act1 Lost
1
時計の針は無慈悲に十七時を指す。図書室の閉室が告げられた。
真田冬馬は、読んでいた分厚い背平紙の本を書架に戻す。この高校の蔵書はなかなか層が厚い。古今の著者の標に、冬馬は夢中になっていた。
ここ数日、授業が終わってから遅い時間まで図書室に入り浸る日々である。といっても彼はそれほど勤勉な生徒ではない。読むのは、もっぱら小説だけだった。
冬馬は後ろ髪を引かれる思いで、茶色のダッフルコートを制服の上に羽織り、図書室を後にする。
ドアを出た所で、女子生徒と危うくぶつかりそうになった。ひどく取り乱した様子の彼女は、冬馬以外の何かに固執しているような印象を残した。謝る暇さえ与えず、少女はその場を歩き去る。
冬馬はしばし、呆気に取られていたが、かけていたウェリントン型の眼鏡をかけ直し、下校することにした。
時期は師走の始め。冬馬が高校に入学して、初めて迎える冬である。自分の名前に冬が入っているくせに、寒さに弱かった。寒冷前線の影響からか、今朝からの厳しい冷え込みに辟易する。
昇降口で、外ばきに履きかえようとしたところ、先ほどの女子生徒がサイのような勢いで冬馬にぶつかってきた。
「僕はゴミじゃないですよ」
冬馬がそっけなく言うと、女子ははっと顔を上げた。少し癖のある髪が揺れる。
整った鼻梁、くっきりとした瞳、逆三角形の輪郭。冬馬に力強く衝突してきたとは思えない線の細さだ。
少女は聞き取れないほどの小声で「ごめん」と言って、脇をすり抜けようとした。
すれ違いざま、冬馬に聞こえるように少女が口走るのを耳にする。
「捜し物をしてるんだ。困ったなあ」
冬馬にできることは二つあった。一つは彼女の手伝いをする。二つ目は聞かなかったことにして帰ることである。
「大変ですね。それじゃ僕はこれで」
冬馬は迷わず二つ目を選ぶ。何故なら、善行を積む自分に憎しみを感じるからだ。
仮に捜し物を見つけ、彼女に感謝されたところで、自分が見返りを求めていると思われるのが嫌なのだ。冬馬も若輩の人間ゆえ、無償の愛などは無理である。利己的だとそしられようが、話が始まらないと言われようが、性分だ。
少女が、校舎の階段を上がっていったらしい音が聞こえてきた。
そこで冬馬は自分も忘れ物をしていることに気づいた。鞄を図書室に忘れたのだ。
二階に上がると、階段の上で少女が腰に手をあて、仁王立ちしていた。
「待ってたよ。来てくれるって」
冬馬は無視して、先を急ごうとした。
少女は慌てて、道をふさぐ。
「ちょっと待って。私のために来てくれたんじゃないの?」
「僕も忘れ物したんです。あなたには関係ありません」
「感じ悪い。冷たい。君、何年生?」
「一年の真田冬馬です。失礼ですけど貴方は?」
「ふふん。私の名前は、倉科きらり、二年。せっかく君の仕事を減らして上げたのに。ほれっ!」
きらりが押しつけるように渡してきたのは冬馬の鞄だった。何となく負けた気がして、ぼそぼそと礼を言った。
「代わりと言っちゃ何だけど、助けてくれないかな」
冬馬も冷血ではないし、借りもあるので強引な彼女の手助けをすることにした。
「何を失くされたのか、訊いてもいいですか?」
人気のない校舎でも明かりがついているので、見落とす心配はなさそうだった。
「カメラだよ、大事な」
大事なという所に力がこもる。
冬馬たちがいる第一校舎は四階建てで、向かいの第二校舎も同じ作りだ。教室のほとんどに鍵がかかっているのでくまなくは探せない。
「明日になってからでは、駄目ですか?」
空のゴミ箱をさらいながら、冬馬が言った。
「明日になったら、見つからない気がする」
能天気そうだと思いきや、意思の強さを感じさせた。冬馬は捜索に本腰を入れる傍ら、きらりに興味を持ち始めた。
「さっきから気になるんですが、倉科先輩は寒くないんですか?」
きらりは緑のブレザーの上に何も羽織っていない。マフラーもしていなかった。彼女はおどけたように一回転した。
「なくなっちゃった」
冬馬は、何も言わずに自分のコートを差し出した。
「ありがと。でもいいよ。君が風邪ひいちゃうし」
きらりは丁寧に辞退した。そのくらいの常識はあるらしかった。
「僕はマフラーも持ってますから」
半ば押し付けるように手渡すと、きらりはお礼を言って、彼女の体躯には少し大きめのコートに袖を通していた。
目の届く範囲を探したが、結局カメラは校舎のどこにも見つからなかった。
「他に心あたりは?」
昇降口に戻って、冬馬が訊ねた。
「ごめん。私の思い違いだったのかも・・・・・・へっくし!」
まだ探していない場所に冬馬は思い至る。できる限りのことはしてあげたくなった。
「先輩。最後に一カ所だけいいですか?」
けげんな顔をするきらりを、屋上まで引っ張っていった。鍵は開いている。刺すような冷気が二人の頬にぶつかってくる。きらりは一度、大きく身を震わせた。
「えー? こんなとこにあるわけないよ」
冬馬も確証があったわけではない。きらりの気持ちを楽にしたかった。しかしそれも徒労に終わり二人は並んで肩を落とす。
「すみません、お役に立てなくて」
「何で君が謝るの? よしてよ」
きらりは白く長い息を吐いて、夜空に目をやっていた。
これ以上ここにいても仕方ない。帰りを促そうと口を開きかけた時、冬馬はフェンスの手前まで歩いて立ち止まった。
冬馬は、フェンスを乗り越えた。五メートル程離れた屋上のへりギリギリにカメラが置いてある。手にとってから、カメラが割とチープな作りであると気づく。いわゆるトイカメラという奴だ。
きらりの元に持っていくと、彼女は白い歯を見せただけで、恨み言の一つも言わなかった。 冬馬は困惑した。
「何で嫌がらせされてそんな風に笑ってられるんですか? 倉科先輩。これはしかるべきところに訴えるべき問題です」
「しかるべきとこってどこ? PTA? 文科省?」
「そういうことを言ってるんじゃないですよ。僕が言いたいのはつまり・・・・・・」
「君はどうしてそう私の問題に突っかかるの?」
冷水を浴びせられたかのような感覚。冬馬は我に返った。
「そう、ですよね。僕は赤の他人だ。あなたとは何の関係もないですもんね」
「君はやさしいね、でも波風立てないことも時に大事なことだよ」
きらりのあきらめたような口振りに、冬馬は納得できなかった。彼女らしくない。会ってほんの僅かな時間しか共にしていなくても、それぐらいはわかる。
「でも怒りたい時には怒っていいんじゃないんでしょうか、無理したって良いことないですよ」
ぷっときらりは吹き出した。
「君ってよくわかんないね。理屈っぽいし、冷たいかと思ったら、熱いとこもあるんだね」
きらりは、息を思いっきり吸い込んだ。そして屋上の奈落の縁で声を張る。
「バカ野郎ー! やっていいことと悪いことあるんだぞ!」
その叫びは腹の底に貯まった悩ましいものを吹き飛ばすのに十分な声量だった。
散々叫び散らしたので、当直の教員に発見され、二人は説教を受けた。きらりはカメラやコートのことを黙っていた。二人は星を観ていて、興奮したと釈明した。
「何だか要らぬ尾ひれがつきそうなんですが」
解放された後、二人は高校前のバス停にいた。学校から駅まで歩くと、二十分くらいかかる。大抵の生徒はバスか自転車で通うのだ。
「噂のたかが一つや二つ。気にしない気にしない」
きらりは膝の上でカメラを撫でていた。
「写真、お好きなんですか?」
冬馬が何気なく言うと、きらりは顔を伏せた。
「・・・・・・そうね、趣味かな」
「じゃあ、取り戻せてよかった」
「うん、ありがとう」
恩着せがましいとは自覚しながらも、冬馬はきらりの役に立てたことが嬉しかった。
きらりの表情はまだ晴れないようだった。まだ心配ごとがあるのだろう。もしかしたら犯人の心当たりもあるのかもしれない。冬馬は所詮他人だから不用意に関わる権利はないように思えて歯がゆい。
二人はバスに乗り、駅前で別れることになった。
「まだちゃんとお礼言ってなかったよね。今日は本当にありがとう」
冬馬はぶっきらぼうに答える。
「僕が怒ったのは、貴方のためだけじゃありませんから。カメラが不当に扱われたので、それに憤っていただけです」
きらりは朗らかに笑った。
「何それー? 屁理屈ばっか。まあ、いいや。それじゃバイバイ、真田。縁があればまた会おう」
きらりは、後ろを振り返ることなく駅前の雑踏に消えた。
きらりと別れた途端、寒さが足下からはい上がってきた。コートを貸したままであることを思い出した。
おろしたてのコート。言い忘れた冬馬も悪いのだし、明日学校で、きらりに返してもらえばすむ話だ。彼女と会う口実ができたことに冬馬は何故か胸が高鳴るのだった。
2
翌日の昼休み、冬馬は教室で本を読んでいた。既に入学以来の日課であり、周りがいくら騒がしくとも意に返さない。
その日課も後回しにして先ほどまでは校内で、きらりをそれとなく捜してみたのだが、会うことはできなかった。さりとて二年生の教室にまで行くのはずうずしい気がした。
「何読んでるの?」
冬馬の隣の席の女子がためらいがちに訊ねた。
「ショーペンハウエル。自殺について」
「自殺するの?」
冬馬は小馬鹿にしたようにちらとだけ眺めて、特に気にもとめない。
「この本は自殺を啓蒙するなんていかがわしいものじゃないんだ。もののふ」
もののふと呼ばれた少女は剣道の面をつけていた。ブレザーに面だけつけているので余計に奇異に感じる。
彼女の名前は篠山秋穂。
彼女の素顔は誰も知らない。小柄で身長は150センチもない。いつも試合の向き合う剣士のようないでたちから、もののふというあだ名で呼ばれている。
「そういう風に呼ばれるの、好きじゃない」
もののふは普段、非常に寡黙だ。冬馬が相手でも例外ではないが、今日に限ってやけに話しかけてくる。不審に思っていると、冬馬の席に近づく足音があった。振り返ると、そこにはきらり。
「やっほー、真田。やさしいお姉さんがコートを返しに来てやったぞ」
きらりがコートが入ったビニール袋を机の上に置いた。冬馬は明後日の方に顔を向けたまま「どうも」とだけ言った。
「あのさ・・・・・・それからさ」
きらりは顔を赤くして何か言いよどんでいた。
「何ですか? まだ何か」
冬馬はいやしくも胸中で期待していたのだ。何かが起こるのを。表情にはおくびにも出さないようにしていたが。
「やっぱり何でもない」
きらりは、両手の指を組み合わせている。はっきりしない態度であった。
冬馬は失望したようなほっとしたような気持ちであった。もののふこと秋穂が面の下で笑った気がして、慌てて目を逸らした。
その挙動できらりが秋穂に気づいた。
「あっれー、秋穂じゃん。真田と同じクラスなんだ。そう言えば同じ学年だもんね」
二人はどうやら知り合いらしい。奇妙なクラスメートと、奇妙な先輩との符合は少なからず注意を引いた。
「同じ部活なんだよ。ねー、秋穂」
秋穂はゆっくり頷いた。動作が無駄に重々しい。
「へー、初耳だな。もののふが部活やっているなんて」
秋穂はきらりの制服の袖を引いてなにやら耳打ちした。
きらりはふんふんと頷いて、秋穂の上申を冬馬に伝える。
「どうやら秋穂はご立腹らしいよ。謝ったら?」
「何をですか?」
「・・・・・・あだ名」
秋穂が短く言い添えた。
きらりは納得したようにははんと言った。
「考えてもごらん。年頃の乙女を厳つい名で呼ぶのはどうなのかな」
「一理ありますが、皆そう呼んでますし」
冬馬は眼鏡を押し上げた。
「君が周りに流されるぼんくらとはねー」
きらりは泣きまねをして秋穂に抱きついた。
冬馬はきらりの前で恥をかいた。無性に悔しいやら怒りたいやらで秋穂をにらんだだ。
「悪かったよ、篠山。もう呼ばないから許してくれるか?」
秋穂は返事をしない。きらりが来た途端、強気になっている。
「実は秋穂から相談を受けてたんだよ。隣の男子が冷たいって。まさか真田だったなんてね。そういえば私も初対面の時、当たりきつかったわー」
周りの意見に合わせて、秋穂を軽んじていたことを冬馬は認めざるを得なかった。
「だからね、仲直りしなよ」
冬馬は自分の非を認める勇気がなかなかでなかったものの、きらりの助けを借りることで一歩を踏み出すことができた。
秋穂は袖から人差し指だけ出した。冬馬も人差し指を出し、先端を触れあわせた。
「エライエライ。仲がいいのが一番だ」
「えへへ・・・・・・」
きらりに頭を撫でられて、秋穂がうれしそうに笑った。
ついでとばかりに冬馬の髪にもきらりは触れようとしたが、冬馬は頭を避けた。
「子供じゃないんで」
きらりは不服そうだった。冬馬だって二人きりなら、許したかもしれないが、周囲の目があるし、意地をはった。
「いいもん、私たち子供だもん。それじゃ、秋穂。また部活で」
秋穂は頷いた。
きらりの去り際の背中に冬馬は訊ねる。
「あの、部活って・・・・・・」
きらりはしてやったりという顔になった。
「えー? 気になるのー? どうしようかなー。でもやっぱ駄目」
散々引っ張っておいてこれである。冬馬もきらりが素直に応じるとは思っていない。
「じゃあ、いいです。もの・・・・・・篠山に教えてもらいます」
「ふーん。秋穂は口が固いけど、がんばって」
それから放課後まで、秋穂に交信を試みたが、冬馬の望む答えは返ってこなかった。
「もののふー、ちょっとこっち来てー」
放課後、掃除の時間になった。秋穂は掃除当番の女子に呼ばれ、ふらふらと歩み寄った。
しばらく二人は話していたが、秋穂だけが取り残された。
「あいつ、君に掃除当番押しつけたのか」
冬馬が声をかけると、秋穂は肩を落とした。
「部活、あるからって」
「どいつもこいつも部活部活って偉そうに」
冬馬が毒づくと秋穂は小さな肩をますます小さくした。
「仕方ないよ、使命があるんだから」
「そんな大層なもんかね。所詮学生時代の思い出づくりだろ」
「真田君にはないの? 夢とか」
冬馬は聞こえないふりをしていた。その間、秋穂は掃除用具箱から箒を取り出していた。
「・・・・・・別に。僕らももう、子供じゃないんだからさ、現実見ろよって思うよ」
「つまんない」
秋穂は手際よく箒を掃いていた。
結局、冬馬も掃除を手伝うことになった。秋穂はたびたびこうして理不尽に当番を押しつけられているのだ。
「ありがと」
小さく礼を言って、秋穂は廊下に出ていった。
冬馬もコートを出して着てから、下校しようとしていた。
廊下を少し行った曲がり角に秋穂が立っていた。冬馬に気づくと、走り去る。
「何だあいつ」
階段を下りると、また秋穂が待っている。それからは同じことの繰り返し。
校舎を出て、クラブ棟の方に小さな背中が見える。冬馬が止まると、秋穂も止まる。
冬馬がクラブ棟内部に入るのと、秋穂が階段を駆け上がるのが同時だった。
クラブ棟はもともと校舎だったが、老朽化のため、転用されたものだ。若干、床の汚れが目立つ。
ここまで来たら、秋穂の真意を問い正すしかあるまい。もしかしたら彼女の言っていた部活に関係があるのかもしれない。
二階に上がるとすぐ秋穂がいて、冬馬は危うくぶつかりそうになった。
「お、驚かすなよ、篠山」
秋穂は両手の拳を固めていた。殺気を感じる。冬馬を殴るつもりかもしれない。冬馬は情けなくうろたえた。
「落ち着けよ、僕が何をしたっていうんだ」
「こっち」
秋穂は冬馬の手を引いて、とある教室の前に連れてきた。
「ここは・・・・・・」
文芸部と書かれた表示を見て冬馬は胸がざわついた。秋穂はその機微を察する。
「もう文芸部はないんだって。だから私たちが使ってるんだ。興味あるの?」
「い、いや・・・・・・」
教室の中には、きらりがいた。長い机が正面にあり、彼女は腕を組んで椅子に座っている。
「あれー、秋穂、部外者連れてきちゃ駄目じゃない」
きらりは困ったような笑みを浮かべ、両手で頬杖をついた。
勝手が分からず、入口で立ちすくむ冬馬の背を秋穂がぐいぐい押した。
「倉科先輩はここで何を? 部員はこれだけですか?」
確か部活成立の条件は最低五人だからまだ部活の体をなしていないことになる。そこを突っ込めば、教室の不法占拠という名目で彼女らを追い出せるのだが、冬馬もそんなつまらないことはしたくない。
「もしかして文芸部ですか?」
冬馬は勢い込んで尋ねた。
「ううん、別に。ただ私らここでお茶してだべってるだけなんだ。ねっ、秋穂」
秋穂は頷いた。どこか無理矢理な感じがした。
「部活なんて大仰なこと言っていたから来てみれば、大したことありませんね」
冬馬が嘆息まじりに言ってもきらりはめげない。
「そのうち決まるかなーって思ったら、半年たってた。でも真田と会えたし、また考えてみようかな」
何故か冬馬は、さっと顔を赤くした。
「なかなかどうして決まらないんだよねー、部活内容。秋穂と相談してたけれど、なかなか良い案がでなくて。真田はどう?」
先ほど秋穂に訊かれてごまかしたが、冬馬は以前から入りたい部活があった。文芸部だ。けれども文芸部は廃部している。きらりと秋穂も同好の志になりうるかどうかは疑問だった。
考えあぐねて、冬馬はふと机に置かれたカメラに目を留めた。
「新聞を作ってみるっていうのはどうでしょう?」
きらりと秋穂は黙って顔を見合わせた。
「あのさ、私たち、同好会とかそういうゆるいのを想定してたわけよ。内輪で楽しめればいいかなーって」
ああこの人も同じなんだと冬馬は一端、灯りそうになった火が消えるのを感じた。
「やってみようよ!」
秋穂が突然大きな声を張り上げた。一番驚いたのは、きらりだった。立ち上がってそわそわした。
「だってさあ! これトイカメラだよ。そんな大それたことできるわけないって」
「でも目的がないと張り合いがないって言ってたのきらりちゃんじゃなかったっけ」
秋穂は冬馬の側に立つと、きらりはか細い声を上げた。
「やだよぉ・・・・・・、ひとりぼっちは。秋穂が真田にたぶらかされた」
ぐずつくきらりに駆け寄って秋穂が諭す。
「きらりちゃん、あんまりわがまま言ってると、青春はあっと言う間に終わっちゃうよ」
「でも私、世捨て人だし。そういうのにエネルギーを使うのはちょっと困るわ。ほら私って公転型人間なんだと思う」
冬馬は開いた口が塞がらなかった。きらりを理解するのに、時間がかかるとは考えていたが、ここまでひどいとは想定外だ。
「何だってそう面倒事から逃げるんです。昨日のことだってそうだ」
きらりは俯いた。昨日のことは秋穂には知られたくないことなのだろう。冬馬もそれ以上の言及を避けた。
「別に新聞を作ろうって言ったのはあくまで意見の一つと考えてください。先輩にやりたいことがあるなら、僕も篠山も協力しますから」
気づけば冬馬も秋穂につられて、真剣にきらりを説得していた。
「でも、やっぱし無理!」
きらりは教室から逃走した。その背に呼びかける暇もなかった。
「きらりちゃんのこと悪く思わないで」
秋穂はすまなさそうに背を丸めていた。
「あの人はいつもああなの?」
「きらりちゃん、中学生の時、親友に裏切られたみたい」
冬馬は露骨に顔をしかめた。
しかし秋穂はずいぶんきらりに信頼されている。孤独ではないのだった。
「それでああなったと。でも無理強いして彼女をどうこうするのはよした方がいいんじゃないかな。こうして学校にも来ているわけだし」
「私は彼女の需要に対して供給しているだけ。でもいつまでも与え続けることはできないよ」
まるで母親のような口ぶりに謎の同級生の新しい面を発見する冬馬。無口で誰とも会話しない彼女が何故そうまできらりにこだわるのか不思議だった。
「君って責任感があるんだな。倉科先輩のこと、大事なんだね」
「きらりちゃんはこのままではいずれ駄目になる。いつまでも毛布にくるまっていたら、寒風にやられてしまう」
秋穂の意見は正当だ。きらりが、社会に出てやっていけるとは冬馬も思えない。
「でも僕にどうしろと?」
「簡単。今のままでいい。側で支えて上げてほしい」
支えるというのは簡単ではない。一緒に潰れる覚悟がいる。そんな大役務まるのだろうか。冬馬は当座の考えを口にする。
「僕は彼女を救済するのは御免だね。向上心のない人につける薬はない。これから君らとつるむのは一時的なものだって理解してくれ」
3
冬馬と秋穂に未来を脅された翌日のことである。
きらりは部室で写真アルバムをめくっていた。傍らには煎餅の袋とお茶が置いてある。お茶は家で沸かしてきて、水筒に入れ持ってきた。祖母が隠し持っている高価な茶葉をこっそり使っている。
暖房が効いて程良く部屋は暖まっている。六限の授業はまだ続いている時刻だが、きらりは意にかえさない。後ろのページから中程までめくったところで険しい表情になり、アルバムをバタンと閉じた。大きな口を開けてあくびをしていると、眠気が襲ってきた。きらりはあらがうことなく眠ってしまった。
授業を終えて、冬馬が部室にやってきた。部屋に入ってすぐ、きらりが机に突っ伏しているのに驚き、おそるおそる前に回ってみた。
口元をだらしなく開き、よだれを垂らしたきらりは、女子の品格を疑われても仕方がないと思われた。
冬馬はわざと咳払いしたり、無意味に足音を立ててきらりの側を歩いてみたが、一向に起きる気配がない。
仕方ないので、原稿用紙を鞄から出してペンを走らせた。十分程たっても、きらりは起きないし、秋穂も姿を現さない。
今日はもう帰ろうかと思っていると、きらりが飛び起きた。冬馬を見下ろして呆然とした。
「えっ・・・・・・、何で真田がここにいるの?」
「別に僕が部室に居たっていいじゃないですか・・・・・・部員なんだし」
冬馬は若干むっとして答える。これでも構成員としての自覚は芽生え始めている。
「あー、ごめんごめん。家で寝てたのかと思っちゃった。秋穂は一緒じゃないの?」
恥ずかしがる素振りを微塵も見せず、きらりはハンカチで涎を拭いていた。
「すみませんね、僕一人で」
それから二人とも黙ってしまった。知り合って間もないので共通の話題もない。
きらりは前へ身を乗り出し冬馬の手元をのぞき込もうとした。冬馬はとっさに手で原稿用紙を覆った。
「真田ー、何書いてたの?」
「単なる暇つぶしですよ、お気になさらず」
「気になる! 見せて」
「単なる小説ですよ。一応今のところ文芸部なんですから変じゃないでしょう。倉科先輩、小説とか読むんですか?」
「うん。SFとか好きだぞ。ウェルズとかラブクラフトとか」
若干の偏りがあるが、きらりも遠い星の人間ではないと思わされた。
「でも書こうと思ったことはないけどね。真田の読ませてよ」
「いや、これはまだ書きかけなんで」
冬馬が断るときらりはあきらかに不満げに音を立てて、煎餅を食べ始めた。きらりの不満も尤もなところではある。わざわざこれ見よがしに見せておいてと思われているだろう。
「秋穂から聞いてるよ。いつも変な本を読んでるって」
「変なって何ですか。人聞きが悪いな」
冬馬の動向は秋穂を通じてきらりに筒抜けのようである。どうせ悪しき主観でおもしろおかしく歪められた話が伝わっているのだろう。
「例えばエッチな本とか?」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけない」
「だって男の子はエッチなことばっかり考えてるんでしょ?」
黙っていると妙な勘ぐりをされそうだ。
「仮に貴方の言う法則に全ての男が当てはまるとしたら、変じゃありませんか。先ほど貴方が眠っていた時に僕は何もしなかった」
「そ、それは・・・・・・、きらりちゃんの寝顔が神聖過ぎて、触れることすらできなかったんだ。きっと」
「涎をつけた顔を神聖と呼ぶのなら、きっとそうなんでしょうね」
「ぐぬぬ・・・・・・」
きらりは袖で口をがんばって拭っている。彼女の口元は赤くなっていた。
「・・・・・・篠山遅いですね」
きらりは時計の針を見上げてため息をついた。
「私ね、一人っ子だからさ、兄弟が欲しかったんだ」
きらりがぽつりと言った。
「篠山はその代わりなんですか?」
「違うよ、秋穂は大切な友達。真田は可愛くない後輩」
きらりは無言で、煎餅の入った袋を冬馬の方に押しやってきた。冬馬は一応礼を言ってからもらった。
二人で煎餅をかじる音がハーモニーを奏でる。
「それ何ですか?」
親近感を感じた冬馬は態度を軟化させ、きらりの手元のアルバムを指した。
「私の成長記録・・・・・・、見る?」
冬馬がおずおずと頷くと、きらりは椅子とアルバムを持って隣に座った。肩と肩が触れそうな距離だ。
きらりは構わずアルバムを開いて色々説明を始めた。
「これは高校の入学式。いやー、私若いな」
「き、去年なんだからあまり変わらないんじゃないんですか」
冬馬は声を出すのも遠慮していた。アルバムはおろか、隣をかいまみることすらできない。
「真田、ちゃんと見てる? マニアすいぜんのきらりちゃんアルバム。今日限定だぞ」
「見てますよ。どうしてこんなもの持ってきたんです?」
「夏休みに秋穂と一緒に北海道に行ったから、見せてあげようと思って・・・・・・」
「そういえば写真が趣味でしたね」
きらりがページをめくったり戻したりする音が聞こえてくる。ふと肩に重みを感じた。一分くらいそうしていたろうか。冬馬が沈黙に耐えられなくり、注意深く隣に目をやると、きらりは船を漕いでいた。冬馬に寄りかかりながら時折、頭を上へ下揺らす。眠りながらも器用にページをめくる手は止まっていない。冬馬はその動きをじっと見つめた。
多分手入れの行き届いた手なのだろう。血色も良くあかぎれもないし、爪もきれいに切られていた。逆に言えば、温室で大切に育てられた小さな子供の手のようだった。
やがてトリルのような指の動きが止み、静かになる。きらりは頭をゆっくりと冬馬の肩に持たせかけた。
冬馬は今まで感じたことのない恐ろしい不安に襲われた。眠ってしまったきらりに対する多少の怒りもあったし、振り回されている自分にも腹が立ったが、その不安に比べれば大したことはなかった。声を出そうと試みたが、きらりの安心を絵に描いたような口元を見ると何も言えなくなってしまうのだ。こんな時、もし秋穂が入ってきたら・・・・・・。
「遅れてごめん、きらりちゃん。入るよ」
控えめに呼びかけてから返事を待たずに、秋穂が扉を開け入ってきた。
秋穂に背を向け冬馬たちは座っていたので、彼女の様子はあまり伺いしれないが、息を飲んで立ち尽くしているのがわかった。
「た、助けてくれ・・・・・・」
冬馬の怯懦の叫びに応じるように秋穂は小走りで近寄ってきた。
「真田君、事情は後で聞くから、とりあえず立ってくれる?」
秋穂の命令するような声に冬馬は大人しく従った。きらりの体は机に突っ伏す形に寝かされた。
「きらりちゃんは一度寝るとなかなか起きないから」
秋穂は冬馬が座っていた席に代わりに座り、アルバムをぱらぱらとめくっていた。仮面の奥の表情は全く読めない。事情を話す間、冬馬は迷子のように歩き回っていた。
「きらりちゃんが他人に気を許すのは珍しい」
秋穂はアルバムを閉じた。あまり熱心に中身を見ていたわけではなさそうだった。幾度もきらりに見せられていたので真新しいものは少なかったのかもしれない。
冬馬は落ち着きを取り戻しつつあった。辺りに注意を向ける余裕が出てきて、きらりの足下に写真が一枚落ちているのに気づいた。
いつ落ちたのか不明だが、拾って表をあらためてみた。
被写体はきらりだったが、今より幼い顔をしていた。前髪が長めで、俯きがち。表情にもどこか陰りがあり、子供らしい溌剌さに欠けていた。どこかの学校の校門前で撮られており、制服も高校のものと違うことから中学時代のものだと推察された。写っていたのはきらりだけではなかった。冬馬にはむしろもう一人の被写体に意識を引きつけられた。きらりと同じ制服を着たもう一人の少女は、大変美しい少女で、きらりが目立たないのは彼女のせいもあるようだ。
カメラに向かって微笑んでいるというよりも、写真を見るであろう誰かに向かって、愛想を振りまいているように感じられた。
作品の一部となって輝いている彼女は何者か。冬馬は知る由もなかったが、押さえがたい好奇心に駆られ、眠っているきらりの方に目を向けた。
きらりは目を覚ましていた。勢いよく立ち上がると、冬馬の持っていた写真を破かんばかりにひったくろうとした。
「何持ってるのよ! 返して!」
きらりの突発的な発作のような態度は剃刀を連想させた。冬馬は切りつけられたような錯覚を覚え後じさった。
半狂乱でつかみかかるきらりを、秋穂が止めてくれなかったら、怪我をしたかもしれない。
一端、冬馬だけが教室を追い出された。放心状態で立ち尽くすしかなかった。
中から何か話している気配だけが伝わってくる。会話の内容までは聞き取れない。
五分くらいして中に入る許可をもらった。
秋穂ときらりが並んで立っていた。きらりは不気味なほど落ち着いていた。先ほどの記憶だけがすっぽり抜け落ちたかのように、にこにこと笑っていた。ただ血色は悪かった。
「ごめんねー、真田。悪い夢見て寝ぼけてたんだよ。きらりちゃんは寝起きが悪いんだな、あはは・・・・・・」
「いえ、僕の方こそ配慮が足りなかったみたいですみません」
きらりの軽口にもどこか覇気がない。冬馬は秋穂の方をちらと見やったが、彼女はきらりに寄り添うばかりで助言めいたことは何一つ言ってくれなかった。
「今日の活動はこれにて終了! 私、先に帰るね」
前のめりになりながら、きらりは出ていった。
「今のは見なかったことにするよ」
「そうしてくれると助かる。私も少なからず動揺しているの。だってあんな・・・・・・」
激しく感情を揺さぶられた二人だったが、普段落ち着いている秋穂ですら、衝撃を受けていたようだった。
「前にきらりちゃんが中学時代にひどい目にあったって言ったじゃない?」
「あ、ああ」
「もしかしたらあの写真に何か関係があるのかもしれない。どんな写真だったの?」
冬馬は写真の美少女の淡い印象などどこかに吹き飛んでいたので少し思い出す作業が必要だった。
「きれいな、女の子が写っていたよ。倉科先輩と一緒に」
秋穂はあからさまな落胆のため息をついた。
「きれいなって・・・・・・他には何か覚えてないの?」
「別に他には変わったところはなかったと思うけどな。その女の子の顔にしたって今じゃよく覚えてないんだ」
「そう・・・・・・」
裏切りと一口に言っても、きらりにとっては本当に悪夢じみたものだったのだろう。
「でも過去は過去だ。今のあの人は自由にというか、奔放というか、とにかく楽しそうにやっているじゃないか」
「過去は人間の一部だよ。忘れてもいつかは向き合わなくちゃいけないんじゃないかな」
秋穂はどこか実感を込めて言うのを冬馬は上の空で聞いていた。
二人と別れてから、きらりは憂鬱な顔で外に出た。
するとそこには、一人の少女が立っていた。きらりに気づくと、頬笑みながら手を振り、歩み寄って来た。白のロングコートにムートンブーツ。白い頬にはえくぼ。
きらりは、この少女に出会った途端、まるで気道が塞がれたようにうまく呼吸ができなくなった。
一歩、また一歩少女が近づいてくるたび、きらりは膝を震わせてじっとこらえなければならなかった。
4
きらりは幼い頃、大学までエスカレーター式の私立学校に通っていた。さらに両親が教育熱心なこともあり、習い事にも忙殺される日々であった。ピアノ、バレエ、どれもなじめず、ふてくされた顔ばかりしていた。
唯一の楽しみは、幼稚舎の砂場で山を作ることだった。無心で形を整える。高く積めば満足というわけではない。彼女なりの芸術的なこだわりがあった。毎日、爪の間を砂で一杯にして母にしかられた。しかられればしかられるほど、砂場に固執してやめることはできなかった。
「きらりちゃん」
きらりが面を上げると、五歳くらいの女の子が立っていた。紺の制服に、『みゆ』と書かれた名札をつけている。
「おっきい山だねえ」
みゆは感動したように言ってしゃがんだが、きらりは気にも留めなかった。
幼稚舎に友達はいない。話しかけられても、口を聞きたくないから余所を向いて唇をずっと噛んでいる。それで大抵の子はあきらめる。
「お祈りの時間だよ。先生捜してる」
幼稚舎はミッション系で毎日のお祈りが日課だ。きらりはじっとしていることができないので、こっそり抜け出すことが多い。
「神様なんていないんだもん」
きらりが小さな声で言うとみゆは首を傾げた。
「祈ったってきらりのお願い叶わない。ここもなくならない。パパもママも一緒にいてくれない。全部なくなっちゃえ!」
砂山を蹴って踏みつけて、拳で平らげて。全身で砂をかぶった。
「いるよ、神様は」
みゆが言った。頬に小さなえくぼ。
「私がきらりちゃんの神様になってあげる。お願いもかなえてあげる。だからいこ!」
みゆは手が汚れるのも構わず、きらりを強引にひっぱって走り出した。
明くる日から、はしかが大流行し、園は一週間ほど休みになった。きらりは習い事も休んで家にいることができた。両親が気にかけてくれた。単なる偶然だったが、きらりはみゆの発言を信じてしまった。
「だめ・・・・・・、だめだよ、ついてっちゃ。その子は・・・・・・」
あの日の自分に懸命に呼びかける。でも届かない。きらりとみゆは常に共にあったのだから。
きらりは、ベッドから転がり落ちて目を覚ました。十七歳の自分が再び戻ってきた。
「あー、最悪・・・・・・、死ね」
海外ドラマのDVDと古いレコードが、ピンクのカーペットに放ってあった。。小さなテレビには薄くホコリがつもっている。暖房かけっぱなしで寝ていたので喉が痛かった。ガラスの足の低いテーブルの上に置いてあるペットボトルの水を飲み干していると、ドアのところで誰かがこっちを見下ろしていた。
きらりは驚いてむせてしまった。
「ゴホッ・・・・・・、ゴホッ。おばあちゃん、声かけてよ」
きらりの父方の祖母、倉科光代は部屋をのぞき込んで、やだやだと不快感を露わにした。
「なんだい! この体たらくは。だらしない。先週掃除したばっかりじゃなかったか? あ?」
光代はきらりが脱ぎ散らかした服や、制服を指して言った。
きらりは毛布を肩にかけて丸くなる。
「えー、だって、すぐ着るし、手元にあった方が便利」
光代は、蠅たたきを手に部屋になだれ込んできた。きらりは頭から毛布を被ったが、白いふくらはぎがあらわになっていた。光代そこにしたたかにはえたたきをお見舞いした。きらりのか弱い悲鳴。
「この子は! 言い訳ばっかりうまくなって。人様にさらせないよ。いいかげんにおし!」
「やめて、おばあちゃん。きらりの玉の肌が!」
学校の理事長をしていた祖母はきらりに厳しい。こんなことは日常茶飯事だ。
「五分で着替えて下においで」
「・・・・・・」
「返事をおしよ! へそまがり」
毛布をはぎ取られ、きらりは目をこすりながら制服を探した。ブレザーを着て、一階洗面所の鏡の前に立つ。寝癖のついた髪に櫛を通し、一回転。
「今日もきらりちゃん、カワイ!」
両手を口に当てきゃはと笑う。その後は真顔になってリビングに向かった。
朝食を二人でもくもくと食べた。リビングには賞状が額に入れて飾ってある。どれもきらりが中学時代にもらったものだ。古いオルガンは最近使っていないので置物のようになっている。
「おばあちゃん、今日、私帰り遅くなる」
光代は箸を落としそうになった。
「何でまた? この二年、食べてクソして寝るだけだったお前が」
「おばあちゃん、食事中」
「いいんだよ、そんなことは。男でもできたか? この間の日曜日、お前の部屋を掃除してた奴か」
きらりは首を振った。
「違うし。部活だし。そうだ、つかさ君も仲間いれてあげよう。そうしよう」
皿のチンジャオロースから器用にピーマンを払いのけ、きらりはつぶやいた。
「部活。まあやってみるといい。高校時代はお前が思っているより遙かに短い」
光代は端に寄せてあったピーマンを皿ごと持ち上げ、きらりの茶碗にぶっかけた。
「人生の苦みは、きらりにはまだ早いので遠慮させてください」
きらりは箸を置いたが、光代は許さなかった。
「お前にはこういうものこそ必要だ。残さず食べなさい」
真田冬馬は学校で秋穂と議論した。その結果を報告しに昼休み、二人はきらりの元に向かった。二人が来るときらりは何故かお弁当に急いで蓋をした。
「どうかしました?」
冬馬が訊ねても、それきりお弁当に手をつけることはないのであった。
「何でもないよ。私のことより君たちの用事は?」
冬馬は一度秋穂をかえりみて、それから結論を言う。だがきらりの反応は芳しくない。
「ウェブ配信?」
「ええ、紙は印刷にお金がかかるし、僕らには新聞作成のノウハウもありません。ホームページなら割と簡単にできると、篠山が提案してくれました」
きらりがまた言い訳をする前に先手を打っておいたのだ。
「でもやっぱり新聞は紙で読みたいよぉ」
「何を言ってるんですか。時代は電子化なんです。こっちの方が合理的です」
冬馬が意固地になって力説していると、隣の秋穂がおもむろに口を開いた。
「でも紙の擦れる音とか匂いっていいよね」
「あはっ、それわかるー」
きらりのツボにはまったのか。しばらく秋穂の肩を叩いて笑っていた。
水を差した秋穂を冬馬は一にらみした。結局、きらりを甘やかしているのは彼女ではないか。これでは埒があかない。
「とにかくやってみませんか? これが今の僕らにできる最善です」
「・・・・・・真田」
きらりは目を大きく見開いた。ようやくやる気になってくれたのかもしれないと期待した。
冬馬も昨夜は遅くまで頭を悩ませたのだ。でないと甲斐がない。
だがやはりきらりは言い訳探しの天才であった。
「そうまで言うなら君らにはさぞ立派なパソコンスキルがおありなのだろうねえ?」
意地悪な顔できらりは二人をへいげいする。思わず冬馬は秋穂の様子を伺ってしまった。
「僕はそういうの不得手で・・・・・・、篠山はできるんだろ?」
「無理」
すっかり秋穂を信頼していた冬馬は梯子を外されたように感じ、うろたえた。
きらりはそれを見越したように話をすりかえる。
「じゃあ次は私の番。安心極楽会の概要を説明するよ」
「それじゃあ同好会みたいじゃないですか」
「そうとも言う。別にどっちだっていいの!」
きらりは鞄をごそごそ漁っていたがしばらくしてやめた。
「君たちのためにレジュメを用意してたのだ。夜なべしたのにそれがない」
「単に忘れただけじゃないですか」
冬馬はきらりの側を離れた。まるで暖簾に腕おし。本当に疲れる人だ。
「真田ー。放課後、部室でね!」
だが冬馬はきっと部室に向かうだろう。引き受けた以上は丸投げするわけにはいかないからだ。
冬馬が帰った後、秋穂もしばらくして教室に戻った。
きらりは放課後までに安心極楽会の概要をまとめるため、必死にペンを走らせていた。
ふと顔を上げると、教室の後ろのドアから白い手がにゅっと伸びていることに気づいた。手招きしている。きらりはそれが自分に向けられていることがわかった。重い腰を上げる。
廊下にいたのは透けるように白い肌をした美少女。背にかかかる黒い髪、バレリーナのように伸びた背筋。理知的な眼差しをしていたが、笑うとできるえくぼがどこか子供っぽさを残す少女だった。
「お昼はもう食べましたか? きらり」
少女は語りかけるようにゆったりと喋った。
きらりは、黙ったまま拳を握っていた。
「どうしてお返事をしてくださらないの? 私が何かしたのでしょうか?」
「あんたと話すことなんか何もない。帰れ、白崎美優」
美優と呼ばれた少女はふうと色っぽいため息をついた。通りがかった男子の注意を引いた。
「そんな口を利いてはいけませんよ、きらり。やはり環境が悪いのかしら」
「まだなんか用なの?」
足を踏みならしてきらりが訊ねた。美優は思い出したように持っていた袋を差し出した。
「はい、これをどうぞ」
きらりは受け取らない。美優をにらんだままだ。
「コートをなくしたでしょう? これ、きらりに似合うと思って」
きらりは力一杯、美優の手を払いのけた。コートの入った袋は廊下を滑っていった。
「どうしてそんなことをするのです? きらり。乱暴はよくないわ。せっかくきらりのために」
コートがなくなったことを知っているのは冬馬と祖母だけだ。美優に話したことはない。
「コートを隠したのはあんただろ! あれはおばあちゃんに買ってもらった・・・・・・」
「あれはきらりに似合わない」
にっこりと笑い、美優は袋を拾ってきらりの手に握らせた。
「私の見立てに間違いはありません。きらりも気に入ると思うけど」
きらりは袋を持った手をだらりと下げたまま嗚咽した。
「もう・・・・・・お願いだから許して」
美優は首を傾げ、きらりの肩に手を置いた。
「許す? どうして私がきらりを憎むのでしょう?」
きらりと美優は幼稚舎から中等部まで一緒だった。二人は姉妹のように仲がよく、同じものを見て、同じものを好きになった。勉強でもスポーツでもきらりは、美優に及ばなかった。初恋すら勝つことはできず、指をくわえているしかなかった。
中等部三年の時、きらりは今いる高校を受験し、美優はそのまま残った。だが、先週、美優は前触れなくきらりの前に現れた。転入手続きを既に終えた後だった。
「そんなに震えて可哀想なきらり。私が側にいますからね」
「近づかないで! ストーカー。もう何の関係もないんだから」
美優は悲しそうな顔をした。今にも泣きだしそうに自分の肩を抱いた。
「ただきらりと一緒にいたいだけなのに。きらりだって私に関心がないなら何故あのカメラを捨てずに持っているのです?」
きらりが持っているカメラは中等部に上がった記念に美優にもらったものだ。
「あれは・・・・・・」
言葉に詰まっていると美優が勝ち誇ったように笑う。
「ほら、きらりは私がいないと生きられない。昔のように仲良くしましょう。友達なんですから」
「友達? よく言うわよ。あんなことした癖に」
美優は何かを思いだそうと上を見ていた。しばらくしてああ、と納得した。
「あれは自業自得、因果応報。あの方たちは自分の弱さに屈したのです。それを認めることができずにきらりを魔女にしたてあげた」
きらりは血が出るほど唇を噛んでいた。慌てて力を抜こうと努力する。周りに異変を悟られてはならない。高校を変え、引っ越しをした意味がない。
「きらり、彼女たちが憎いですか?」
「憎いのはあんただけだ、美優。今すぐ消えろ。さもないと・・・・・・」
脅すような目つきのきらりに対しても、美優はうっとりとした顔をしていた。
「憎しみは愛情の裏返し。そんな目をされたら、ますます貴方が欲しくなってしまいます」
美優は満足したのかきびすを返し、しばらくして歩いてから振り返った。
「そうだ、きらり。安心・・・・・・、何でしたっけ? あれはやめた方が良いと思います。あんな内容では誰もついて来てはくれませんよ。もし続けたいのであれば内容もお友達も私が選んでさしあげます。それではごきげんよう」
美優が去ってから、きらりは両手でコートの袋を持って、ゴミ箱に放ろうとした。ゴミ箱の底には細かくちぎった紙があった。きらりの作った安心極楽会のレジュメだった。
ゴミ箱にコートを放り込んで、きらりは座り込んでしまった。
白崎美優。あれは化け物だ。きっときらりが地の果てまで逃げても追ってくる。
急に吐き気がこみ上げてきて、きらりは女子トイレに駆け込んだ。胃の中のものを全部戻してしまった。涙が止めどなく流れたけれども拭ってくれる人は誰もいなかった。
「あー・・・・・・、ピーマンがんばったのにな」
教室に戻ると、既に授業は始まっていた。英語担当の原田先生はきらりを一にらみしたが、特に何も言わなかった。
きらりは席につくなり、ノートに一生懸命何かを書き込み始めた。無論、授業を聞いている訳ではない。
隣の女子がきらりのノートをのぞきこんで大声を上げた。
「先生ー、倉科さんが授業に関係ないことをしています」
原田先生が大股で近づいてきても、きらりは顔を上げようとしない。
この前の授業中、サボテンの世話をしていると密告されて、没収されてしまった。こりないなとクラス中が失笑する。
「倉科、倉科、倉科ー!」
耳元で怒鳴られて、きらりは初めて先生に気がついた。
「何ですか、先生。きらりは今忙しいです」
「何だじゃない! 授業より重大な問題があるか!」
原田先生は、きらりのノートを取り上げてしまった。そしてノートに目を走らせる。
「何々・・・・・・、安心極楽? この世に安心も極楽もあるか!」
クラスが笑いに包まれた。対照的にきらりは口をへの字に曲げた。
「あります。安心も極楽もこの世にあるんだもん」
原田先生はきらりの話に耳を貸そうとしない。この後は大人の説教モード突入だ。
「あのなあ、倉科。社会は厳しいんだ。そんなこといつまで言っているとやっていけないぞ」
きらりはふてくされて机に突っ伏した。
原田先生はきらりに課題を残して授業に戻った。国立大学の入試の過去問だ。
きらりは前からぱらぱらとめくって、直接書き込んでしまった。特にしゅんじゅうする様子もなく淀みなく進めた。終わるとなくしたサボテンを思い出し、メソメソしていた。
「先生ー、倉科さんが課題を投げ出しました」
チクリの後、原田先生がすっ飛んできた。
「倉科、サボるんじゃない!」
「もう終わりました。ノートを返してください」
「そんなわけあるか! まだ十分も立ってないだろ」
原田先生は過去問をめくると、狐につままれたような顔になった。
「倉科、怒らないから正直に言え。答え見ただろ」
きらりの解答のほとんどが正解であった。三年生でも苦戦するのに二年のきらりに簡単なはずがない。
「見てません。そんなの誰にでもできるじゃないですか」
原田先生はきらりの話をまともに聞いていなかった。ノートは返してくれたが、見直しをやっておけと言ったきり無視してしまった。
放課後になると、きらりは安心極楽会の活動内容をまとめたノートを携え、職員室を訪れた。
だが、顧問を買ってでてくれた現代文担当の頼川先生はノートに目を通すと難色をしめした。
五十代で眼鏡をかけた穏和な男性で、きらりによく目をかけてくれる。没収されたサボテンを取り返してくれたのも彼だ。きらりはとてもうれしかったので、サボテンをプレゼントしたのだった。頼川先生の机にそれが置いてある。
「これは聡明な貴方らしくないですね。これではまるで部員は君の奴・・・・・・」
頼川先生は何故か口をつぐんだ。
「オホン、とにかく部員を集めてもう一度僕の所にいらっしゃい。それから話し合いましょう」
「はあい・・・・・・」
頼川先生ならわかってくれると信じていたのに。廊下をとぼとぼと歩いてると、行きがかりに男子がたむろしているのを目撃した。その中に見知った顔を発見すると、きらりは目を輝かせ、その渦中に突撃した。
「つかさ君! 今暇? 話したいことがあるんだけど」
つかさ君と呼ばれた背の高い男の子はぎょっとしたような顔で逃げようとしたのだが、周りの目があるので思い止まった。
「よお、きらり。見ての通り忙しいんだが。後にしてもらえるか?」
「えー・・・・・・」
きらりは側を離れようとしない。しまいにはつかさの方が折れた。離れた所に二人は移動した。
「それで? 何なの。お前と話すこと別にないけど」
つかさは、きらりを突き放すような態度を取った。無理をしているのか、目をまっすぐ見ようとしない。
武藤つかさは現在、三年生。きらりが兄のようにしたっている男で、スポーツでもしているようながっちりした体格だ。
「私、部活やることにしたんだ」
「そうか」
つかさはあまり興味がなさそうであった。そっけなく言って、後頭部を触っていた。
「部員が足りないんだよ。つかさ君も仲間になってよ」
つかさは壁に手をつき、苦悶の表情を浮かべる。
「お前さあ、いつも自分の都合しか考えないよな。先週だって・・・・・・」
何か嫌な思い出がよぎったようで、つらそうに唇を噛む。
きらりは、そんな機微にはお構いなくつかさを引っ張り込もうと一歩前に出た。
「だってつかさ君が言ったんじゃん。『お前はそのままでいい。俺には甘えていいんだぞ』って」
「わあああ!? やめろ」
きらりが声真似すると、真っ赤な顔で否定した。
「お、俺そんなこと言ったか?」
「うん。一ヶ月と三日前、つかさ君は下校する時、銀杏並木の下で熱い目をしていたよ」
「・・・・・・、無駄に記憶力いいよな、お前」
つかさは、乱暴に髪をかきむしっていた。毛が抜けちゃうんじゃないかと、きらりは心配した。
「いいぜ、やってやる。何部だ?」
安心極楽会を簡単に説明すると、つかさ君は首をひねった。
「よくわからんが、お前が安心すればいいわけだ」
「さっすがつかさ君。話が早いね」
「他の部員は? どんな奴らだ」
「男一人に女一人」
「何ー? 男がいるのか」
きらりたちが部室に行くと、本を読んでいる冬馬と部屋の置物のような秋穂が既に待っていた。
「おー、お前らか。きらりの友達は。俺は武藤つかさってんだ。よろしくな」
人当たりのいい笑みを浮かべて挨拶したが、冬馬も秋穂も黙ったままである。
「おい、何だよ。お前ら挨拶ぐらいしろっての」
つかさは近くの冬馬の両脇をひっぱり上げた。冬馬はびっくりして、左右を見回した。
「え? 何ですか、この人。離してくださいよ」
冬馬は読書に集中していたので、きらりたちが入って来たことに気づかなかった。
腕を払いのけた冬馬はきらりに話しかける。
「ああ、倉科先輩。部員は見つかりそうですか? 僕と篠山にも当てがなくて」
無視されたつかさは頭に来ていた。
「ムカつく後輩だな、おい。耳も遠いし、目もわりいみてえだ」
冬馬はつかさを面倒そうに何度か見やってから、きらりに目で説明を求めた。
「この人は武藤つかさ君。私のお兄ちゃん的存在だ。仲良くするように」
つかさは、秋穂の方につかつかと歩みよると、その手を握った。
「初めまして。シャイなのかな。こんな綺麗な手をしているんだ。恥ずかしがることないのに。どうかな、俺に君の素顔を拝ませてくれないか」
冬馬は、この軽薄な男と机を並べる気がしない。きらりが男を連れてきた時、胸に不可いものを飲み込んだ気がした。その予感は当たっていたことになる。
「今は無理です」
秋穂は控え目にそう言った。
「じゃあ別の場所ならいいんだ。今度二人で・・・・・・、いてっ!」
きらりはつかさの後頭部をグーで殴った。
「仲良くしろって言ったのはそういうことじゃないっ! 秋穂に変なことしたら許さないから」
きらりはヒステリックに、つかさに警告した。
「怒んなよ、きらり。俺はお前一筋、十八年・・・・・・」
「さて、会の説明を行いまーす。ご静粛に願いまーす」
きらりはつかさを無視して、ノートのコピーを配った。そのノートには難解な言い回しと、幻想的な比喩の混じった契約書のような文章が踊っている。
要約すれば以下の通りである。
部員はきらりの命令に絶対服従。
深海の孤独のような沈黙が部室を支配した。冬馬はつかさの様子を伺ったが、彼も同じ結論に達しているようだった。
「倉科先輩は僕らをどうしたいんですか?」
「どうもしない。ただ一緒にいたいだけ」
屈託のない笑みでそう言うのだから始末に悪い。堂々巡りを覚悟しながら、冬馬が反論しようとすると、つかさが割って入った。
「簡単な話だぜ、きらり。こんな部作る必要なんかない。俺ならここに書いてあることを全部してやれる。お前が寂しくないように歌でも歌ってやる。だから、俺と付き合ってくれ!」
きらりは、うんともすんとも言わず、机に目を落としていた。聞いていないのかと思ったが、やがてぽつりと口を開いた。
「え? だって、つかさ君はきらりのお兄ちゃんでしょ? 兄と妹はつき合えないんだよ。変なつかさ君だなあ」
きらりは口を大きく開けて笑っていた。
つかさはやっと我に返ったようだった。冬馬たちの方をかいま見、
「うああああああ!?」
大声で喚きながら、部屋を出ていった。
それから間もなく、冬馬も席を立った。
「倉科先輩、僕も失礼します」
きらりは、きょとんとした顔をしていた。
「何だかバカバカしい。こんなことを続けるつもりなら、今後の活動も考えさせてもらいます」
冬馬はさっさと出ていった。きらりは二人の置いていったコピーをまとめながら、秋穂に訊ねる。
「私の何が悪いのかなー、秋穂わかる?」
「全てだよ、きらりちゃん。今日部室に入った瞬間から間違っていた」
冬馬は大股で廊下を歩いた。心の変調がそのまま歩調に表れている。つかさが振られた時、冬馬は何故か妙にホッとしていたのだ。軽蔑すべき自己の一面が彼を無性に急かせた。
「何だ・・・・・・、あの人は関係ないじゃないか。ただの先輩だ。倉科先輩は」
ぶつぶつ言いながら歩いていると、曲がり角で人にぶつかりそうになった。
「きゃっ・・・・・・!」
衝突は避けたものの、相手は持っていた書類をばらまいてしまった。
「す、すみません」
冬馬は慌てて書類の束を広い集めた。かなりの量があったため、二人いても時間がかかった。
「こちらこそ不注意でしたわ。お時間を取らせてしまったようで」
相手の少女は丁寧にお辞儀までした。冬馬は恐縮するばかりだ。
「お急ぎだったのでしょう? でもいけませんわ。大事になるかもしれませんから、廊下を走っては」
少女はさりげなく忠言した。現にもっともだと思ったから冬馬は恥いるばかりである。
「あら、すごい汗。動かないでくださいね」
少女は素早くハンカチを取り出し、冬馬の額の汗を拭いてくれた。そして固まっている冬馬の目をのぞき込むようにしている。顔と顔が近い。その時、この少女が大変な美貌を持つことに気がついた。
白い卵型の顔にはえくぼ。大人の品格に若干の子供っぽさ。きらりとは真逆である。
少女は白崎美優と名乗った。
美優は、職員室に頼まれたプリントを運ぶ最中だった。冬馬も半分持つのを手伝った。
「助かりましたわ、真田君。でも本当に良かったのですか? 何やらお急ぎでしたのに」
「気にしないでください。特に用事があったわけじゃありませんから」
冬馬はきらりたちのことを思いだし、眉根を寄せた。
「お顔の色が優れませんわね。さしでがましいかもしれませんが、お悩みごとでも?」
「いえ・・・・・・、気にしないでください。大したことじゃないんです」
冬馬は遠慮したのだが、この美優という娘は意外と押しが強く、話さざるをえなくなった。
きらりの名前は伏せて、困っていることを相談した。どうにも計りかねる先輩を第三者に品評してもらうのは落ち着かなかった。
美優は相づちをまじえて、熱心に聞いてくれた。そのため、冬馬の弁にもいつのまにか熱がこもる。
「本当に子供っぽくて大変ですよ。あれはきっと親に甘やかされて育ったんでしょう」
冬馬の話を聞き終えると、美優は笑みをこぼした。不思議と馬鹿にされたような感じはしない。
「真田君、その方の話をされている時、とても生き生きしていましたわ」
冬馬は素っ頓狂な声を上げた。
「変なこと言わないでください。あの人なんか白崎さんと比べたら月とすっぽんですよ
「私、そんな大層な人間ではありませんよ。その方に悪いですわ」
冬馬は、謙遜する美優を違う生き物のように眺めた。常識知らずの人間とばかり連んでいたためかな、おさら眩しいのである。
校門を出た所で二人は別れた。バス停で冬馬がバスを待っていると、背後から呼びかけられた。
黒塗りの高級車の後部座席に美優がいた。窓を半分だけ開けて大きな声を出している。
バスの通行の邪魔にならない所に車は止まった。
「駅まで乗りませんか。冷えるでしょう?」
美優の提案は魅力的であったが、冬馬もそこまで図々しくなれない。
「いえ、せっかくですが」
冬馬が断ろうとすると、美優はとても悲しそうな顔をした。結局、冬馬は車上の人と相成った。
「さっきは驚きましたよ。あんな大きな声を出すもんだから」
美優はくすっと笑った。
「意外そうですね」
「ええ、そんなことする人じゃないと勝手に思ってましたから」
「真田君がいけないんですよ。非常識なこと好みなさるから」
「えっ?」
美優は車窓に顔を向けている。車は信号前で止まっていた。
車が動き出すと、冬馬は何故かほっとした。
それから話題は文学のことに移り、お互いが好きな作家であるフランツ・カフカの話で盛り上がった。美優は頭の回転が早いので、全く退屈しなかった。駅につくのが惜しいと感じるほど、時間の経過が早く感じた。
「本当にすみませんでした。お手数をかけて」
「いいえ、私の方こそ。真田君と話すことができて楽しかったですわ。カフカが好きな方があまり身近にいないものですから」
カフカの作品で最も有名なのは変身だが、冬馬は短編も結構好きだ。それを話すとその点でも意気投合し、二人の距離はまた縮まった。
「ハンカチ、洗ってお返しします」
美優は名残惜しそうに手を振った。
「ええ、お持ちしていますわ。それではごきげんよう、真田君」
美優の乗る車が去ってから、冬馬は白い息を吐いて駅に向かう雑踏に混じった。美優のような少女を深窓の令嬢と言うのだろう。
だが見かけない顔だった。あれだけ目立つ容姿なら口の端に上ってもよさそうなものだが、学校で見かけたこともない。にもかかわらず美優に初めて会った気がしないというのが不思議で、家に帰ってからも彼女のことが頭を離れなかった。
「真田冬馬」
美優は車内でノートパソコンを広げていた。パソコン画面には冬馬の学生情報が表示されている。
「社交性に乏しく、友達が少ない。成績は中の上」
美優の目には先ほどの暖かみはなかった。ただのデータ情報に対した時の怜悧さしか見られない。
「彼をきらりの側に置いておくべきかしら。前の学校にはいなかった人材だわ。何かの役には立つかも」
続いて画面をしばらくスクロールし、とあるページを開いて眉根を寄せた。
「武藤つかさ・・・・・・、この男は駄目ね。きらりの体だけが目当てだわ」
美優はふうと、一仕事を終えたようにため息をついた。
「健全な成長には良き剪定が不可欠ですもの。余計な枝葉は早急に除きませんと」