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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

キノコ娘と交わす雇用契約!

作者: enforcer

  地球ではないどこかの星がある。

 天体の大きさは大凡地球と同じくらいではあるが、位置は全く違い、それは、地球とは宇宙の反対に位置する。

 全く同じではない理由として、その星では、特異な生態系が形成されていた。


 深い深い森の中。

 

 生い茂った木陰には、どこからどう見ても一本のキノコが生えている。

 ソレを求め、森深く入ってくる人種も多いが、その行動は、あまりめられたモノではなかった。

 何人かの柄の悪い男たちは、地面にポツリと在るキノコを見つけ出し、周りの仲間に知らせるべく、大声を張り上げる。

 

 「居たぞ!! キノコだ!」

 

 その声に応じてか、二、三人の無頼漢チンピラが、ゾロゾロと集まって来る。

 「ホントに目的のアレか? またタダのキノコじゃねぇだろうなぁ? これで三回目だぜ?」

 嫌々そうなモヒカン男の声に、スキンヘッドのこめかみには、青筋が走った。

 「うっせぇよ!? 引っこ抜いて見れば分かるだろうが!?」

 大声を上げながら、だんだんと男達は地面に生えているキノコに、近づいていく。

 途端に、奇妙な出来事が起こった。

 植物で在る筈のキノコが、風もないのに独りでにブルブルと震えたのだ。

 それを見た男達は、奇声を張り上げる。

 「おい!? 見たかぁ!? やっぱり当たりだぜぇ!?」

 「ま、引っこ抜いたモン勝ちって事だからな……ご愁傷様って奴よ」

 そう言いながら、男達は下卑た笑みを浮かべつつ、震えるキノコに平然と近付いていく。

 だが、キノコの数歩前で、男達は動きを止めてしまう。

 何かを見つけた様に、驚いた顔で固まる男達。

 驚くべきか、地面のキノコですら、その傘を上げながら、男達の視線の方向へと振り向いた様にも見える。

 「……な、なんだぁ!? テメェはぁ!? どっから現れやがったんだ!?」

 「いったい何処のモンじゃい!? 俺達が誰だが知ってて睨んでんのかぁ!?」

 極一般的なチンピラっぷりを披露する男達だが、対する人物はいつの間にか現れ、逆光と被っている帽子の影に因って、その表情は終ぞ見えなかったが、ほんの僅かに、口を開く。

 「……此処は私有地だ。 立て札が在った筈だが?」

 低く、だが、決して不愉快ではない渋めの声が謎の人物からは発せられる。

 その人物が発した言葉に、男達はそれぞれの獲物を構え、若干の怖じ気を見せた。

 「……へっ……知るかよ、そんなもん……おい! やっちまえ!」

 スキンヘッドの言葉を合図にか、男達は謎の人物へと向かっていく。


 それを、地面のキノコも、縮こまりながらも、【見ていた】


 謎の人物は、これまたどこから取り出したのか、三尺程の棒を構え、呼吸を整える。

 振り下ろされる刃物を、決して受けずにいなし、謎の人物は男達の急所に、的確な一撃を放つ。 

 あっという間に男達は昏倒するが、僅かに掠った刃物は、謎の人物の被っていた帽子を弾き飛ばすが、それを【見た】キノコは、今度は別の意味で少し震えていた。

 無表情とも取れる程に、男の目線と顔は冷たいが、纏う雰囲気はどことなく穏やかですら在る。

 その男が近付いて来るのを、なんとキノコは自ら待っていた。

 今か今かと触れられる瞬間、キノコは呆気なく地面から引き抜かれてしまうのだが、その時である。


 ポフンと云うような、何かの得体の知れないモノが出そうな音と共に、実際に男は煙にまみれた。

 

 煙が晴れ、男は、奇怪な現象に遭遇していた。

 手に在った筈のキノコが、人に近い何かに化けており、ソレを見て、男は口出さないが、またかと目を細めた。

 「……この度、私を引き抜いたのは貴方ですか?」と、そんな質問を、化けキノコは口にし、男は首を傾げる。

 「……私、静峰月夜しずみねつきよと申します……で、あれ?」

 恭しく、そんな挨拶をするのはゴスロリ調の服装の静峰月夜だが、彼女を無視し、男は無頼漢共を縛り上げると、ズルズルと引きずり始めていた。

 簡単に引き下がる訳にも行かず、月夜は男の前に立ちふさがり、ソレを見て、男は静かに目を細める。

 「悪いが……退いてくれ」と、端的に要件を伝える男。

 それに対して、月夜は首を横へ、ブンブンと振った。

 「えっと、あの……困ります! ええと、なんと云いますか、私達にも掟というモノが在りましてね……」

 自分達の事に付いて、長たらしい説明を始めんと、月夜は息巻くが、男は静かに首を横へ振った。

 「……悪いが、食用でないキノコには用が無いんでな。 他を当たってくれ……」

 そんな言葉と共に、男はまたしても無頼漢を引きずりながら歩き出していた。

 呆気に取られつつも、月夜は、コソコソと男の後を追い掛け始めていた。


 そう、この星には何故かこの様なキノコ娘、時折化けるキノコが各地に存在するのだった。

  

 無頼漢チンピラは賞金首だったのか、男に因って番所に突き出され、呆気なく御用と相成る。

 僅かばかりの賞金入りの巾着を手に、男は嘆息を漏らしていた。

 そんな男を、影からジッと見ているのは、森で彼に引き抜かれた月夜である。

 彼女達にしても、繁殖の為には、ある種の協力者が必要であり、それは、主に引き抜いた者が選ばれる場合が在る。

 故に、彼女達の中には、意にそぐわぬ出逢いと言う事も多々あった。

 突如、男は鋭い視線を番所の影に向けるが、月夜は咄嗟に隠れたが、ヒラヒラかつ、若干の光を放つ服装故か、はみ出している部分からモロバレではあるのだが、男はそれを気にせず、黙って番所を後にした。


 またしても、奇妙な追いかけっこが始まる。


 悠々とだが、決して隙無く歩く男を、月夜はバレバレの隠密追跡ストーキングで着いていく。

 男が辿り着いた場所は、町外れの一軒であり、其処屋根には一枚板の看板が掲げられていた。

 月夜はソレを見て、首を傾げる。

 看板には浮き彫りにて、しかも在る筈のない日本語で【日本蕎麦】とあるが、それがなにを意味しているのか、月夜には分からなかった。

 ガラガラという戸の開く音と共に、男は暖簾を戸の上に掛ける。 

 暖簾に書かれている文字は、この星のモノと併記して、地球の言語でこう書かれている。

 

 【蕎麦所 幻 想 庵】と。


 いつの間に着替えたのか、男は作務衣を、この星には無いデザインのモノを纏っていた。

 ゆっくりと振り向く男の視線の先には、相も変わらず隠れる月夜。

 それを見て、男は渋々といった様子で口を開いた。

 「……何か用か?」

 男の声に合わせて、不審者がずっこけたらしく、店の影からは木材や桶が飛び出し、ドンガラ音が響く。

 ふと姿を表す不審者の正体は、月夜であった。

 頭に蜘蛛の巣を貼り付けたまま、月夜は、そそくさと男の前に現れ、ビシッと不動の姿勢を見せた。

 「……えーと……ですから! 私と! 契約を!」

 要点すらままならない月夜の説明に、男は手をポンと言わせた。

 「……なる程、君は俺と雇用契約を結びたい訳だな?」

 そんな男の低い声を聴き、月夜は思った。

 『…………こよー? 何の事だろう? ああ、でもまぁ、見た目も結構渋いし、全然周りの長老が云うほど気性も悪くなさそうだし…………』

 そんな事を素早く考え、月夜は口を開いた。

 「はい! こよー契約を結びたいんです!」

 そんな威勢の良い月夜の返事に、男は「少し待て」とだけ呟き、店の中へと入っていってしまった。

 ポカンと立っている月夜だが、男は直ぐに店から出てきて、ハイとばかりに、月夜に作務衣と前掛けを渡す。

 「……それじゃ、それを着ろ。 ウチで本当に働きたいんならな……」

 男が月夜に手渡したのは、同じ様な作務衣だが、色は違った。

 首を傾げた月夜は、全く意味が理解出来てはいないのか、少しの疑問を口にする。

 「あのー?」

 「……なんだ?」

 「これ、あの、ええと……」

 流石に、口に出すことは恥ずかしいのか、月夜は本来の目的を口には出せずどもってしまう。

 だが、敢えて男はそれを気にせず、店の戸に手を掛けた。

 「……嫌なら構わない……だが、それが嫌なら悪いが他を当たってくれ……」

 「あの……せめてお名前を……」

 月夜の質問に、男は整えられた眉を上げる。

 「……俺か……俺のことは……店長とでも呼んでくれればいい……」

 「はい! 店長マスター!」

 月夜の元気の良い声を聞いてか、男は足を滑らせた様に、僅かに体制を崩していた。


 紆余曲折の末、幻想庵に新たな看板娘が降り立った。

 だが、ソレは同時に、月夜にとっては苦難の始まりなのかも知れない。

 幻想庵は蕎麦屋であるが、そもそもこの星には蕎麦は存在するのか。

 厳密に言えば、地球の蕎麦と似たものが在り、それを加工し、麺状にしたモノを提供するのだが、これは問題ではない。

 大まかな作業から、蕎麦打ち、調理を店長は楽々とこなす。

 さて、月夜は接客をせよとの店長の仰せだが、「何もわかりません」という月夜に、手助け代わりに先輩がいた。

 独特の色香を伴う大人びた女性だが、その身から放たれる同族の気配は、月夜にも直ぐに分かった。

 店長に隠れて居る場合、ギラリとした視線を向けてくるが、逆に言えば店長が居る範囲であれば、先輩の女性は大人しく、そして、大層丁寧に月夜に接してくれた。

 月夜の先輩にして、【幻想庵】の看板娘、山鳥紫やまどりゆかりその人である。

 彼女もまた、店長に因って雇用契約を結ばれてはいるが、未だに紫も本来の目的を果たしてはいない。

 「あらあら……新人さんねぇ……どうしてこう、次から次へと……」

 若干恨めしい様な口調で紫は言うが、その顔は変わらず笑顔である。

 「あの……何か?」

 月夜の思わず恐る恐るの質問に、紫はハッとなると、上品に笑った。

 「いえいえ、なんでもないの…………なんでもね……それはそうと、月夜ちゃんて言うんでしょ? まぁ、何事も最初は難しいと思うけど、頑張ってね?」

 そんな、紫の優しい言葉に、月夜は恐々とだが、「はい」と返すのが精いっぱいであった。

 

 幻想庵が位置するのは、山の街道沿いだが、その街道の両端には異様にデカい王国と、やたらと巨大な帝国が在るらしい。

 交流が活発故、街道沿いの幻想庵は物珍しさも相まって、亜人と人間問わず、客がひっきりなしに来るのだ。

 それこそ、ランチタイムは戦場さながらであり、テキパキと接客をこなす先輩紫を、月夜はホヘェと言うような顔で見ていた。

 

 一番忙しいランチタイムを終えた休憩中の事である。

 後片付けも一段落しており、月夜は疑問を呈していた。

 「先輩……店長って、どんな人ですか?」

 月夜の質問に、紫は眉を寄せる。

 「……難しい、質問ね……貴方、別の世界って信じる? 例えば、此処ではないどこか、あの空の遙か向こうに、何か在るって……」

 紫は、腕を伸ばし天を示す。

 呆気に取られる月夜に微笑むと、面白そうに笑った。

 「あの人……店長マスターはね、其処から来たんですって」

 そう紫は言うが、月夜は首を傾げた。

 『何言ってんだ? このキノコ? 変な波でも来てるのかな?』と、そんな失礼な事を、月夜は考えていた。

 

 無難な一日の営業が終わり、月夜と紫は、店長の手伝いで後片付けをしていた。

 疲れから、テーブルに突っ伏す月夜と、平然と構え、お茶を啜る紫。

 そんな二人に構うことはなく、外出着なのか、若干の軽装の店長は空籠を担いでいた。

 「……出汁取りが切れた……すまないが、留守を頼む……」 

 店長の言葉に、月夜はウンと頷くが、紫は露骨に顔をしかめる。

 ソッと店を出て行く店長を見届けると、紫は月夜に耳打ちを始めた。

 「……月夜ちゃん……悪いけど、あの人の後を追ってくれない? 私はほら、あの人の為にお店を護らないといけないから……」

 紫の言葉に、不平を言おうか悩んだ月夜だか、有無を言わせぬ紫の冷たい視線に、月夜の口からは自然と「いえっさーまむ」という言葉が漏れていた。


 またしても、奇妙な追跡劇が始まった。

 街道から外れ、山道を平然と歩く店長を、ばて気味の月夜が後を追う。

 疲れから、いつしかヘロヘロに成りつつあった月夜だか、しゃがんでいると、彼女の目に足が見えた。

 見上げれば、其処には若干困った様な顔の店長。

 言い訳を考えていた月夜だが、店長は特に何も言うことは無く、黙ってしゃがんで背を向ける。

 「あの……店長?」

 「……後で拾っていっても良いが、後少しだからな……俺の背でよければ、おぶされ……」

 そんな店長の言葉に甘えてか、月夜は店長の広い背中に飛びついていた。

 キノコ一人抱えているとは到底思えない程に、店長は軽い足取りで進む。

 その背に揺られる月夜だが、彼女は満更でもないと、そんな顔をしていた。 

 二人が着いた先、それは山の一軒家であった。

 家自体も木陰に近く在り、その家の少し離れた所には、地球に在るような椎茸栽培のほだ木が何十と在った。

 それが何なのかはわからない月夜だが、唐突に、後ろの方からカランと、何かを落とした様な音がした。

 月夜を背負ったまま、店長は振り向くと、其処にはまた、漂う独特の香りと暗い影、そして、独特の気配から月夜の同族らしい人物が居た。 

 足元に落とした農具を気にせず、何故か虚ろな笑みを浮かべ、その女の子は暗い視線と共に、ブツブツと何かを唱えているようにも月夜には見える。

 「……ズルいよ……僕だって……おんぶ……して欲しいのに…………」

 呪いの言葉を発しているのは、和服とドレスのチャンポンの様な服装の女の子であり、彼女を見てか、店長は口を開く。

 「……シィ、すまないが、また幾らか売ってくれないか? 当座の分を使い切ってしまったからな……」

 そんな店長の言葉を無視してか、椎と呼ばれた女の子はヨロヨロとゾンビを思わせる足取りで、近づき、月夜の眉間に虚ろな視線を飛ばしていた。

 得体の知れない恐怖から、身を固める月夜に関わらず、女の子は口を開く。

 「あのね? 店長……前も言ったけど僕にはかおりって名前が在るんだよ? なんで呼んでくれないの?」

 既に香の声は呪い節に近いのだが、店長は特に取り合うことなく、背で固まっている月夜をソッと下ろすと、空籠を香に見せた。

 香もまた、虚ろな目を空籠に向けたが、どこか凄惨な笑みを店長に向ける。

 「……お金なんて関係ないけど……今日は……タダじゃ駄目……」 

 そんな、香の言葉を聞いてか、店長は目を細めた。

 「……すまない、香。 …………だが……」

 店長の言葉を遮る様に、香は店長の袖を引くと、森の奥を指差した。 

 香の行動が何を意味しているのか、月夜には分からず、彼女は冷や汗を流す。

 「……月夜……少し待っていてくれ……」

 「……今日のバトル……逃がさないから……」

 そんな言葉と共に、香は店長を引きずって行ってしまった。

 

 恐怖から動けずにいた月夜だが、彼女の頭の中では、在る光景が想像されていた。


 薄暗い森の奥深く、対峙するのは不敵に笑う香と厳めしい顔の店長。

 注意深く香を睨む店長に、香は冷笑を浮かべていた。

 「……性懲りもなく……また、戦いに来たの?」

 「……それが、俺への依頼だからな……受けた仕事は、達成するまで終わりはない……」

 冷たい店長の言葉に、香はアハハと面白そうに高らかに笑う。

 「人は愚か者だからね……でもまぁ……楽しみだな……精々僕を失望させないでおくれよ?」

 そんな言葉と共に、香は地面が抉れる程の跳躍を見せた。

 人外の速さを伴い襲い来る香の跳び蹴り。

 それを、店長は取り出した棍棒で流す。

 反らされた香の蹴りは、そのまま矢の如く地面に叩きつけられたが、止まることはなく、深々と地面を穿った。

 隙無く構えを見せる店長に対して、あくまでも香は楽しそうな調子を崩さない。

 「へぇ? 少しは鍛えたんだ? それで、どんな事をしてくれるの?」

 香の手をクイクイとやる挑発。

 だが、店長はジリジリも間合いを詰めはするのだが、決して早く動こうとはしなかった。

 それにじれたのか、またしても爆発的な加速を香は見せた。

 ソレを見て、店長は初めてニヤリとした笑みを見せ、ほぼ真っ直ぐに跳んでくる香の鳩尾を棍棒で激しく突いた。

 加速度から、棍棒は香の鳩尾に深くめり込むが、同時に棍棒も押され、店長は棍棒を引いた。

 体制を崩された為か、地面に当たりゴロゴロと転がる香に対して、店長はまたしても構えを保持し、その棍棒は、ピタリと動きを止める。

 苦しげに吐瀉する香だが、顔を上げた彼女の顔は、憤怒に燃えていた。

 「殺してやる……人間風情が………」

 そんな低い低い香の言葉に、今度は、店長が手をクイクイと曲げ、掛かってこいと言わんばかりであった。

 香は、頭の中で、何かがキレた様な音を感じ取る。

 彼女身体の周りを、彼女から身体、特に纏う衣服から漏れ出た胞子が、まるで闘気の様に、激しく、そして怪しく揺らめく。

 此処に来て、店長の両手と、それに握られている棍棒もまた、淡く、そして、煌めきを纏っていたが、怒りの為か、香がそれに気付くことはなかった。

 爆風を伴い、魔人の様を呈して、香は意のままに前進し、それは、あたかも雲を引いている様にも見えた。

 だが、そんな人外の速さを見ても、店長は身動ぎ一つせず、静かに呼吸を整えていた。

 跳び来る香の両の手をかわし、店長の持つ淡く輝く棍棒は、香の首筋目掛けて振り下ろされた。


 と、此処まで想像した所で、月夜は我に帰った。

 

 ハフゥと息を古い息を吐き出し、新しい酸素を、胸に取り込む。

 我に帰った月夜は、辺りをキョロキョロと見渡し、香に何処かへと連れ去られてしまった店長を、額に手を当てながら目視で探した。

 目的の人物だが、ソレは程なく森の奥から姿を現す。

 ここでまた、月夜は首を傾げた。

 店長の背には、満杯に椎茸が詰められてはいるが、彼自体は何故かげっそりと、何処か憔悴したようにも見える。

 その隣を悠々と歩くのは香だが、これまた何故か彼女は妙に艶々としており、満面の笑みであった。


 「店長マスター!! また来てねー! 待ってるからー! きっとだよー!?」と、そんな香のお見送りを受け、店長と月夜の二人は帰り道と成るのだが、月夜には疑問がある。

 「何かあったんですか?」と、端的に月夜は訪ねるのだが、店長はそれに対して、「……聞くな」とだけ返していた。

 結局の所、月夜は何が森の奥で起こっていたのかに付いては、分からなかった。

 理由としては、店長がその話をする事を頑なに拒むからである。

 此ではらちがあかない為、自身の疑問について話題を変えていた。

 「……えーと、じゃあ……あの香って子とどうやって知り合ったんですか?」 

 月夜のそんな質問に、店長はウゥムと少し唸る。

 「……特に変わった話じゃ……ないな……偶々、ほだ木の一本を引き抜いたら……お前と同じで、宜しくっていわれたんだ…………」

 相も変わらず店長の口数は少なく、要を得ないモノが多い。

 ソレとは別に、次の質問へと移る月夜。

 「えーと、じゃ…………店長は何処の出身なんですか? 先輩に聞いても、お空の向こうって言ってましたけど?」

 そんな月夜の質問に、店長は初めて少し苦笑いを浮かべた。

 「………聞いた、でも、信じられないか?」と、そんな店長の問いかけに、月夜は「ハイ、もちろん」と答える。

 「最初……俺が何処の誰で、それを言ったところで、誰も信じてくれなかったんだ………でも、俺を拾ってくれた人が、あの店の前の店長だったんだ…」

 そんな風に、何かを懐かしむ様な店長の声に、月夜は聞き入る。

 「でな……ある日、あの人はこう言ったんだ……お前と俺は同じだ。 だが、俺はそろそろ潮時だってな。 結局、名前は教えてくれなかったが、あの人にも……今のお前とおんなじ雰囲気の人が付いていたよ」

 そう言うと、店長は面白そうに笑う。

 そんな店長の横顔を見てか、月夜も微笑んでいた。

 

 夕暮れ時はとっくに過ぎてしまい、辺りは薄暗くなっていく。

 辺りの暗さに比例してか、月夜の身体の一部分がぼんやりと緑に光った。

 店ももう間近だったが、そんな僅かな光を帯びる月夜を見て、店長は面白そうに口を開いた。

 「…………それ、結構綺麗だよな?」

 そんな店長の言葉に、月夜は「………へ?」とだけ口にし、身体は固まる。

 籠一杯の椎茸を背負う店長の背中を、月夜は惚けたように見つめていた。


 若干惚けた月夜だが、店先で紫に迎えられる店長を見つけて、慌てて後を追った。

 だが、店長が店の奥へと消えた事によって、紫に変化が起こる。

 「ねぇ………月夜ちゃん? 私、言ったはずよね? あの人の事をお願いって?」

 口調はとっても優しい紫だが、その笑顔は、捕食者のそれを思わせた。

 片手を上げて、掌を月夜に見せる紫。

 彼女の手には、ほんの僅かだが、香の撒き散らしたらしい胞子と、ついでに月夜の僅かに光る胞子がくっついていた。

 「これ…………どういうことかしら? ねぇ? どういうことかしら?」

 そんな言葉と共に、紫の頬はヒクヒクとわずかに痙攣する。

 特に暑くも無いはずだが、月夜の顔にはダラダラとした冷や汗が流れ、彼女の手のひらには緊張感から汗が滴っていた。

 紫と月夜の距離が、後、一寸先といったところで、店の戸が開けられた。

 「何してる? もう戸を閉めるんだが?」

 戸の開く音と、店長のその声は、月夜には天の声に等しかった。

 ぐるっと身体を回す紫にしても、いつもの上品な笑顔と態度を取り戻している。

 「あらあら………店長、ごめんなさい。 月夜ちゃんに井戸の場所とか色々聞かれてたから…………ねぇ? 月夜ちゃん?」

 あからさまな嘘だが、月夜に逆らう術は無い。

 彼女の中では、既に誰が支配者なのかを心に刻まれてしまっていた。

 だからこそ、月夜の口からは「ハイモチロンデス」と、片言の言葉が漏れていた。

 

 さて、店長の案内で、月夜は幻想庵の二階へと案内されていた。

 二階の間取りはそれなりに広く、部屋は幾つかに分かれているようだが、住み込みと言うことで、月夜にも部屋をと店長が述べる前に、紫が一歩踏み出す。

 「店長マスター……相部屋でも構いませんか? ほら、い ろ い ろ と、教えて上げたいので………」

 紫の言葉に、店長はウンと頷く。

 ソレを見計らい、紫は両手を叩いて何かを思い付いた様な顔をしていた。 

 「あっと、それから、店長……お風呂が沸いてますから、先にどうぞ?」

 「…………いいのか紫? 俺は後でも…………」

 「いえいえ、どーぞ、お先に………月夜ちゃんにお部屋の事を教えて上げたいので…………」

 若干渋る店長を、半ば無理やり一階へと押しやった紫は、にこやかに笑いながら、月夜を部屋へと案内していた。


 八畳程の和室。

 この星に置いては、ほとんど無いといえるデザインである。

 だが、其処には奇妙な光景が広がっていた。

 腕を組んで仁王立ちをしながら、薄く笑う紫と、何故か彼女の前で正座をさせられている月夜。

 実に気まずい雰囲気である。

 目を左右に泳がせる月夜とは反対に、紫は静かに、そして確実に瞬きすらせずに月夜を見ていた。

 「やっと二人キリよね? 教えて…………何があったのかを」

 と、そんな事を紫は宣うが、月夜からすればとんでもない話である。

 ついて行ったのは確かだが、彼方でも鬼の様なキノコに睨まれ、腰を抜かしていました、ともいえず、月夜は困っていた。

 「あのー、まー、て、店長について行きました…………」

 「…………それで?」

 「え、えと。 なんか、おっかない人が居て…………椎茸分けてって、店長が言って…………」

 「……ふぅん?……」

 此処で、月夜もいい加減頭に来たらしい。

 「しょーがないじゃーないですかー!? だって、めっちゃ怖かったんですしー!? なんか、あの子目が死んだ魚みたいな眼してましたしー!? 私だって…………」

 そんな、月夜の必死にな弁明に、紫はゆっくりしゃがむと、黙って頷きながらも、優しく月夜の肩に、手をポンと乗せた。

 「…………そ。 やっぱりアレが邪魔してたんだ………ごめんなさいね? アナタを疑ったりして…………」

 もはや涙目だった月夜を慰める様に、紫は優しく微笑んでいた。

 とりあえず一段落付いたのか、紫は自分達の部屋を、これから月夜が暮らすことになる部屋の説明を始める。

 「はい、此処が寝室」

 そうは言うが、紫が示したのは、所謂押し入れだった。

 首を傾げる月夜に、押し入れの戸を開いて見せる紫。

 「さ、どうぞ」と、そんな風に紫は言うのだが、上下二段に分かれた押し入れには、収納してではなく、布団が一組ずつ在る。

 「あのー、なんですか、これ?」

 月夜の疑問も当たり前だが、それに取り合わず、紫は布団を敷いてみせると、「どうぞ、寝てみて」とだけ口にした。

 口答えしても、後が怖いからか、月夜は渋々押し入れに入っていく。

 「………あれ?…」

 狭いことは狭い、だが、それ以上に、何故か落ち着く事に月夜は気付いた。

 「良いでしょ? 何でか私も知らないけど………なんて言うのかしら? 落ち着くのよねぇ…………」

 そんな言葉と共に、紫はトロンとした顔を浮かべる。


 二人が押し入れを好む理由は、二人の種族的特徴である。

 可能ならば、湿気が豊富で、尚且つ、冷暗所を好むキノコである以上、彼女達二人にすると、湿気が乏しい事を覗けば、押し入れの中は意外と快適なのであった。

 

 店長が風呂から上がり、二階へと姿を見せる頃には、月夜と紫の居る部屋は静かであり、ソッと店長は顔を覗かせる。

 疲れからか、押し入れの上段では、何とも言い難い寝顔の月夜と、さらにその下では、あくまでも上品に寝ている紫。

 ソッと近寄り、月夜の布団を掛け直した店長は、そのまま灯りを吹き消し、音もなく二人の部屋から立ち去った。


 自前の寝相の悪さから、月夜は狭い押し入れの壁に頭をぶつけ、痛みに若干呻いた。

 目の前の狭い空間に、戸惑うのだが、ボケた頭がハッキリして来るにつれ、今の自分の現状がハッキリとして来る。

 「あ、そっか……私、契約しちゃったんだよね……」

 薄暗い押し入れの中でも、彼女の一部は発光をしているためか、ぼんやりと周りは明るい。

 ソッと押し入れから這い出た月夜は、両手を天井へと向け、背骨をポキッと鳴らしていた。

 ふと振り返るが、未だに紫は寝ており、寝息は静かである。

 何とも豪胆ながらも上品なそれに、ムムッとしつつも、月夜の髪の毛が、僅かに逆立った。

 ボソボソとした話し声、漂う一種異様な気配に、月夜は窓の障子をソッと、恐る恐る僅かに開けるのだが、其処には、店長と見慣れない人物キノコが居た。

 真っ黒な出で立ちに白い帯、目まで掛かった前髪からか、何処か悪いようにも見える目つき。

 薄暗い早朝と相まってか、彼女の漆黒の長い髪からは、ポタリポタリとインクの様なモノが滴り落ち、それは、月夜には恐ろしく見えた。

 「店長マスター…………お約束通り、馳せ参じました」 

 「そうか、もうそんな時だったか…………」

 「はい、私、黒肥地クロヒジ 一夜ヒトヨは約束を違えません…………では、此方へ…………」

 そう言うと、謎の黒い女性キノコに、店長がのこのこと林の奥へと連れて行かれてしまうのを、月夜はブルブルしながら恐る恐る見てしまっていた。


 ブルブルしているためか、月夜の頭はフル回転を始めていた。


 日も射さない林の奥。

 黒い影を纏うのは黒肥地 一夜 、それに、対するかの様に白い服を纏っているのは店長である。

 「どういう………つもりだ?」

 低い低い店長の訝しむ声に、黒肥地はケラケラと笑う。

 「どういう? 貴方……香をやったんでしょ? それは、私達影に住まうものには不都合なのよ? それに、約束したはず………手は出さないと」

 「…………その事か…………」

 そんな店長の言葉と合図に、黒肥地の髪から垂れる液体は量を増していく。

 辺り一面、ほぼ地面を覗いて黒に覆われたが、二人の姿はハッキリと見える。

 「…………ほう? コレは?」

 余裕を崩さない店長の声に、黒肥地は袖で口を隠してクスリと微笑む。

 「気付かないの? 既に貴方は影に覆われている……日の射す所であれば

貴方の力も振るえたのでしょうが…………でも、此処では私が支配者よ………例え理由がどうであれ、負けたままでは都合が悪いの…………」 

 そんな、黒肥地の低く脅す様な口調に、店長は動いた。

 残像を残す様な、独特の動きから、間合いは計れない。

 丸腰とは言え、店長の拳が黒肥地に当たったと思われた途端、店長は顔をしかめていた。

 手に当たる感触が異常であり、それは、練り上げた黒いゼリーを思わせる。

 後方へ跳びす去る店長を、黒肥地は嘲笑った。

 「は、所詮は惨めな人…………何かの力を借りなければ、戦い一つマトモに出来ない愚かな者達…………」

 黒肥地の言葉に呼応したのか、周りを取り巻く影からは、鉤爪が着いた不気味な腕が何十と店長に向かって伸びる。

 直接受ける事は無理と悟ったのか、店長は意外にも忍者の様に身軽にその鉤爪を避けていた。

 それを見てか、黒肥地は面白そうに高らかに笑う。

 「アハ! 蠅みたいよね? マトモに戦えやしない、無様に逃げ回るがいいわ!」

 全ての鉤爪を避けきれず、僅かとはいえ傷付いていく店長を見て、黒肥地は笑いを止めない。 

 だが、店長はそんな黒肥地の余裕綽々を隙と見たのか、爆発的に前へと進んだ。

 店長の走る先には黒肥地、その店長の後ろでは、鉤爪が迫る。

 だが、わずかに店長の方が早く、後少しで彼の間合いと言えた。

 しかし、店長の足は止まってしまう。

 まるで底無し沼の様に広がる影が、店長の膝までを飲み込んでいた。

 黒肥地の顔は無表情であり、前髪に隠された瞳は、怪しく輝いていた。

 「たわいない…………そのまま沈め」

 そんな黒肥地の妖艶な声に合わせてか、店長の身体はドンドン沈んでいってしまうが、なんと店長は手を伸ばして地面を掴んだ。

 「無駄な足掻き………!?…」

 黒肥地の顔が、驚愕にゆがむ。

 店長の両手は、血管が浮き出し、ただの力で影に飲み込まれるのを阻止していた。

 「よせ、くくり…………それは、蕎麦には大切な技術であると同時に、俺の力を練り上げた」

 そう言うと店長はニヤリと笑う。

 今までとは、逆で在った。

 店長は余裕すら見える顔だが、逆に黒肥地の顔には汗が浮かぶ。

 「知っているぞ? 影沼の術は……息を止めねばならない……お前の息もそろそろ限界何だろう?」

 フフッと笑い、店長は黒肥地を睨む。

 負けじと黒肥地も店長をにらみ返すが、彼女の顔には今までの余裕は無く、焦りすら浮かんでいた。

 黒肥地は最後の力を振り絞るかの様に唸る。

 途端に、店長を飲み込む影の力が強まり、店長の腕力問わず、彼の体はジリジリと下がっていってしまう。

 胸まで店長が影に飲み込まれた事で、黒肥地は勝ちと読んだのか、ニヤリと獰猛な笑みを見せるが、そんな彼女は目の前に飛んできた小石に、僅かに驚き、避けると同時に、息を飲んでしまった。

 飛ばされた小石は、店長が力を振り絞った指弾だが、威力は期待してはいない。

 僅かでも、ほんの一瞬でも黒肥地の隙を生ませたかったのである。

 事実、驚いた黒肥地は咳き込み、呼吸が整わない。

 その隙を、勝機を逃すつもりは店長にはなく、だっと力の弱まった影から這い出た店長は、またしても爆発的な加速を見せた。

 急いだとしても、狂った呼吸は整うはずも無く、黒肥地は目を見開く。

 僅かに光る拳を振り上げ、自らに迫る店長の姿を。


 と、此処まで想像した所で、月夜はハッとなる。

 こうしては居られないとばかりに立ち上がる月夜だが、一階に降りる頃には、朝の仕込みを開始している店長と眼があった。

 ほんの僅か、何かに憑かれている様にも見えるが、そんな店長が仕込みをしているのは山菜の類である。

 煮立つ鍋で山菜の灰汁抜きをしながら、店長は眼を細めていた。

 「…………どうした月夜? まだ朝も早いが?」

 そんな店長の言葉に、月夜は辺りをキョロキョロと見回すが、黒肥地の姿は見えない。

 「て、て、店長! さっきの……あの、黒いキノコは!?」

 何故か焦る月夜に、店長は静かに少し唸る。

 「ふぅむ…………なに、ちょっとした付き合いでな、そのついでに、山菜を分けて貰っているんだ」

 そんな店長の言葉から、月夜は彼の姿をマジマジと見る。

 僅かだが、店長の作務衣にインクの染みの様なモノが付着しているのを、月夜は目ざとく見つけていた。

 「店長! 店長とあの黒い人は! ど、どんな関係なんですか!?」

 三分の焦り、嫉妬が二分、興味が五分の割在りで、月夜は声を出す。

 それに対して、店長は眼を閉じた。

 「………まぁ、一週間に一回…………山菜の取り引き以外は…………お子様にはまだ早い…………」

 そう言うと、店長は静かに仕込みに戻る。

 悶々とする月夜だが、月夜のソレに、店長は少しだけ笑って取り合おうとはしなかった。

 さてとばかりに仕込みを山菜の終えた店長は、腕で汗を拭う。

 ソレを見て、月夜は【しまった!?】という顔をするが、生憎と彼女は手拭い一つ持っては居ない。

 素早く振り向き、部屋に何かを取りに行こうかといった所で、月夜の動きは止まる。

 柔らかい笑みを浮かべる紫が其処には居た。

 彼女の手には、しっかりと洗われ、良く干された手拭いが握られている。

 月夜の脇をすっと抜ける紫だが、ほんの僅かに、勝ち誇った様な顔を浮かべ、その反対に、月夜はの眉は上がり、頬は痙攣した。

 目線アイコンタクトだけで会話を始める二人だが、原理は現代科学をもってしても不明だ。

 『あら、抜け駆けかしら?』

 『…………そんな、事は致しません』

 『構わないのよ? だって、私は先輩だもの、後輩は大事にしないとね』

 『…………』

 という会話を、コンマ以下五秒で行う月夜と紫。

 「どうぞ、店長マスター」と、甲斐甲斐しく手拭いを店長に渡す紫。

 そして、受け取った店長もまた、「……すまん、紫」と返す。

 傍目には、何ともいい雰囲気だからか、若干顔を歪める月夜の肩は、プルプルと震えていた。

 

 だが、月夜はある紫の変化に気づく。

 それは、店長の作務衣の僅か付着物。

 ほんの数センチだが、ソレを見て、紫は眼をカッと見開いていた。

 「……そうだ、ちょっと薪を割ってきます」

 何の脈絡も無く、突然そんな事を言い始める紫に、店長の片方の眉が上がる。

 「……紫、そんな事なら俺が…………」

 最後まで店長が言葉に、する前に、両手を突き出し、かなりぎこちない笑顔のまま、紫は首を横へ激しく振った。

 「いえいえいえいえ、偶には運動しないと鈍ってしまいますから、ね? 月夜ちゃん、手伝ってくださいな?」

 ドスが利いた低温ボイスでそう言う紫に、月夜が抗う術など持ちはしない。

 「ハイ ワカリマシタ オテツダイスルデアリマス」と、何故か月夜は棒読みでロボットの様に返事をしていた。


 振り上げられた薪割り。

 それは、太陽の光を受けて、鈍く銀に輝く。

 程なく、空気を切り裂く鈍い音と共に、その刃が薪へと吸い込まれていった。

 パカンと子気味良く割れる薪。

 だが、それをシているのは、怪しい笑顔の紫であり、彼女の横では、革手袋を嵌めた月夜が、えっちらおっちらと割られた薪を拾い集めていた。

 「月夜ちゃん……今朝、誰か来てた…………筈よね?」

 次の獲物もとい、次の薪を軽々と台座に置く紫。

 紫の怪しい声を聞いた途端、月夜は不動の姿勢になると、敬礼のポーズを取っていた。

 「は! なんか真っ黒なキノコが参ったであります!」

 特に秘密と言うことでもないからか、月夜は自分が見たままをあっさりと報告ゲロした。

 真っ黒な、という月夜の言葉に反応したのか、紫の細い指にどこからそれだけの力が湧いてくるのか、彼女に握られた薪割りの樫の柄が、ミシッと音を立てた。

 「ヌン!!」と、低い呻きと共に、紫は素早く薪割りを、あたかも剣か何かの様に振り下ろす。

 薪が二つにパカンと割られる瞬間、月夜は恐ろしい想像をしていた。

 誰かの頭が其処に在り、兜割りを仕掛けられている、と、そんな事を。

 店長が近くに居ないからか、紫の顔は般若の様に歪む。

 「あのドグサレキノコがぁ…………人が疲れて寝ているのを良いことにぃ…………」

 そんな、紫の呪い節は、本来毒キノコである月夜ですら圧倒するほど毒々しいモノであり、食いしばった歯をギリギリ言わせる紫は、月夜には障気を纏っているかの如く見えた。

 紫の焦り、それは、彼女の過去の理由が存在する。

 勿論、特段伝説めいたモノでも何でもない。

 愛を明かせば死する、といったモノや、何か神がかったおとぎ話でもない。

 実際、今のところ紫は三つ程作戦を練っている。


 【ドキドキ! 偶々お風呂に入ろうとしたら、混浴に成っちゃった作戦】

 【ドキマギ! 気付いたら、間違えてあの人の布団で添い寝してた作戦】

 【アラヤダ! ウッカリ着替えをのぞかれてしまった、責任とって作戦】

 

 と、キャッキャウフフな三回の犯行を企てている上にを、それ以上に他の事については既に実行犯である。

 だが、あくまでも店長の紫への感覚は、仲の良い店員さんへのモノだ。 

 言うに及ばず、全ての作戦失敗の問題点は、紫の恥ずかしがり屋な部分にある。

 いざ、店長と向き合うと、紫は非常に上品かつ、決して粗野な振る舞いはしない。

 だこらこそ、我が身の臆病さに、悔しさに枕を濡らす事も在ったのだ。


  だが、ふとした瞬間、紫の顔はパッと営業用のソレに変わる。

 月夜が呆気に取られつつも、片方の眉が上がり紫が見ている方を彼女も釣られて向いた。

 「いや、作業中申し訳無く。 時に、店長殿はおいでで?」

 唐突に現れ、そんな事を発したのは、実に表現に苦しむモノである。

 和服、所謂羽織袴に近いモノは在るのだが、どことなく細部が違う。

 その上、何故か月代さかやきは剃らず、こめかみには、腰の二本差しにも引けを取らない程の御立派な角が二本ほど生えていた。

 圧倒するほどの体躯の持ち主に、月夜は動けない。

 失礼ながらも、変なことすら考えていた。

 

 『こ、このバケモン!? あたいを食べる気!? 良いじゃん、食ってみな! あたいの猛毒で精々お腹を壊すがいいさ!』

 

 と、一人称と口調が変わるほど内心の威勢はいいが、表向きの月夜は紫の背中にピタリと張り付き、一見怯えた後輩の様にも見える。

 だが、実際の所は彼女を盾としていたに過ぎなかった。

 それでも、月夜の怯えなど、どうでも良いかの様に恭しく紫は頭を下げる。 

 「いらっしゃいませ。 店主は中で御座います、お手数ですが用向きであればご案内致しますが?」

 実に見事な接客を見せる紫に、対して、未だに彼女の背に隠れる月夜。

 とはいえ、そんな二人に異形の侍とでも呼称すべき偉丈夫タフガイは、似合わぬ笑顔を浮かべて豪快に笑った。

 「いや、これはかたじけない…………」と、そんな事を述べる偉丈夫を、紫は丁寧に案内をしていた。

 それを見てか、月夜は胸の前でぐっと拳を握る。

 内面がどうであれ、紫の態度は実に見上げたモノにして、見習うべき事でもある。

 では、早速とばかりに紫に続こうかとする月夜だが、そんな彼女に渡されたのは、紫愛用の薪割りだった。

 「…………先輩。 なんですか? これ?」 

 「ごめんなさいね、月夜ちゃん…………私、お客様をご案内しなければならないから……後、お願いね?」

 唖然としつつも、結局の所、月夜は薪割りを抱えたまま呆然と立ち尽くしていた。

 

 紫に導かれ、店内へと案内される偉丈夫だが、店長と目が合った瞬間、彼は膝を着き、首を垂れた。

 「幻想庵の店長マスターとお見受け致す。 此度はお願い在って参上仕った」

 それを、聞いて、店長もウムと首を縦に少し振った。

 さて、それらの光景を、店内で恭しく佇む紫とは別に、細い竹で作られた格子窓に張り付く様に作業を放り出した月夜も見ていた。

 『……アレほどの偉丈夫が首を垂れるということは、ウチの店長ってスゲーんじゃね?』と、月夜は思う。

 店長もまた、偉丈夫の前に少ししゃがみこんで彼の肩に手を置いた。

 「頭をおあげください………今の俺はただの蕎麦屋……お客様の注文を受けるだけです………」

 そんな店長の低い声を聞いてか、偉丈夫は頭を上げる。

 「されば…………拙者、魔王側近以下、参謀長、疾風のマルコと申します……主よりの命……いえ、ご注文をお伝えさせて頂きます」

 何とも言い難い二つ名と役職を呈するのは、マルコと名乗った偉丈夫だが、彼はスッくと立ち上がると、店長より更に頭一つ高い事が分かる。

 そのまま、ザッと足を肩幅に開き、懐からなにやら手紙らしきモノを取り出した。

 「告! 店長殿! 此度は本人が推参出来ぬ事を先ず詫びたい! 年寄りの末期の願いで御座る! だいぶ前に頂いたマイタケのテンプーラ! 何卒、何卒、死に逝く前にもう一度食したく候! 魔王側近 道化のボラス!」

 と、マルコは高らかに手紙の内容を読み上げた。

 それを聞いた店長も、少し唸る。

 「店長殿……御返事は……如何に……」 

 恭しくそう問い掛けるマルコだが、店長にこの度の依頼を受けて貰えない場合、腹かっさばいて上役に詫びを入れるつもりであった。

 爛々と、決意に満ちた表情を浮かべるマルコに対して、店長は目を開く。

 「…………分かった……やってみよう」と、そんな店長の返事を聞いたからか、マルコも思わず、「おお!」と感嘆の声を上げた。


 意気揚々と帰る偉丈夫を見送った幻想庵一同。

 遠くなる背中を見ながら、店長はクルッと踵を返した。

 「店長……何処へ?」

 どこか、落ち着きの無い声でそう聞く紫。

 そんな彼女の声を背に受けてか、店長はしばし足を止めた。

 「材料の調達に行かねばな……二、三……いや、一日だけ店を空ける…」

 そんな店長の声に反応してか、スタコラと走ってきた月夜は元気良く片手を上げた。

 「はい! 私も行きます!」

 そう断言する月夜だが、今度ばかりはとばかりに紫は首を横へ振った。

 「駄目よ、今度は貴女がお留守番………だって貴女、前にも前科が在るでしょう?」

 そんな二人に取り合わず、店長は店の奥へと支度の為に入って行くが、二人は気付いてはいない。

 「そ、そんな!? あ、でもほら、先輩じゃないとお店の事とか分かりませんよね? だったら…………」

 「誰にせよ…………何事も初体験は在るものよ? 月夜……勿論、私にしてもね……」

 睨み合うのは、焦る月夜と妖艶に笑う紫。

 両雄、もとい、両方のキノコとも、微塵も譲る気は無いのか、その眼の間では、在る筈の無い稲妻が散った。

 睨み合う二人の間を、平然と旅人の様な格好の店長が通り抜けた。

 さて、二人にお留守番を頼もうかと口を開こうとした店長だが、彼の目は店の影の方を向いていた。

 「…………黒肥地………」

 そんな低い店長の声に、紫と月夜はどれだけ気が合っているのか、両者ともバッと跳びす去り、店長の前へと踊り出た。

 どこから現れたのか、店の横の僅かな影から、黒肥地がヌゥッと姿を現した。

 「……この店は私にとっても大事……貴方のお留守は私が護ります……どうぞ、其処のお二人は店長をお守りください……」

 恭しく頭を下げる黒肥地の前に立つ店長。

 やんわりと彼女の肩に手を置くと、少し微笑む。

 「すまんな……一夜……手間を掛ける」と、そんな店長の声に、黒肥地は僅かに頬を染め、頭を傾けつつ「……良いのです……貴方と私の仲ですから」と、嬉しげに答えた。

 口を大開きに、呆ける月夜と紫を背に、店長は一路何処かへと足を運び始める。

 そんな店長の背中に、黒肥地手を振りつつ、振り向く。

 「あ、良いのですか?……行ってしまわれましたが?」

 黒肥地のそんな声に、ハッと成る月夜と紫、ドッタンバッタンと店の奥へと入り込み、やたらと何かを無理やり詰め込んだらしいドデカいバックを背に店の外へと躍り出る。

 すぐさま、月夜と紫の二人は店長の後を追って爆走し始めた。

 そんな店長と二人のキノコを見送ってか、黒肥地は面白そうに微笑んでいたが、彼女もまた在らぬ気配に急ぎ振り向く。

 黒肥地が出てきたのとは反対の方から、椎茸栽培地に居る筈の香がその顔を覗かせていた。

 「ずるいよ一夜……僕と【分け合う】って約束したのに…………」

 香の呪いにまみれた声を受けても、黒肥地の余裕は崩れない。

 「あの方は私にお留守番を頼まれましたが?」

 「そんな事言って…………店長の布団でグッスリと眠るんでしょう? 彼の枕でモフモフするつもりなんでしょ?」

 目論見が見抜かれたからか、黒肥地の頬がピクリと動き、目を細めた。

 此処ままでは埒が開かないからか、黒肥地はため息一つ着く。

 「では、こうしましょう? 【半分こ】で…………どうですか?」

 黒肥地の言葉から、辺りには言い様の無いドスの利いた雰囲気が漂うが、直ぐにそれは、消えた。

 「うん、いいよ!」

 意外なほど、あっさりと譲歩を示す香。

 見るモノ居れば、かなり心配しそうな笑顔のお留守番二人であった。

 何はともあれ、幻想庵一行は在る場所へと向かっている。

 先頭を歩くのは店長マスターであり、幅広の帽子、と言うよりも唐笠に近いモノを被っているためか、彼の目線は様としてしれない。

 そんな店長のすぐ後ろ、若干斜め左側を歩くのは静峰月夜である。 

 久しく作務衣以外の私服を着ている彼女だが、薄明るく光る身体の一部と相まって、パッと見ド派手である。

 例えば、その辺の酒場でトレイ片手に店員さん、それどころか、店一番の踊り子と言っても信じられるだろう。

 その証拠に、歩くうちに如何にもな男達からは、露骨に「今夜どう?」と、声をかけられていた。

 その隣を歩くのは歩くのはお淑やかな淑女にしか見えない山鳥紫やまどりゆかり

 此方もまた、普段ではあまり着ない外出着、もとい私服を纏っていた。

 シックな渋い紫色ベースのノースリーブ、しずしず歩く姿は、時折横切る旅人や商人達の目を奪う。

 ただ、両人キノコに声を掛けたとしても、その全ては店長の一睨みで退散する。

 喧嘩寸前まで達し掛けたとしても、【幻想庵】の名前が出た時点で、大抵の無頼漢チンピラは逃げていった。

 そんな輩に、店長は低い声で一言呟く。

 「すまないが……この二人は、ウチの大事な店員なんだ……」とだけ言い残すと、やたらとはしゃぎ始める月夜と、頬を染める紫という反応が見て取れた。

 だが、ただテクテクと歩くだけでは収まらないのが月夜である。

 口を尖らせて歩いていたが、いい加減我慢の限界に達したらしい。

 「店長~、私達……何処へ向かっているんですかぁ?」

 そんな月夜の質問に、店長は少しウゥムと唸った。

 「……場所は、コレから行けば分かるが……問題が一つ在るんだ……」

 「なんですか? 問題って?」

 興味津々な月夜の眼を見てから、店長は若干息をのむ。

 「……俺の故郷にこんな言葉が在る……山の霊気が集まる場所、それは一子相伝……親から子へ、子から孫へ……それしか駄目って言うのが……」

 そんな店長の言葉を聞いてか、月夜は無邪気に両手を上げて華やかな笑顔を作る。

 「じゃあ簡単ですね! 今すぐ私と………へぶっ!?」

 月夜の言葉が途中で途切れたのは、紫の鋭い足払いに因って、顔面から地面にキスしてしまったからだ。

 「あら? どうしたの? 何も無い所で転ぶなんて…やっぱり天然キノコだからなのかしら?」

 オホホと、手で口を隠して笑う紫。

 鼻に走る鈍い痛みから、ムッとしながら月夜は顔を上げるが、月夜の勇気は長くは続かない。

 殺気とも取れる程に冷たい視線を向けてくる紫の視線に射竦められ、月夜はまたしてもプルプルと震えてしまう。

 だが、救いの御手は訪れる、

 「……大丈夫か?……ふむ、怪我は無いみたいだな……まだ先は長い、気をつけるんだ……」

 そう言って、店長はソッと月夜を引き起こす。

 店長に寄り添う様に歩く月夜は、後ろで激しい歯軋りをしながら、目をかっ開く紫に対して、アッカンベーとばかりに舌を出して見せていた。

 ともかく、なんとか平和な道のりを歩む一行だが、日も落ち掛けた時、遠くには街道沿いの宿らしきモノが眼に入った。

 提灯に印されたるのは一文字、【茸】の文字が書かれている。

 知る人ぞ知る街道沿いのお宿【狐のお宿】である。

 ガラッと戸を開けるのは店長。 

 スタスタといった、子気味良い足音と共に、奉公人なのか、小柄でそっくりな二人の女の子が現れ、ぺこりと頭を下げた。

 「「本日は当宿へようこそ! お泊まりですか!!」」 

 ぴったりと合った口調でそう言うのは、何処か狐を思わせる少女二人だが、店長の落ち着いた雰囲気は変わらない。

「……夜分申し訳無く………今宵の宿を借りたい…………」

 頭の笠を取り去り、店長も言葉を通した。

 「「はい! 三名様のおなーりー!」」

 似てる故か、二人の狐眼の少女達は揃ってクルクル回りながらスリッパを三組用意した。

 月夜にも、気配を辿る必要もなく自分達と同じなのだろうと当たりをつける。

 何故かと言えば、狐眼の女の子の背中には、あからさまにフサフサとした尻尾が見えていたからだ。

 此方へどうぞと案内された幻想庵一行。

 八畳ほどの部屋に通され、紫と月夜の二人は、ドデカいバックを下ろして、一息付いていた。

 壁に寄りかかる店長を余所に、月夜は疲れからか愚痴をグチグチと漏らしつつ、宿の事を気に掛けていた。

 「なんか……変なんですよね……なんて言うかな……私は結構落ち着くんですけど……人間の気配がしないっていうか…………」

 そんな月夜の言葉を受けてか、紫はチラリと店長を一別する。 

 それに対して、店長もまた、呼応するかの様に僅かに頷いた。

 「貴女……まだ人の里には行ったこと無い?」

 そんな紫の呟きに、うつ伏せで足をパタパタさせていた月夜はウンと頷く。

 「そう……じゃあ覚えて置く事ね……私達はあんまり人の世では歓迎されないってことを…」

 寂しげな紫の言葉に、月夜は足を止め、座り直す。

 月夜もまた、ほとんど生まれたてと言っても差し支えも無い。

 「………この人みたいな人間は別……貴女がこの人とどう出逢ったかは知らないけど……大抵の人間は粗野で野蛮よ?」

 その言葉、月夜は初めて店長と出逢った時の事を思い出していた。

 「私達みたいな者にとって契約は大切よ? それこそ、間違って酷い人間にでも捕まってご覧なさい……今頃、貴女は何処かでお客を取らされていたかもしれない……それが、否が応でもね……」

 そんな紫の声に呼応してか、部屋の障子が静かに開かれる。

 開けたのは先程と同じ女の子の片割れであり、彼女はすまなそうな顔をしていた。

 「えーと……お食事は……と、聞こうと思ってたんですけど、私も一言良いですか?」

 モソモソと正座をする狐眼の女の子。

 それに対して、店長は特に言葉を発する事なく頷いた。

 「ありがとうございます。 えーと、わたし、狐野この (まり)と申します。 で、其処のピカピカ光る人。 私達も元は貴女と同じで、地面に生えてました……でも、その後の事はあまり言いたくありません……でもです! ある日、やたらと柄の悪く、細い棍棒片手のオッサンに助けられました」

 しみじみと、椀がそう語ると、店長は目を少し見開く。

 「その後……まぁ、色々と有りまして……今はこの宿を経営してます……でも、普通の人間にはこの場所は見えない筈なんですけど……この人は良い人みたいです……だって、亜人でも魔法使いでもないのに此処にたどり着けたんですから」 

 椀の言葉に、店長は目を細める。

 「すまないが………その柄の悪いオッサンは元気だったか?」

 そんな店長の言葉に、椀はニッカリと笑った。

 「お知り合いですか!? はい、もし会ったなら、狐野が感謝していたとお伝えくださいませ!」

 恭しく頭を下げる椀。 

 そんな店長と椀のやり取りに、月夜は益々疑惑を深めてしまう。

 端的に言えば「此奴なにモンだよ!?」と、店長を見ていた。

 「店長……店長はどこから来たんですか? て言うか、何者なんですか?」

 その月夜よ口調はどこか興味深げなモノであり、彼女は探求心に燃えていた。

 「…………俺は…いや、俺を含めて同じのが何人居るかは知らない……だが、コレだけは分かってる……俺達は外来種なんだよ……此処に居る人達とは違うんだ………」

 そんな寂しげな店長の声に、月夜は「……がいらいしゅ?」と繰り返す。

 少し首を縦に振ると、店長は眼を閉じた。

 狐野がお膳を運んで来るのだが、双子か姉妹かどうかを月夜に聞かれても、そうではなく、親戚ですと教えられた。

 膳の内容は、場末の宿とは思えないほど豪華である。

 メインの香ばしい焼き魚と、その隣には揚げと山菜のヌタ。

 白飯と味噌汁に、御新香とくれば、なんとも豪華であった。

 ついでとばかりに、大の徳利三本が供される。

 「……酒は頼んではいないが?」という店長の静かな問いかけに、宿の主と名乗る若い女性が現れた。

 彼女が纏うのは、黒と赤を基調にした着物、それに着こなすは小柄で上品な出で立ち。

 その女性は、三つ指ついて、幻想庵一行に頭を下げる。

 「春堀はるぼりと申します……ご恩の方の縁の方と在れば、義を通すのが礼儀で御座います。 どうぞお納めください」

 ポカンと箸を咥える月夜とは別に、店長と紫の二人も、春堀と名乗る女将らしき人物に対して、丁重に頭を下げていた。

 食も半ば、徳利から杯に注いだ酒をクイと呷るのは店長と紫。

 因みにだが、月夜が「私も!」と、申し出た所で、紫から呆気なく却下されていた。

 「お子ちゃまは駄目…………」と、紫に言われた所で、月夜は「自分だって年齢不詳の癖に!? ふこーへーだー!!」と騒ぐ。

 だが、店長は片手を上げて眉を寄せる紫を制すと、徳利を持ち上げる。

 「……ほら」とだけ言うと、おずおずと差し出される月夜の杯に、徳利の中身を注いだ。

 「……紫とは何度か飲んだ事も在るが……お前とはまだだったからな……」

 そんな店長の声に、紫は深く溜め息を吐いていた。

 「……良いんですか?」

 恐る恐るの月夜の声に、店長はわずかに笑う。

 「ああ、俺の故郷では……杯を交わすって云うのは特別な意味も在る……それに、お前の入店祝いもしてなかったしな……今は、これで辛抱してくれ」

 そう言ってから、残った料理を肴に、酒を飲む店長を見つつ、月夜もまた、僅かに頬を染めながらチビチビの杯の中身を飲んでいた。

 さて、お風呂に関して言えば、残念ながら宿には一つしかない。

 その為か、在る問題が発生していた。

 「お風呂行きましょう! お風呂!」「……混浴……か、か、構いますん!」

 もはや開き直ったのか、妙に明るい月夜と、なんとも受け取り辛い言葉を発する紫。

 だが、店長は悩んでいた。

 「……いや、やはり女性に譲るというのが……」と、そんな言葉を店長は発したが、彼の意志を無視してか、この時ばかりは紫と月夜の二人は協調し、店長の両手を引っ張って行ってしまった。

 脱衣場まで勢いに任せたは良いが、実問題としてやはり恥が先に立つ。

 月夜と紫がチラチラとお互いを牽制しつつ、店長が生暖かい視線を向けるという三竦みの状態がしばらく続いた。

 これでは埒が明かないとばかりに、店長は申し訳程度に用意してあった仕切りの向こうへと姿を眩ませる。

 ベルトを外す音な、かすかな布衣擦れが立てる音に、紫はゴックンと唾を飲み込み、何故か月夜の薄明るく光る部分は明るさを増した。

 ほぼ無言で、尚且つ下半身をタオルで丁重に隠した店長はスタスタと浴室へと歩いて行ってしまう。

 ハタと我に帰った月夜と紫もまた、恥と外分を振り捨てて、素早く着ている物を脱ぎ始めていた。

 丁度良く用意してあったバスタオル一枚で、自らの身体をしっかりと巻く月夜だが、その細い二の腕や、しっかりとしまった太ももが眩しい。

 だが、何故か彼女が脱いだ服は発光を止めているについては、本人も知らないらしい。

 対するは紫だが、そのボディラインはしっかりとした大人の女性を思わせるが、彼女は何故かタオルを巻こうとはしない。 無論、きっちり隠してはいるのだが、何故かその眼には覚悟が決まっているのか、目が座っていた。

 「先輩……やっぱり、こう、巻いた方が良いのでは?」

 「な、な、何を仰るの? お風呂に行くのに……失礼では在りません事!?」

 と、紫の言葉を聞いて、月夜『あ、だめだこれ』と、大変失礼な事を考えていた。

 いざ、断崖絶壁から飛び降りる様な覚悟を決めたのか、二人は浴室へと足を踏み入れた。 

 濛々としている湯気に隠れてか、店長の姿は視認出来ないが、総木造の浴室は、実に感動的である。

 薄暗い上に、湿気は豊富、オマケに室温まで生暖かいとくれば、キノコに取っては、人間で言うところの温泉に入って極楽極楽と述べる状態に近い。

 つまり、どういうことかと言うと、そのまんま寝そべって動かなく成るのだ。

 コレを避けるには、方法が無くもないが、それはキノコに取っては大変な試練である。

 本能的な欲求に負けず、意志を保つのは容易の業ではないのだ。

 ともあれ、すっかりと店長が入浴を済ませ、後は部屋に帰って寝るかと彼は考えていたが、床に寝転がる月夜と紫を見つけた。

 「……先に上がるからな……風邪は引かないように」

 と、それだけ言うと、形容し難い顔で寝転がる二人を放置し、店長はまたしてもスタスタと行ってしまった。

 「せんぱぁ~い……ますたーいっちゃいましたけどぉ………」

 「うぅん……わかってるぅ、でも、あとすこし、あとすこしだけぇ…………」

 なんとも蠱惑的な悩ましい声で話し合う月夜と紫だが、二人は浴室内で寝転がっているだけであった。


  風呂場に、店員を置き去りというのも流石に気が引けた店長だが、あの幸せそうな顔を見ては、なかなかソレを止めようとは彼には思えなかった。

 あてがわれた部屋に帰る途中、その部屋の近くに、行灯あんどん片手の春堀の姿が在った。

 「……なかなか良い趣の風呂でした……もし、ウチの店員が御迷惑をお掛けするような言ってください……」

 先に口を開いたのは店長であり、彼は頭を少し下げる。

 それに対して、春堀はうっすらと笑い、首を横へ振った。

 「それはそうでしょう。 わざと湿気を多めにするために、わざわざ焼け石まで用意したのですから当然です……」

 「………それは、どういう…………」

 春堀の言葉の後、店長は真相を聞き出そうかと思ったが、彼の言葉を遮るかの様に、彼女は片手を店長の胸板に当てる。

 「先程も申し上げましたが……貴方は私の恩人との縁が在ると仰られた……出来ますれば、もう少しその事をお伺いしたく存じます……如何?」

 何故か、心持ち熱い声で春堀はそう言うと、スッと部屋の障子を開ける。

 わざわざ誂えたのか、部屋には朱塗りの善が二つ用意してあった。

 先代の事は、確かに店長も知りたい事が多い。

 特に断る理由が無いからか、春堀に促されるまま、店長と春堀の二人は部屋の中へと消えた。

 

 二人が居るであろう部屋の外では、狐野椀この まりと共に、受付で幻想庵一行を迎えた椀に良く似ているが何故か槍を背負っている狐野槍この うつぎが、興味深げに細い眼から熱い視線を送っていた。

 「ねぇ……うつぎ、見た?」「……うん、見ちゃったよ、まり……」

 見た目は子供に近い二人キノコだが、実際の年齢に付いては不明では在るが、人間よりも長命な故に、その年月は計り知れない。

 とは言え、其処はソレ、椀と槍の二人は勝手な妄想を静かに、そして、熱く語り始めていた。


 薄暗い明かりに照らされるのは、どこか居心地悪げな店長と、僅かに妖艶な笑みを見せる春堀の二人。

 「ささ、先ずは御一献…………」

 そう言うと、春堀はゆっくりと徳利を持ち上げる。

 先程の大徳利とは違い、椿が描かれた小振りなそれは、薄暗い灯りに照らされ、実に春堀と同じ様に妖艶に映る。 

 御酌されるままに、店長の杯には香り高い酒が満たされる。

 微笑む春堀に、店長は僅かに手を上げ、その杯の酒を一息に飲み干した。

 「お強いんですかね……あの方に良く似ていらっしゃる」

 どこか嬉しげに酌を続ける春堀。

 それに対して、店長は杯を保持したまま肘を脚に着けた。

 「聞こうか……師匠は今何処へ?」

 店長の言葉を聞いてか、春堀は自分の分の杯に酒を注ぐとそれをグイと呷る。

 「東の方……だとは聞いています。 何故あのとき、ついて行かなかったのか……今でも私はそれを悔いています」

 僅かに首を傾け、何処か苦々しく過去を語る春堀。

 「でも……偶には顔を見せてはくれます……貴方も、此処で待てば、いずれはあの方に会えるのでは?」

 そう言うと、春堀は店長の横へと進み、彼にしなだれかかる。

 店長は、少し鼻を鳴らし、唸る様にして眉を寄せた。

 「申し出は有り難い……だが、のっぴきならぬ用事が在る故……明日には此処を立たねば成らない……」

 「やはり……良く似ていらっしゃる……師と弟子、揃っていけずですこと……」

 だが、春堀もまた譲る気は無いのか、白魚の様な細指で掴んだ店長の衣服からは、指を離そうとはしない。

 「……今宵は……夜風が冷たくも有ります……」

 という春堀の言葉に対して、店長は杯を呷ると、彼女の赤い瞳をジッと見る。 

 「すまないな……春堀……師弟揃って不精者で……」

 「……私は椿つばきです……店長さん………」

 首を傾け、目を細め笑う椿に対して、店長もまた、応えるかの様に眼を細めた。

 

 と、そんな店長と春堀の二人をネタに、勝手な妄想を繰り広げるのはまりうつぎ。 

 

 おませな二人が見守る中、行灯の僅かな明かりに照らされ、障子に映るは大小の影。

 その小振りな影が、ソッと大きな影に近づき、影が一つに成るのを、椀と槍は心の中でキャーキャー言いながら見守っていたのだった。

  

 少し後、【狐のお宿】の廊下を歩く影が二つだが、片方は僅かに発光していた。

 「駄目じゃないっすか…………先輩…………」

 「う、うるっさいわね…………貴女だって同じでしょう?」

 と、姦しい声を立てながら、宿の廊下をドスドスと歩く月夜と村。

 結局の所、二人が風呂場から脱出する決意を決めるのに、店長が先に上がってから、実に三時間はたっぷりと掛かっていた。

 既に深夜の為、宿の廊下は薄暗く、最低限の明るさしかないが、其処はソレ、月夜が髪の毛の裏や衣服がやたらとぼんやりと、そして淡く緑色に光っている為か、紫もまた足元に不安は無い。

 あてがわれた自分達の部屋へと辿り着いた月夜紫だが、恐る恐る障子を開ければ、当たり前の様に三組の布団が敷かれており、既に店長は右端に陣取り、寝息を立てていた。

 ソレを見て、ゴクリと唾を飲み込む月夜と、何故か怪しく笑う紫。

 「やっぱり……此処は先輩に譲るべき……よね?」

 自身の隣に位置する月夜に対して、紫は極々当たり前だろうといった口調でそう言うが、月夜は首を縦に振ろうとはしない。

 「何言ってるんですか? 先輩は左端でぐっすりどうぞ? あ、真ん中は私が守ります。 だってほら、店長から先輩を護らないと……ねぇ?」

 そんな月夜の言葉に、紫もまたやはりと言うべきか、首を縦には降らない。


 この後、店長の隣に布団を一組運ぶという事に気づくまで、実に二時間は延々と月夜と紫の話し合いは続くのだった。

 

 翌朝、いつもと同じ様に無表情にも近い店長は置いて置くとしても、問題が無いわけではない。

 眼の下にクマを作った紫と月夜だが、背の荷物も相まってか、より一層疲労の色を濃くしていた。

 「代金はコレにて……良い宿です……また、いつか……」

 見送りに出て来ている春堀の手に、金貨で三枚渡す店長。 

 一枚は確かに受け取った春堀だが、二枚は店長の胸ポケットへと押し込む。

 「きっとですよ? 狐のお宿はお客様を……お待ちしております故……」

 小声でそう言う春堀に、店長は、軽く頭を下げつつ、山の中の道へと脚を進める。

 ゾンビの様にフラフラ付いて来る月夜と紫だが、どうにも睡眠不足から頭は働いていないらしく、春堀椿の目のには気付くことはない。

 「まーた、きーてねー!!」「きっとだよー!!」

 そんな、まりうつぎの大声に、振り向く事はなかったが、店長は片腕を高々と挙げる事で返事とした。  

 遠くなる店長の背中を、春堀は、胸に手を当て惜しげに見送る。

 「……人など、契約なんて二度としない……そう思ったけど……あの方とこの方、どちらが良いのかな……」

 そんな事を、春堀は誰にも聞こえないほど小さく呟くのだった。


 覚束ない足取りで歩く月夜は思わず足を地面に取られる、それを、素早く店長と紫がしっかりと受け止めていた。

 「あ……すみません、先輩、店長マスター……」

 そう言う月夜に、紫は笑って首を横へ振る。

 「何言ってんの……困った時ぐらい、助け合いが大事でしょ?」

 そんな紫の言葉に、店長も弾ってうなづいて返す。

 ホッと一息、月夜は荷物を預けようかと背を振り向かせたが、その先に在るはずの宿は、まるで何も無いかの様に消えていた。

 思わず目をゴシゴシ擦る月夜は、もう一度注意深く眼を見はったが、やはり其処には何も無い。

 青ざめてから、震える手で店長の服をぐいぐいと引っ張る月夜。

 「ま、ま、店長マスター! あ、あの宿! 何なんですか!?」

 月夜の怯える声に反応してか、店長もまた宿の方を見る。

 「……あのオッサンらしく、御丁寧な事だ……悪意在る者には、あの宿は見えないんだよ……」

 そう言って、少し笑うと、店長は月夜と紫の背中のバックを取り上げ、それを軽々背負いつつ、また足早に進み始めた。

 「先輩……見えます?」と、そんな月夜の言葉に、紫は必死に目を凝らしていた。 

 「も、も、も、勿論! あんなハッキリ見えるじゃない!? アハハ!」

 そう言うと、ザッと足元を蹴り上げ、踵を返して店長を追いかけ始める紫。

 首を傾げてはいたが、深呼吸し、邪心を捨て、心を無ではなくくうにすると、月夜にもぼんやりとだが宿が見えた。

 「あ~なる程ねぇ……」と、ようやく納得と合点がいった月夜だが、急いで振り返ると、離れつつある店長と紫の後を追い始めた。


 山深く進む幻想庵ご一行だが、山道を逸れて藪を少し進む内に、着いたと店長は語る。

 とは言うが、周りはどう見ても藪にしか見えず、申し訳程度にドデカい木が在る程度である。

 「あの~店長? なんにも無いんですけどぉ?」

 そう言う月夜だが、穏やかな雰囲気の店長とは違い、紫の異変に気づく。

 例えるならば、知らない人が来てやたらと勇ましく見える子犬のソレの様に。

 

 「何者じゃ!?」と、辺りをつんざく様な大声が、幻想庵一行の後ろから突き抜ける様に響き渡る。

 

 咄嗟にボクサーの様な構えを取る紫と、何故かその場に伏せる月夜。

 ゆったりと振り向き、頭の傘を取ると、店長は少し頭を下げた。

  月夜と紫の二人が断続的に緊張を続けるが、声の主は分からず、尚且つ未だに出ては来ない。

「お久しぶりです、水楢(ミズナラさん」

 頭を下げる店長が、何者かの名前を呼ぶと、辺りの藪からは、ひょっこりと頭が姿を覗かせた。

 草丈が高い為か、茶色い髪と緑青の瞳までしか、紫と月夜には確認出来ずにいる。

 ホッと緊張を解いた月夜だが、その隣では、店長の声を聞いた紫が、咄嗟に愛想笑いを浮かべていた。

 「……此処に来るのは……一人というお約束の筈……何故に他の人が?」

 疑うような水楢の声に、店長はほんの僅かだが、笑う。

 「この二人は家の店員です。 それに……気配で分かるのでは?」

 未だに草村から出てこようとはしない水楢に対して、諭す様な声色の店長。


 無論、店長に言われるまでもなく、月夜と紫ですら、水楢という得体の知れない人物が、自分達と同じ人キノコ娘なのは気配で分かる。

 相手もまた、同じように分かる筈なのだが、緑青の瞳は何かを訴えかける様に幻想庵一行を見ていた。

 と、此処までくれば月夜にも分かったのか、ポンと手を叩く。

 まるで頭に電球でも浮かんだのか、水楢の人となりが理解できた。

 膠着状態はさて置いておくとしても、月夜は直感的に分かったように、水楢というキノコは、非常に人見知り、もしくは恥ずかしがり屋だろうと、月夜は判断していた。

 このままでは埒が開かないと、店長は水楢へと歩み寄る。

 釣られて、月夜と紫が距離を詰めると、その分だけ水楢もまた後退していた。

 ソレを見てか、月夜は『どんだけだよ?』と思うが、頬をピクピクさせるだけで我慢を自分に強いていた。

 未だに間合いはそのままだが、店長は頬を僅かに指で掻く。

 「一人で来なかった事に関しては………この通り謝罪を。 要件お伝えします。 いつもの品を分けて頂きたい」

 店長はそう言うと、頭を下げる。

 さて、言われた水楢はというと、どうも何かを考えているのか、少し唸って居るようである。

 だが、何かを思い付いたのか、草の向こうから手を叩く音が、僅かに響いた。

 「あ! 私としたことが! お客様にお茶も出さないなんて! その場で動かず待っててくださいね?」

 どこか棒読み口調でそう言う声が響き、草村から覗いていた水楢の頭がスッと下がった。

 なんとなく、気配が遠のくのを感じたのか、月夜は肩と頭を落として溜め息を漏らす。 

 「あーもー、店長ー、なんなんですか? あのキノコ?」

 元々活発な性格故か、月夜からは、水楢という人物のそれが理解しかねている。

 端的に言えば、とっととブツを貰って帰りたいのだ。

 ただでさえ、昨日の宿でもろくに寝ておらず、山道を歩いた為か、月夜の疲れは結構な所まで来ていたのだ。

 「ま、良いんじゃない? 偶にはこう言うのも」

 そう言うのは紫であり、彼女は手頃な場所を選び座る。 

 紫の言うとおり、程よい藪の中である為か、太陽の光も其れほどとはいかず、尚且つ、空気はひんやりと湿気を孕んでいる。

 月夜も、紫のほんわかした顔に釣られて、汚れなそうな場所を選んで腰掛けるのだが、マズいと感じた。

 暖かい布団やコタツ、春や秋の昼間に、思わず今の月夜と同じ様に感じる人間も多いが、それは今にも寝たいというリラックス感である。

 どう足掻こうと二人はキノコ娘であり、有り体に言えばエルフやドワーフといった亜人よりも、火のサラマンダーや水のウィンディーネの様に、どちらかと言えば土の精霊に近い。

 この際、種族など構ってはいない月夜だが、手遅れなのか、彼女もまた、紫の様に、実にほんわかとした顔に成りつつある。

 疲れも相まって、若干ウトウトと船を漕ぎつつ在る紫と月夜だが、そんな二人に、店長からは素朴な湯呑みが差し出される。

 「……大丈夫か? 水楢さんから茶が出されているが?」

 そんな、店長の心配そうな声に、月夜と紫の二人はムニャムニャとした返事を返す。

 「……しゅみません……」「……あー、どーもー……」

 思わず、落ちそうな瞼にあらがいつつ、月夜は水楢の気配のする方を向く。

 「……いーえー、構いませんからぁ……」と、そんな水楢の声と共に、草村の向こうからは、相も変わらず水楢の頭と、ほっそりとした手がパタパタと左右に振られている。

 スズッと渡された茶を啜る月夜だが、なんとも言えないまろやかさと、程よい暖かさに、ますます彼女の顔はほんわかとしていってしまう。

 月夜の第六感が、【このままではマズい!】と、告げてはいるが、強力なまでのリラックス感から、月夜の隣の紫は、空になった湯呑みを持ちながらも、座ったまま寝始めている。

 まさに、その辺に生えているキノコ状態の月夜と紫を確認したからか、水楢と呼ばれた人物キノコは、ようやく草村から姿を現した。

 隠れていたから分からなかったが、意外なほどの細身な長身。

 折り重なる様な髪と同じ様に独特な衣服を纏ったキノコ娘、水楢舞ミズナラ マイが、店長の前に立つ。

 「やぁっとお邪魔虫が退きました……言ったはずですよ? 私……あんまり人が多いのは嫌いだって」

 そう言って口を尖らせる水楢に対して、店長はすまなそうな顔を浮かべる。

 「……すまない……同族も数えるとは……俺の不徳でした……」

 「それ、もう良いんですよ……ほら、お二人ともすっかりその辺の子達みたいに動かないでしょう? そろそろ……新しい【踊り】を貴方に披露したかった……モノをお渡しする前に、見て頂けます?」

 水楢はそう言うと、若干困った様な店長の袖を持って何処かへと連れ去る。

 今や鉛の様に重い瞼に抗ってはいたが、意識が途切れる前に、連れて行かれる店長を、月夜はウトウトとしながら見ていたが、とうとう夢の世界へと行ってしまった。

 

 薄暗い藪の中に、何処か焦った様に細い棍棒片手に佇む店長。

 そんな彼を嘲笑うかのようなケタケタとした笑い声が響いていた。

 『部下も失い……人間ご自慢の火を噴く槍もない……』

 何処からともなく、水楢の低い声が響くと同時、店長は辺りを見渡す。

 「眠り薬どころか、あんな物を二人に渡すとは……出て来い、姿を見せたどうだ?」

 挑発めいた店長の言葉に反応したのか、近くの樹木から、またしても笑い声が響く。

 店長の視線の先、其処には辺りの景色が歪む陽炎らしき物が在る。

 徐々にだが、朧気な陽炎は色と形を伴い、獲物を見る眼で店長を見下ろす水楢が其処には居た。

 「獲物が、デカい態度を取るもんじゃない……私は踊る、お前はそれに付き合えば良いの……」 

 そんな水楢の声と共に、彼女の身体は景色に溶ける様に姿を消した。

 一瞬ではあるが、水楢が登っていた樹木の在る地面がガサリと音を立てる。

 相手の姿も、出方すら分からない店長は勘に任せて横へ跳ぶ。

 手を軸にして、一回転をする店長。

 その彼が居た場所には、鋭い矢の様なモノが突き立っていた。

 陽炎は、店長へゆっくり近付く。

 後ろを取られた店長の命運が決まるかどうかのその時、「店長マスター!」という月夜の悲鳴にも近い叫びが、藪の中を木霊した。

 思わず、陽炎は注意を其方へと向けてしまう。    

 咄嗟に店長は、手の棍棒を横へと凪ぐ。

 ほんの僅かな手応えを感じ取った店長だが、彼の棍棒は、確かに、水楢の腰に着けられているミズナラの葉を模したアクセサリの一部を剥ぎ取った。

 モヤモヤとした陽炎は、次第に点滅するように姿を変え、其処には、驚愕に顔を歪める水楢。

 相手の虚を突き、月夜は店長に肩を貸して彼を立ち上がらせる。 

 「あ、アレはいったい……」そんな月夜の困惑した声に、店長はほんの少しだけ鼻で笑うと、「……まさか、光学迷彩クローキングデバイスとはな……」とそれだけ答える。

 当惑する月夜に、店長は彼女の背をポンポンと落ち着ける様に優しく叩いた。

 「お前……いや、月夜のおかげだよ……姿が見えれば、五分五分たいとうで戦える」

 そう言うと、店長は怯える月夜を護るかの様に背中へ回す。

 舌打ちが響き、水楢は何らかのアクセサリを引きちぎり、忌々しげにそれを投げ捨てた。

 点滅するかの様な水楢では在ったが、何らかの効果を持つアクセサリを失った時、陽炎は消え失せ、彼女の本来の姿が露わになった。

 般若の形相を浮かべる水楢に対して、店長は深い呼吸を始める。

 店長の余裕故か、後ろに控える月夜もまた、恐れはなく、寧ろ目の前の広い背中に、安心感すら感じている。

 店長と月夜の余裕が気に入らないのか、水楢は唾を吐き捨て、ハッと息を吐き出した。

 「……ちょっと目眩ましが取れたぐらいで……立場が逆転するとでも思ってんのかよ!?」

 吐き捨てる様な言葉と共に、足踏み一つで地面を軽々抉る水楢。

 彼女と同じ種族である月夜は、自分の無力感を心の中で嘆くが、別れ際に何故か血塗れの紫に、吐血混じりに言われた事を思い出す。

 『……つ……月夜……自分を…あ、あの人を信じて……』

 そんな言葉と共に、紫は月夜の頭から消えて行ってしまう。

 月夜は、ハッとなると、店長の横に進み、彼の棍棒に自らの手を添えた。

 「……どういうつもりだ月夜……これは!?」 

 咎めようかと思った店長だが、月夜が発する僅かな光は増幅され、彼の棍棒へとそれを包むかの様に広がり、店長と月夜は、淡く翡翠色に光る。

 跳び来る水楢に向けて、二人の思いが詰められた棍棒は、光の槍と化し、水楢へと真っ直ぐ進んだ。

  

 と、此処まで夢現うめうつつをさ迷った月夜だが、そんな彼女は店長に因って揺り起こされていた。


 「……おい、そろそろ起きられるか?……」

 そんな店長の声に、月夜は立ち上がって、辺りをキョロキョロ見渡す。

 「はれ? 店長マスター! あの化けキノコは!? 二人のロマンスは?」

 全く持って、店長には意味不明な言葉を吐く月夜。

 「……お前が、何を言ってるのは知らないが……材料は分けて貰えたんでな」

 「え?……あれ?」

 店長は、片手に舞茸が詰められた籠を持っており、なおかつ、月夜の中では、感動の別れをした筈の紫は、座ったまま何とも言えない顔で眠っている。

 続いてキョロキョロと辺りを月夜が確認すると、其処にはうっとりとしている水楢の姿があった。

 何の踊りかは別に、踊り疲れたのか、水楢の顔からは心地良い疲労に酔うようにも伺える。 

 恐らくは汗だろうが、しっとり感と艶を増した水楢の顔は艶々としており、加えて、長かった筈の彼女の独特なスカートは、すっかり短く成っていた。

 「私……人見知りでして……でも、店長に私の【踊り】を見て貰えたから、すっかりいい気分なんですよね……なんか、友達、増やしたく成るような」

 などと、何処か惚けた言葉を水楢は呈した。

 水楢の言葉に、ムムッと月夜が訝しむ横では、店長がやんわりと紫を起こしており、その間、紫は何故か艶っぽい声を僅かにあげていた。


 寝ていた為か、紫と月夜はすっかり元気に成っている。

 反面、店長はわずかに疲労の色を見せていたが、恐らくは、水楢の踊りに集中して寝ていなかったからだろう。

 ともかく、新たに月夜と紫という友人を得た水楢は、帰り道に着く幻想庵一行に手を振ってくれた。

 

 背の荷物が無いためか、月夜と紫の足取りは軽いのだが、月夜は在ることに気付いた。

 山道を下れば、其処に在るはずの【狐のお宿】が無いのだ。

 んんっと、月夜は目を細めるが、やっぱり宿は跡形も見えない。

 さすがに不安に成ったのか、月夜は店長の肩をバシバシと叩く。

 「ま、店長マスター! 大変です! 宿が在りません!」

 ビシッと、宿が在った場所を指差す月夜。

 だが、それを遮る様に紫の高笑いが響き渡る。

 「……流石は毒キノコ! 邪念どくに押しつぶされて、あんなにはっきり見える宿が見えないの!?」

 そんな、紫の高らかな勝利宣言だが、店長はゆっくりと首を横へ振った。

 「………あぁ、あの類の建物はさ、動くんだよ………」

 店長の淡々とした言葉に、紫は青ざめ、月夜は眉を潜める。

 自分の指二本を用いて、クイクイと指を動かし、歩く仕草を月夜と紫に見せる店長。

 「紫も、月夜も知ってるだろ?……お前たちみたいなキノコを狙う屑は多いんだ。 あの宿の迷彩も完璧じゃない……だからこそ、コソコソとアッチへ行ったりコッチへ行ったりを繰り返す……そして、其処で商売をするのさ」

 そう言うと、店長は軽く笑って歩き出した。

 目をぱちくりさせる紫と、ムムッと唸る月夜。

 「先輩?……一応、聞きますけど……ホントに見えたんですか?」

 そんな月夜の言葉に、紫は余裕の顔だが、何故か汗はダラダラ流れる。

 「あ!……待ってくださーい!」

 月夜の追求を避ける為なのか、はたまた焦りからか、紫は小走りで先を行く店長の後を追った。

 月夜は狐のお宿の跡地を見ると、フフンと不敵に笑う。

 この世は、まだ知らない未知に溢れているらしい、そんな事に期待を高めつつ、月夜もまた、紫の様に店長の後を追った。

 幻想庵までの道のり付いて言えば、其れほどは遠くない。

 平均的には、歩いて五から六時間程の距離だ。

 初日にて、休んだ理由として上げられるのは、紫と月夜のドデカいバックパックのせいだろう。

 いい加減、中身を気にした店長だが、それを確認しようとするも、それは紫によって阻止されていた。

 月夜のバックパックの中身は、それ程のモノはなく、ごく一般的な旅人用のモノに相違ない。

 テント、丸めた敷物、綿入りの布団、水、食料、etc。

 反対、紫の荷物は、彼女の名誉の為に割愛する。

 それでも、汗はかいても特に疲れた様子を、店長は見せない。

 スタスタと、平然と歩く店長の横へと並び、月夜は疑問に口にした。

 「店長、荷物持たせて言うのもアレですけど、疲れないんですか?」

 月夜の疑問も、最もだろう。

 水楢と何をしていたのかについては、【彼女の踊りを近くで見物した】としか店長は答えてはくれない。

 月夜の疑問に付いては、店長は少し笑う。

 「なんて言うかな……ま……水楢がな、【元気が出る】という茶をくれたんだ……」

 店長はそう言うと、懐からなにやら怪しげな小袋を取り出し、月夜に渡す。

 中身について言えば、特に変なモノではなく、月夜は首を傾げた。

 手に取っても、それは何らかのキノコを良く干したモノにしか見えない。

 興味から、それを口に入れようとした月夜だが、それは紫によって止められた。

 「………駄目よ?」

 半ば無理やり、紫は月夜からブツと小袋を奪い取る。

 不満から、口を尖らせる月夜だが、ブツを小袋へ戻すと、それは紫のポケットへと入れられてしまった。

 「えー!? なんで駄目なんですかぁ!?」

 そんな月夜の不満も勿論だろう。

 だが、紫はツンと済まして笑う。

 「前も言ったけど……お子ちゃまは駄目……ね? 店長?」

 唐突な紫のキラーパスに、店長はムゥッと唸った。

 「え? ちょ、店長! なんで私は駄目なんですかぁ!?」

 月夜の激しい追求に、店長は答えに窮した。

 水楢から分けて貰ったブツの効果なのか、店長の足取りは軽く、ムッとしたまま脚を早めた。

 ブツブツ文句を垂れる月夜だが、手には、僅かに一欠片ほどの何かの乾物がある。

 ニヤリと笑い、月夜は平然とそれを口に放り込むと、良く噛む。

 感想について言えば、風味はどうにも日向臭く、味についての感想は余りない。

 あまり旨くないなと思いつつも、吐き出すのもどうかなと思ったのか、月夜はそれを、飲み込んだ。


 その僅か後、やたらと目を血走らせた爆走する怪しい女の子が、蕎麦屋の店長と、その店の店員によって確認されていた。


 ペースが上がった為か、店長と紫が幻想庵に着く頃には、黒肥地と香に介抱されている月夜が確認出来た。

 大の字に地面に転がる月夜を、黒肥地と香の二人は興味深く見守っている。

 「あーあ………この子、たぶん【アレ】をそのまんま食べたよね?」

 「ええ、そうだと思います………アレはお茶として頂かないといけないのに……」

 香と黒肥地の言葉はともかく、白目を向いたまま、月夜は口から泡を吹いていた。

 程なく、店長と紫は幻想庵へと辿り着く。

 「店長マスター!」「お帰りなさいませ……」

 店長を見るなり、跳ぶように抱き付く香に対して、黒肥地は粛々と、あくまでも上品に頭を下げた。

 その様を、紫は笑顔なりとも、こめかみに青筋立て、頬をピクピクさせながら、お姉さんとしての対面を何とか保っていた。

 「礼は後でキチッとする…………」という店長の言葉から、香と黒肥地は渋々【この場】に限り、納得してくれたらしい。

 紫の刺すような視線を受けようが、香と黒肥地はニコニコと余裕で笑う。

 「……きっと、ですよ?……また…わ…山菜をお届けに参りますから……」

 「……うんうん、まぁ、また直ぐ……ぼ……椎茸は必要だろうからね?」 

 含む所が在るのか、香と黒肥地はニヤリという嗤いだけを残していった。

 紫の中で、何かが切れたらしい。

 寒気を覚える様な雰囲気を纏わせつつ、「…………薪、割ってきます」とだけ残して、紫は店の横へとゆらりと消える。

 未だに延びてる月夜を、店長はお姫様抱っこで持ち上げ、店内へと入る訳だが、在る意味、これは紫からは見られてはいなかった。

 それは、不幸中の幸いなのかも知れない。

 

 しばらく後。

 やたらと子気味良い音で、何かが割られる様な音が響き渡る中、月夜はガバッと身を起こした。

 キョロキョロ辺りを見渡し、どうも自分が座敷に寝かされているのが分かると、フゥと溜め息を漏らす。

 「あー、死ぬかと思った……」と、これは謎のブツを身体に入れてしまった月夜の感想だが、今はどうやらなんとも無いらしい。

 何かが割られる音を無視しつつ、厨房から響く音に、月夜は興味をそそられていた。

 先輩が何をトチ狂っているのかは知らないが、月夜からすれば、店内に僅かに響くサラサラという独特の澄んだ音に聴き入る。

 ソッと覗くと、店長が腕を鈍らせない為か、蕎麦を打ち始めているようであった。

 篩にかけられ、木鉢へと蕎麦粉がハラハラと雪の様に落ちる。

 其処に、桶から水が加えられ、丹念に水が回されて行くのを、月夜はボーッと見ていた。

 粉は粟の如くなり、また、水が少し足される。

 粟から小豆へ、小豆から大豆へ、大豆から空豆へと、蕎麦が形を変えていくのを、月夜は面白げに見ていた。

 よせに入る前に、店長は気付いていたのか、月夜の方を振り向く。

 「起きたか?……なら、紫を呼んできてくれないか?……今日は、疲れただろう。 とりあえず、飯食って明日に備えよう」

 店長の声に従い、月夜は裏口の格子から外を覗くと、薪割りを振り回している紫を視界に捉えた。

 「せんぱーい! 店長がお呼びですよー!」

 月夜の呼び声に、紫はわずかにピクリと震える。

 薪割りを背中に隠し、紫はクルリと回った。

 「あら……そ、それじゃあ仕方ない……わよね、オホホ……」

 そう言うと、気分良く紫が歩くのは月夜にも分かったが、格子からは異様な光景が広がる。

 辺り一面、割られた薪が散乱している。

 それを見て、月夜は、紫は怒らせてはいけないと、肝に命じていた。

 

 翌日。

 朝から仕込みと出汁の確認をする店長。 

 控える様に、月夜と紫の両名は従業員用の作務衣に着替えていた。

 二人が見守る中、出来上がった汁を味見する店長。

 未だに暖簾すら出してはいないが、月夜は疑問であった。

 「店長。 着替えたのは、良いんですけど……今日はまだ開店してませんけども?」

 それとなく、疑問を投げ掛ける月夜に、紫は少し微笑む。

 「……ま、ご予約の場合だからね………滅多にないから」

 昨日の薪割り時の殺気はどこへやら、紫は柔らかい微笑みを絶やさない。

 黙々と仕込みを続ける店長に対して、月夜はフゥと少し嘆息を漏らす。

 少し後、幻想庵の前には、豪華ながらも歪な籠が馬車が到着した。


 カラカラと、軽い音を立てて幻想庵の戸が開けられる。

 「……ごめんくだされ……」

 戸を開けたのは、前にも現れた偉丈夫であるマルコだが、先に店内へと入って来たのは、どうにも小柄なお爺さんであった。

 風体について言えば、【怪しい】の一言である。

 マルコと同じ様な和服擬きだが、羽二重にも似て、それはどこか異様でもあるが、実に上品でもある。

 コツコツと杖を着く姿は、今にも死にそうな雰囲気を纏わせるが、漂う気配から、月夜にはそれが擬態に過ぎないと分かった。

 「いらっしゃいませ。 ご予約のボラス様でしょうか?」

 当たり前の様に接する紫に対して、ボラスと呼ばれたお爺さんは、ホッホッホと笑った。

 ムムムと訝しむ月夜だが、ボラスを支える様に、白色の貴婦人が姿を表す。

 「ボラスの妻、アマニタと申します。 確かに予約していた者ですが、此度はどうも、ウチの旦那がめんどくさい注文をしたようで……」

 優雅に頭を下げるのは、色白の美女。

 被る大きな帽子から、纏う衣服まで、頭の先からつま先まで、真っ白でその人は染められていた。

 紫に促されるまま、月夜も店員らしく頭をぺこりと下げる。

 「では……お座敷へどうぞ」

 そう言ってボラスと美女を案内するのは紫だが、スッと月夜の横を通り過ぎる際、ボラスは片手を月夜の下腹部、つまりは尻に這わせた。

 「ちょ!?……なにすんですか!?」

 流石に唐突な事態に、自らの触られた底を両手で庇いつつ、月夜はボラスから飛び退く。

 月夜に触れた手を、しげしげと眺めるボラスだが、次の瞬間には、アマニタの厚いブーツの踵が、ボラスの爪先にめり込んだ。

 なんとも言えない黄色い悲鳴を上げて転がるボラスを横に、アマニタは月夜に頭を深々と下げる。

 「すみません……良く言ってあるのですが、あのエロ爺はどうにも見境と言うモノが無くて……申し訳有りません」

 奥方らしいアマニタに其処まで言われては、月夜は文句も出せずに、ムムッと唸り口を尖らせた。 

 アマニタに、痛がるままに座敷へと引きずられるボラス。  

 未だに唸る月夜に対して、紫は先輩らしく月夜の背中をポンと叩いた。

 「ま、コレも洗礼みたいなモノよ? あの糞爺、私も前に同じ事されたんですもの」

 目を細める紫に対して、月夜は若干落ち着きを取り戻す事が出来る。

 「ともかく、私がお茶出しとくから、貴女は店長を手伝ってあげてね?」

 そう言うと、紫は月夜を厨房へと軽く押した。

 尻を触られた事は頭に来るが、アマニタのお陰で溜飲は下がっている。

 だが、ソレよりも気になる事が、月夜には在った。

 熱せられた油と、ソレに揚げられるモノが立てる音が響く厨房。

 ホホーっと言いながらも、月夜は店長の手際に見とれるが、言ソレよりも気になる事が在った。

 「店長! 何なんですか!? あのじじ……お客は? だいたい、どっから湧いたんですか!?」

 そんな月夜の質問に、店長は天ぷらの様子を見ながら答える。

 「……あぁ、あの爺さんな……なに、昔は魔王の側近だった爺様だよ……」

 「で、でも!? 私お尻触られたんですけど!?」

 月夜の焦る言葉に、店長は僅かにピクリと身体を震わせるが、いつも以上に仏頂面になる。

 何か悩むようでもあるが、決して店長は天ぷらからは目を離そうとはしない。

 「……すまん……」と、店長はそれだけを漏らした。

 どこか、自分を責めている様にも見える店長に、月夜は言葉に詰まった。

 もっと慰めても欲しい。

 だが、どうにもそれを言い出せない月夜。

 そんな彼女の背が、強めに叩かれる。

 チラリと見れば、其処には苦笑いを浮かべる紫。

 「客商売だもの………アレぐらいで驚いてたら、この先勤まらないわよ?」

 そんな紫の言葉に、月夜は店長との出逢いや、宿での紫や狐野の言葉を思い出す。

 拳を握り締め、胸の前に掲げる月夜はビシッと顔を引き締めた。

 「が、頑張ります!!」と、高らかに宣言する月夜に、紫は笑って「うん、そのいきそのいき!」と励ましてくれた。


 場所は移り変わり、其処は幻想庵の座敷。

 上座に腰掛けるは、どこか惚けつつも、先程よりも凛とした佇まいのボラス。

 そして、その横では、柔らかい笑みを浮かべるアマニタ。

 いよいよなのか、月夜と紫の手によって運ばれた料理が、ボラスの前に並べられる。

 ホコホコと湯気を立てるマイタケの天ぷら、その横には、店長謹製のもり蕎麦が僅かに輝く。

 ぺこりと頭を下げる紫。

 「お待たせしました。 幻想庵、特別天もりで御座います。 ごゆっくりどうぞ」

 紫の言葉に、満足げに頷いて見せるボラスは、いざとばかりに、その手に箸を取った。


 その頃、厨房では、月夜と共に店長が片付けと仕込みを行っていた。

 「店長、良いんですか? 挨拶とかしなくても?」そんな、月夜の疑問に、店長は首を横へ振る。

 「……旨けりゃそれで良いのさ……俺は裏方、面が料理、それ以上でも以下でもないんだ」

 という店長の言葉に、月夜はふぅんと声を漏らす。

 ふと、厨房に紫が顔を覗かせた。 

 「店長、お客様がお呼びです」という紫の言葉に、店長は「分かった」と漏らす。

 座卓越しに、ボラスと対面するのは店長である。

 どこか硬い空気が流れる中、ボラスは、徐に懐へと手を伸ばした。

 ハラハラしながら見守る月夜が息を飲み、紫は僅かに体を強ばらせる。

 パンッという子気味良い音を立てて、ボラスは扇子を開いて、頭の上で振って見せ、アマニタもまた、旦那に合わせるように、ニッコリと笑った

 「見事である!」端的に、そう言うボラスに対して、店長は僅かに頭を下げ、「ありがとうございます」と答えた。

 「いやはや、この店でないと、あのテンプーラは食べられずに困っておったのだ……料理人に作らせてはみたが、あんなモノとは比べられん。 流石は、西に名を届かせる【幻想庵】二代目じゃな! 天晴れである!」

 そんなボラスの言葉に、月夜と紫は、安堵の溜め息を漏らした。

 満足したのか、マルコから手渡された革袋には、金貨がかなりの枚数納められていた。

 頭を下げて、去っていく馬車を、幻想庵一同は見送る。

 一番先に頭を上げた月夜は、フンと鼻息を吹き出す。

 「………まったくぅ……てゆーか、店長! あのエロ爺は死にそうじゃなかったんですか!?」

 やはりというべきか、そんな文句を月夜は漏らす。

 それに対して、紫はフフッと笑った。

 「いつもの事よ? あんなのがそんな簡単にくたばる訳ないでしょ?」

 紫はそう言うと、先に店内へと戻った店長の後を追う。

 遠く成りつつ在る馬車を見て、月夜は少しだけ【客に喜ばれるのも、悪くはない】と感じていた。

 店内へと戻った月夜は店長から直々に暖簾を渡される。

 「大変だとは思う……だが、此からも一緒に頑張ってくれないか?」

 そんな言葉を、店長から掛けられた月夜だが、満面の笑みで大きく頷いた。


 午後の営業開始の為に、暖簾を掛けるのは月夜である、

 通りがかった旅人に、「お、今日はやってるの?」と聞かれた。

 サッと踵を返すと、月夜は元気な声で返事を返す。

 「いらっしゃいませ! ようこそ、幻想庵へ!」

お読みいただき、ありがとうございました。


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