婚約者が幼なじみの男を家に泊めたので、僕は夜明け前に家を出た
婚約者の黒川玲奈は、白峰市でIT企業を経営している。仕事ができて、いつも冷静で、社員の前で取り乱す姿など見たことがない。
僕たちは付き合って四年、同棲して三年になる。家賃も生活費もきっちり折半。家事は日付によって当番が決まっていて、映画を観に行くときでさえ、玲奈は僕との間に一席空けたがった。
「付き合ってるからって、いつもくっついてる必要はないでしょ。お互いの距離は大事にしたいの」
玲奈は昔からそういう人だった。
四年前、僕が立ち上げた会社は倒産寸前まで追い込まれた。あのとき、自分の会社の株を一部売って資金を用意し、僕の会社に貸してくれたのが玲奈だった。
その恩は、今でも忘れていない。
だから彼女がどれほど細かい決まりを作っても、できる限り守ってきた。愛情の示し方が僕とは違うだけだと、自分に言い聞かせながら。
ところが、海外での起業に失敗した玲奈の幼なじみ、久瀬湊が日本へ戻ってきた。
僕はある日、玲奈が湊の手のひらに頬を寄せるところを見てしまった。目元を赤くした彼女は、僕が聞いたこともないような声で言った。
「湊となら、もう一度失敗したっていい。一緒にやってみたいの」
僕といるときは、どんなに親しくても距離が必要だと言っていたのに。
湊の前では、その決まりも関係ないらしかった。
1
玲奈の会社が入っているビルの非常階段で、僕は足を止めた。
手には保温バッグを提げている。ここ数日、玲奈は仕事に追われて食事もろくに取っていなかった。せめて何か食べさせようと、家で鶏雑炊を作って持ってきたのだ。
踊り場の壁際に玲奈がいた。そのすぐ前には湊が立っている。彼の指先が玲奈のシャツの襟に触れ、鎖骨のあたりをなぞっても、彼女は避けようとしなかった。
「湊、やめてよ。せっかく気持ちを落ち着かせたんだから」
玲奈の目は潤んでいた。
四年前、僕の会社に督促の電話がひっきりなしにかかってきたときでさえ、彼女はあんな顔をしなかった。債権者との話し合いにも付き添い、黙々と書類を確認してくれていた。
湊が玲奈の頬に手を伸ばした。
「そんなに我慢しなくていいだろ。玲奈はいつも頑張りすぎなんだよ」
玲奈はその手に、そっと頬を寄せた。
指から力が抜け、保温バッグが階段に落ちた。鈍い音が響き、二人がこちらを振り返る。
僕に気づいた玲奈は、シャツの襟元を整えてから口を開いた。
「悠真? どうしたの、こんなところで」
湊は一歩下がり、何事もなかったかのように笑った。
「悠真くん、久しぶり。玲奈とちょっと投資の話をしてたんだ」
湊は僕を悠真くんと呼び、玲奈のことは時々、玲奈ちゃんと呼んだ。
付き合い始めたころ、僕も一度だけそう呼んだことがある。
「玲奈でいいよ。そういう呼び方、あんまり好きじゃないから」
それ以来、僕はずっと玲奈と呼んできた。
帰りの車内で、玲奈は助手席に座って目を閉じていた。僕はハンドルを握ったまま、しばらく言葉を探していたが、結局聞かずにはいられなかった。
「玲奈、湊とはどういう関係なの?」
「幼なじみだよ。向こうで事業がうまくいかなくて、こっちでやり直そうとしてるの。手伝えることは手伝うつもり」
「さっき、顔に触ってたよね」
「襟に何かついてたから、取ってくれただけ。変なふうに受け取らないでよ」
「でも、玲奈のほうから顔を寄せてた」
彼女はようやく目を開け、こちらをちらりと見た。
「明日は朝から会議なの。今日はもう疲れたから、その話は終わりにして」
それきり窓の外へ顔を向けてしまった。
マンションに着くと、玲奈はまっすぐ書斎へ入った。保温バッグを開けると、雑炊はすっかり冷めていた。そのまま容器ごと冷蔵庫にしまった。
2
翌朝、僕はいつもより早く起き、朝食を用意した。昨夜はあんな別れ方をしてしまったし、食卓でなら少しは落ち着いて話せるかもしれないと思ったからだ。
味噌汁と卵焼きを並べ終えたころ、玲奈が仕事用のスーツで寝室から出てきた。テーブルを見るなり、足を止める。
「今日は奇数日でしょ。朝ご飯は私の当番じゃなかった?」
「早く起きたから、作っておいたんだ」
「せっかく決めたんだし、当番は守ろうよ」
そう言って、鞄を持って出ていった。
僕は手をつけられなかった朝食を保存容器に移し、冷蔵庫へ入れた。扉に貼った家事当番表の端がめくれていたので、指で押さえてから閉める。
午後には、玲奈の会社と湊の会社が業務提携の調印式を開くことになっていた。玲奈が何か月も準備してきた案件だ。来なくていいと言われていたけれど、僕は花屋で白いトルコキキョウの花束を買い、会場へ向かった。
ホテルの宴会場には業界紙の記者や関係企業の人たちが集まっていた。ステージ上では玲奈と湊が並び、契約書を手に写真撮影に応じている。
湊の会社が開発する技術を、玲奈の会社が自社サービスに取り入れる。今回の提携は、そのための正式な契約だった。
僕に気づいた知り合いが声をかけてきた。
「朝倉さんじゃないですか。婚約者に花束ですか? いいですねえ」
その声が聞こえたらしく、玲奈がステージを下りてきた。花束を受け取ると、周囲に聞こえない程度の声で言う。
「こういう場に来るなら、先に連絡して。席だって用意できたのに」
「ごめん。お祝いを言いたかっただけなんだ」
玲奈が返事をする前に、湊もやって来た。
「悠真くん、気が利くね。玲奈、ここんとこ忙しかったからさ。家でも助かってるんじゃない?」
湊は気安く僕の肩を叩いた。
夜の懇親会では、玲奈を挟んで僕と湊が座ることになった。二人は投資の話や今後の事業計画について話し続け、ほかの出席者も次々と会話に加わっていく。僕は話の切れ目を探していたが、玲奈がこちらを向いたのは、水の入ったグラスが空になったときだった。
「悠真、お水をお願いしてもいい?」
会の途中、玲奈が電話を受けて席を立った。なかなか戻ってこないので、様子を見に廊下へ出ると、少し先に湊の姿があった。
彼は玲奈に温かいお茶を渡していた。
「胃が弱いんだから、今日はもうお酒やめとけよ。飲みやすそうなお茶にしてもらった」
「ありがとう。覚えててくれたんだ」
玲奈はごく自然に受け取って、ひと口飲んだ。
僕は立ち尽くした。四年も付き合っていて、玲奈が以前から胃の調子を崩しやすいことさえ知らなかったのだ。
席に戻ってから、声を落として尋ねた。
「胃が悪かったの? どうして言ってくれなかったんだよ」
「昔からだよ。言ったら悠真、心配して病院に行けとか、休めとか言うでしょ」
それ以上は聞けなかった。
懇親会が終わるころ、湊はかなり酔っていた。スタッフがタクシーを手配しようとすると、玲奈はそれを断り、今夜はうちに泊めると言い出した。
「客間なんてないよ。あそこは僕の仕事部屋だし」
「じゃあソファで寝てもらえばいいでしょ。一晩だけなんだから」
結局、湊を連れて帰ることになった。
玲奈は彼のコートを脱がせて丁寧に掛け、タオルと予備の寝具を出した。水まで用意している姿を寝室の入り口から見ていると、去年の冬のことを思い出した。
僕が三十九度の熱を出し、起き上がるのもつらかった夜だ。玲奈は救急箱から解熱剤を出し、飲み方を確かめるよう言って、近くのクリニックの連絡先を送ってくれた。
「明日も熱があったら受診してね。私、九時から会議だから、今夜中に資料を仕上げないと」
そう言って書斎へ戻り、あとは仕事を続けていた。
深夜、喉が渇いて起きると、書斎にはまだ灯りがついていた。玲奈はパソコンに向かっていて、その脇には男性用の着替えがきれいに畳まれている。靴下まで揃えてあった。
三年間、一緒に暮らしてきた。けれど玲奈が僕の服を畳んでくれたことは、一度もない。
リビングで湊が寝返りを打つ音がした。玲奈は席を立つと、ソファからずり落ちかけた毛布を掛け直してやった。
僕は水を飲み、寝室に戻った。
朝方まで、ほとんど眠れなかった。
3
湊は翌日になっても帰らなかった。
新しい事務所の内装工事がまだ終わらず、玲奈との打ち合わせも続いているから、もう少し泊めてほしいという。玲奈はあっさり了承し、冷蔵庫に貼ってある家事当番表まで書き換えた。
「湊がいる間、奇数日は私がご飯を作ることにするね。悠真、いつも二人分しか作らないから」
三日目の夜は湊が夕食を作った。肉じゃがに照り焼きチキン、手作りのハンバーグまで並んでいる。
玲奈は肉じゃがを食べるなり笑った。
「懐かしい。昔もこんな味だったよね」
「玲奈、いつも甘すぎるって文句言ってただろ」
「そうだった? でも今日はおいしいよ」
食後、湊が自分から食器を洗い始めた。
玲奈が作った二十三項目の同棲ルールでは、五番目に家事の分担方法が書かれている。料理をした人は洗い物をせず、もう一人が片づけるという決まりだ。
「玲奈、今日は湊が作ってくれたんだから、洗い物は僕らがやるんじゃないの?」
玲奈は口元を拭きながら答えた。
「本人が洗うって言ってるんだから、いいじゃない。そんなことまでいちいち気にしなくても」
冷蔵庫には、玲奈が自分で印刷して署名したルール表が貼られたままだった。
金曜日になって、ようやく湊が荷物を運び出した。
翌日の土曜日、玲奈は珍しく仕事の予定がなかった。僕が映画に誘うと、少し迷ってから付き合ってくれることになった。
チケットを買うとき、彼女はいつもどおり六列目の五番と七番を選んだ。
「今日は隣に座らない?」
「悠真、知ってるでしょ。映画を観るとき、近くに人がいると落ち着かないの。間を空けたほうが楽なんだよ」
僕はそれ以上言わず、別々の席に座った。
午後、家に戻ってしばらくすると、湊がノートパソコンを持って訪ねてきた。会社のプロモーション動画が仮編集までできたので、玲奈に確認してほしいらしい。
二人はリビングのソファに並んで座った。小さな画面をのぞき込むうちに肩が触れそうなほど近づき、玲奈は自分から身を乗り出して操作までしている。
僕はテーブルのそばで足を止めた。
「玲奈、今日の映画では、僕の隣にも座ってくれなかったよね」
「それがどうしたの?」
「湊とは、そんなに近くても平気なんだ」
玲奈は画面から顔を上げた。
「悠真とは毎日一緒に暮らしてるんだから、決めておいたほうがいいこともあるでしょ。今は仕事の話をしてるの。何でも比べないでよ」
湊がパソコンを閉じ、席を立った。
「ごめん、俺のせいで揉めるのも悪いし。ちょっとベランダで電話してくるよ」
通りすがりに僕の背中を軽く叩き、ベランダへ出ていった。
ガラス戸が閉まると、玲奈はため息をついた。
「湊は大事な取引先なの。上場準備だってあるし、まだ確認することが山ほどあるんだから。本人の前であんな言い方しないで」
「だったら、僕にはどうしてそこまで厳しくするの? 湊の着替えは用意して、家に泊めて、隣でくっついて動画まで見られるのに」
玲奈がパソコンを閉じた。
「四年前、悠真の会社が大変だったときのこと、忘れたの?」
そのひと言で、手にしていたグラスを握り直した。
「忘れてないよ」
「あのときだって、私はできることをしたでしょ。だから今は、私の仕事も少しはわかってほしいの」
「わかってる。でも、それと湊のことは別だろ」
「だったら、あの人の前であんな言い方しないで」
四年前、僕のソフトウェア会社は大口取引先を失い、資金繰りが行き詰まっていた。銀行には追加融資を断られ、給与の支払日が近づいても、必要な現金が足りなかった。
玲奈は保有していた自社の株式の一部を投資家に売却し、その資金を個人として僕の会社に貸してくれた。おかげで社員の給与を払い、次の入金まで事業を続けられたのだ。
借りたお金は会社から少しずつ返している。返済を急かされたことはなかった。だからこそ、あのときのことを持ち出されると、僕は何も言い返せなくなった。
同棲を始めてからも、玲奈が決めたことに逆らった覚えはほとんどない。触れられるのが苦手だと言われれば我慢し、生活費を折半すると言われれば、毎月きちんと計算した。
ベランダの戸が開き、湊が戻ってきた。
「玲奈、さっきの続き、どうする?」
「うん。今見る」
玲奈は何事もなかったようにパソコンを開いた。
僕は書斎に戻って仕事の資料を表示したものの、画面を眺めているだけで、少しも手が進まなかった。
4
湊が引っ越してから、玲奈は以前より早く帰宅するようになった。上場準備も順調らしく、ようやく家で夕食を取れる日が増えていた。
その日は僕が料理をする番だった。市場で買った新鮮なスズキを、玲奈の好みに合わせて薄味で蒸した。
ひと口食べた彼女が、珍しく褒めてくれた。
「今日のお魚、おいしいね」
少しうれしくなって、前から考えていたことを話した。
「来月の五日、僕の誕生日なんだ。仕事も一段落しそうだし、二人で旅行に行かない?」
玲奈はスマートフォンで予定を確認した。
「いいよ。行き先は悠真が決めて」
それから数日、僕は仕事のあとに旅行先を調べた。海が見えるホテルを予約し、併設のレストランにも二人分の席を取った。
ところが出発を控えた木曜日、玲奈からLINEが届いた。
「予定、変わったから」
帰宅した玲奈によると、湊の会社で資金調達に問題が起き、東岬市の投資家に直接会いに行くことになったという。玲奈も同行するらしい。
「三日くらいかかると思う。ホテル、キャンセルしておいて」
「僕の誕生日は?」
「帰ったらちゃんとお祝いするから。今回は仕事を優先させて」
「でも、約束しただろ」
「わかってるよ。だけど、今行かないと話が流れちゃうかもしれないの」
僕が黙っていると、彼女はパソコンを開いた。
「誕生日は来年もあるでしょ。今回はわかってよ」
返す言葉が見つからなかった。
「一人で過ごすのが嫌なら、拓海たちとご飯でも行ってきたら? 食事代は私が出すから」
誕生日当日、僕は家でうどんを茹で、コンビニで買った小さなイチゴのケーキを食べた。
夜、Instagramを開くと、玲奈が東岬市の港を撮った写真を投稿していた。水面に街の明かりが映っていて、短いコメントが添えられている。
「今夜は景色がきれい」
その下に湊のコメントがついていた。
「隣にいる人のほうがきれいだけどね」
玲奈は照れた顔の絵文字で返している。
湊のアカウントも見てしまった。港を見下ろすホテルのレストランで、二つのワイングラスを合わせた写真が投稿されている。玲奈のアカウントがタグ付けされていた。
「再会に乾杯。これからもよろしく」
スマートフォンが鳴った。
玲奈からだと思って出ると、聞こえてきたのは秘書の佐伯美咲さんの声だった。
「朝倉さん、夜分にすみません。黒川から伝言を頼まれまして。明日は夜の新幹線で戻るそうです。駅へのお迎えは大丈夫とのことでした」
「わかりました。ありがとうございます」
電話を切ると、残っていたケーキを冷蔵庫へしまった。
三日後、玲奈が帰ってきた。
スーツケースを玄関に置き、テーブルの上に小さな紙袋を載せる。
「東岬で買ったの。遅くなったけど、誕生日プレゼント」
中には濃いグレーのカシミヤのマフラーが入っていた。きれいに包装され、メッセージカードも添えられている。
そこには手書きで、こうあった。
「湊へ」
マフラーを持ったまま寝室へ行くと、玲奈はスーツケースから服を取り出していた。
「玲奈。ちょっと手を止めてくれない?」
「何?」
「一つだけ聞きたいんだ。僕のこと、好きだった?」
玲奈が眉をひそめる。
「急にどうしたの。好きじゃなかったら、あのときお金を用意してまで助けたりしないよ」
「じゃあ、どうして僕には触れられたくないの? 距離を保ちたいって、いつも言うよね」
「またその話?」
「でも、湊に触られても嫌がらないじゃないか」
「階段でのことなら、もう説明したでしょ」
僕は紙袋を化粧台に置いた。
「だったら、これは?」
玲奈がカードを見た。ほんの一瞬、手が止まる。
「二本買ったの。たぶん取り違えたんだと思う」
「湊に渡すつもりだったものを、僕に?」
「だから、間違えたって言ってるでしょ。マフラー一本でそこまで問い詰める?」
彼女は声を荒らげた。
「悠真、いちいち確認しないでよ。こっちは仕事で疲れて帰ってきたのに」
僕はマフラーをそのまま置き、寝室を出た。
玲奈が眠ったあと、僕はこれまでの書類を引っ張り出した。
三年前に交わした賃貸契約書。家賃と生活費の記録。家事当番表。そして、玲奈が作った『共同生活の二十三のルール』。
すべてダイニングテーブルに並べて、写真を撮った。
それから大学時代の友人、相沢拓海に連絡した。汐見市に住む彼に、数日だけ泊めてもらえないかと尋ねると、すぐにいいと返事があった。
翌朝一番の特急列車を予約する。
夜が明ける前に、身分証とパソコン、必要な服だけをスーツケースに詰めた。テーブルには一枚のメモを残す。
「玲奈、もう終わりにしよう。これからは僕に合わせなくていいよ」
ドアを閉め、駅へ向かった。
5
汐見市に着いてからは、拓海のマンションにある客間を借りた。
最初の二日間、スマートフォンはマナーモードにしたまま、LINEも開かなかった。三日目の朝、ようやく確認すると、玲奈から大量のメッセージが届いていた。
最初はいつもと変わらない口調だった。
「どこに行ったの? 怒ってるなら帰って話そうよ」
「今日は悠真がリビングを掃除する日でしょ。まだできてないんだけど。見たら電話して」
その日の午後になると、立て続けに通知が来ていた。
「悠真、今どこ?」
「帰るつもりがないなら、せめて連絡くらいして」
「給湯器からお湯が出ないんだけど。リモコンを見ても、どうすればいいかわからない」
さらに数時間後、短い一文が届いていた。
「本当に出ていったの?」
深夜には、こんなメッセージもあった。
「マフラーのことで怒ってるだけだと思ってた。悠真、本気で別れるつもりなの?」
今朝の最後のメッセージには、こう書かれていた。
「何があっても、一緒に考えてくれるって言ってたよね」
僕は画面を伏せて、朝食を続けた。
五日目、拓海が自分の会社の仕事を手伝わないかと声をかけてくれた。彼は友人とソフトウェア関連の会社を経営していて、ちょうど小売企業のシステム更新案件を引き受けたところだった。
僕が立ち上げた白峰市の会社は、今は共同経営者が日々の業務を見てくれている。僕自身は以前から外部案件にも関わっていたので、しばらく汐見市で仕事をすることになっても支障はなかった。
技術がわかって、取引先との調整もできる人間が足りないらしい。僕は以前、似たような案件を担当したことがあったので、拓海の仕事を手伝うことにした。
七日目の夕方、拓海と会社を出ると、ビルの入り口に玲奈が立っていた。
手には紙袋を提げている。僕を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「急に出ていくから、冬物をほとんど持っていってないでしょ。よく着てた服を持ってきたよ」
袋を受け取った。
「ありがとう。ほかに用事はある? これからご飯なんだけど」
玲奈は僕の顔をじっと見た。
「いつ帰ってくるの?」
「帰らないよ」
「どうして? そんなに怒ってたなら、ちゃんと言ってくれればよかったじゃない。何も引っ越すことないでしょ」
僕は袋を足元に置いた。
「湊に贈るつもりだったマフラーを、僕の誕生日プレゼントにしたよね」
「それは間違えたって言ったでしょ」
「湊をうちに泊めて、隣に座って、あんなに近づくのは平気なのに、僕とは映画館でも一席空けなきゃいけなかった」
玲奈の表情が険しくなる。
「四年も付き合ったのに、そんなことで別れるっていうの?」
「玲奈、もう別れよう。婚約もなかったことにしたい」
彼女はしばらく僕を見ていた。
「嫌だよ」
声が少し硬くなった。
「今は怒ってるから、そんなこと言うんでしょ。もう少し落ち着いてから話そう。ちゃんと考えて、それから帰ってきて」
それだけ言うと、玲奈は背を向けた。
僕も追いかけなかった。
隣で黙っていた拓海が、彼女の姿が見えなくなってから口を開いた。
「決めたんだな?」
「うん」
「そっか。じゃあ、飯に行こう。お前、昼もろくに食ってないだろ」
近くの居酒屋に入り、二人で定食を頼んだ。
帰り道、拓海が大学時代の失敗談を持ち出した。くだらない話だったのに、僕は何度か声を出して笑っていた。
6
それから半月ほどして、拓海の会社に近い場所で一LDKの部屋を借りた。白峰市のマンションも解約手続きを進め、荷物を運んだ。
その年の九月下旬、僕は拓海から任されたシステム更新案件に本格的に取りかかっていた。
そこで紹介されたのが、協力会社のプロジェクト担当者、小日向陽菜さんだった。
初めて会ったとき、彼女は分厚い資料を抱えてやって来た。明るくて、言いたいことをはっきり口にする人だった。
午前中いっぱい使って仕様を確認したあと、昼になって彼女が食事に誘ってくれた。
「朝倉さん、何が食べたいですか?」
「何でも大丈夫です」
気づけば、いつもの返事をしていた。
陽菜さんは笑ってスマートフォンを見せてくれた。
「本当に何でもいい人なんて、なかなかいませんよ。じゃあ、三軒おすすめするので選んでください」
海鮮丼の店、昔ながらの洋食屋、手打ち蕎麦の店。どんな料理があるのか、混んでいる時間まで教えてくれた。
僕は洋食屋を選んだ。四人掛けの席で向かい合い、食事をしながら仕事の話をした。
陽菜さんは誰にでも合わせるタイプではなかった。別の日、僕がシステムの稼働日を早めようとすると、現場の研修が間に合わないから危険だと反対した。理由を聞くと納得できたので、僕は計画を修正した。
一緒に仕事をするうち、少しずつ親しくなった。
ある日、残業帰りに食事をしたとき、陽菜さんが照れくさそうに尋ねてきた。
「仕事の外では、悠真って呼んでもいい?」
「いいよ。じゃあ、僕も陽菜って呼んでいい?」
「うん。そっちのほうがうれしい」
新居を片づけた週末、カーテンを替え、フロアランプを買った。部屋の写真をInstagramに投稿し、「新しい生活」とひと言添えた。
まもなく玲奈から「いいね」がついた。続いてLINEも届く。
「そのマンション、結構古そうだけど日当たりは大丈夫? あと、マットレスは柔らかすぎないものにしてね。腰、前に痛めてたでしょ」
翌日には、ビジネスフォーラムの招待状が送られてきた。
「来週、白峰市で投資家向けの交流会があるの。招待枠を二つもらったんだけど、悠真の今の仕事にも役立つと思う。来ない?」
会の名前は知っていた。拓海の会社もちょうど事業を拡大しようとしている。投資家や新しい取引先に会える機会は貴重だった。
一晩考え、参加すると返事をした。
当日、会場に着くと、湊の姿があった。
玲奈は彼の隣で、何人かの投資家と話していた。僕に気づくと歩いてくる。
「来たんだね。もう二人には話を通してあるから、休憩時間に紹介するよ」
実際、玲奈は午前中ずっと僕のために動いてくれた。事前に資料まで用意し、投資家に僕らの事業を説明してくれる。
四年前、債権者や投資家を回っていたときも、玲奈はこんなふうに資料を揃え、僕の代わりに何度も話をしてくれた。
休憩時間、湊がコーヒーを二つ持ってやって来た。
一つを玲奈に渡し、もう一つを自分で持ったまま僕に笑いかける。
「悠真くん、元気そうだね。別々に暮らすようになって、お互い気楽になったんじゃない?」
僕は玲奈を見た。
「湊に、僕らのことを話したの?」
「昨日聞かれたから。最近どうしてるかって、普通に話しただけだよ」
玲奈は僕との関係を、仕事の場でほとんど口にしなかった。四年も付き合っていたのに、紹介するときは協力会社の経営者だとか、仕事で付き合いのある人だとか、そんな説明ばかりだった。
仕事と私生活を分けたいのだと、何度も言われてきた。
午後の講演が始まる前、少し離れたところで湊が玲奈の耳元に何かを囁いた。彼女は笑いながら手の甲で彼の肩を押し、また近づいた。
僕は水の入ったグラスを置き、出口へ向かった。
すぐに玲奈が追いかけてきて、僕の腕をつかむ。
「悠真、どこに行くの? 午後も投資家と会う約束があるんだよ。せっかく調整したのに」
手を引き抜いた。
「僕にはあれだけ細かいこと言うのに、湊には何でも許すんだね」
「またその話? 今日はずっと悠真のために動いてたんだよ。それなのに、こんなところで喧嘩するの?」
「助けてくれたのはわかってる。ありがとう。でも、もう別れたんだ。これ以上、こういうことは続けたくない」
僕はそのまま会場を出た。
汐見市に戻ってから、会うはずだった投資家には謝罪のメールを送った。せっかくの機会を逃したけれど、これからは拓海と自分たちの力で仕事を進めていこうと思った。
7
翌週には、陽菜と進めていた案件もだいぶ落ち着いてきた。システムの動作確認が進み、取引先との打ち合わせも以前ほど長引かなくなっていた。
陽菜は、僕が最近婚約を解消したことを知っていた。それでも理由を聞いてくることはなかった。
残業で遅くなると、コンビニで買った弁当やおでんを僕の机にも置いてくれることがあった。
ある夜は、鶏雑炊を持ってきた。
「悠真、最近ちょっと痩せたでしょ。ちゃんと食べなきゃ。仕事が終わる前に倒れたら困るよ」
「ありがとう。いくらだった?」
「いいって。今度コーヒーおごってくれれば」
陽菜はそう言って、自分の席へ戻っていった。
年末、陽菜の会社で取引先も招いた交流会が開かれ、僕も参加することになった。
彼女はワインレッドのワンピースを着て、壇上でプロジェクトの進捗を紹介していた。挨拶が終わると、同僚たちに歌をせがまれ、笑いながらマイクを受け取った。
ところがサビに入った途端、音程がすっかり外れてしまった。
会場が笑いに包まれ、本人までお腹を抱えて笑っている。歌い終わると深々と頭を下げ、「次は練習してきます!」と言って、またみんなを笑わせた。
帰りは僕が車で送った。
マンションの前に着くと、陽菜はシートベルトを外し、鞄から小さな箱を取り出した。
「悠真、今日は来てくれてありがとう。それから、これ」
「何?」
「誕生日プレゼント。何か月も遅れちゃったけど」
箱を開けると、黒い万年筆が入っていた。軸には僕のイニシャルが刻まれている。
Y.A.
「拓海さんから、今年の誕生日はあんまりいい日じゃなかったって聞いてね。前に万年筆を替えたいって言ってたから、これなら使ってもらえるかなと思って」
陽菜は少し照れくさそうに笑った。
僕は万年筆を取り出した。
湊の名前が書かれた、あのマフラーが頭をよぎる。
「ありがとう、陽菜。すごく気に入ったよ」
翌朝、会社で資料を読んでいると、玲奈から電話がかかってきた。
「悠真、湊の会社で大変なことになったの。資金の使い方に問題が見つかって、投資家が調査を求めてる」
いつになく早口だった。
「うちも保証人になってるの。監査からも連絡が来て……」
玲奈はそこで言葉を切った。受話口の向こうから、慌ただしく書類をめくる音が聞こえる。
「このままだと、上場の話まで止まっちゃうかもしれない」
「そっちの法務担当は?」
「もう動いてる。でも、今回のことは専門の弁護士に見てもらわないと」
「湊はどうしてるの?」
少し間が空いた。
「今、調査に協力してる。連絡がつかないの」
僕は以前世話になった法律事務所の連絡先を探し、LINEで送った。
「番号、送ったよ。あとは法務の人から連絡してもらって」
「ありがとう……」
そこで通話が終わるかと思ったが、玲奈は続けた。
「悠真、できれば一緒に来てもらえないかな。今、どうしたらいいかわからなくて」
「玲奈」
「会社まで駄目になったら、私……」
「僕たち、もう別れたよね。婚約も解消した」
電話の向こうで、玲奈が息をのんだ。
「紹介はしたから。あとのことは会社の人と相談して」
通話を終え、僕は途中まで読んでいた資料に戻った。
午後になると、陽菜が取引先のテスト結果を持ってきた。今夜、一緒に内容を確認できるかと聞かれたので、僕はうなずいた。
陽菜が隣の椅子を引き寄せる。僕はパソコンの画面を彼女のほうへ向けた。
8
湊の会社の不正は、すぐにニュースになった。
海外で事業をしていたころから多額の負債を抱え、日本へ戻ってからも、実際より大きく見せた事業計画を使って資金を集めていたらしい。調達した資金の一部が、本来の事業とは別の口座へ移されていたことも報じられた。
玲奈の会社も、融資の保証をしていたために調査の対象になった。関連取引の説明や社内承認に不備が見つかり、準備していた上場申請は延期され、出資を予定していた投資家の一部も判断を保留したという。
地元の経済ニュースでは、玲奈と湊の個人的な関係まで取り上げられていた。
僕はネット配信で、玲奈の記者会見を見た。
いつものグレーのスーツを着て、落ち着いた口調で質問に答えている。リスク管理が不十分だったことを認め、調査への協力と社内体制の見直しを約束していた。
三日後の夕方、コンビニへ行こうとマンションを出ると、入口の脇に玲奈が立っていた。
髪は少し乱れ、顔色も悪かった。
「悠真、少しだけ上がってもいい?」
迷った末、僕は部屋へ案内した。
広くはないが、荷物は片づいている。冷蔵庫には、昨日陽菜が書類を届けに来たときに残した黄色い付箋が貼ってあった。
「レンジに焼き芋入れてあるよ! 温かいうちに食べてね」
隅には大きな笑顔の絵まで描かれている。
玲奈はそれを少し眺めてから、ソファに腰を下ろした。
「湊が逮捕されたの」
僕は水を出し、向かいの椅子に座った。
「それを僕に?」
「弁護士を通して謝ってきた。私を巻き込んで悪かったって」
玲奈はコップを両手で包んだ。
「でも、弁護士の話じゃ、あの人は最初から私の会社の信用や人脈を利用するつもりだったらしいの」
うつむいたまま、言葉を続けた。
「また一から事業をやり直したいんだと思ってた。まさか、あんな資金の問題を隠してたなんて……」
僕が何も言わずにいると、玲奈はゆっくり顔を上げた。
「悠真。今日は、やり直してほしくて来たわけじゃないの」
「うん」
「前に聞いたでしょ。私が悠真を好きだったことはあるのかって」
僕は彼女の言葉を待った。
「好きだったよ。四年前も、悠真なら会社を立て直せるって信じてた。同棲も婚約も、私が望んでしたことだから」
「だったら、どうしてあんなに決まりを作ったの?」
玲奈はコップに目を落とした。
「最初は、決めておいたほうが楽だと思ったの。悠真は何も言わずに守ってくれるし……いつの間にか、それが当たり前になってた」
そこで言葉が途切れた。
「熱を出したときも、一人で何とかするだろうって。誕生日だって、帰ってから埋め合わせすればいいと思ってた」
「湊には、そうしなかったんだね」
玲奈は小さくうなずいた。
「湊は一度、日本を離れたでしょ。またいなくなるかもしれないって、ずっと気にしてた。だから頼まれると、断れなかった」
僕の頭には、冷蔵庫に貼られた当番表と、映画館で空けた一つの席が浮かんだ。
「僕も、隣に座りたいって言ったことがあるよ。誕生日に一緒にいたいとも言った。覚えてる?」
「……うん」
「何度も言ったんだよ」
玲奈は顔を伏せた。
「ごめん」
立ち上がって、玄関のドアを開けた。
「四年前に助けてくれたことは、ずっと感謝してる。でも、僕たちはもう別れたんだ。今さら話しても、元には戻れないよ」
しばらくして、玲奈も立ち上がった。
コップの水を少しだけ飲み、玄関で靴を履く。出ていく前に一度振り返った。
「悠真、今までごめんなさい」
「気をつけて帰って」
エレベーターの扉が閉まるのを見送ってから、部屋に戻った。
コップを洗い、レンジに残っていた焼き芋を温める。食べ終えて時計を見ると、もう九時を回っていた。パソコンを開き、明日の資料に目を通した。
9
年が明けて間もないころ、陽菜から電話があった。
仕事のほうで大きな進展があったので、夕食を食べながらお祝いしたいという。僕は待ち合わせの時間に合わせ、指定されたレストランへ向かった。
個室のドアを開けると、テーブルの上に仕事の資料はなかった。代わりに、イチゴとブルーベリーを飾った小さなケーキが置かれ、細いろうそくが二本立っていた。
陽菜が笑顔で立ち上がる。
「びっくりした? 実はね、今日で一緒に仕事を始めてちょうど百日なの。せっかくだから、お祝いしたくて」
ケーキをよく見ると、何種類か果物が使われているのに、マンゴーだけがなかった。
僕はマンゴーにアレルギーがある。陽菜には特に話していなかったはずだ。以前、会社でフルーツを食べたとき、マンゴーだけ避けたことがある。たぶん、あのとき気づいたのだろう。
「こういうの、迷惑じゃなかった? 急にケーキなんて用意して」
「ううん。うれしいよ。ありがとう」
僕が席に着くと、陽菜もほっとしたように笑った。
食事をしながら、新しい年の仕事について話した。システムを導入する店舗が増えそうなこと、次に担当したい案件のこと。いつものように話していた陽菜が、ふと箸を置いた。
「悠真、ちょっと聞いてもいい?」
「何?」
「玲奈さんのこと、まだ好き?」
すぐには答えなかった。
玲奈が部屋に来た夜のことを思い返す。彼女の話を聞いても、以前のように胸が痛んだり、もう一度やり直せるのではと考えたりはしなかった。
「もう大丈夫だよ。気持ちの整理はついてる」
陽菜は僕の顔を見て、それからうれしそうに笑った。
「そっか。じゃあ、新しいお願い事をしようよ」
ケーキをこちらへ寄せる。
「誕生日じゃなくたって、ろうそくを吹き消してもいいでしょ?」
僕は笑って、二本の火を吹き消した。
一週間後、Instagramで玲奈の会社のお知らせを見かけた。
社内体制の見直しが進み、以前から付き合いのあった投資家数社が、引き続き資金面で支援することになったという。上場の予定は延期されたままだが、差し迫っていた経営危機は乗り越えたようだった。
玲奈はその発表を自身のアカウントで共有し、短い言葉を添えていた。
「ここから、もう一度」
社員や取引先から応援のコメントが寄せられていた。そこに湊の名前はなかった。
さらに一か月ほどたったある日、会社に僕宛ての書留が届いた。
差出人は法律事務所だった。
封筒の中には、四年前に玲奈が個人として僕の会社に資金を貸してくれたときの契約書の写しと、これまでの返済記録が入っていた。
借入金の大半は、これまで会社から返済していた。残っていた分については、玲奈が債権を放棄するという。書面には、会社側で必要となる手続きや確認事項も記されていた。
書類の最後に、小さな便箋が挟まっていた。
「残りのお金は、もう返さなくていいから。お互い、元気でね」
玲奈の字だった。
僕はしばらくそれを眺めてから、契約書と返済明細を会社の会計担当者に渡した。必要な手続きを確認し、便箋だけは別のファイルにしまった。
その夜、白峰市のマンションから持ってきていた古い書類を整理した。
同棲中の生活費の記録、家事当番表、二十三のルール。賃貸契約など保存が必要なものは残し、それ以外は古紙の回収袋へ入れた。
翌朝、陽菜と一緒に取引先の店舗へ行く予定があった。システムが本格稼働する前に、現場で最後の確認をするのだ。
早く終わったら海の近くで昼食にしようと、陽菜からメッセージが来ていた。
了承の返事を送り、彼女にもらった万年筆を鞄に入れて出かけた。
10
それから少しずつ、陽菜と仕事以外でも会う時間が増えていった。休日に食事をしたり、一緒に海へ出かけたりするうちに、僕たちは自然と付き合うようになった。
一年後には、同じ部屋で暮らしていた。
家には生活費を細かく記した帳簿も、奇数日と偶数日で分けた家事当番表もない。家賃や日々の出費は二人で相談して分担し、先に帰ったほうが夕食を作る。どちらも忙しい日は、帰りに弁当を買って済ませることもあった。
映画館では、いつも隣同士の席を取る。
怖い場面になると、陽菜は僕の肩に寄りかかって腕をつかむ。僕が持っているポップコーンにも遠慮なく手を伸ばし、最後に残った甘い一粒まで食べてしまう。
付き合い始めてから迎えた僕の誕生日には、一週間も前から家の中に風船を隠していた。
掃除をしているときに見つけてしまい、僕が取り出してみせると、陽菜は悪びれもせずに言った。
「それは飾りつけの練習用! 今のは見なかったことにして。当日、ちゃんと驚いてよね」
誕生日当日、陽菜は張り切って夕食を作ってくれた。
ところが、ハンバーグは少し焦げ、唐揚げも揚げすぎてしまった。換気扇を回しても油の匂いが残り、キッチンはちょっとした騒ぎになっている。
僕が様子を見に行くと、陽菜がフライパンを持ったまま振り返った。
「ちょっと、まだできてないんだから! 向こうで待ってて!」
笑いながら火を弱め、フライ返しを受け取った。
陽菜の鼻先には、いつの間にか小麦粉がついていた。指で拭ってやり、そのまま後ろから抱きしめる。
彼女は振り向き、背伸びをして僕の顎にキスをした。
「悠真、誕生日おめでとう」
プロポーズをしたのも、そんなふうに家で過ごしている夜だった。
高級レストランを予約したわけでも、大勢の前で指輪を渡そうと考えたわけでもない。
仕事から帰ると、陽菜は部屋着のままソファでドラマを観ていた。僕は隣に座り、用意していた指輪の箱をテーブルに置いた。
「陽菜、結婚しよう」
彼女は箱を見つめ、数秒間固まった。
「ちょっと待って!」
そう言い残して寝室へ走っていき、しばらく何かを探していた。戻ってきた陽菜の手には、表紙が少しくたびれた小さなノートがあった。
「これ、見て」
「何?」
「いいから、開いてみて」
ページをめくると、細かな字でいろいろなことが書かれていた。
「悠真はマンゴーアレルギー」
「腰を痛めたことがある。柔らかすぎるマットレスは苦手」
「落ち込んだときは海へ行きたがる。冬は温かいコーヒーを忘れずに」
「甘いものが好き。でも自分からはあまり言わない」
ほかにも、僕が好きな映画、よく行く店、欲しがっていた万年筆のことが書かれている。仕事が忙しいと食事を抜いてしまうことまで、しっかり記録されていた。
三十ページ以上、そんなことばかりだった。
「一緒に仕事を始めたころから、何となくメモしてたの。気がついたら、こんなに増えちゃって」
陽菜は照れくさそうに笑う。
僕はノートをめくり、海辺にあるお気に入りの喫茶店について書かれたページで手を止めた。少し前に二人で行ったとき、僕がよく頼む飲み物まで覚えていたらしい。
ノートを閉じ、指輪の箱を開けた。
「陽菜、僕と結婚してくれる?」
「うん」
彼女が差し出した左手に指輪をはめると、陽菜はそのまま僕に抱きついてきた。
結婚式には、両家の親族と親しい友人だけを招いた。
ウェディングドレスを着た陽菜が父親と一緒に歩いてくる。彼女のお父さんは僕にその手を渡すと、困ったことがあっても二人でよく話し合うようにと、小さな声で言った。
僕はうなずき、陽菜の手を握った。
彼女も、ぎゅっと握り返してくれた。
結婚してしばらくたった週末、書斎の引き出しを整理していると、数か月前に発行されたビジネス誌が出てきた。
表紙には玲奈の写真が載っていた。会社の再建と事業再編について、久しぶりに受けた長いインタビューらしい。
何となくページをめくっていると、最後のほうに私生活についての質問があった。
「以前、ご自身の気持ちを表現するのは苦手だとお話しされていましたが、今もそう感じますか?」
玲奈の答えが、少し大きな文字で載っていた。
「昔は、人との距離の取り方が下手だったんです。大切な人にも、ずいぶん甘えてしまいました。今ならもう少し違う接し方ができると思うんですが……遅かったですね」
僕は雑誌を閉じ、古紙の回収箱へ入れた。
リビングから陽菜の声が聞こえてきた。
「悠真ー! ちょっと来て! 棚の上のお鍋、届かない!」
「今行く!」
キッチンへ行くと、陽菜が背伸びをして、吊り戸棚の奥にある土鍋を取ろうとしていた。窓から差し込む午後の日差しが、調理台を明るく照らしている。
僕は後ろから手を伸ばし、土鍋を下ろした。
「どうしてこんな上にしまったの?」
「悠真がこの前、片づけたんでしょ!」
言われてみれば、そうだった気がする。
陽菜は鍋を受け取り、僕を見上げて笑った。
「背が高いって便利だね。ねえ、今夜は何のスープがいい?」
冷蔵庫を開けて、鶏肉と野菜を取り出した。陽菜が鍋を準備している間に、僕は野菜を洗って切っていく。途中で味を見て、塩を少し足すことにした。
鍋から湯気が立ち始めると、陽菜が食卓に食器を並べた。
僕は棚から彼女がいつも使っているマグカップを出し、テーブルに置いた。陽菜はスープを運んできながら、僕がいつも使っている紺色の茶碗を渡してくれた。
席に着き、明日の予定について話した。
明日は休みなので、二人で海へ散歩に行くつもりだ。朝から出かけてもいいし、少しゆっくり寝てからでもいい。
窓の外が暗くなり始めたころ、陽菜がスープをひと口飲んだ。
「うん、おいしい。今日のは上手にできたんじゃない?」
「本当だ。おいしいね」
陽菜は僕の器に鶏肉を一つ入れ、自分も箸を取った。
明日、何時に家を出ようか。
それは夕食を食べ終わってから、二人で決めればいい。




