君(あなた)
恐る恐る手を伸ばし、優しく触れてみる。愛する人の頬は、冷たかった。何度か撫でて、ロザラインはその場に崩れ落ちた。涙がぼろぼろと伝って落ちて、そこに小さな水たまりを作った。
「馬鹿……本当に馬鹿」
この人はそう、昔から無茶ばかりして、いつもあたしは心配で。こんな気持ちは見ないようにしてたのに、やっぱりこんなにも胸が痛い。
初めて会ったときから、なにかを感じていた。でも自分を騙して生きてた。この人はいつもあたしに同じ顔。違う人にも同じ顔。それなら優しくしないでくれればいいのに、と何度恨んだことだろう。でも本当は、飛び上がるほど嬉しかった。ううん、もうなんでもいいの。だから……
だから、もう一度目を開けて。
「馬鹿なんだから。貴方もあたしも」
ロザラインは冷たい手を握り、ぎゅっと目をつむった。
足音が聞こえた。顔を上げると、ロザラインが歩いていた。目が真っ赤に腫れている。ロミオは迷ったが呼び止めた。
「ロザライン」
「……お兄様?ひどい顔してるわ」
「君もだ」
ロザラインは少し笑った。それから近寄って口を開く。
「お兄様、あのね、ジュリエットが」
「……うん」
「結婚、するのよ、今日」
「え?」
ロミオは目を丸くした。
ジュリエットが結婚する? 誰と? どうして? ロミオの頭に浮かんだ疑問は、浮かんでは消え、結局は一つしか残らなかった。
「どうして……?」
ロザラインは、辛そうな顔をした。
「お兄様のために、決まってるじゃない」
「僕の……」
ロザラインは静かに話し始めた。もともとジュリエットには縁談が来ていたこと、ジュリエットにシーラの話をしたこと、それを聞いたジュリエットがモンタギュー家に行ってしまったこと。
「あたしのせいだわ。あの話をして、ジュリエットがなにをしようとするかくらい、わかってなきゃいけなかった」
それが原因で、ジュリエットは皆が平和に暮らせるような大きな力を求めていること。
ロザラインはしばらくうつむいていたが、やがて絞り出すように言った。
「だから……こんなの馬鹿げてると思ったのよ……! 誰も、誰ひとり……」
幸福になんてなれてない。
「馬鹿げてるわ。馬鹿げてる。愛や身分や憎しみや……全て、馬鹿げてる……!」
ロミオは立ち上がった。まるで、稲妻に撃たれたような衝撃が頭のなかで走ったようだった。驚いて目を丸くするロザラインの手を掴み、ロミオは早口でまくしたてる。
「君に初めて出会ったとき、君は子猫にパンをやってた。僕は、こんなに愛らしい少女が存在しているのかと本当に驚いたものだ。君の子猫に向ける瞳は、そうだ、ずっと変わってなかったんだ」
「お、兄様……?」
「思い出したんだ。思い出したんだよ。今なら、マキューシオの質問にきちんと答えられる」
「マキューシオさんの、質問?」
ロミオは一度目を伏せ、考えを整理してから言った。
「……行ってくる」
「どこに」
「ジュリエットを、迎えにいくんだ!」
「お兄様っ」
ロザラインが叫ぶ。振り向くと、ロザラインはロミオの手を握った。冷たくて大きい、と呟く。
「今日は、結婚式です。花嫁を奪うなら、それなりの格好をしなくては」
ロザラインは、そう、悪戯ぽく笑った。
式の準備は着々と進んでいた。ジュリエットは白いドレス姿でベッドに腰かけていた。遠くをぼうっと眺めていると、部屋の扉が開いた。優しそうな瞳が目に入る。
「ジュリエット様……とても綺麗だ。本当に、この世界の何よりも。きっと今までもこれからも、これほど美しいひとはいないでしょう」
「ありがとう」
ジュリエットは微笑んで、少しうつむいた。パリスが目を細める。
「言わないでおこうと思っていました。わたしは貴女を愛していますから」
「え……?」
「一体だれを、待っているのですか」
ジュリエットはハッとした。
「だ、だれも……」
「いえ。だれだかはわかるのです。名前は知りませんが、わかります。貴女はその人のためにわたしと結婚をする」
ジュリエットは気まずくなって目をそらした。パリスのため息が聞こえた。
「やめましょう」
「え?」
「やめましょう。耐えられない。貴女のためならまだしも、貴女に愛されている男のために利用されるなんて、なんて虚しいのだろう。貴女には、わかりますか」
「あ……ごめんなさい、でも」
「おわかりにならないでしょう。心が引き裂かれるくらいに痛いのですよ。よく考えれば、そこまでして貴女のそばにいる意味がわからない。わたしには他に、運命の人がいるのかもしれないし、今になれば、貴女への想いなど子どもが姉を慕うようなものだったかもしれない」
ジュリエットは目を見開いてパリスを見つめた。その瞳に浮かぶ滴は、今にも溢れてこぼれ落ちそうだった。パリスはそれから、なにも言わずに背を向けた。部屋を出るとき、ジュリエットを見ると、今にも声をあげそうなほどに号泣していた。
パリスはジュリエットの部屋の前で、必死に両手で顔を覆った。
これでよかったんだ。愛する人を待ちながら、好きでもない人間と結婚しようとするあの人は見ていられなかった。一途で、懸命で、その想いが自分に向けられていないのは本当に辛かったが、そんな彼女をただただ応援したかった。
もし神が一つだけ願いを叶えてくださるのなら、どうか彼女が幸福になれますように、お願いします。お願いします。彼女がずっと、笑顔でいられますように。
ジュリエットはベッドにしがみついた。涙は止めどなく、声は必死で押し殺してはいるがときどき苦しげに漏れた。
ああ、自分はどれほど馬鹿なのだろう。自分の勝手な振る舞いでマキューシオを巻き込み、今度は誰にも頼らずになんとかしようとして、パリスを深く傷つけた。自分は結局、人に頼ってばかりいる。
この前泣かないと決めたばかりなのに、涙が止まることはなかった。否、今まで我慢していた分が一気に流れ出ているのかもしれない。
謝りたい。パリスにも、マキューシオにも、ロザラインにも、ロミオにも。でも、それ以上に、みんなに会いたかった。ロミオに、会いたかった。
ジュリエットはしばらく泣き続けた。
ロミオは大きな門を開け、高らかに言った。
「花嫁を奪いに来た! ちゃんと正装してきたんだぞ。言っとくけど、僕はこのカッコ、大っ嫌いなんだからね!」
今回はずいぶんたくさんの人が出てきましたね。私パリスさん好きなんですよね。
タイトル『君』はタイトル『愛しているのは』と対になっています。
『愛しているのは、君』




