているようだった。
「つかさ! 皿洗え! 溜まってんぞ」
「へい、大将すぐに・・・・・・」
つかさは秋穂の方をちらちら見ながら厨房に入っていった。
「何だ、武藤先輩リアクション薄いな。もっと驚くかと思ったんだけどな」
「私はお化けじゃない」
「そ、そうだよな。ごめん」
秋穂の頼んだラーメンと餃子が置かれた。麺の上にナルトとネギが載ったシンプルなラーメンだったが、脂っこいラーメンが氾濫した現代では光るものを感じる。
「いただきます」
二人は黙々と料理を食べた。冬馬はふと思った。何のためにこの店を訪れたのか。つかさの姿を見た時点で、答えは出ていたが、とりあえず舌と胃袋を満たすのが先決だ。秋穂もきっとそう考えている。
つかさは、サラリーマンの客が帰った後のテーブルの片づけをせっせとしていた。時折視線を感じるが、主に秋穂を見ているようだった。
「篠山、僕は先に食べたから武藤先輩と話してくるよ。ゆっくり食べてて良いからな」
「いい。もう食べ終わった」
不可解なことに秋穂は冬馬より後に食べたにも関わらず、皿を空にしている。ラーメンにいたっては汁を一滴も残していない。
あまり聞くと失礼かもしれないので、冬馬は何も言わないで一緒に席を立った。
「武藤先輩、僕らがここに来た理由、わかりますね?」
テーブル席に三人は移動し、冬馬は話を始めた。客がいなくなったので店内は静かだ。大将が恐い顔をカウンターからつきだしていた。
つかさは悪びれる様子もなく、腕を組んで座っている。
「無断でリンクを貼ったことか? 今時、どこの店だってやってるだろ」
「まがりなりにも学校のホームページなんですから、営利的なものは控えた方が」
つかさはがっくり肩を落とした。
「はあ・・・・・・、だよなあ。悪かったな、お前らの手をわずらわせちまって」
内心では良心の呵責もあったのか。自分の比を潔く認めるところはこの男の長所かもしれない
「結果オーライ、です。私も真田君もおいしいご飯にありつけたから」
ありがたそうに秋穂が言うと何故かつかさは頬を赤らめていた。
「う、うまかったか? そうかそうか・・・・・・、よ、よかった」
つかさは大将と目配せをして深く頷き合う。
「今回のことは俺一人の独断だ。リンクは削除する。この通りだ。勘弁してくれ」
つかさは頭をテーブルにつけて謝罪した。冬馬もそこまでしてもらうつもりなどなかったので、罪の意識を感じた。
「もういいですから、顔上げてください。武藤先輩」
「いいや。俺の気が収まらない」
参ったのは冬馬の方である。そもそもつかさの罪を糾弾するために来たのではないのである。ちょっと好奇心のついでにうまい料理でもと秋穂と来たのにとんだ愁嘆場になってしまった。
それを救ったのは秋穂であった。
「武藤先輩はこのお店のおいしい料理をみんなに伝えたかっただけなんですよね? 気に病むことないと思う」
「うん、そうなんだ。それだけだったんだよー」
今にも泣き出さんばかりの声でつかさは秋穂に縋るのだった。
「近所に行列のできるラーメン店ができちまったからさ。広告に力入れないとって大将に言ったんだ」
「そんなもん必要ない。儂は味で勝負する」
大将が腕を組んで言った。
「・・・・・・だろ? 俺がなんとかするしかないじゃないか」
店構えは古いし、繁盛しているとも思えない。つかさのやり方は間違っていないと冬馬は思う。何もしないでいたらゆでガエルになってしまうかもしれないのだ。
「武藤先輩が店のために尽力していたなんて知りませんでした。僕の方こそ誤解して失礼な態度を取っていたようです。すみません」
「へへ・・・・・・、よせやい」
冬馬とつかさは堅い握手を交わした。苦手な先輩との関係改善は冬馬にとって思わぬ幸運だった。
「ところできらりは来てないのか?」
元のつかさに戻った途端、冬馬と秋穂は同時にうんざりした顔をしていた。
「大将、八宝菜とかた焼きそば追加!」
秋穂は何を思ったか怒ったような声でさらなる注文していた。
「そうだよな、いくらお前らでも四六時中きらりの側にいるのは疲れるよな」
訳知り顔でつかさは言うのであった。
「武藤先輩は倉科先輩とどれくらいの付き合いなんです?」
「あいつが高校に入った頃からだよ。以来、俺の一方的な片想い。笑えるだろ?」
「いえ・・・・・・」
つかさがどこまで真剣かわからないから冬馬は微苦笑で答えるしかなかった。本当は喉から出るほど知りたい情報である。
「この間もさ、あいつの家に行った時・・・・・・」
つかさはきらりの家での出来事を話始めた。
きらりは整理整頓が苦手らしい。つかさが部屋の掃除を定期的にしてあげていたそうだ。
先月の中頃のある日曜のこと。その日に限ってきらりの祖母は外出しており、家にはきらりとつかさだけしか居なかった。
きらりが淹れてくれたココアを二人で飲みながら、部屋でジャズのレコードを聞いていた。ふと音楽が途切れた時、つかさはきらりの手を握り・・・・・・。
「ど、どうなったんですか?」
冬馬は興奮した面もちに尋ねた。
「バーカ。どうにかなってたら、お前らの前でこんな話してねーよ」
「それもそうですよね・・・・・・」
やさぐれるつかさに冬馬が安堵していると、隣の秋穂が二人に冷ややかな視線を送っていた。
「そいでよ、あいつの手を握ったら、何で? って不思議そうに訊くんだ。お前のことが好きなんだよって言ったら、バカって殴られた」
冬馬は秋穂と顔を見合わせた。あんまりの仕打ちだと思ったのである。
「お前らも知っての通り、きらりは変わってるよ。もしかしたらもうちゃんとした大人になれないのかもしれない。それでも末永く付き合ってやってくれ、頼む」
つかさは深く頭を垂れた。
「まるで武藤先輩が倉科先輩から離れるみたいな言い方じゃないですか。やめてくださいよ」
「いや、いずれそうなるんだ」
居住まいを正し、つかさは一度厨房の方を振り返って言う。
「俺、料理人になりたいんだ。だから来年、高校を出たらこの町を出ていく」
つかさがこのお店でバイトをしていた理由が判明した。それはあまりに早い別れを予期させるものだった。
「そう、ですか。」
「おやー? 俺と離れるのが寂しくなったか? 冬馬ちゃんは」
「気持ち悪いな。やめてください」
冬馬とつかさのやり取りを興味深そうに聞いていた秋穂は頼んだ料理を平らげていた。わずか十分足らずの早業である。その所行は大将をいたく感激させ、帰り際、秋穂は蓬莱軒の一品無料券をもらったのだった。
4
美優に請われた小説がひとまずできあがった水曜日のことである。天気は朝から快晴。冬馬は軽い足取りで登校した。
冬馬が授業のために音楽室に移動すると、きらりと美優が話をしている。きらりはピアノの椅子に座り美優はその脇に立っていた。
二人は冬馬に気づくと話をやめ、美優がだけがその場を離れ、歩みよってきた。
美優は何も言わず、意味深な微笑をして冬馬の脇を通り抜けた。
冬馬は疑問に思いつつ、二人の間に入ることがなくて安堵した。同学年ながら彼女たちの中はいつも険悪である。
きらりの目は向かいの壁に向いていたが、もっと遠くを見ているようで焦点が不明だった。
「白崎先輩ともっと仲良くしたらどうです?」
冬馬が言うと、きらりは振り向いて渋い顔をした。
「私は誰とでも仲良くするわけじゃない。付き合う相手は自分で決める」
きらりの態度は予想通り頑なだった。冬馬も自分に当てはまる部分はあるので多くを語ることはない。
ピアノときらりでは、何となく不釣り合いな感じがする。一つの場所に留まっているイメージがあまりないのである。彼女は羽のように漂い、いつまでも地面に落下しないような不安定さがあった。
「私がピアノの前にいるのがそんなに不思議? 真田」
「・・・・・・そういうわけじゃないですけど」
「君は私が芸術に疎いと思っているみたいね」
きらりは鈍感なようで他人の感情の機微に敏感なところがあるようだ。
きらりのクラスの授業が終わったばかりで、二年生の生徒が音楽室にまだまばらに残っていた。冬馬のクラスメートまだ誰も来ていない。暇つぶしにきらりをたきつけてみることにした。
「色眼鏡で見ていたことは謝りますよ。そこまで言うのなら貴方の演奏が聞いてみたいです」
きらりの背中が一度大きく震えたように見えた。
「昔、かじった程度。もう弾かないよ」
「どうしてですか?」
きらりはおどろおどろしい表情を作る。
「ジンクスがあってね。私のピアノを聞いた人にはよくないことが起こるのだ」
「尚更聞きたくなるじゃないですか。弾いてみせてくださいよ。僕が実験台になりますから」
普段おどけた彼女からは想像もできないような神妙な横顔に冬馬も発言を撤回しようか迷う程だった。
「後悔しても知らないよ?」
遠巻きに聞いていたクラスメートは潮が引くように退散した。話が耳に入ったのだろう。教室はきらりと冬馬だけが残った。
何度か音を確認してから、きらりは演奏に入った。壊れものを扱うような繊細さタッチが音に命を吹き込む。
冬馬はピアノ素人だが、耳朶を打ったその音色が尋常でないということくらいはわかる。春の嵐のような旋律は冬馬を捕らえて離さない。
だがきらりはあきらかに中途で演奏を止めた。
「どうして・・・・・・、止めたんですか?」
「んー、覚えてるのこれだけなんだよね」
きらりは謙遜したが、冬馬には無理矢理鍵盤から手を引っ込めたように見えた。
「さっ、これでピアノ発表会しゅうりょー。真田に何が起こるかお楽しみだね」
その後、きらりの期待に応えるように冬馬に災難が降りかかった。
放課後、例のごとく秋穂が掃除を押しつけられ、冬馬が手伝っていたところ、窓からスズメバチが迷い込んできた。秋穂は外に逃げるまで待つことを主張したが、冬馬はそんな悠長なことをしていられるほど気が長くなかった。箒で叩こうとすると、予期せぬ動きで蜂は冬馬の背後に回り込んだ。
「うわっ・・・・・・、くそっ!」
振り向きざま足がもつれ、冬馬はひっくり返った。蜂はそんな冬馬を嘲笑するように窓から遁走した。
教室には秋穂しかいないが、そんな彼女の肩もこぎざみに揺れていた。
ゴミ捨て場にゴミを捨て終えてから部室へ向かう。校舎の近くで美優と会った。
「真田君ちょうどよかったですわ。部室に行っても誰もいなかったものですから」
珍しく美優の顔色は優れない。もしやきらりのピアノの呪いの余波であろうか。つい尋ねてしまう。
「もしかして良くないことでもあったんですか?」
「いいえ? 格別、私に変わったことはないですよ。変な真田君です」
美優は首を下げて、マフラーにちょっと顔を埋めた。
「それより真田君。これからお時間ありますか?」
冬馬はこれから安心極楽会に顔を出そうと思っていたが、どうせ誰もいないのなら行く意味もないだろう。
「これといった用事はないですね」
「でしたら付き合って頂きたいところがあるんです」
美優は安心極楽会のクリスマス会のプレゼントを選ぶのだと言った。
会長のきらりによって、二十五日に各々プレゼントを持って、クリスマス会を行うことが通達されたのである。単なる思いつきだったため、どこに行くつもりなのかいまいちはっきりしない。恐らくつかさか、秋穂が企画しているのだろう。
「こういうのは別々に選んだ方がよくはないですか?」
「まあそう言わず。一人より二人で選んだ方が楽しいに決まっています」
有言実行の美優を止める力を冬馬は持っていない。いつものように馬車馬のごとく引きずられていく。高級な店にでも連れていかれるかと思いきや、辿り着いたのは普通の小さな雑貨店である。
「何だか意外そうな顔をなさってますね、真田君」
「ええ、白崎さんにも普通の女の子らしい一面があるとわかったので」
つい調子に乗って口が滑った。美優は寂しそうな顔をした。
「真田君は私を過大に評価しているようです。私はそんな大した人間じゃないわ」
冬馬にはそうは思えない。一緒にいても美優には欠点らしい欠点が浮かび上がってこないのである。きらりやつかさが美優と距離を取るのもそういう理由があるのかもしれない。冬馬も彼女をどこか対岸の人として見てしまう時がある。
「私を先輩として敬ってくれるのは良いのですが、あまり過度な期待をされると肩がこりますわ」
「すみません・・・・・・」
美優もやはり人の子である。冬馬の配慮が足りなかったのだろう。
「あっ、これなんかどうですか?」
冬馬が選手に取ったのは小さいイルカのぬいぐるみである。美優に渡した。
「悪くはないですけど」
美優の反応は芳しくない。それでも買い物かごに居場所をくれた。
「こっちの方が良いですわ」
美優が選んだのは緑色のぬいぐるみだ。マリモのような体に手足のかわりなのか触手のようなものが生えている。森の妖精と商品説明に書かれていた。
正直、冬馬にはこのぬいぐるみのよさがあまりよくわからなかった。
「こ、個性的ですね」
「あとこれも」
そう言って、冬馬に別の変なぬいぐるみを持たせるのだった。美優は合計五個のぬいぐるみを購入した。その中には冬馬が選んだイルカも混じっている。
「そんなに買ってどうするつもりですか?」
「実はこういうの集めてるんですの。コレクションに加えます」
そう言って美優は袋を抱きしめた。
二人はその後、喫茶フラウに立ち寄った。ひとまず完成した冬馬の小説の批評をしてもらうためである。
「では拝見致します」
美優は原稿に目を通していた。冬馬はその間、店内でかかっていた音楽に耳を傾けていた。
「真田君、この物語の主題は何なのでしょう?」
読み終わって、開口一番に発せられた言葉に冬馬は暫し言葉を失った。
冬馬は元々、筋道を立てて物語を作るのを得意としていない。いわば書くままに任せる手法なのだが。
「テーマがブレているというか。迷いがでていますわね。プロットは作っていますか?」
美優の口調には遠慮がない。
「迷いですか・・・・・・」
「内容は悪くないと思います。私がヒロインの彼女なら、そんなにすぐに家から飛び出せるかしら。でもあんまり深刻に考えないで。私の批評が正確かどうかはわからないのですから」
謙遜しているが、美優の意見は恐らく正しいのだろう。冬馬は頭を下げた。
「ありがとうございました。またできたら添削お願いしますか?」
「ええぜひ。私も楽しんでいますから。何かを表現するって素晴らしいわ」
「そんなこと言わないでくださいよ。僕だって誰かの真似事をしているだけかもしれないんだ」
美優は飲んでいた紅茶をソーサーに戻した。
芸術に携わる全ての人間にこれは共通する悩みだろう。過去から現在に至る過程であらかた金鉱は堀りつくされてしまったのである。
残ったのは残骸だけ。泥炭に埋まる財宝を掘ろうとして、奈落に落ちる。そんな作家達を何人も知っている二人には暗い話題に違いなかった。
「私はそうは思いません。真田君には真田君にしか書けないものがある。そう信じていますもの」
慰めや、世間の風潮に対する反発ではなく、自分の各個たる意志を見せる美優に冬馬は尊崇の念を抱いた。
「先のことはわかりませんけどね。僕なんかちゃんとした大人になれるのかな」
「皆、迷いながら生きています。私も不安だから精一杯努力しているのですよ」
美優の包容力にどこまでも甘えてしまいそうで自分が怖い。美優は冬馬にどうしてここまで親しくするのだろう。単に編入したばかりで知り合いが少ないとは言え、ちょっと親しくなり過ぎているのではないだろうか。
「どうかしました? 真田君」
「い、いえ、なんでも。そろそろ出ましょうか・・・・・・」
伝票を取ろうとして冬馬と美優の手がちょっと触れた。冬馬は慌てて手を引っ込めたが、美優は落ち着いた態度を保っていた。
「だいぶ暗くなりましたね。送ってくださらない?」
「あ、ぁ、はい」
我ながら変な返事をして席を立った。支払いは冬馬がした。小説を読んでもらったせめてものお礼である。
今日は迎えの車は来ないらしい。電車に三十分ほど乗って降りたのは人気ない小さな駅だった。
「ここから歩きましょう」
都会とはいえ、暗いところはままある。美優は冬馬とぴったりくっついて歩いた。
「少し離れてくれませんか? 歩きづらい」
「あれを見てください」
美優の指さす先のコンビニの前で若い衆がたむろしていた。多分高校生くらいだ。制服を着ている。
「あの人たちがどうかしたんですか?」
「私達を見ています。あの人たち」
美優が寄り添うせいで、逆に注目されている気がする。だが美優が自意識過剰になるのも無理はない。編入してきて以来、美優は男子から大人気なのだ。知らなかったのは冬馬のような朴念仁くらいのものである。
コンビニの前を通り過ぎると美優は少し間をあけて歩いた。
「結構楽しいですわね、恋人のふりをするのって」
美優は無邪気に笑った。
「家はこの坂の上にありますの。もう少しですから」
二人の眼前には急傾斜の長い坂がある。頂上までの距離を測るのもいやになるくらいきつい坂だった。
「普段は車で送り迎えしてもらうのですけれど、運転手が風邪で寝込んでしまって」
「そうでしたか・・・・・・」
心配そうな美優の話を聞いている間に、とあるガレージ付きの一戸建ての前にたどり着いた。 とうとう着いてしまった。
「それじゃ、僕はこの辺で失礼します」
「お待ちを」
美優は冬馬の手をがしっと掴んだ。動悸がはやまる。
「紅茶でも飲んでいきませんか? せっかくここまできて頂きましたし」
「いや、さすがにそれはまずいですよ。もう遅いじゃないですか」
あらためて美優の自宅を見上げる。あたかも城塞のような豪邸だ。辺りもそんな家が多い。冬馬は完全に気後れしていた。
「心配しなくてもお父様は帰っていらっしゃらないと思うわ。さあどうぞ」
冬馬は自分の体が必要以上に強ばるのを感じた。だが美優の好意を反故にするのも気が引ける。結局、冬馬は家に入った。
玄関にはゴルフバッグが置いてあった。おそらく父親の趣味であろうことを伺わせた。
冬馬が靴を脱いでいると、一人の女性が出迎えてくれた。地味な格好に無造作に紙を束ねている。伏し目がちで、どこか居心地が悪そうに思えた。家政婦さんだろうか。
「ただいま。お父様はまだお帰りではない?」
美優の声は他人に対するようによそよそしい。
「え、ええ。今日は遅くなるそうよ。そちらはお友達? よくいらっしゃいました」
「真田冬馬です。美優さんの後輩です。お邪魔します」
女性は作り笑いを浮かべて、冬馬にスリッパを用意してくれた。
冬馬は一階のリビングに通された。白を基調とした広い部屋には五人はゆうに座れそうな大きなソファ。壁には西洋画が掛けられていた。部屋の奥には、大きなグランドピアノが置いてある。
「ここでお待ちになって。今、紅茶を持ってきますから」
「お構いなく・・・・・・」
美優がはしゃぐのとは対照的に冬馬は恐縮しきりだった。先ほどの女性がリビングに入ってきた。腰を下ろすことなく、次の間に入っていった。冬馬と一度目が合うと会釈をした。
借りてきた猫のようにソファで小さくなっていると、ピアノが目に留まった。昼間、きらりのピアノを聞いたのを思い出し、笑った。きらりのジンクスはやはり杞憂だったのだ。
時刻は七時を回ったところで、食事時にやはり迷惑だったかもしれないと早めの辞去を心に決めていた。
美優が銀のトレイにカップとクッキーの皿を乗せてやってきた。持ちなれていないのか足取りが危なっかしい。見かねて冬馬がトレイを持ちテーブルに置いた。
「ありがとう。このクッキーおいしいのよ。私の大好物なの」
クッキーも紅茶も確かにおいしい。だが冬馬はお暇を告げる機会を伺いそわそわしていた。
「今、母に料理を作らせていますから。それまで私の部屋で待ちましょう」
「え? お母さまがいらっしゃったんですか。挨拶しないと」
美優はくすりと笑う。
「さっき会ったでしょう? あれが母よ」
あまり美優に似ていないので想像だにしなかった。年齢も母親にしては若く見えた。
「あの人は父の後妻なの。でも私たちうまくやっていると思うわ」
その時、冬馬が視線を感じて少し開いていた部屋の扉に目をやりぎょっと固まった。
美優の継母が隣の部屋の入り口に立っていたからだ。暗がりに立ち、失礼ながら幽鬼のようである。冬馬と目が合うとふいに幻のように消えてしまった。
「どうかしたの? 真田君」
「いえ、何でも・・・・・・」
二階の美優の部屋に案内されても違和感は拭えず、早くこの家から抜け出すことばかりで頭が一杯であった。
美優の部屋はベッドに本棚とクローゼットがあるだけで、簡素としていた。美優は入ってすぐに棚の上にあった写真立てを伏せた。
冬馬は所在なげに本棚を物色していた。ツルゲーネフ、チェーホフ、サガン、バルザック、外国の作家の本がたくさん並んでいた。
美優は本棚の前に立ちはだかり、冬馬を押しやった。
「もう、本ばっかりに夢中になって。今日一番うれしそうじゃない」
「すみません、癖なんです。読んでもいいですか?」
「どうぞ、お好きに。気持ちはわからくはないですけど」
美優は頬を膨らませて、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。冬馬は努めてその姿を見ないようにしていた。
冬馬は本棚からサガンの「悲しみよこんにちは」を取り出して読んだ。
「真田君には父とも会ってもらいたいわ」
美優はベッドに寝そべったまま、夢見るような口ぶりで言った。
「それは遠慮させてください」
冬馬はきっぱりお断りし、本を元に戻した。
「つれないのね。先輩命令でもダメかしら?」
「正直、肩身が狭いというか。僕なんかがここにいちゃいけないんだと思います」
「そうやって自分を卑下して。真田君の悪い癖ですわ」
「自己評価が正確なんです、僕は。貴方も悪ふざけが過ぎますよ。後輩をからかって楽しいのかもしれないが」
美優はベッドから降りて、冬馬の間近に迫った。たじろぐ冬馬にお構いなく美優は鼻と鼻がくっつく程に距離を縮め、唇を突きだした。二人の唇が触れあったのは一瞬で、冬馬は無意識に顔を背けた。
「これが悪ふざけだと思うのかしら? どう?」
冬馬は何も言えず、美優の肩を押しやって、部屋を飛び出していた。
美優は外で誰にも見せたことのないような不機嫌な表情を浮かべ、ベッドに仰向けに倒れ込み、足をバタバタさせた。
「いくじなし・・・・・・」
事実、冬馬はいくじなしであった。美優の気持ちに応えることが何一つできなかったから。
美優の継母に挨拶をして家を出た。美優の継母の目は物問いたげだったが、どこか安堵しているようにも見えた。
5
十二月二十三日、同好会として学校に認められた安心極楽会のメンバーは終業式の後、打ち上げと称してカラオケ大会を行った。
当然、新しいメンバーの白崎美優も参加した。つかさは感激したものの、美優に形式的な挨拶だけして、口説くことはしなかった。気後れしたのが本当だろう。
秋穂は意外と先輩に対する礼を失さない程度の反応を示した。
カラオケボックスに入ってからもきらりは、美優と目も合わせようととせず、秋穂とばかり話をしていた。
つかさが場を盛り上げようとアップテンポの曲を歌うと、きらりも興が乗ったらしく、八十年代に流行ったデュエットを選曲し秋穂を誘った。
ところがそこに美優が割って入ったのである。
「私、この曲得意です。篠山さん、代わって頂くことはできませんか」
美優の声は穏やかだが、相手の拒否を許さない頑迷さが感じられた。剣呑な空気が場を覆う。
秋穂は困惑したように、きらりと美優を交互に見比べた。
きらりが秋穂からマイクを受け取って、きつい口調で吠える。
「ちょっとお、あんたとなんか歌いたくないんだけど」
美優は既にマイクを持って立っていた。みかねたつかさがきらりからマイクを奪う。
「この曲なら俺も知ってる。白崎、俺と歌わないか」
美優は笑顔で頷き、つかさの招きに応じた。
二人が歌っている間、冬馬はきらりの様子をうかがった。きらりは足を組み、爪をかみながら、歌っている美優を食い入るような眼差しで見つめている。
その必死な表情からは、美優がお嬢様だから気に食わないというだけでなく何か特別な感情を抱いているのではないかと思わせた。
冬馬もまた美優を特別な存在とみなすようになっていた。
美優はあんなことがあったとは思えないほど普通に接してくる。かえって冬馬の方が気後れしていた。
冬馬自身が答えを見つけるのを避けたかったのかもしれない。答えを出せば大切な何かを失うだろうことを予感していたのである。
「どうだ! 俺様の美声はなかなかだったろ、真田」
「え?」
冬馬が考えに没頭しているうちに、歌は終わっていた。美優が隣に腰を下ろした。そしてめっ、と拳を上げるまねをした。
「真田君、そういう態度はいけませんよ。わたくしと武藤先輩が歌ったのに」
「すみません。気をつけます」
冬馬は小さな声で謝った。美優の注意が何となく言葉以上の意味を含んでいそうで狼狽える。
「そうだぞ、真田。つーわけだから、次、お前の番な」
冬馬はあまり流行歌に詳しくない。さて歌えそうなのがないかと思案していると、秋穂が童謡を入れてしまった。
「篠山、勝手なことしないでくれよ」
「罰」
秋穂の計略で、冬馬は無心に童謡を歌った。心なしかきらりの表情も和らいだのが救いだった。
それから一時間ほど歌うとカラオケもお開きになり、皆は店の前で別れた。
冬馬が少し歩いたところで別方向に行ったはずのつかさが走って追いかけてきた。
「どうかしたんですか? 武藤先輩」
「いや、大したことじゃないんだがな・・・・・・」
つかさは、やけに性急な足取りだった。
「あの白崎美優って子、どう思う?」
つかさの頭は新たなヒロインへの興味で一杯らしい。きらり一筋が聞いてあきれる。
「見たままですよ、品行方正なお嬢様って感じじゃないですか。ちょっとズレたとこもありますが」
美優の家庭のことを話せば、美優の家に行ったことにも触れずにはいられない。彼女の特殊な家庭環境を無断で話す気になれなかった。
「本当にそれだけか?」
つかさは単に異性への興味から訊ねているのではない気がした。つかさは緊迫した表情で冬馬に迫ってきている。
「え・・・・・・、ええ。彼女は僕らとは住む世界が違いますよ。狙うのはよした方がいいんじゃないですかね」
「バカ野郎! 違うんだよ」
つかさは反射的に冬馬を怒鳴りつけた。冗談ではすまされない響きがあったので、冬馬も居住まいを正した。
「わりい・・・・・・、つい熱くなった。そうか、住む世界が違う、か」
つかさは幾分、納得したように頷いてから、帰っていった。
「そう、世界が違うんだ」
美優は輝ける道を歩む人だ。自分のような人間といては彼女の妨げにしかならないだろう。美優のことを頭から締めだそうと歩いていると、洋服店のショーウインドーの前で足が止まった。
冬馬はそれから店内に入り、手ばやく買い物を済ませてから時計を見た。時刻は八時を過ぎていたが、家に帰っても姉しかいないのでかえって迷惑がられるかもしれない。
先ほどのカラオケ店でも簡単な食事をしたが、小腹は空いていた。
手頃な店を探していると、ファーストフード店が視界に入った。中に入ると客も少なく、大学生のような風貌のカップルが一組いるくらいであった。注文を済ませると冬馬はそちらを避け、店の奥に向かった。
入り口からは見えない位置にまだ客がいた。冬馬と同じ学校の制服の女子生徒。背を向けてはいたが、見知った後ろ姿である。
「倉科先輩、帰らなくていいんですか?」
冬馬は声をかけてから、きらりの向かいに座る。
きらりはストローをくわえ、惚けた表情をしていた。どんなことが彼女の脳内で起こっているのか興味はつきないが、邪魔するのも悪いと思ったので、冬馬は黙って自分のポテトをつまんでいた。
きらりの前には食べかけのハンバーガーが置いてある。色々な面でだらしないが、冬馬もいい加減馴れてきた。そのうち、きらりの手が冬馬のポテトを催促するような動きをし始めたので、何本か手に置いてあげた。
「なんだ、ちゃんと気づいてるじゃないですか」
「今気がついた。それより以前のきらりは無意識下の行動をしていたから悪気はないの。もっとポテトをちょうだい」
「だめです。太りますよ」
きらりは食べかけのハンバーガーにかぶりついた。余程悔しいのか冬馬をにらんでいる。
「そんな目をしないでください。本当に体に毒ですから」
「いーや、君のことだから私の体を気遣うなんて真似は絶対しない。あの日だって」
きらりは冬馬と初めて面識を持った日を思い出したようで、余計に腹が立ったようである。
「とにかく暴飲暴食は若さの特権じゃないか。それ如何に関わらず、君も食べているのに私が食べてはいかんというのは納得いかん。違憲じゃないかにゃん?」
「じゃあ僕ももう食べませんから貴方もよしてください」
「あー、ずるい。私が喋っているうちにもう食べ終わってる」
きらりは急ぎ残りのハンバーガーを口に押し込めた。
「そんな急いで食べたら、喉につっかえますよ」
案の定、きらりはむせて苦しそうにしていた。水を飲んで落ち着いてから冬馬の脇に置いてある袋に気づいた。
「そのプレゼント、誰にあげるの?」
冬馬は一瞬言いよどんだ。
「クリスマス会するって言ったの貴方でしょう、誰かのものにはなりますよ」
ふーんと、きらりは意味ありげに頷いた。
「てっきり誰かさんへの贈り物だと思ったよ。最近、仲がいいみたいだし」
きらりが、美優に関することになると皮肉な態度になるが、今日は余裕のなさが際だっていた。
「プレゼント交換って、誰の手に渡るかわからないからやるんじゃないですか。特定の誰かに贈る気なんかありませんよ」
「じゃあ、私にちょうだい」
きらりは子供のように無邪気に手を差し出した。冬馬もついうっかり渡してしまいそうになるくらい、彼女はねだる時に躊躇しない。
「なんでそうなるんですか。意味がわかりません」
「だって誰に渡してもいいのなら、私にくれたっていいじゃん。私からも何かあげるから」
「運が良ければ当日、貴方の手に渡りますよ。それまで待てませんか」
「今がいいなぁ」
きらりは甘えたような声を出し、冬馬の手に触れようとする。さっとその手をよけと、見るからに憮然とした顔になるきらり。
「はあ・・・・・・、真田は本当に懐が狭いなあ。つかさ君なら絶対すぐにくれるのに」
きらりの挑発するような言葉をいなすように、冬馬はわざと涼しい顔をした。その逃げ腰がきらりの気に障ったようである。
「ねえ? きらりと白崎ってさ、どっちがカワイイかな」
「そんなこと・・・・・・」
冬馬はいよいよ退路を塞がれ、苛立ちを感じた。
「そんな主観に左右されること、僕に言わせないでください」
「つかさ君なら言ってくれるのに。きらりが一番カワイイって」
「そう言えば満足ですか」
「別に。ただ聞きたいの。君の口から、ね」
「武藤先輩みたいな目に合うのはごめんですね、僕は」
神経質そうに指でテーブルを叩いているきらり。十七歳にもなれば、自分の立ち位置に考えが及ぶはずである。美優が、きらりより優れた面を持っていれば、きらりもまた美優が持っていないものを持っている。他人を鏡にして相対的に自身を眺める能力がきらりには決定的に欠けていた。
「武藤先輩に聞きました。貴方は自分の部屋を彼に掃除させているそうですね?」
「それがどうしたっていうの」
きらりは少し語気を強めたが、まともに冬馬を見ようともしなかった。
「僕は正直、男女のことはよくわかりませんけど、貴方は武藤先輩を弄んでいるんじゃないですか?」
きらりは店内に聞こえるのにも構わず激高し、大きな声を上げる。
「人聞き悪いこと言わないで。何でそんなこと言うの、信じらんない。つかさ君は自分からやってくれるって・・・・・・、真田だって美優の言うことホイホイ聞くくせに。今日だって意識してたじゃん」
「犬じゃあるまいし、そんなことあるわけがない。今の発言、撤回してください」
冬馬は先日の美優の行動まできらりに見透かされたように感じ、急に気持ちが高ぶり、この場を誤魔化すようにきらりを責めた。
きらりもまた似たような気持ちらしい。しきりに腰を上げるきっかけを探しているようだった。
それから冬馬もひたすら下を向き、きらりの釈明も弁解も聞かずという態度を貫いた。
ふと目を上げるときらりはハンカチで目を覆っていた。それで余計に冬馬は口を開くことができなくなった。
「あ、私もう帰るね、おつかれ」
きらりは何でもない口調でそう言うと、携帯をいじりながら席を立った。
「あ、あの・・・・・・」
「真田とはもう絶交したから。話さない」
有無を言わせずきらりは冬馬に最後通牒を突きつけ、立ち去った。
互いに高ぶった感情に振り回された結果である。
先ほど店で買った品はマフラー、それは初めてきらりにあった際、防寒着をなくしたという彼女への想いがあったのは事実である。
きらりに似合うと思うものを選んでいたのは否定できなかった。
店を出たきらりは早足で駅に向かった。口を堅く閉じ、目の前のものしか見ないという彼女の姿はどこか物騒で道行く人を驚かせた。
「どうしよ・・・・・・、真田に嫌われちゃった」