夜暗疾走
※作中に書かれている行為は絶対にまねしないでください。迷惑にしか成りません。
俺達は真っ暗な空の下、摩天楼の木立が連なる大通りに佇立していた。俺の隣に旧知の仲の河口と水元が居る。時計に一揖したのはずいぶん前となってしまった。そのときは二十二時位だった。月がこんなにも貞淑に俺を鳥瞰しているのならば最早夜更けなのだろう。人の行き来がこんなにも幽寂ならば最早夜更けなのだろう。
夜とはとかく不思議なものだ。日が見える内は満目の雑踏が存する。打って変わり、夜は丸で廃墟の如く蕭寥としてやがる。電飾で化粧した街も、今や唯の混凝土の塊だ。おい、隠れていやがるんだろ、出てこいよ。然様な発問をしたところでどうにもならない。声は闇の中に霧散しちまう。
河口が口を開いた。目が回る、吐きそうだ。
俺らは久々に会おうと約束した。季節の節目だから酒でも飲もうといい、酔っ払いのうるさい酒場で下らない話を肴に酒を煽った。そして、飲むのにも飽き、微醺が体にまわった頃、この誰も居ないような街で無聊を持て余していた。莫迦げた話をしながら深い闇を逍遥する。ビルが累々と並び道を作っている。その道の指さす先は漆黒に染まっていた。俺は不図頭に浮かび上がった其れを口に出す。
「なあ、走ろうぜ」
「いいんじゃねえの。でも、何処まで走るんだよ」
水元が俺の企てに口を開いた。
「さあな、どこまでもだ。ただどこまでも走ろうぜ」
俺の言葉に河口がぼんやりと言う。
「おいおい、夜と言ってもまだ車も通っている、剣呑だ、死んじまうぜ」
「そんときはそんときだ。運が悪かったんだよ」
水元と河口が、オッケエ、などと言いながら脂下しに笑う。俺らは下品な笑いを溢しながら走った。
俺達三人は夜の街を全速力で走っていた。夏は終わりに近づいていたが、街は湿った熱気に包まれていた。生ぬるい風が体に絡みつく。俺はそれを逃れる為に足を動かす。練乳のような甘ったるい感触がぬぐわれたかと思えば、また体に付く。その度、足を進める。辺りを見渡せば天も仰げない程のビルが俺と共に走っているかのように思えた。目前には地瀝青細工の道と、暗黒に瓢乎と立つ街灯が規則正しく闇に向かって伸びている。俺らはその闇に身を投げているように錯覚した。
汗が噴き出る。心臓が悲鳴をあげる。併し、俺の口からは笑いがこぼれ出る。笑いと共に乱雑な息があふれてくる。息はいくら胸の奥から掻き出しても収まることは無かった。このまま内臓ごと取り出してしまいたいほど煩わしい。俺の足を止めようと必死になりやがって、この桎梏に満ちた世界め。俺はそんなことを思いながら足を進めた。俺の口中の息がカラメルの様な匂いを馥郁と漂わせた。それが砂糖菓子の甘味を放ち脳裏を駆け巡る。先ほどまでの心臓の痛みは消えてしまった。俺には笑いしか残らなかった。俺達は相変わらず昏迷を走っていた。
汗が俺の体も意識も溶かしてしまうかのようだった。俺は走っているらしい。併し、俺はそうは思えなかった。足を進めているのだが、進んだように思えなかった。進めど進めど目の前の情景は変わることは無かった。目に映し出される街並みは画家のデッサンのような空気を放っていた。現実に儼乎と掴まっているが、紙面と黒鉛の奏でる璆鏘が非現実を描きだす。そんなものが目に流れてくる。そして、目に明滅する。その明滅と夢現の間の浮沈が重なり、俺の意識を惑わせる。
「はあはあ、ははは、おい、てめえら、おせえぞ!」
「うるせえ、食ったばっかではらいてえんだよ!」
水元が俺の後でそう言った。その声は俺らと共に走っているかのように耳にまとわりついた。
「街を走るなんて運動部でもしねえぜ! あたまおかしいんじゃねえのか」
河口が耳をつんざくような声を俺に投げかける。確かに良い年の大人が夜の街を疾走するなんて気でもふれていなければあり得ない。俺は宙を仰ぎながら叫ぶ。
「今日は夜空が綺麗だ、月が綺麗だ。こんなに美しいならば走らな損! これを見るだけのやつはバカだけだ」
俺の声は仰いだ空の闇に散華してしまったのだろうか。それともあの黒の網目を越えてしまったのだろうか。俺には分からなかった。俺の目には画用紙に鉛筆を塗りたくったかのような昏迷が華やいでいた。
俺たちは開豁な交差点に出た。普段は人の行き来、筋骨隆々の車が交錯するところがぞっとするかのように静かだ。ただ変わっていないのは赤と緑を示す信号だけだった。俺が目を向けると真っ赤な警告をだしていた。闇のなかに輝くそれは花のように思えた。その花の咲かせている電光細工の赤が体中を刺激して、俺の脚を速める。
「おい、赤信号だぞ、とまれよ」
河口が俺の後から声をかける。ここで止まったらこの夜が壊れてしまいそうだから、俺は足を止めることは無かった。
「うるせえ、車がはしってるんだから俺もはしらねえとな」
「信号はそういうもんじゃねえから! おい、まちやがれ!」
水元の笑いを含んだ声が俺の後ろで響いた。俺たちはバカ笑いしながら広々とした灰色にも黒にも見える地面を駆け抜けた。
街は笑いに満ちていた。俺たちが足を地に叩きつける音も、風が体を撫であげる音も、噴水のように湧き出る汗が肌を駆け巡り地面に落ちる音も、俺の乱れた呼吸も全てが笑っている聞こえた。下種な笑いをあげながらお祭り騒ぎを起こしていやがる。ストロベリーシェイクのように撹拌された俺の脳味噌が、絢爛豪華な光を闇に包まれた街に照らしだした。その光がまるで祭りの際の提灯のようだった。月の輝きが夏を彩る花火の莞爾として脳に映る。あはは、街が笑ってるぞ。水元や河口も、俺自身も、俺の体も笑うことをやめなかった。俺たちの笑い声は夏の夜の街に溢れていた。夜が明ければこの笑いも、この莫迦げた行為も、このベトベトした風も街の闇夜と共に消えてしまうのだろう。そんなことを考えても、ただ俺たちは夜の街を笑いながら走っているだけだった。
(了)
夏の夜に汗だくになりながら友達と走りたい。そんな思いを文章化しました。
ペンデュラムとかケミスツみたいな曲を聴きながら書いたのでテンション高いです。