空に
ホテル『ソルティー』のエントランスにて…
対峙するマリアンヌとアポロンJ。
まず動いたのはマリアンヌ。
持っていた血塗れのナイフを投擲する。
しかしアポロンJはそのナイフを身体を半身反らすことでかわす。
――見失ったか
アポロンJはマリアンヌから視線を全く逸らさなかったにも関わらず、彼女を見失ってしまった。
「ゲームセットかしら?」
その言葉と同時にマリアンヌがアポロンJの背後に現れる。そしてアポロンJの首もとにはナイフが当てられていた。
「いや、まだゲームセットは早い」
アポロンJはマリアンヌに言う。
「アナザースカイを渡せ」
「貴方、今の状況分かってる?」
「ああ、勿論だ」
アポロンJは答える。その彼の表現は焦りなどを全く感じさせない、まさに無表情であった。
その余裕を醸し出しているアポロンJに、少々苛ついたマリアンヌ。
徐々に首もとのナイフを皮膚に突き刺していく。そして遂にアポロンJの首から、血の雫が滴り落ちる。
「アナザースカイを何?」
マリアンヌは突き刺していくナイフを止め、再びアポロンJに問う。
彼女は青年の命乞いする姿を予想していたのだろう。
しかしその予想は裏切られることとなる。
「アナザースカイを“よこせ”」
強調するアポロンJ。
「そう…。命乞いでもすれば助けてあげたのに。まあいいわ」
マリアンヌはそう言うと、止めていた手を再び動かす。
「さようなら」
そして彼女は青年の首を刈り取った。
そう、刈り取った筈だった。しかし青年は立っていた。何事もなかったかの様に。
「馬鹿な」
今日初めてマリアンヌが動揺を見せる。彼女の額から汗が滴り落ちる。
「お前はアナザースカイを分かっていない」
アポロンJはマリアンヌに変わらぬ無表情で言い放つ。
「知っているわ。現に今使っている」
「そうだ。知っているが分かっていない」
「何を言って…」
マリアンヌは動揺をもはや隠しきろうともしない。
「アナザースカイとは、禁忌の魔導具。この世の理すら容易く曲げてしまう。そしてそれを使う人間すら曲げてしまう。
全うな人間が使う物じゃない」
アポロンJは言う。その瞳には若干の“弱さ”を感じさせた。
「それでも、それでも私はやらなくてはいけない。アシッド・ボーイを殺さなくては。家族の仇は必ずとる。そしていつか…」
――もう一度家族皆で笑いたいの
そう言ってマリアンヌは悲しげに笑った。
そして続ける。
「その為に必要なの。死者を蘇らせるアナザースカイが、魂を保存するアナザースカイが。それを邪魔するなら容赦しないわ」
笑ったのも束の間、直ぐに真剣な表情へと戻る。
「そうか、だが容赦は出来ない。お前のアナザースカイは頂くぞ」
マリアンヌとアポロンJが同時に地面を蹴る。マリアンヌが何処からかナイフを取りだし、それをアポロンJの心臓に向けて突き出す。
しかしそれはアポロンJが体勢を低くすることでかわす。
そしてその体勢の状態から膝蹴りを繰り出す。
その膝がマリアンヌに触れようとした瞬間、アポロンJは再びマリアンヌを見失う。
周りを見渡すアポロンJ。すると次の瞬間、背後に微かな気配。
後ろを確認するとそこにはナイフを振りかざすマリアンヌがいた。
アポロンJはそれを横っ飛びする事でなんとかかわす。
「お前のアナザースカイが何を保存するか分かった」
立ち上がったアポロンJはマリアンヌに告げる。
二人の視線が交差する。
「お前のアナザースカイは時を保存する。まず、アシッド・ボーイの部下の血で真っ赤なお前が白くなったのは、時を過去に戻したから。そして先ほど俺がお前を見失ってしまったのはその瞬間を保存、つまり時を止められてしまったからだ。そして時を保存している状態でお前は俺の死角に移動する。そうすれば俺にお前を見失わせるのは簡単だ。勿論時が止まっている状態で俺に傷をつけることは出来ない。時が止まっているからなぁ」
「……。その通りよ。私の空は時を保存する。」
時を保存するアナザースカイ。それを使われては、彼女にとってアシッド・ボーイの部下なんぞゴミ同然であった。
そう、彼女にとってアシッド・ボーイなどゴミと同義なのだ。だから排除する。
しかし彼女は気づいていない。
彼女も今やアシッド・ボーイと変わらないことに。
彼女も今やアシッド・ボーイと同じ目をしていることに。
彼女も今やアシッド・ボーイと同じく世界の敵だと言うことに。
「刺せ」
突然アポロンJは両手を広げてその場で止まる。
「何を企んでいる?」
マリアンヌはアポロンJのその行動を怪しんで、迂闊に動かない。
「何も企んでないさ。ただ、お前を哀れんだだけさ」
「私の何を哀れんだと言うんだ?」
「お前そのものさ。お前は確かに家族を殺されたかもしれない。だがそれを恨んでいいのは、全うな人間だけだ。人を殺したお前にその権利はない。ましてや家族と笑うだと?人殺しがおこがましいことを言うんじゃねえ」
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁ」
激昂したマリアンヌはナイフを構えてアポロンJへ向かって突進する。
依然アポロンJは動く気配がない。
そしてマリアンヌのナイフがアポロンJの心臓へと突き刺さった。
筈だった。
マリアンヌはアポロンJに触れることなく二人は交差する。
アポロンJは決して一歩も動いていない。
アポロンJは魔導具から拳銃を解放するとそれをマリアンヌへと向ける。
そして躊躇うことなく引き金を引いた。
乾いた音がエントランスに響く。
銃弾はマリアンヌの脇腹を貫いていた。
そしてマリアンヌが自身の服を初めて己の血により染める。
力なく倒れるマリアンヌ。
彼女から止めどなく血が流れ続けている。
――即死じゃない。だが怪我が再生する気配がないとこを見ると、自分に対しては時を戻せないのか。
アポロンJが思考していると、血塗れの彼女が立ち上がろうと必死にもがいていた。
しかし立ち上がれない。
すると彼女は地を這いつくばってアポロンJの下へと近づいてきた。
彼女その表情を見た時、黒い青年は初めてこの女に恐怖を感じた。
何故なら彼女は泣いていたのだ。
楽しそうに笑いながら。
狂気を振り撒きながら。
彼女は想像しているのだろうか、家族と笑うその時を。
彼女は悟ったのだろうか。家族と会えないその現実を。
彼女のその姿に、自分に恐怖を感じさせたその執念に、アポロンJは敬意を表す。
そしてアポロンJは這いつくばる彼女の頭に銃口を向けた。
「貴方は間違えた。貴方の家族はこんなことを望んでいなかった筈なのに。
この銃弾は俺からのせめてもの慈悲です」
乾いた音と共に彼女は絶命した。
――――――
この世界はとんでもなく醜い。
そして空は人を咎人へと誘う。
それでも人はこの世界を生きている。
生きられなかった彼女の家族、そして空に狂わされた彼女に、せめてもの敬意を表して願おう。
「次の人生は幸せに」
と。




