第2話「線路は常に枝分かれしている」
「という訳で、大変な事になった!」
「どういう訳だ?」
金曜の活動も、いつも通りのやり取りで始まった。しかし龍の様子は、天川の言いたい事がよく伝わってないらしい。どうにもこいつは、自分のやらかした事の重大さを理解していないらしい。オレにだって、天川が何を言いたいのかよく解る。
それにしても、あの大怪我をたった三日で完治するなんて、ホントどんな身体してるんだ、こいつ。まあ、金属バットを素手で砕く時点で大分おかしいんだけど。
「どういう訳だ? じゃないだろ! お前、あの帰り道でどんだけ人に見られたと思ってんだよ! えぇ?」
天川が立ち上がって、龍を威圧的に見る。
「あの帰り道? ……何だったか」
だが龍は、訝しげに首を傾げた。
「もう覚えてないの!? 三日前の事だろ! 上原事件だよ!」
「……ああ、上原事件か」
上原事件。
それは、この生徒会執行部の記念すべき初の仕事であり、初の職員室どころか校長室呼び出しを喰らった事柄である。生徒会執行部としては、とてもじゃないが華やかなスタートとは言えない切り口だった。
ようやく事情を察したのか、龍は神妙に頷いて――。
「それがどうかしたのか?」
やはり首を傾げた。
「どうかしたのか? じゃねーから! 大問題だから!」
「解決したじゃないか」
「したけどね、ある意味してないんだよ!」
龍は「うーん」と顎に手を当てて唸る。別に考える事でもねえだろ……。
数秒後、龍は天川の方を見て一言。
「解らん」
それを受けた天川は、思い切り椅子に崩れ首筋を掻く。
「頭良いようで悪いな、お前。いいか、確かに上原一家の蟠りは解決した。今では亮介君は髪も服装も元に戻して、毎日一緒に姉と登下校してるらしい。でもな、PTAは納得してないんだよ」
「どうして?」
「どうして? じゃないってもー!」
天川が机を強く叩いた。二ノ宮が「ひゃっ」と驚く。なんか、今日の天川はかなり苛々してるみたいだ。一体どうしたんだか。
「落ち着けよ、天川。物に当たるなんか、らしくないぞ」
オレは言葉で天川を落ち着かせる。
「あ、ああ。悪かった。でもな、これはかなりやばいんだ」
「やばい? PTAがなんか言ってんのか?」
「だってな、このシリーズ始まって早々、打ち切りの危機なんだよ」
「二話で!? そりゃ打ち切り最速記録だろうな!」
「ああ。このままじゃあ、恵のオレっ娘問題が未解決のまま、打ち切りになってしまう。それだけは、なんとしても避けたい」
「別にそれはいいだろ! 一人称なんか個人の勝手だろうが!」
「いいや。これは、シリーズ最大の課題だと、俺は考えている。異論は認めん」
「考えるな! そんで異論は認めろ! そんな事よりもっと別の事を考えろよ!」
「別の事って、例えば?」
「ええ? ……えーと……うーんと……」
「ほぉ~ら、ないだろ?」
「いや、二話の時点じゃそこまで重大な課題は見つからないと思う!」
「ところがどっこい。あるんだな、これが」
「な、何だよ」
「聞いて驚け! それが巷で話題の、PTA問題なのだよ」
振り出しに戻っただけじゃねえか! 今のやり取りは、必要だったのか!?
「勿論」
「!?」
こ、心を読まれた……!?
「お前は考えてる事が、顔と胸に出やすいんだよ」
「胸に出やすいってどういう事だよ!」
「その残念すぎるバストが、災いになってるのかもな……」
そう言って、残念そうにオレの胸を見た後、ちらっと廣瀬を見る天川。
……ああ、いいなあ、胸大きいの。何でオレは大きくないんだろうなあ……。ブラさえつけられないなんて、ひどい運命だよなあ。何であんなネット中毒女が、胸大きいんだろうな……。おかしいなあ、健康面ならオレの方が何枚も上手なのになあ。畜生、いいなあ、羨ましいなあ……。
「……恵?」
「…………」
「恵さん?」
「ハっ! な、何だよ!」
「……ごめん」
「何で謝るんだよ!」
「いや……。胸がないのは、女として見られたくないって言ってたのと同じ理由で気にしてないのかなと思ったんだ……。でもまさか、本気で悩んでたとは思わなかったんだよ。紳士である俺が、まさかそんな事にも気が付かなかったなんて……。悪気はなかったんだ! 頼む、許してくれ!」
「マジ!? マジ謝り!? やめてくれよ、頭上げてくれよ! そんなマジで謝られたら、余計心が痛むだろ!」
「これが、不良娘の成れの果てだ。二人とも、悪い事はしないように」
『はーい』
「頷くな! いや頷くのはいいけど! 悪い事はしちゃいけないけど! そんな理由で頷くな! 不良でも、胸大きい奴は居るから!」
「それに比べて……うぅ、恵は何て悲しい子なんだぁ……」
「泣くなァ! ますます悲しくなる!」
まずい、このままでは、ずっといじられる。いじり倒される。もう胸のことを言われるのは嫌だ!結構、気にしてるんだよ、悪かったな!
こうなったら、維持でも他の問題を見つけてやる!
「問題だったら、まだまだあるだろうが!」
「ああ、勿論オレっ娘の方も、ちゃんと話し合う予定だ。安心しろ」
「今すぐその予定は排除しろ! ほら、例えば廣瀬!」
「……?」
「見ろよこのすました顔! このネット中毒こそ、何とかすべきだろ!」
「恵……。それは、駄目だ」
「何でそんなマジ顔で、諭すように却下!?」
「夕からネット中毒が抜けてしまったら、個性がなくなってしまうだろう」
「ネット中毒が個性かよ!? 欠点を無理矢理正当化してねえか!? それこそ何とかするべきだろ!」
「いいや! こればかりは、譲れない!」
「何でお前がそこを譲らないんだよ! 保護者かよ!」
本人は激しくどうでもいいって顔してんのに!
「無駄だ、恵。お前のオレっ娘問題以上の事柄など、この執行部にありはしない」
「いや、絶対ある! そんな下らない問題より、もっと考えるべき問題はあるはずだ!」
「ほぉ~」
「! そうだ、二ノ宮の金銭感覚! これこそ―」
「いいや」
オレの言葉を、天川は神妙な表情で遮る。
「それはもう、無理だ」
「な、何でだよ!」
「一話とネタが被るからだ」
「いいだろそんなの! 減るもんじゃないし!」
「そりゃ減るもんではないがな。とにかく、それは駄目だ。春が沈黙してる事からも、この重大さは必然だ」
沈黙してるのは、特に関係ないと思うんだが!
ならば……仕方ない! 最終手段だ!
「ほらほら、ユー諦めちゃいなYO!」
「まだだ! まだ、終わってねえぞ!」
「む、その心は?」
「お前達は忘れている……この執行部で一番多くの欠点を持ち、今現在最も空気な奴の存在を!」
「! ま、まさか!」
執行部全体が緊張感に包まれる中、オレはその〝問題〟を指差す!
「犯人は、お前だァ!」
そう、執行部副会長の城古我龍こと、龍を!
「は?」
当の本人は、こちらの話は何も聞かずに、携帯ゲームに没頭してる有様だった。
「見ろあの姿を! 俺は関係ありませんよーと言わんばかりに、ゲームに逃避する様を! 何も理解出来てない愚かな様を!」
「そうだ……俺達には、もっと他にやるべき事があるじゃないか!」
「そうです! オレっ娘(爆)なんかより、こっちを何とかするべきです!」
「やばし」
決まった! これでいじりの対象が、龍に変更された! ふふふ、悪いな、龍。だが、もうこれしかなかったんだ!
見ると、龍はゲーム機を片手に、面々の顔を見渡している。
「え、何だこれ。俺、何か悪い事したか?」
まったく自覚なしだ。
かわいそうに、自分の駄目さにここまで気付かないとは!
「はい! 私に、とっておきの案があります」
そう言って立ち上がり、ズンズンと龍に近付く二ノ宮。すると、龍の右手を両手で握り締め、真剣な眼差しで龍を見据える。
「龍さん!」
「は、はい」
あまりの真剣さに驚いたのか、年下に丁寧になる龍。
そして二ノ宮は、息を大きく吸い込み、その一言を放つ!
「髪、切りましょう!」
「どういう訳だ!?」
『こういう訳だ(です)!』
「あぁ!?」
「私が最高の散髪屋を雇うので、安心して下さい!」
「何を!」
「私は、あると思います!」
「何が!?」
「という訳で、私の家に今すぐゴーです!」
『ゴー!』
「一体全体、何がどういう訳なんだ!?」
という訳で(?)、何故か二ノ宮家に連行されてしまった俺。現在、鏡の前で座らされ、髪を切られる準備は万全だ。いや、何でこうなった。
それにしても驚いた。二ノ宮の家を見たとき、それはとても驚いた。
まさか本当に、金色に光る豪邸があったなんて。
玄関まで、赤い絨毯が敷かれている光景が、本当に存在していたなんて。
更にその周りには、黒服の警備員がずらり。一体どんな仕事をしていれば、ここまで金が使えるんだろうか。これが成金という奴なのか。
そして何故、家の中に散髪室があるのだろうか。席も三つ分確保されている。素直に散髪屋に足を運べばいい事だというのに、無駄遣いも甚だしい。やはり金持ちは発想が違うな……。
「ではお客様。本日は、どういった形にお切りしましょう?」
男性の散発屋が丁寧に俺に訊ねた。
が、突然に連れて来られた身。そんな事を訊かれても困る。
「え? えーと……」
実際、散髪屋の経験は今日が初めてだ。いつもは面白半分で、勝手に詩織や苺に切られてしまうからな。
……思えば原因は、この二人にある気がしてきた。まぁ単に伸ばしすぎたってのもあるだろうが。
うーん、とりあえず短めでって言えばどうとでもなるか。あまり髪型なんて気にしないし、何でも良いや、この際。
「いや、駄目だ龍!」
「は?」
「お前のセンスは線型的に駄目だから、俺達が決める!」
「さっきから駄目出しばかりだな!」
「よし、皆! 龍の髪型を決めるぞー!」
『おー!』
何でこんな無駄なところで団結力発動するのか……。 もっと他で使うべきだろう、その団結力。
でも実際、それは言えてる事だから俺としてもありがたい。それにこのメンバーは、顔だけなら目を引くところがある。それなりに気の利いた髪形を提供してくれるだろう。
約一名を除いて。
「じゃあ、まずは俺から提案しよう」
天川が身を乗り出して、俺の頭をじろじろ見る。
「やっぱ長いのは似合わないだろうな。正直、それはキモい」
「いきなり今の俺を全否定か。もう何でも良いから、早く決めてくれ」
俺が急かすと、天川がポンと手をついて提案する。
「よし! アフロにしよう!」
「何でそうなる!? 却下!」
「何でも良いって言ったじゃないか」
「だからってそのチョイスはおかしいと思うんだが!」
「ええ? アフロって、便利な髪型だと思うぞ?」
「そういう問題じゃない! 単純に俺が嫌なだけだ!」
「我が儘は駄目だ!」
「自分の髪型なのに!?」
「今のお前に、人権は無いと思え!」
「ある! いかなる時でも、人権は不滅だ!」
「それはどうかな?」
「どっかの主人公みたいにカッコつけて言ってもあるものはあるんだよ! どうかなもこうかなもないんだ! アフロは今後一切、断固として拒否する!」
「ええー。……じゃあ俺から言える事は、何もないな」
「アフロ以外ノープランだと!?」
「だってねぇ……はぁ……」
「ため息の理由がまったく解らない!」
言うだけ言って、天川は皆の元へ帰って行く。
「アフロは駄目だってさ」
「何だと! ……我が儘だなあ、あいつ」
「信じられません! アフロが駄目だなんて!」
「やばし」
「全部聞こえてますけどー?」
何? アフロってそんなに推奨されてたのか? どんな理由で推奨されてるんだ?
「お客様……」
ふと、散髪屋が嘆息気味に声を漏らした。
「はい?」
「あまり、我が儘はよろしくないかと……」
「あんたもか! あんたもアフロ推奨派か!」
「便利ですから」
「どこが!?」
「困った時は、とりあえずアフロにすれば万事解決します」
「そういう方向での便利性!? それは散髪屋としての営利的なメリットだろ! 俺へのメリットは何も無いだろ!」
「ありますよ。とにかく、目立ちます」
「メリットですかそれ!」
「おや、お客様は目立ちたくないのですか?」
「一言も目立ちたいなんて言ってませんよ!」
「そうですか……はぁ……」
「プロが客の目の前でため息を吐いただと!?」
おいおい、この人に任せて大丈夫なのか? これでも、最高の散髪屋なんだよな? 金貰ってるんだよな? 猛烈に不安になってきたぞ。
「龍さん! ならば私が、納得の行く提案をしてみせます!」
そんな事を自信満々に言う、雇い主である二ノ宮。
「説得力皆無なんだが」
「大丈夫です! アフロ以外の可能性を、頑張って探します!」
「やっぱりアフロ以外はノープランなんだな」
「アフロが駄目ですと、そうですね……。とりあえず、長いのは、無しですね!」
「まず髪を切るんだから、長くってのは無理だろ」
「短くという前提ですと……こんな、こんな、こーんな感じで、ここをちょちょいってやって、ここをバーンとやるのは、どうでしょうか!」
「! おぉ、なんかかなり、それっぽくなってる!」
「でしょう、でしょう!」
「いい、いいじゃないかこれは! 想像以上だ! 説得力皆無とか言って悪かった、二ノ宮!」
「いいんですよ! お互い様です!」
ん? お互い様って、どういう意味だ?
……まあいい。とりあえず、二ノ宮の見事な提案のおかげで、これ以上変な事は聞かなくて済みそう――。
「じゃあ次は、廣瀬さんですよ!」
な訳はなかった。まだ二人、めんどくさい奴が居たな、うん。
廣瀬は二ノ宮とタッチを交わし、選手交代。今度は廣瀬が俺の髪型プランを提案する。
「…………」
と思ったら、鞄からパソコンを開き、カタカタキーボードを打ち、画面を俺に見せる。
「……何だ、これ」
そこには、ヒトデの頭をした漫画のキャラが映っていた。しかも動画で、今まさに決闘の真っ最中だった。
これはどういう事かと視線を向けると――。
廣瀬は強く推すように、親指をグッと突き立てた。
「いやいや! 何だよこれ! まさか、これがプランだなんて言うんじゃないだろうな!?」
「イエス」
「無理だろ! 漫画のキャラの髪型を現実で作るなんて普通無理だろ! 何より、それを俺でやるな! 実験材料か俺は!」
ここで再び、カタカタタイム。
「ええ、これを現実にするのが、私の夢だった? だから、協力してほしい? ……いや違うだろ! 今は俺の髪型を決めてるんだよ! 廣瀬の夢を叶える為にやってるんじゃないんだよ!」
「きっと、似合う(笑)」
「笑いながら推すな! ますます不愉快になるだろうが! とにかくそれは却下だ!」
俺が断ると、やれやれと言わんばかりに首を振りながら戻っていった。
こうなるから嫌なんだ! 何でそんなのが通ると思えるか解らない! 俺はまな板の上の魚だとでも言うつもりか!?
「よーし、最後はオレだな!」
……あー、しかもまだめんどくさそうな奴が居るし……。何か気合入れて指鳴らしてるし。言うだけなのになんで指を鳴らす必要がある? まさか実力行使する気じゃないだろうな?
「よく聞け龍。オレの意見はだな――」
「却下」
「おい、まだ言ってないだろ――」
「却下」
「え、まさか発言自体を――」
「却下」
「聞け! まずは聞け! 聞けば解る! 却下を出すのも、聞いてからでいいだろ? とりあえず―」
「却下」
「うがあああああああああ! 聞けって言ってんだよおおおおおおおお!!」
関野があまりにでかい声を出したので、発言だけは許す事にする。しかし……。
「毎日とんがり帽子を被ってる奴に、髪型の事を言われる筋合いはないんだが。増してやファッションセンスも最悪だろう。はっきり言って、俺以下だ」
「なんつー駄目出し! オ、オレの事はいいんだよ! これには深い理由があるんだから!」
「毎日ハロウィン気分だもんな」
「違えよ! そんな気分じゃねえよ!」
「まあそれはさておきだ。――正直、さっきの二ノ宮のプランで十分だと思うんだよ。俺はあれでかなり良いと思ったし。それに、悪いけどお前が変な事を言うのは目に見えてるからな。この面子でボケ担当はどう考えても関野だろう。どうせ、アフロがダメならモヒカンとか言いそうだしな。いや、リーゼントか? まあどっちでもいいや。とどのつまり、俺にとってはマイナスイメージの情報しか与えられないという訳。だから、聞く必要はないと――」
と、そこで、関野が身体を震わせてるのが解った。
「あれ、どうした関野――」
「ふざけんなよ、てめえおい!」
「!」
関野は、さっきのとは比べものにならないくらい、更にでかい声を出す。
「何でそうやって決め付けるんだよ! オレは自分の番が来るまで、ずっと龍に似合う髪型考えてたのに!」
「いや、でもそれが駄目なんだって――」
「何で信じてくれないんだよ! オレはただ、龍が喜んでくれると思って、ただ、考えてただけなのに……。それが龍にとって嫌な髪型かもしれないけど、聞いてくれたって……いいじゃんかよ……」
そう言って、関野は俯く。
あれ、おかしいな。俺はかなり正論を言ったはずなんだが、まるで俺が悪役みたいじゃないか。そもそも被害者は俺なのに、何故こんな役回りに転じなければならないんだ
「……う」
なっ――!
まさか、泣いてる!? あの関野が、泣いてるのか!? 泣かせてしまったのか、俺が!?
……いや馬鹿な。仮にも、泣く子も黙る不良軍団を仕切る女頭領が、こんな下らない事で涙腺を崩壊させる事など――。
「うぅ……」
――ありえなくもなかった! これは完全に泣いてる! 手で拭われる涙が光っている、わざとじゃない! 嘘だろ、こんな事になるなんて、思ってもみなかった! 完全に俺の失態か!?
「せ、関野……?」
「うぅ……うっ」
涙を堪える様は、さながら強気の子供のようだ。これ以上、事態を悪化させる訳にはいかない。
俺は立ち上がり、関野に近寄る。
「どうせオレなんか……オレなんかぁ……」
「関野! 落ち着け! まずは深呼吸をして気持ちを落ち着かせるんだ!」
「ううぅっ……」
くそ、反応がない! これはかなり重傷のようだ! まさか関野が、ここまでメンタル面で脆いだなんて!
「オレなんか……居ない方がいいんだ……龍にとって、オレなんか――」
「恵!」
俺は下の名前で呼び、肩を両手で掴み、涙で濡れた瞳を見る。
「ごめん。本当にごめん。何も考えずに……お前の気持ちを考えずに、馬鹿な事を言った俺が悪かった。だから、泣き止んでくれ。泣いてるお前なんか、見たくない」
「うっ、ううう……」
それでもなお、泣き続ける関野。
あれ、かなり真剣に謝ったのに、効果なしか! だったら何だ、土下座でもすれば許してくれるか?
「駄目だ、龍!」
「天川?」
「恵はキャラも容姿も時代遅れ! そんな典型的な謝りじゃ、恵は泣き止まない!」
な、何と言う事だ! 関野がそこまで、キャラを引き摺るなんて!
「だったらどうすれば! 俺には、これ以上の謝りは出来ない!」
「身体だ! 身体に示せ!」
な、何だって!? どういう事だ、それは! ていうかアドバイスしてくれるなら、手伝ってくれよ! ただ傍観してるんじゃなくて、手を貸してくれよ!
身体……。関野にとっての、身体に示すということは……。あれか? あれしかないのか? もう、やっちゃうしかないのか?
……致し方ない。これがご所望とあらば、なんなりと応えてやる!
「よし、天川。包丁をくれ」
「おう! ちょっと待ってろ、今すぐ持って――ってちげーよ! 何切腹しようとしてるんだよ! 跳躍しすぎだよ! 死ぬだろ!」
「覚悟は、出来てる」
「その覚悟は別のところに使えよ! もっと穏便に済ませられるだろ! ハグだよ、ハグ! 男ならそれしかないだろうが!」
「なんっ――!」
それも充分跳躍的だと思うんだが! まだ顔を合わせて数日の彼女を抱き締めろ、そう言うのか天川は!?
確かに女子にはそれが効果的なのかもしれないが、相手はあの不良娘の関野だぞ? 子供っぽさが抜けない二ノ宮あたりならまだ勝算はあるだろうが、いくらなんでも関野には……。
「うぅぇぇ~……」
ああぁ、戸惑っている内にどんどん関野の状態が悪化していく! これ以上情けない泣き声を出さないでくれ! あの男勝りな関野はどこに行ってしまったんだ! 見ていて幼気で痛ましい! 辛い、すごく辛い!
……ええいくそぉ、もうどうにでもなってしまえ!
「!」
関野を強く抱き締めた瞬間、泣き声が止まった。よし、今だ!
「ごめんな。何でもするから、もう泣き止んでくれ」
「……何でも?」
「何でもする。何でもする。だから、泣き止んでくれ」
「……うん」
頷いた。つまり、泣き止んだ!? やった! やったぞおおおおおおお!
ちらっと皆の方を見てみると、あちらも歓声に満ちていた(実際に声は出してないが、そんな感じ)!
「じゃあ、これ、やって」
「ん?」
未だに抱き締めながら、言葉を交わす。
「何? 何をすればいい?」
「この髪型に、して」
「…………」
とんでもないフラグが、抱き締めた瞬間に立っていたんじゃないか?
だが、聞かない訳にはいかない。
「勿論」
終わりか……。明日から、俺は不登校になるのか……。しかし、これは関野を泣かせた罪。償えるなら、償おう。
……友人が俺の為に考えてくれたんだ。その想いは、しっかりと受け取ろう。
「終了しました」
もう太陽が沈みかけている頃、自称最高の散髪屋がそう言って、部屋から出て来た。俺達は今、馬鹿みたいにだだっ広い居間に居る。これが幾つもあるってんだから驚きだ。
俺達四人は、恵の機嫌を取り戻す為にと、外で色々とやって恵を宥めた。ブランコに乗せたり、キャビア食わせたり、大富豪やったり。それが功を奏して、今の恵はいつも通りの恵だ。
いやしかし、一時期はどうなるかと思った。まさか、龍が恵を泣かせるなんて。正直俺も龍と同じ考えだったから、龍がかわいそうに感じた。
でも、恵が涙を流したのは事実。それは謝るべきで、やるべき事はやるべきだ。そんな訳で、今龍は恵が考えた髪型のプランで散髪し、ちょうど終えたようだ。
「しかし、どんな髪型を提案したんだ、恵?」
「それは見てのお楽しみだぜ。それはもう、見違える程になってるはずだ!」
「でも、私のプランの上を行くとは思えません!」
「いいや、これは、モデルとしていけるくらいだと、オレは噛んでるぜ」
「モデル!? それは凄い事になるかもしれませんね!」
「ふっふっふっ」
と、不敵に笑う恵。うーん、やはり説得力がイマイチない。アキバに居そうな格好をして、何を根拠に胸を張るのかね。無いけど。
「…………」
一方、残念そうにパソコンの画面を見つめる夕。この中で一番役に立ってなかった夕であるが、一応は慰めておく事にする。
「いや、いくらなんでも、それはな……。次があるさ、次が!」
現実的な髪型ならまだしも、ヒトデは無理があるだろう。まぁ次があっても、実現する事はないだろうが。
「龍さん、どうぞ」
散髪屋か促すと、龍が恥ずかしそうに扉から出て来た。
『…………』
出て来た瞬間、俺達は言葉を失った。
それは、今までの龍とは思えない姿だった。人というのは髪型が変わるだけで、こんなにも印象が変わるとは。
覆い被さっていた前髪が短くなった事で、初めて龍の双眸がきちんと窺える。こんな綺麗な瞳を隠していたんだから勿体無い。他にもすっかり日の目を見なかった後ろ首も露出し、耳も出ている。所々をワックスで整え、すっかりと今時の男子風だ。
全体的にもっさりしていた龍の髪がかなりスマートになり、見栄えが良くなった事ですっかりと見え方が違う。これはもう、普通にイケメンである。
衝撃の事実! ゲームオタクの龍は、イケメンだった!
「凄い! 凄いです!」
春が興奮して龍に近付き、両手で龍の右手を握る。
「私のプランなんか、ミジンコのようです! でも、悔しくないです! 寧ろ清々しいです! こんな素敵な龍さんを見れるならば私如き、灰にでも二酸化炭素にでもなります!」
「二ノ宮、言ってることが色々おかしいぞ。それと恥ずかしいから、そんなじろじろ見ないでくれ」
「くぅ~! その恥じらってるところがかなりいーです! そそります!」
「やめてくれ、気持ち悪い!」
そんなやり取りをしてる龍を、夕はケータイのカメラで角度を変えて何枚も撮影していた。夕があんなに興奮するのも珍しい。これは、アップされるだろうな。
「いやぁ、見違えたじゃんか、龍!」
とりあえず俺も、絶賛しておくことにする。
「どうだ? アフロなんかより、全然いいだろう?」
「あぁ、アフロなんて言った俺が馬鹿だったよ!」
「解ればいいんだ、解れば。――ちょっと、悪い」
龍は春の両手から右手を解くと、恵の方へ駆け寄った。
「……っ」
恵はまだ、さっきのことを引きずってるみたいで、龍と視線を合わせない。さながら、悩ましい恋心に翻弄される乙女のよう……。
おあぁ、なんて可愛いんだ! あそこまで可愛い恵は見たことがない!
「関野」
「…………」
「関野?」
「オレの……名前は……っ」
恥ずかしそうに俯いて、一言。
「恵、だよ……」
ぐううぅあああああああああああぁぁぁ!
こ、この胸のときめきは、まさか、アレなのか! 東京方面で散々と宣伝文句とされている、あの感情なのかぁ!? 〝も〟で始まって〝え〟で終わる、オタク様御用達の上等文句! うあぁ、可愛すぎる! 何で俺の時はそういうの言わないんだよぉ!
春なんか、両手を組んでキラキラした表情で見守ってるし、夕は何度も撮影してる! ここまで俺達の心を打つなんて、なんて破壊力なんだ、〝萌え〟!
「……恵」
「っ!」
そう言って、今度は龍が恵の右手を両手で握る! おぉ! これはまさに、プロポーズの瞬間だ!
期待を踊らせ、俺達はその瞬間を待つ。
二人は情熱を滾らせるように見つめ合い、そして……。
「ありがとう」
「うっ。……お、おう、どうだ! オレにかかれば、龍をイケメンにするくらい、朝飯前ってこった!」
「あぁ、そうだな」
「うぅっ。……は、離せよっ」
そう言って、頬を染めながら龍の手を振り払う恵。
「たくっ、手なんか握りやがってっ……。恥ずかしいだろうが!」
「そうか? 俺なりの感謝の示しなんだが」
「~っ! あーもう、帰る! 早く帰る! おかげでこっちは腹が減ってしょうがねえよ!」
「……そういえば、もうこんな時間か。俺も、早く帰らないとな」
そう言いながら、こちらに帰って来る二人。
……いや! いやいや!
『違ああああああああああう!』
『!?』
「プロポーズしろよ、龍!」
「はあ?」
「関野さん、何で自分から手振りほどいちゃうんですか! 絶好のチャンスだったのに!」
「チャンスって何だよ! オレはそんなの、狙ってねえよ!」
止めに夕が、先程激写した光景を二人に見せる。
『今すぐ削除しろ!』
なんだかんだで、今は帰り道。俺の家まで、後少しだ。
あの後、廣瀬が撮影した画像を全部削除して、二人の変な考えを無くさせていたら、すっかり夜だ。既に七時を回っている。一応詩織にはメールしておいたから、飯はもう食べ終えてる頃だろう。
暗い家路を辿り、何事もなく家に着いた。俺はドアをくぐり、すぐあるキッチンを抜ける。
「りゅーにぃ、おかえりー」
すると、居間で義理の妹である苺が迎えてくれた。
苺は小学二年生で、背も平均的。いつもならその青い髪は下ろしているが、家では詩織にポニーテールに纏めてもらっている。パジャマ姿であるということは、もう風呂には入ったという事か。
「ただいま、苺」
そこで、四角い木製机に並べられている食器に気付く。
「あれ、まだ食べてなかったのか?」
「うん。しおねぇが、りゅーにぃをまつって」
「おぉ……。それは、悪かったな」
「ううん、ぼくちんだいじょうぶ!」
「それはどこで覚えた? 今すぐ忘れような」
「じゃあ、わたくし?」
「別にそれでもいいとは思うが……。もっと、小学二年生の女子っぽいのでいいんじゃないか?」
「じゃあ、おら!」
「何でそうなる?」
「だめ? じゃあ……せっしゃ!」
「時代が違うし、この場合は〝わらわ〟だな」
「むむむ、ならば……。あたしっちでどうだ!」
「素直に苺って言おうな」
「わかった! いちごは、だいじょうぶ!」
「うん、良かった」
何で妹とのやり取りが、こんなに疲れるんだろう。気持ちがほぐれると言えばそうだが、その上に更に疲労が重なってプラスマイナスが見事に相殺だ。
とりあえず俺は鞄を適当に置き、ソファーに座り苺に訊く。
「あれ、詩織は?」
「あ、しおねぇはね、でかせぎにいってるよ!」
「何だって!?」
一体何がどうなってそんな事態になったんだ!?
「はやくおふろばをそうじしなくちゃっていってた!」
「何だ、風呂掃除か……」
どう見間違えれば、風呂掃除が出稼ぎに見えるんだか。小学二年生の頭脳は不思議で一杯だな。
「あ、龍、おかえり」
と、噂の主が後ろから声を掛けてきた。。
詩織は俺と同じく高校二年生だが、何故か姉を気取られている。まぁこちらは身を置かせて貰っている立場だから、文句を言う筋合いは無いが。
妹とは違う、黒いさらさらした長い髪(詩織の高校では、髪の色は原則黒のため、染めている)を揺らしている、はっきり言ってかなりの美人だ。本人曰く、街中でモデルにスカウトされた事すらあるらしいし、中学ではアイドル紛いな立場であったとか。お馴染みのセーラー服を着ているから、まだ風呂には入っていないようだ。
「ただいま。悪いな、俺のせいで食事が遅れて」
「大丈夫。さ、食べよ食べよ」
詩織と苺が座って、まだ空席が二つあった。
「あれ、由紀さんは?」
「今日は帰らないよ。会社に寝泊まり」
「そうか」
どうやら、今日はとても忙しいらしい。俺からすれば正直嬉しいが。
そうして定位置に座り、箸をと手を合わせ、いつもの一言。
『いただきます』
今日のメニューは、肉じゃが、タマゴ焼き、焼き魚、マカロニサラダ、ご飯、味噌汁の定番メニュー。これを疲れて帰宅してるにも関わらず、一人で作ってしまうから、俺は詩織に頭が上がらない。味は勿論、
「おいしー!」
苺も同じように感じたようだ。
「うん、我ながら上出来」
詩織も自画自賛していた。いつものことだ。
「相変わらず美味いな、うん」
「じゃあ、今日も食器洗いやっといてね。その間に私はお風呂入るから」
「……えー」
「えー、じゃないの! どうせやる事はないくせに!」
「いや、今はとても重要な伏線が回収されるところなんだが――」
「ゲームは休日だけって言ってるでしょ! とにかく、やっておきなさい!」
「いやしかしだな――」
「返事は?」
「綺麗にしておきます」
「よろしい」
詩織は俺の返事に満足し、テレビをつける。居候の身である以上、圧力を掛けられては成す術が無い。今日も深夜こっそりやらなければならないようだ。
『青沼事件、有罪判決です!』
ちゃーちゃちゃちゃちゃーちゃちゃちゃーちゃちゃちゃちゃー。
聞き慣れた音楽が流れ、後半のニュースが始まる。
「またニュースか」
「ニュースは見てて飽きないでしょ」
「もう少し、苺にも解るような番組をだな――」
「りゅーにぃ!」
「ん?」
「りゅーにぃって、どーていなの?」
「ぶっ!」
妹から信じられない単語が出て来た! 少なくとも小学二年生が話すような単語では無い。吹きかけたご飯を口に抑え込み、口を抑える。
「苺、それはどこで覚えた?」
「おちてた!」
「どういう事だ!?」
「おとこはみんな、どーていなんです。ってかいてあるかみが、おちてた!」
「誰だ落とした奴! いいか、それは間違いだ。――あぁ待て、ある意味で間違っていないかもしれない。そもそも苺、童貞というはだな――」
「龍なら、あるいは……」
馬鹿げた事に、詩織までノッてきてしまった。
「おい! お前も妹に正しい教育をしろよ!」
「何言ってるの。私の妹よ? そんなのは必要無いに決まってるでしょ」
「まだ純粋なんだから、どう転がるかも解らないだろ!」
「りゅーにぃは~、どーてい~♪」
「ほらぁ、どんどん変な方向に伸びていくだろう!?」
「大丈夫よ」
そう言って、キリッと表情が変わる詩織。
「私の、妹だから」
「その根拠のない理由はやめてくれませんか!」
「仕方ないなぁ。じゃあ、様付けしたらいいよ」
「え、俺? 俺が!? お前の妹だぞ!?」
「当たり前でしょ、龍なんだから」
「その理由が意味不明でびっくりだ!」
「りゅーにぃは~、いっしょーどーてい~♪」
「詩織様、どうかお願いです。何とかして下さい」
俺は頭を下げた。これ以上苺が変な知識を身に付けるのは嫌だし、何よりそんな悲しい歌を歌われるのが不憫でしょうがない。
「うむうむ、そこまで言うなら、貴公の願いを叶えて進ぜよう」
「どうして上から目線なんでしょうか!」
「Because, I am a God.」
「マジ発音で言ってきた!」
ここまで妹に関して無関心な姉は、果たして他に居るのだろうか!
しかしここは願いを聞き入れた神様。しっかりとそれの成就を図ってくれる。
「苺、いい?」
「なあに、しおねぇ?」
「その言葉はね、龍にしか言ってはいけないの」
「待って下さい、神様」
早速、願いを壊されてしまった。
「わかった! りゅーにぃ、りゅーにぃ!」
そして純粋な苺は、すぐに信じてしまう訳で。
「……何でしょうか」
「この、どーていがっ!」
「……ぷくくっ」
…………。
教育は大変だ。
「ふぅ」
食器洗いを終え、苺との○×ゲームを散々やって、ようやく風呂に入る事ができた。この一時が、一番落ち着く。
今日は由紀さんがいないから、仕事の手伝いはしないで済むが、執行部に来た願望書の始末が残ってる。土日にやってもいいんだが、休日はゲームをしたいので、日は越すだろうが今日中にやってしまおう。
「りゅーにぃー!」
「んん?」
ドア越しから、何故か苺の声が。
「どうした、苺?」
「おせなかをおながしいたします!」
「……何だって?」
「おせなかを、おながしいたします!」
そう言いながら、服を脱いでいるのが解る。まったく、何でそんな言葉を。
「苺、さっきもそうだけどな、覚えるべき言葉とそうじゃない言葉があってだな……」
――待てよ。……え、脱いでる?
「ちょ、ちょっと待て、苺!」
「なぁに、りゅーにぃ」
「お前、また風呂入る気か?」
「うん。いったでしょ。おせなかをおながしいたします!」
「い、いいです! 結構です! 間に合ってます!」
「えー、でも、もうすっぽんぽんだよ」
「何ぃ!?」
これは、色々とまずい。確かあれだ。ポルノなんたらかんたらに引っかかるとか引っかからないとか。万が一でもそうなれば、俺は速攻で刑務所行きじゃないか! 冗談じゃない! 近親相姦なんて、一瞬たりとも望んだ事は無い!
とりあえず俺は、呼び出しボタンを押す。何度も押す。詩織が来るまで、耐えなければ!
「じゃあはいるね、りゅーにぃ」
「待て! 落ち着け! 慌てるな! 焦るな! 気を確かに持て!」
「またないよ。おちついてるよ。あわててないよ。あせってないよ。きはたしかにもってるよ」
「ああ、何でこんなところが姉譲りなんだろう! とにかく駄目だ、苺!」
「どうして?」
「色々と問題があるんだ! いいか、男と女は一緒に風呂に入っちゃいけないんだ」
「うそー。みっちゃん、おにーちゃんといつもおふろはいってるって、いってたもん!」
「ぐっ……。みっちゃんの家はみっちゃんの家! うちはうちだ!」
「おーぼーだよ、りゅーにぃ! いちごはっ! せいせいどうどうとっ! あにとおふろをはいることをちかいますっ!」
「余計な宣誓はしなくていい! いいからっ、駄目なものは駄目だ!」
「そ、そんなぁ……」
苺が、力なくぺたんと座り込むのが解る。
「りゅーにぃ、いちごのこときらいなんだ……」
「そ、そういう訳じゃない! これは、教育上悪いんだ!」
「せいきょういくはひつようだって、しおねぇがいってたもん!」
「何で要らん事ばかりを吹き込むんだ、あの神様は!」
「な、何やってるの、苺!」
ここえようやく、噂の神様がご到着した。
「しおねぇ。せいきょういくはひつようなんだよね?」
「え、ええ、勿論! でも、それはまだ本で知る事よ。行動に出るのは、まだ早いわ」
性教育の必要性を否定しろ! まだその歳では必要ないはず!
「ほら、服着て。こっちで遊びましょ」
「うん……」
渋々、服を再度着る苺。良かった、最悪の事態は免れた。
「でも、しおねぇもいってたもん!」
「! ほ、ほら、行くよ!」
この予感っ! 詩織の数少ない弱点を握るチャンスな気がする!
「待て苺! 言うんだ! 詩織が、何だって!?」
「龍まで何言ってんの! ほら苺、早く!」
「しおねぇね、またりゅーにぃとおふろはいるのたのしみっていってたもん!」
「あっ……」
…………。
ゑ?
「……詩織様?」
「さぁて、お姉ちゃんとお遊びしましょうか、苺」
「クール気取っても遅いんですけど」
「サーテ、ナンノコトデショウカ、フフフ」
「ロボットになっても意味無いんですけど」
「サササー」
「去るな!」
あ、本当に去りやがった! 自分が不利になった途端、いつもこれだ! 逃げ足だけはいつも速い! 正しく脱兎の如くだ!
……でもまあいいや。やっと静かになった。俺は顔を風呂に沈め、気を落ち着かせる。
静かな水の中で、苺の言葉を思い出す。
また? また入りたい?
俺に詩織と風呂に入った記憶は、どんなに紐を辿っても、思い出す事は出来なかった。
いや――紐なんて、どこにもありはしなかった。
深夜零時。誰も居なくなった暗い居間で、俺は願望書の処理をしている。
にしても、大高以外の事はとても下らないものばかりだな。〝映画館を設置して下さい〟だの〝露天風呂を開拓しろやゴラ〟と言った、私欲の権化たる願望書だらけ。せめて〝ゲーム室を作ってくれ〟というものなら考えても良いのだが。
「!」
俺はドアの開く音に反射し、後ろを振り向く。
そこには、俺と同じグレーのパジャマを着た詩織が立っていた。しかも何故か、苺と同じように髪をポニーテールに纏めている。
俺は再び願望書に目を戻し、処理を再開しながら言う。
「まだ寝てなかったのか? もう日が過ぎたなのに。早く寝ないと、明日の講習会に行けないぞ。今から寝れば、六時間は寝れるだろ――」
その瞬間、背中に豊満な胸が当たるのを感じた。
詩織の両腕が俺を捕らえ、詩織の顔が右肩に乗る。つまり、詩織に後ろから抱き締められている。
「詩織?」
「…………」
とりあえず、俺は作業を中断する。
「髪、切ったんだね」
「気付いてなかったのか? そういえば、苺はまったく触れなかったな」
「ううん、言わなかっただけ。今の方がいいよ、龍」
「そうか?」
「うん、そうだよ」
そう言いながら、左手で俺の頭を撫でる詩織。改めて、関野――じゃない、恵に感謝する。後、一応散髪屋にも。
「龍」
「ん?」
「好き」
唐突に、耳元で囁く様に告白された。
「龍の事が、好き。大好き。誰よりも、愛してる」
「本気で言ってるのか?」
「私が嘘ついたこと、ある?」
「ないな」
「でしょ。龍は?」
「え?」
「龍は、私の事、好き?」
それは、今の俺には最も辛い質問だった。
「……。ああ、俺も、詩織のこと、好きだよ」
「嘘」
鋭い声で、あっさりと、嘘だとばれてしまった。
「ごめん」
「まだ、何も思い出してないんだ」
「ごめん」
「一番好きだって言ってたのになー。誰よりも愛してるって、言ってたのになー」
「ごめん」
「謝ってばっかりじゃん」
「……ごめん」
「はぁぁ、まったく……」
詩織は深くため息を吐いて、体重をかけてくる。それには、俺に対する愛情と、失望が重なってるように感じた。俺はただ黙って、それを受け止める。
「きっと、いつか思い出すよ」
「……あぁ」
「焦らなくて、いいから」
「あぁ……」
「思い出さなくてもいいから……このままでいいから……」
刹那、詩織の瞳から、涙が零れ落ちた。
「もう、居なくならないで……」
涙が、俺の右脚を濡らす。
詩織は泣きながら、俺をより強く抱き締める。
俺は何も答えずに――答えられずに、目を閉じる。
解らないよ、詩織。
俺には、お前の涙の理由が解らない。
俺は、本当の〝俺〟を知らない。
詩織、お前が真に想ってる〝俺〟は――。
本当に、この〝俺〟か?
その〝俺〟の名前は、城古我龍だったのか─―?
「あァ───────────────────!」
深夜零時過ぎ、俺は幸せな夢の中で突如目が覚め、近所迷惑にも程があるくらいの大きな声を上げてしまった。
何故なら……。
「PTAの事、言うの忘れたぁ────────――――――――──!」