少しだけ
夢を見ていた。
そこには、彼女と自分しかいなかった。彼女は最初、僕には気づかずに呆然としていた。まるで脱け殻のようだった。僕は、彼女を助けてあげたかった。手を伸ばして言う。こっちへおいで。僕のところへおいで。しかし、言葉はおろか、伸ばしたはずの手も、僕のわきを行儀よく離れずにいた。
彼女が僕に気づく。不意に悲痛な顔をして、なにか叫んだ。
“助けて!!”
助けて、助けて、助けて。
僕は耳を塞ぎたくなった。呻こうとしたけれど、それさえできなくて。彼女は今も助けを求めている。僕にできることはなんなのか。一体、どうしろと言うのか。
───殺せ。
夢は、そこで途切れた。
夢を見ていた。
小さな自分は、兄と屋敷の庭を駆け回っていた。目の前いっぱいに広がる緑にはしゃいでいると、どん、という音と共に衝撃があった。尻餅をつくと、ぶつかった相手がだいじょうぶ?と言った。兄と同じくらいの少年だった。差しのべる手を掴むと、それは大きくて少し冷たかった。私は、頭を下げて逃げ去った。
兄にそれを報告すると、兄はとても怒った。そいつはすごく悪いやつで、今日は客だから見逃してやるが、今度会ったら殺してやる、と言った。私はそれを困り顔で見ていた。
“今日は客じゃないから、殺してやるんだ”
兄の声が聞こえる。やめて、という声は届かない。私が手を伸ばしたその時、夢は、そこで途切れた。
コップいっぱいに水を入れ、ぐい、と飲み干す。ジュリエットはふう、と一息吐いてコップを戻した。
「色気もなにもない飲み方」
声のしたほうを見ると、ロミオが呆れた顔でジュリエットを見ていた。ジュリエットはハッとし、慌てて口許を隠した。今ごろ隠しても遅いのだが。
ロミオは静かにコップを取りだし、水を汲んだ。それに口をつけ、傾ける。
ロミオはコップを置き、不意にジュリエットを見て目を見開いた。
「なに凝視してんの!? 気持ちワル! いやもう怖いわ。むしろ怖い。頭だいじょぶかよ」
ロミオは心底怯えているようだった。ジュリエットは手のひらで顔を隠し、自分の失態を恥じた。うっかり愛する人を怯えさせるなんて、と。
「ごめんなさい。綺麗だったから」
なにが? とロミオは訝しげな顔をする。ジュリエットはかぶりを振った。
しばらくなんとはなしにその場でうつむいていると、君はさ、と小さな声がした。見ると、ロミオは思ったよりも近くにいて、ジュリエットを見下ろしていた。
「君は、ちっこいほう?」
ジュリエットはショックを受けた。なんて失礼な。まあそこがロミオ様のいいところなのですけど!
「そんなことありません! 皆と同じくらいですわ」
否定すると、ロミオはふーん、と呟いた。
「そういうもん? じゃあ僕の周りの女の子って背が高いほうなのかね」
「ロザラインがいますわ」
「あの子はまだ発展途上だ」
「まぁ……そうですわね」
しばらく沈黙。今度はジュリエットから口を開いた。
「ロミオ様はこんな夜中に、どうなさったの?」
ロミオが口を開こうか迷っているのを見て、ジュリエットは重ねて訊ねた。
「悪い夢でも見た、とか?」
ロミオが少々驚いたような顔をした。ジュリエットは微笑む。
「私も、そうなのです」
ロミオはじっと、ジュリエットを見つめていた。ジュリエットは、なんだか試されているような気分になった。君は、とロミオが言う。
「君は、一体誰だ?」
ロミオの鋭い視線。ジュリエットは恐る恐るロミオの瞳を見つめ、どうして、と呟いた。
「僕は君を、キャピュレット家の使用人か、あのパーティに来ていた誰かか、その付き人だと思っていた。でも……僕は君を、見たことがあるような気がするんだよ」
「……なぜ、キャピュレット家のご令嬢などとは間違えなかったのかしら」
「令嬢にしては服のセンスが……と思って。いや、キャピュレットなんてそんなもんなの?」
ジュリエットは顔を手のひらで覆った。泣きそう。いろんな意味で。
「君は、キャピュレットの血筋の人間なの?」
ジュリエットはうつむいて、それから笑顔を作った。
「ロミオ様、覚えてるかしら。私たち、小さな子どものころ、一度だけ会ってますのよ」
ジュリエットはロミオの手を掴んだ。大きくて、冷たい手だった。
「私、明日には帰らなくてはなりませんの」
「どうして」
ジュリエットはできるだけ胸を張り、上品な笑みを作った。
「私が、キャピュレット卿の娘、ジュリエットだからです」
しばらくなにも言わないでいると、ロミオは、ひどく疲れたような顔をした。それから不意に、知ってるんだ、と呟く。ジュリエットは驚いた。知ってたのですか? と言うと、ロミオは首を振った。
「こういうこともある、ってことだよ。もうさほど驚きはしない。神様は意地悪だから。せっかく、面白いから友だちになってもいいと思ってたのにね」
言葉とは裏腹ないじけたような口調に、ジュリエットは笑いをこらえた。それからジュリエットはロミオの手を離した。
「少しだけ、戻るだけですわ。必ずまた来ます。ロミオ様が私を憎んでも、必ず来ます」
「ああ。僕は君を憎むだろう」
わかってはいるけれど、やはりジュリエットの胸は痛んだ。それでもロミオに微笑みかける。
「貴方は私の、運命だから!」
そう、幼き日のあの瞬間から、ジュリエットの運命はロミオだけだったのだ。ジュリエットはもう一つ付け加える。
「それと、ロミオ様はわかってませんわ。私はただのお友達じゃなくて、ロミオ様の恋人候補ですのよ」
ジュリエットは静かに背を向け、歩きだした。
ジュリエットは、父と母からお説教を受け、部屋に戻ったところだった。ふう、とため息を吐き、これからどうやって抜け出そうかと一生懸命に考えを巡らせる。不意にノックの音が響き、ジュリエットは上の空でどうぞと呟く。
入ってきたのは若い男だったが、ジュリエットの瞳にはそんなもの入り込んでこない。男がひざまずき、ジュリエットの手をとって接吻したとき、ジュリエットはやっと悲鳴をあげた。
「な、なんですの! なんですの!? 誰か、誰か助け……」
「ジュリエット様」
男の落ち着いた声に、ジュリエットも黙った。男は、まるで女のように端整な顔をしていた。ふわりとした黒髪が耳を隠し、瞳まで隠そうとしていた。しかしそこから覗く瞳は存外優しそうで、ジュリエットへの深い愛情がうかがえた。
「初めまして、ジュリエット様。わたしはパリスと申します。いきなりのご無礼お許しください。わたしは貴女様の、夫となる男にございます」
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パリスさんきましたね。本家でも親の決めた婚約者としてご登場なさるパリスさん。一番可哀想なのは彼なのでは?といつも思います。